一生後悔するよ
一生後悔するよ
夏美
話はわたしたちが二人とも高校生だったころに遡る。今となっては、もう二十年くらいも昔の話になってしまうのだけれど。
高校の入学式の帰り道、せいちゃんを見かけて追いかけて声をかけようと思ったら横に女の子がいた。驚いてそのまま後をつけた。二人はしばらく一緒に歩いて、バス停で別れた。わたしはバス停まで走って、彼が乗ったバスに続けて乗った。車内を見渡すと、彼は最後方の座席に座って、文庫本を開いていた。わたしは他の乗客の間をすり抜けて横に座った。
「なつ?」
わたしに気が付くと、彼は手にしていた文庫本をかばんにしまった。
「学校一日目、どうだった?」
わたしは彼の質問に答えなかった。
「ねえ、さっき一緒に歩いていた人って、彼女?」
彼は一瞬きょとんとした。
「ああ、どうなんだろ?彼女っていうのかな?一緒にたまに勉強したり、遊びに行ったりするくらいだよ」
それが彼女ってものだよ……。せいちゃん。
その日、家の前で別れて、自分の部屋に戻って、ベッドに寝っ転がって、ふと気づいてカーテンを閉めて、もう一度寝っ転がった。何かもやもやした。こんなによく一緒にいて、せいちゃんのことを一番よく知っているのは自分だと思ってたのに、いつの間にか彼女ができていたなんて、なんか裏切られた気分だった。
隣の更地に家が建って中條家が引っ越してきたのは、わたしが小学校三年生のころだった。薄い黄色いワンピースを着た髪の長いきれいな女の人と優しそうなおじさんが男の子と一緒に来て、隣に引っ越してきた中條です。と言った。男の子を見たとき、正直、暗そうな子だなと思った。黒縁のメガネをかけて物静かな雰囲気の子だった。
「何年生?」
と聞くと、小さな声で
「四年生」
と答えた。それがせいちゃんと初めて交わしたことばだった。
何をきっかけに仲良くなったのかよく覚えていないけれど、回覧板を渡しに行くとか、せいちゃんが学校を休んでしまった日に プリントを届けにいくとか何かそういう用事があって、家の中に入ることがあった。たまたませいちゃんしか家にいなかった。わたしはいつも外からのぞいていた家の中をみてみたくて、彼が案内してくれた気がする。新しく建てられたばかりの家は、明るくてきれいで、そして木の香りがした。わたしの家よりもずいぶん大きくて立派な家だった。彼の部屋に入ると、部屋にテレビがあって、ゲームがあって、漫画とかもいっぱいあって、その中にたまたまわたしのその時大好きなまんがが全巻そろえられていた。いいないいなと連発していたら、彼が貸したげるといって、紙袋に入れてくれた。全部。たしかそんなんだったと思う。始まりは。
わたしは学校から帰ると、自分の部屋の窓から彼の部屋をのぞいた。彼がひとりでいるのをみると、毎日のように彼の部屋に遊びに行くようになった。漫画やゲームが目当てで。何かのときにふと、メガネというものをかけてみたくなって、せいちゃんのメガネを貸してもらった。彼は大人しくメガネをはずして、わたしに渡してくれた。そのメガネをとった顔を見て驚いた。
「せいちゃんってメガネとると、おばちゃんにそっくり」
男の子なのにまつ毛が長くて、きれいな目をしていた。せいちゃんがきれいな顔をしているというのはちょっとした発見だった。それは学校のみんなは知らないわたしだけの秘密だった。
中学生になっても、せいちゃんはやっぱり勉強のできる地味で大人しい男子だった。あのころ人気のある男の子というのは、もっと目立つ子たちで、せいちゃんには彼女はいなかったし、彼を好きな女の子がいるというような話だって聞かなかった。
なのに、高校生になったらせいちゃんに彼女ができていた。そして、わたしはそのことにもやもやしていた。自分が一番なかがいいと思っていたのに、彼女ができたら横から彼を盗られた気分になった。
ところが、しばらくするとあのバス停までの彼女の姿が彼の横から消えた。わたしは久しぶりに彼の部屋に行った。
「いらっしゃい」
「せいちゃん、彼女と最近一緒にいないね」
「ああ……」
彼は机に向かって勉強をしていたけれど、その手を止めてちょっと困った顔をした。
