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狼・告白録  作者: 與部 仁人
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芸学及び魔術劇場について

 平たい洋画筆で描いたような薄っすらとした白い雲が真っ青な空に浮かんでいる。空気はひんやりと冷えていた。

 自分の存在をこれでもか、と言わんばかりにさんざめく太陽の熱量を一身に受け、寒さは不思議と感じなかった。

 昨日降った雨の水溜りは世界を反射し、地面に散らばった陽の光が僕の視界で輝いていた。

 自動車が水溜りを切る音と頭上で走る電車の音を聞きながら、僕は駅まで歩いて向かっている。いつもは自転車だが、ふと何となく歩いてみたくなった。何か、考えごとをしたい時に散歩をするのだが、その延長線上にあるものなのかもしれないと思う。

 今日は、日曜日で休日だ。以前ヘルミーネからもらったチケットの美術館へと向かうため、僕は電車に揺られている。

 駅から出て、ほど近いところにそれはあった。建物の外壁塗装は白く、特にギリシャ建築を思わせるファザードの存在感は威厳をすら放っている。

 中に入ると、ロビーが広がっており、座り心地の良さそうな椅子で談笑する人々や併設する喫茶店でコーヒーなんかを飲んでいる人の姿があった。

 なんてことはない、普通の美術館だ。

 そんな風にしげしげとロビーを眺めながら歩いていると、美術展の入口まで来てしまった。

「ようこそ。いらっしゃいませ」

 気が付くと、女性スタッフがお辞儀をして挨拶し、チケットの確認を促された。

 チケットを財布から二枚取り出す。が、これは、どちらを出せばいいのだろうか。二枚ともか?

 とりあえず両方提示してしまおう。何か教えてくれるだろう。そう思い、チケットを渡してしまうと、入場チケットの方にはスタンプを押し、もう片方には数字を書き入れていた。

「拝見いたしました。こちらはお返しいたしますが、再入場はできませんのでご注意ください。また、番号が記載されていますチケットに関しましては、紛失にくれぐれもご注意ください。それでは、行ってらっしゃいませ」

 随分と丁寧な対応であったが、質問をするよりも先に次の客に押し出されてしまった。

 チケットをズボンのポケットに突っ込む。

 受付の改札を抜け、黒いカーテンをくぐると、四方を大理石の壁に囲まれた空間に出た。

 正面には、来館者への挨拶が書かれた碑文があり、こう記されていた。


“ 当美術館は、15世紀に栄えたルネサンス美術を広く収用し、厳密な調査と研究によって得られた芸学を市民の方々に提供することを目的に会館しました。

  これから皆様にご覧いただく美術品の数々は、当時の画家、もしくは建築家の精神性の体現そのものであります。そしてそれは、その精神性を理解することによって、次元の枠を越えた、深い内的体験となって、見るものに喜びを与えます。

 よって、我々が学芸と称するものは、美術を単なる娯楽以上のものとするための知識や技術であります。

 当美術館ではルネサンス美術による芸学振興を目的としておりますが、なぜルネサンスなのか、その理由をお話ししなければなりません。

 そもそもルネサンス美術は、古典古代文化の復興を意味しますが、古典を単純に模倣するのではなく、人間中心主義という軸を据えて再構築したものを指します。

 具体的には、中世の画家が霊感(神の威光)を受けて筆を取っていたのに対して、ルネサンスは一点透視図法や遠近法を用いた、あくまで現実的な手法にこだわりました。描き方が現実的であるということは、当時の人々のイデオロギーも現実的であったことを意味します。

 これは、人間の知識理解が、形而上学やスコラ哲学のような霊感的なものを越えようとした萌芽の時代です。しかしながら、我々は霊感的なものを否定しようとするわけではなく、むしろ、この人間が人間自身に対する刷新という点に強く共感し、この美術を研究すると決めました。

