アンドロメダ
私の隣人は非常勤の美術講師をしているらしい。
そのせいと言ってはアレだが、とても変わっている。
マンションの屋上で水飲み場の安っぽいレモン石鹸を使って、頭も身体も、時には服まで一緒くたにして洗ったりする。ボロボロのエプロンについた取れない絵の具を、とても愛おしそうに眺めたりする。
私が寂しいと感じた日、彼は決まってご飯をたかりに来る。まるでスーパーマンみたいなタイミングで私を救っては、小さな子供にするみたいに頭を撫でて笑いかけて、じくじくと私の心に巣食ったりするのだ。
『お隣さん=変な人=スーパーマン』
予備校の自習室で、ノートにその公式を書き足してから手を止めた。机に突っ伏して時計を見ると、かなりの時間が経っていたことに気付いた。手早く荷物をまとめて自習室を出る。早く夕飯の買い出しに行かなければ、タイムサービスが終わってしまうかもしれない。
一汁三菜。簡単にではあるが今日も作って食卓に並べていた。一通りの作業が済んで伸びをしたのと同じくらいに、最近ではもう、日常になり始めているチャイムが鳴った。鍵が開いていることを知っていたのだろうか。音の主は、私が出るのも待たずに、ドアを開けてずかずかと中に入ってくる。
「腹減った。めし食わせろ」
「センセ、また来たの?たまには家で食べなよ」
「堅いこと言うなって」
人なつっこい顔で笑う。私は彼を「センセ」と呼んでいた。以前、差し入れを持っていった時、散らかった部屋の真ん中に大きなキャンパスを置いて、夢中になって絵を描いていた彼が、とても偉い先生のようにも見えたから。いつもと違う真剣な表情が、何故だか格好良く見えて、反則だと思ったりもした。……これは内緒だけど。
「ご飯だよー」
「おう」
センセの分は少し多めにしてお茶碗にご飯をよそい、センセはそれを当たり前のように口に運ぶ。もくもくと食事をして雑談を交わし、テレビを見たりして時間を過ごしていく。
食事を終えたセンセは、持ってきていたスケッチブックを広げ出した。少し濃い目の鉛筆で、まるで字を書くみたいにすらすらと絵を描いていく。センセは暇があるといつもこうやって絵を描く。その行為はきっと、食事や睡眠と同じくらいにこの人の中に染み付いているのだ。
使う道具はそこにあるもので充分だと言っていた。絵の具は部屋が汚れるからやめて、と前に私が言ったので、センセなりに気を使ってくれているのかもしれない。何だか急に手持ち無沙汰になった私は、食後のお茶の用意でもしようかとキッチンに向かった。マグカップを二つとお茶請けをお盆に乗せて戻る。
「センセ、お茶。ココに置いとくね」
「んー」
センセは聞いてるんだかないんだか分からないような返事を寄越し、ただただ鉛筆を動かし続けている。いつものことだと分かりきっているので、私は特にがっかりしたりはしない。
「何描いてんの」
「んー」
他のことには目もくれず絵を描き、気の無い返事だけを返すセンセに、私は飽きることなく声をかけ、その姿をぼんやりと見つめる。騒がしいテレビも消して、マグカップを両手で持つ。手を温めながら、私は何をするでもなくセンセを見ていた。時計の音と、センセのシャーペンの音。それに僅かな衣擦れの音や二人の呼吸音だけが、部屋中に溢れていた。それが酷く心地良かった。世界中で、センセと私の二人だけしかいないような錯覚に陥る。それでも、このまま時が止まれば良いのに、とは思わなかった。きっと、明日も明後日もその次の日も、センセはご飯をたかりに来る。私が寂しいと思っていれば、センセはいつでも来てくれる、そんな気が、するのだ。それはただの思い上がりかもしれない。けれど、センセは昨日も一昨日もその前の日も、同じようにやって来てくれた。そんな日が続くにつれ、根拠の無い自信も、どんどん根を深くしていく。
「ねえ、センセ」
「んー」
「明日も来てね?……寂しいじゃんか」
「当たり前だろ」
体育座りした膝に顔を埋めて、ぼそぼそと言ってみる。届かなくても良いや、と思っていった言葉は、音のしない部屋では、思いのほか響いたらしい。センセはすぐさま顔を上げて、私を気遣うような目を向けた。何でも無いよ、と照れたように笑うと、安心したように息を吐いてまたスケッチブックに目を落とす。気のない返事から一転した、その事実がどうしようもなく嬉しかった。それにとても安心して、ずるずると倒れ込む。私の手から滑り落ちたマグカップは、もう空だった。
翌朝目覚めると、すでにセンセはいなかった。自分の部屋に戻ったのだろう。私にかけられていたコートには見覚えがある。おそらく、センセの物だろう。水飲み場に置いてある、安っぽいレモン石鹸の匂いがした。
「センセ、コート。ありがとね」
「……別に」
いつも通り、今日もやって来たセンセに私は畳んだコートを渡す。いつもより三割り増しくらいそっけない返事を返し、センセはコートを受け取った。しんとした沈黙が出来たが、胸だけがざわざわと落ち着かない。それはセンセも同じらしく、居心地悪そうにスケッチブックを広げ出した。もしかしたら照れているのだろうか、センセの耳は赤かった。下を向いているので、私の目からはよく見えないが、顔も同じくらい赤くなっているかもしれない。そうなら良いと思った。