「わたしたち付き合ってるんだよね?って聞かれて、さあ、そうなんじゃないの?って答えたらなんか怒っちゃってさ。それっきり」
そして、また勉強を始めた。
「そこんとこは、ただシンプルに『そうだよ』って答えとけばよかったのに」
「そういうもんなの?なんか、面倒くさいね、女の子って」
そのあと彼はこう言った。
「なつといるほうが何倍も楽しいよ」
その言葉が嬉しくてたまらなくて、そして、気が付いた。自分はこの人のことがいつの間にか好きだったんだと。
それから、彼に彼女らしい彼女はできなかった。でも、中学のときとは違って、彼はときどき女の子に告白されていた、らしい。本人に聞くことはなくて、噂で聞いたりしていた。それに対してわたしにそういったことは一切起こらなかった。
「わたしって、何にもない。みんなちょっとはなんかあるのに、わたしって女として全然だめってこと?」
教室で友達のこのはちゃんに愚痴ると、
「でも、なっちゃんは幼馴染の中條先輩が好きなんでしょ?」
と言われて、机につっぷしていた体をがばりと起こした。
「言ってないよね?」
このはちゃんはおさげの髪を両肩に垂らして、学食で買った牛乳をストローから上品に飲んでいる。
「見てればわかるよ。みんな二人がつきあってるって思ってるよ。よく一緒に帰ってるし」
「つきあってるように見えるんだ……」
「だからね、なっちゃんがもてないんじゃなくて、彼氏がいるって思われてるんだよ。彼がいる子を好きになる男の子なんていないよ」
それもそうか……。待てよ。
「彼女がいると思われている男子を好きになる女子も普通はいないんじゃない?」
せいちゃんは何度か告られているはず。
「ああ……」
このはちゃんはちょっと困った顔で笑った。
「中條先輩ってさ、わーわー騒がないし目立たないけど、ちょっとすてきだよね。大きくなってくるとさ、みんなの人気者って感じの子がただただもてるってわけでもないじゃん?なっちゃんと先輩がつきあってるってはっきりした話でもないし、告白したらもしかしてって思ったんじゃないのかな?」
つまり、わたしよりせいちゃんのほうがもててるってことだ。結局。
「実は、今まで黙ってたけど、わたしも聞かれたことあるよ。二人ってつきあってるの?って」
「え?そうなの?」
「よくわからないけど、よく二人であってるみたいだし、たぶんつきあってるんじゃないかなって言っといたよ」
「なんで?」
このはちゃんはまた牛乳をちゅうと飲んだ。
「なっちゃんは好きなんだろうなって思ってたから、ライバルは一人でも少ないほうがいいでしょう?」
このときからこのはちゃんはわたしの片思いの味方だった。
わたしが高校一年生で、せいちゃんが高校二年生の間は、二人の関係は相変わらずのままだった。わたしが二年生になって、彼が三年生になるときには、このはちゃんにまじめな彼氏ができた。でも、わたしは相変わらず誰かに好きになられることもなく、好きな人に気持ちを伝えることもできず、ただ彼の部屋にやっぱりときどき通っていた。
隣に住んでいなかったら、あの時せいちゃんの部屋に好きなまんがが置いてなかったら、きっとわたしも他の女の子と同じスタートラインで、ありったけの勇気を出して告白して、ごめんなさいと言われてたんだろうな。でも、もし隣に住んでいなかったら、彼を好きになっていなかったら、いつか友達でさえいられなくなる日におびえることもなく、普通にわたしにも彼氏ができて、このはちゃんたちと四人で遊びに行ったりできていたかもね。
季節がゆっくりと移り変わっていくたびに、空に一番星が輝くのを見るたびに、寄せては返す波のように世界は全く同じことを繰り返すけれど、わたしの気持ちは気づいたあの日から一度も減ることはなく、ただただ積もっていった。溶けない雪のように。顔を見るたびにうれしくて、声を聴くたびにじんとして、その回数が天文学的な数字になったとしても、たぶんわたしは満たされることはない。
だけど、よく隣にいるから知っている。彼はわたしが彼を想うようにはわたしを想っていない。彼の好きは、 ときに涙がこぼれそうになったり、身を内からこがすような類のものではない。
せいちゃんは三年生になって、東京の大学を受けることになって、塾に行ったりもして勉強に忙しくなっていった。