「じゃあ、ご飯の用意するね。食べていくでしょ」
「んー」
生返事をするセンセの横を通り抜け、私は小走りでキッチンに向かう。パタパタと鳴るスリッパも、センセは特に気に止めなかったようだ。いつものだるそうな顔とは違う、真剣な目でセンセは絵を描く。炊飯器が炊きあがりの合図を示しても、センセは顔を上げない。ここではないどこか別世界に、私を置いて飛んでいってるかのようだ。目の前までご飯を持っていって、まるで耳の遠くなったお年寄りにするみたいに、何度も呼び掛けてから、センセはようやく戻って来た。
「センセ、ご飯! 冷めちゃうよ」
「んー……ああ、分かった」
スケッチブックをその辺に放り出し、センセはご飯を食べ始める。それを見ながら、私は向かいの席で問題集を広げた。
「勉強か?」
「うん。てゆーか今年落ちちゃったらシャレにならないし」
「浪人生は大変だな。もう進学は諦めたら? お前バカなんだしさ」
「うっさいな。やれば多分できるって」
「俺みたいに手堅く就職した方が無難かもよ」
「就職って言うのソレ? 非常勤じゃん。てかもうフリーターでしょ」
「これでも金は入ってんだよ、お前にもメシ食わしてもらう代わりに食費渡してるだろ」
「屋上のレモン石鹸で全身、しかも服まで洗ってるくせに。このダメ社会人」
「エコロジーだ。俺は地球に優しい人なんだよ、ダメ浪人生が」
そう言うと、センセはコートを羽織り、外に出る準備を始めた。
「もう帰っちゃうの?」
思わず残念そうな声になってしまった私が聞けば、センセは返事をする代わりにコートを投げて寄越す。
「コンビニ行くぞ」
「え、ちょっとセンセ?」
そのままずるずると引きずられ、二人でコンビニまでの道のりを歩く。
「何か買うの?」
「じゃあ、消しゴム。ついでにお前も息抜きすれば」
悪戯っぽく笑い、センセは私から眼鏡を取り上げた。センセがふざけてその眼鏡をかけえう。似合う?とおどけて聞いてきたのが、少し可笑しかった。
「うわッ、コレ度キツいな。お前いつもこんなんしてんのか」
「勉強中はね。普段は裸眼だけど。私、きっつい乱視なんだよね」
コンビニにつくと、センセはさっさと眼鏡を外し、くらくらしたのか、ぐいと目を擦る。それが何となく微笑ましく見えて、私は返された眼鏡をかけながら笑った。お目当ての品を買い、コンビニから出る。吐く息は白かった。
「何かすげーな。俺は眼鏡かけたことないから」
「でも困るよ。裸眼だとね、月とかぼやけて二つあるみたいに見えるの」
先を歩いていたセンセが勢い良く振り向く。私は眼鏡を外し、目に映る二つの月を、ほらほら、と指差してセンセに教えた。きっとセンセの目には、くっきりとまぁるい月が見えているだけなのだろう。
「いいじゃん、それ」
眼鏡をかけ直す私に、センセはいきなり予想外なことを言い出した。
「月がぼやけて二つあるみたく見えるんだろ?何か得した気分になれそー。絵にしても面白そうなっ」
心なしか、センセの目が先ほどよりもキラキラしているような。上機嫌で鼻歌を歌いながら、センセはスキップまでして、私の前を歩いてく。そうやって鼻歌を歌うのは、センセが何かを思い付いた時のクセだ。
ふいに、鼻歌が止んだ。センセがこちらに向き直る。それに私はどきりとして、しゃきっ背筋を伸ばした。
「あのさ」
「なッ、何?」
訳も無くあがってしまい、どもってしまう。センセが私を見ている。それだけの事実に、今さら恥ずかしくなって、私はきゅうと服の裾を握って俯いた。
「ぼやけて二つに見えんのって、月だけなの?」
「へっ?」
内緒話をするみたいに、センセは私の耳元で喋る。何だか虚を突かれたような気がして、へなへなと力が抜けるのが分かった。自分勝手な期待をしてしまい、それをまんまと裏切られただけなのだから、勿論センセには言えないけど。
「だから、他の物とか人とか。好きな人が二人見えたりとか、そーいうのも良いなぁと思って」
「どーなんだろ、ちょっと待って」
裾を握っていた手を解き、一応確認の為、私は慣れた手付きで眼鏡を外す。少しぼやけたセンセが見えた。
「うん、ちょっとぼやけたセンセがいるよ。やっぱり、微妙にだけど二人いる」
そう言ってにっこり笑うと、センセも嬉しそうにへらりと笑った。疑問が解決して胸のつかえが取れたのか、また楽しげに鼻歌を歌い出す。
「やっぱり、嬉しいね。センセが二人いる」
「へっ?」
「何でもないよ。息抜きもできたし、早く戻ろ」
目を見開いて、分かりやすく驚いた顔をするセンセを追いこして走る。追いかけてきたセンセが私を呼んだけど、恥ずかしくって聞こえないふりをした。吐いた息は白く、滅入っていた気分は軽くなった気がした。
嗚呼、センセはやっぱりスーパーマンです。
あんまり恋愛要素も何もないのですが……。
一人称に初挑戦です。