「先輩が東京に行っちゃったらどうするの?」
ある日、このはちゃんに聞かれた。
「会えなくなったら忘れられて、ほかの子が好きになれたりするかな?」
このはちゃんは顔をしかめた。
「だめだよ。そんなの。一生後悔するよ」
「一生ってすごいね」
ちょっとひくわ。一生は。
「ちゃんと気持ち伝えなよ。もしかしたら先輩も同じ気持ちかもしれないじゃん」
窓から空を見た。よく晴れている。
「それは、ないわー」
そうだったらどんなにかいいのにね。
「なんか、兄弟みたいなもんなんだと思う。愛情は感じるんだけど、彼女とかそういうのじゃないんだよね」
「妹、みたいな?」
「そうだね、妹みたいな感じ。せいちゃん兄弟いないし」
夏休みになったある日、彼の部屋にふらりと行くと、クーラーが効いた部屋で昼寝をしていた。メガネをとった寝顔は少し大人になって、初めてメガネを外して見せてくれたころよりもおばちゃんに似ていた。きれいなまつ毛。そのまつ毛に触れたかった。ほほと唇にも。どこかの家で風鈴がなっている。今日もよく晴れている。せいちゃんはよく寝ている。わたしは手を伸ばして、まつ毛に触れる代わりに両頬をつまんでひっぱってやった。さすがに変な顔。
「痛い」
彼は目をひらいた。わたしはぱっと手を離した。彼は身体を起こして、両手を上へあげてのびをした。それから手の甲で軽く目をこする。
「何?なつ?」
「ごめん。つい、起こしちゃった」
彼はあくびをした。
「別にいいけど。ちょっと寝たら起きるつもりだったし。にしても、乱暴な起こし方だな」
メガネどこだっけ?と探し始める。
「かけてないほうがいいのに」
「そう?じゃ、大学入ったらコンタクトにしようかな」
大学入ったらか、わたしはそれ見られないんだな。
「せいちゃんが東京に行っちゃったらさみしいな」
彼はメガネをかけた目で、わたしをじっと見た。
「俺もなつに会えなくなるのは嫌だな」
それは嘘ではない。でもせいちゃんのやだとわたしのやだは全然違う。
「なつは高校卒業したらどうするの?」
「うーん」
「仙台で進学する?東京には来ない?」
東京か……。
「わからない。まだ、考えてない」
「なつが東京に来たら、きっと楽しいのにな」
もし、わたしがのこのこ東京まで出て行ったら、せいちゃんはきっとただ楽しいだろうけど、わたしは楽しかったり苦しかったりするだろうね。二人の気持ちのバランス、シーソーで言ったら、いつもわたしが地面にくっついちゃってる。
「それってなっちゃんの気持ちが分かってて、わざと言っているの?」
その日の夜このはちゃんと電話で話す。
「うーん。せいちゃん家お金持ちだし、東京の大学に行くのってお金すごいかかるの、わかってないんじゃないかな?一人っ子だし。来たいなら来ればいいのにみたいな」
「おぼっちゃん?」
「わりと」
「うちなんかわたしが東京行きたいなんて言ったら、家族会議だよ」
「うちもそうだなぁ」
あ~あ~、どうしようかなぁ。
「これを機会にさっぱり忘れて別の人を好きになるって言おうとしたでしょ?今」
「なんでわかるの?」
千里眼か、君は。
「もし、そうするとしても気持ちはちゃんと伝えなよ」
「え~」
このはちゃんが何か言いかけた。
「一生後悔するよって今言おうとしたでしょ?」
「なんでわかるの?」
もう忘れてしまおう。東京なんて無理。ここらへんの大学行って、近くで就職して、普通の恋愛して、結婚して、実家にたまに帰ったら、たまたま帰ってたせいちゃんとばったり会うこともあるだろう。お互い家族連れで、やあとか、久しぶりとか言って、挨拶ぐらいするだろう。わたしの子供が女の子だったら、あれはお母さんの初恋の人だよなんて、教えることもあるかもしれない。
会わなくなれば、顔を見なくなれば、だんだん遠くなっていい思い出にできるはず。せいちゃんの優しい笑顔も、声も、考えるときに首をかしげる癖も、見られなくなってもきっと辛いのは最初だけ。あのメガネを外したきれいな顔が、他の女の子のものになっても、それが離れた空の下で起きてしまえば、わたしはきっと平気でいられる。痛みはきっと時間とともに薄らいでいくだろう。
夏休みが終わってから、時間はもっと加速していった。せいちゃんは塾に通う日が多くなって、わたしが窓からのぞいてもいないことが多くなってきた。夜は夜でかなり遅くまで電気がついていた。このはちゃんには毎日お経のように気持ちを伝えろと言われていた。だけど、わたしは相変わらずだった。見事なまでに。
冬休みになって、このはちゃんと一緒に初もうでに出かけた。
「今日は彼氏ほっといてよかったの?」
「いいの、いいの。いつも一緒にいてもお互いつまらないのよ」
「いいなぁ、わたしもそんなこと言ってみたいよ」
万年片思いもさすがに疲れてきた。
「あ、ねえ、お守りとか買ったら?」
お守りのコーナーで縁結びのお守りをじっと見る。
「そっちじゃないって」
「学業成就。なんで?」
わたしの学業はお守りを買ったぐらいで成就しませんが。
「先輩に渡すに決まってんじゃない」
「……」
「やなの?」
正直やだった。せいちゃんと話したくなかった。わたしの心はもう彼を忘れるための準備を始めていて、だから、これ以上思い出を作りたくなかった。
「ね、本当にそれでいいの?」
このはちゃんのいつもの話が始まる。わたしは心を閉じた。それが伝わったのか、彼女は話すのをやめた。
「わたしが買ったげる」
そして、彼女は会計を済まして、わたしにお守りを押し付けた。
「ぎりぎりまで考えて、それで、渡そうと思ったら渡しなよ。とりあえずもっときな」
わたしはいい友達を持ったと思う。本当に。
年が明けてからわたしは怖くなっていた。せいちゃんが東京に行く日が近づいてきていたから。それは、自分の身体がまるで毎日ちょっとずつ薄く削り取られていくような苦しみだった。子供のころから何度となく通った彼の部屋が空っぽになる。毎朝起きるたびにわたしは彼が隣にいないことを思い出すだろう。そして毎朝絶望する。今日も彼の顔を見られないって。押入れの奥とかに入り込んで、布団を被ってそのままじっとしていたい。でも、それも何ら解決にならないってわかってる。夢の中でだけ、彼に会えるかもしれない。そしたらきっとわたしはずっと眠り続けたいって思うだろう。そういうことのすべてがもう、いやで、だから、もうせいちゃんの顔も見たくなかったし、声も聴きたくなかった。考え続けることに疲れて自由になりたかった。
二月になった。きっともうそろそろせいちゃんは大学受験で東京に行くはずだった。三年生は三学期は学校に来ないので、学校で彼を見かけるチャンスもなくなった。家が隣なので、ときどきそれでも彼をみかけたけれど。だけど、ある時学校からの帰り道にばったりあった。せいちゃんは参考書か何かを立ち読みしながら歩いているみたいだった。お互いに気が付いて、目を合わせた。
「久しぶり」
「久しぶり」
そして彼はいつものように優しく笑った。
「歩きながら本読むと危ないよ」
「うん。そうだね」
そういうと、彼は本を閉じてわきに抱えた。わたしは学校のかばんをぎゅっと持った。このはちゃんが持たせてくれたお守りがカバンの中に入っていた。あの日からずっと。
「どこ行くの?」
「コンビニ」
「そっか。じゃあ」
わたしはゆっくり歩きだした。彼とすれ違ったところで、せいちゃんがわたしに声をかけた。
「なつ」
わたしは振り向いた。
「あの、なんか俺のこと避けてる?」
「なんで?」
「前みたいに部屋に来なくなったから……」
少し寒い冬の空気を吸った。それから、言葉を出した。
「受験生の邪魔できないじゃん」
「それはそうか……」
もう一回冷たい空気を肺に入れた。
「いつ行くの?東京」
「来週の月曜から」
カバンに手をつっこんで、白い小さな紙包みを取り出した。
「受験がんばってね」
彼は不思議そうな顔をして、紙包みを開いた。
「あ、お守りだ。ありがとう」
彼は嬉しそうに笑った。
「なんか、なつから初めて物をもらった気がする」
「そうだっけ?」
「バレンタインデーにチョコぐらい欲しかったな。一回もなかったよね」
「え~。欲しいって言ったらあげたのに」
「じゃあ、今年はくれる?」
せいちゃんは無邪気だな、相変わらず。
「あ、だめだ。俺、そのころ東京だ」
彼はそっと目を伏せて言った。
「残念だな」
じゃあねと言って踵を返す。考えるより前に足が動いて、彼に並んで歩く。
「どうしたの?」
「一緒にコンビニ行く」
わたしたちは特に何も話さずに歩いた。
「はい、これあげる」
コンビニ出たところでせいちゃんに買った物を渡した。
「なんで?竹の子の里?」
「バレンタインデーのチョコの代わりだよ」
「ああ、ありがとう」
せいちゃんはくくくと少し笑った。
「なんで笑うの?」
「普通バレンタインデーって手作りとかさ、竹の子の里もらったのは初めてだよ」
「じゃあ、返してよ」
せいちゃんは笑いながら、わたしの攻めを躱した。
「いや。もらったものは返さない」
上に持ち上げられると、手が届かない。
「なつ、受験終わったら、勉強みてやろうか」
それは……。
「要らない」
「去年結構ぎりぎりだったじゃん。大丈夫?」
去年は最下位クラスに落ちそうになって、せいちゃんに勉強みてもらっていた。それは要らない、要らないけど……。
「やっぱり要る」
これで勉強みてもらうのも最後だな。そう思ったら、ちょっとだけ泣いてしまった。
「なつ、どうしたの?お腹でも痛いの?」
「いや。何でもない」
せいちゃんは東京から帰ってきてから、約束通り勉強を見てくれた。毎日学校から帰ってきてから、ごはんまでの時間。今まで会えなかった時間を埋めるみたいにたくさんの時間を彼と過ごした。受験でずっと勉強ばっかりしてたからのんびりしたいだろうに。
「折角勉強しないでいい身分になったのに、わたしの面倒みてて疲れない?」
「なつん家にはいろいろお世話になったから、このくらいは何でもないよ。それより……」
それより?
「お前まじめにやれよ。今年こそEに落ちるぞ。お前、俺が帰ったあと、ごはんのあととかお風呂のあととか勉強しないで遊んでるだろ」
何で見ていないのにわかるんだ?千里眼?うちの学校は、成績順にクラス分けされて、一年の成績の総合結果で来年4月からのクラスが決まる。上から順にABCDEで、せいちゃんはずっとA,わたしはずっとD、なんだけど、このままいくとEになっちゃうかも。
「だって勉強嫌いなんだもん」
「来年はなつも受験生だよ。心配だなぁ、俺いないし」
「もう、お休みとかでも帰ってこない?」
「いや。夏休みとか、ときどきは帰ってくるよ」
でも、東京が楽しくなって来たら、やっぱり帰ってこないよね。きっと。
「なつも東京遊びに来なよ。案内してあげるよ」
「うん」
全然会えなくなるってわけじゃないのかな。だけど、いつも会っているのと、たまに久しぶりに会うのってちょっと違うよね。
せいちゃんに怒られながら勉強して、ようやく今年もぎりぎりDクラスで進級できそうなめどがたった。
そして、出発のときが来てしまった。
「出発する日、駅まで見送りに行っていい?」
「いいけど、なんか大げさだな。そんな遠くへ行くわけでもないのに」
彼はちょっと照れていた。当日
「ここまででいいよ。ありがとう」
改札前でせいちゃんは言った。
「しっかりがんばるんだぞ。無茶はするなよ」
おじさんがいう。おじさんとおばさんの横にわたしはちょこんと並んでいた。せいちゃんはジーンズに白いシャツを着て、大きいバッグを肩からかけていた。腕にダイバーズウォッチ。大学合格祝いにおじさんが買ってくれた。実は結構するらしい。
「わたし、上まで行くよ」
せいちゃんがわたしをみた。駅の構内のざわめきがわたしたちを包んでいる。いろいろな人が行きかっていく。
「そうだな。清一の門出だし、わたしたちも中入るか」
おじさんがごそごそしだす。すると、おばさんがおじさんの腕をそっと取った。
「ごめんなさい。わたし、この後用事があるの。発車まで待っていると、間に合わないわ。あなた、送ってくれない?」
おじさんはちょっと困って、せいちゃんとおばさんの顔を交互にみた。
「大丈夫だよ、俺は。母さん送ってあげて」
「なっちゃんは帰り大丈夫?」
おじさんはわたしに尋ねた。
「一人で帰れます」
二人を見送った後、入場券を買って、改札をくぐった。エスカレーターで並んであがる。
(せいちゃんの横顔好きだったな)
好きな横顔を見ながら、話している声を聴くのが好きだった。
「発車まで十分くらいかな」
お茶買ってくると彼は売店のほうへ歩いて行った。わたしは後ろからせいちゃんの姿を見ていた。見慣れた背中、ほっそりとした手足。彼の背がどんな風に伸びていったのか、声変わりする前の声はどんなだったか。食べ物は何が好きで、何が嫌いなのか。どっちのひざこぞうに転んだときの傷が残っているか。今かけているめがねがいつ買ったものなのか。人差し指と薬指どっちのほうが長いのか。わたしは全部知っている。
「なつ?」
この人より好きな人なんてわたしにできるのだろうか。どうしてこんなに心に刻みつけてしまったんだろう。彼のいいところや変な癖。覚えてもしょうがないどうでもいい特徴。会えなくなるとわかっていたら、こんなに無防備に心に入れてしまわなかったのに。
今度ばかりは涙が止まらなかった。離したくない。誰かのものになんかしたくない。せいちゃんは泣いているわたしを見て驚いていたけど、もうお腹が痛いのとは聞かなかった。彼が自分のかばんを探ってティッシュかはんかちを探しているのが分かった。わたしは手を伸ばすと彼のシャツの胸のあたりを掴んで引き寄せて、彼の懐に入り込んでしまった。彼の身体が一瞬こわばるのを感じた。それでもそのままそこにしがみついていると、そっとわたしを両腕で軽く抱きしめてくれた。せいちゃんの心臓の音が聞こえて、彼のにおいがした。しばらくそのままでいたあと、彼は言った。
「なつ、俺のシャツで顔ふいてない?」
顔をあげると、すぐ近くに彼の顔があった。
「ほら、まだぬれてるよ」
せいちゃんはハンカチで残った涙を拭いてくれた。
「えっと…。もう、いいかな?なんか、見ている人もいるし」
周りを見ると、何人かの人が一斉に顔をそむけた。
「……ごめんなさい」
せいちゃんがゆっくりそっと体を離した。
「なつが俺と離れるときに、泣いてくれるなんて思わなかったよ」
駅のアナウンスが何か言っている。騒々しい駅のホームで、彼は照れ臭そうに笑った。
「もっとあっさりバイバーイって、なつなら手をふるんだろうって思ってた」
「そんなことないよ」
「だって、俺がいなくてもなつの周りにはいろんな人がいて、にぎやかだろ?」
わたしは首をぶんぶんふった。
「俺は家で一人でいるときが多かったから、にぎやかな家が羨ましかったよ。特に小学生の頃はね、君が来るのをいつも心のどこかで待っていたよ」
「そうなの?」
「俺にとってはなつの存在は結構大きかったよ。君にとってはきっと俺の何分の一かなんだろうって思ってたけど。君には温かい家族があったから」
せいちゃんがそんな風に考えていたなんて、全然知らなかった。
「今までありがとう。なつ。そばにいてくれて」
せいちゃんがしんみりといった。
急に割れるようにベルが鳴った。もう少しで彼の乗る新幹線がホームに滑り込んで来る。
失ってしまっていいんだろうか。このまま、こんな中途半端な形で、この人を……。
駅のアナウンスが後ろに下がって待つようにと告げている。
手に入ると期待してしまってはいけないんだろうか。
新幹線がホームに滑り込んできた。
「せいちゃん、わたし……」
彼がこっちを見た。
「東京に行くよ。わたしも、来年」
つい、言ってしまっていた。彼はしばらく驚いていた。
「本当に?」
そして、柔らかく笑った。
「約束する。必ず行くよ」
「……うん。待ってる」
新幹線は完全に停止して、ゲートが開いた。彼は荷物を持って前に進みながら、わたしを振り返った。
「連絡するよ。東京から」
彼が乗り込んで、ドアがぴったりとしまった。彼はドアの窓越しに、手を振った。わたしも手を振って返した。車両が動き出して、あっという間にすべて通り過ぎていった。ホームは急に静かになって、わたしは一人でぽつんと立っていた。さっきせいちゃんに触れていた部分がまだ熱くて、耳の奥に彼の心臓の鼓動がまだ聞こえる気がした。
本当はわたし、東京に行きたかったんだ。ずっと。
今の今まで考えないようにしていたんだと思う。でも、わたしが行くといったときのあの彼の嬉しそうな顔を見てしまったから、もうあきらめられないと思った。例え進んでいった先で、彼が自分のものにならなかったとしても、進まずにはいられない。