 これから、皆様が当美術館を巡る中で、良き発見と出会いがありますように。„



 一通り読み終えると、右手にはいよいよ入口があり、薄暗い空間が広がっている。

 中に入ると、大きくて奥行のある長い画廊に出た。左右の壁に西洋絵画が並んでおり、暖色系の照明が絵を照らしていた。

 僕はとりあえずぶらぶらと、見て回ることにした。

 ボッティチェリの『プリマヴェーラ』や、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』などの有名な絵画が多くあり、先ほどの挨拶文の例に漏れず、熱心な解説文がどの絵画にも添えられていた。

 ヴェッキオ宮殿の『五百人広間』を再現したとされる部屋もあり、飾られた天井画の迫力に僕は、しばらく圧倒されていた。

 1時間ほど画廊をうろつき、たまたまあった椅子に腰掛けて休憩する。

 目の前には、『アテネの学堂』が広がっている。

 ポケットに突っ込んでいた緑色のチケットを取り出して、眺めてみる。これは、いつ、どうやって使うんだ、と思案していると「どうも。こんにちは」と後ろから声をかけられた。

 驚いて振り返ると、そこには柔和な笑みを浮かべた、金髪の白人男性が立っていた。

 黒いスリムパンツにベストを着た紳士然とした青年で、スラリとした体躯、目鼻立ちがスッキリとした顔に異国の風格が漂う。初めて会うはずなのだが、なぜかそうじゃないような気がして、僕がいろんな意味で返事に窮していると。

「ここは、初めてですか?」と再度、優しい声で話しかけてきた。

「ええ。こちらには知人の紹介で来ました。あまり美術館なんて行かないのですが、たまには来てみるのもいいですね。面白いです」

 我ながら月並みな返事だなと思っていると、身を屈めていた青年の目線が、僕の手に持つチケットへ映り「それでは…あなたが」と呟いた。

 青年は姿勢を正したと思うと。

「ご挨拶が遅れました。私は、ヘルマンと申します。お話しは伺っております。今日、あなたが巡る魔法の世界…と言ってもそんなにメルヘンチックなものではありませんが、案内人として務めさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いします」

 と挨拶し、手を差し出した。

 状況がよく分かっていないが、反射的に握手をし、「與部です。よろしくお願いいたします」とボソリと言った。

「それでは、早速ご案内いたします。どうぞ、こちらへ」

 ヘルマンに言われるがまましばらく付いていくと、人気のない数枚の絵しかない画廊に出た。

 ヘルマンは、キリストの嘲弄、と書かれた絵画の前で立ち止まり、そこに立っていた男性に声をかけ、相手の男性が頷くと、今度は僕の方に声をかけてきた。

「先ほどのチケットを拝見させてもらえますか?」

 チケットを渡すと、その男性に手渡した。すると、絵がドアのように開き、向こう側の空間が現れた。

「ご安心ください。VIP待遇ですよ。さぁ、付いてきてください」

 あっけに取られていると、ヘルマンは微笑んで、そう言った。


 真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を歩き続けていると、目の前にエレベーターが現れた。そのエレベーターには1階までの番号が付いており、ヘルマンが5のボタンを押すと、エレベーターは下の方へと動いていった。

チーン、とベルの音が鳴り、ドアが開く。


 エレベーターのドアが開くと、レトロチックな応接室があった。赤茶色の絨毯、ニスを塗った木の西洋風の装飾が目を引く。天井にはシャンデリアが飾られ、部屋を暖かく包んでいる。

 ヘルマンに促され、僕は部屋の中央にある椅子に腰掛けた。

 机を挟んで、正面にヘルマンが座り、僕らは丁度向き合う形になる。


「ここは一体どこなんです?」

 僕は、部屋を見回しながら訪ねる。

「そうですね…。魔術劇場とでも言っておきましょうか」

「魔術劇場?」

 ヘルマンはそっと手を組み、微笑み、語りかける。

「そうです。今からあなたにお見せしたいと思っているのは、ただの舞台演劇などではありません。この魔術劇場は、どこにでもあるし、どこにもありません。演目も何一つとして同じものはありませんし、役者もたくさんいますが、演じているのは結局のところ、ただの一人だけ」

 彼は決して冗談で言っているわけではないようだが、あまりにも要領を得ない。

「また、奇妙なことをおっしゃいますね。それは、一体何ですか?」

「すみません。なるほど、確かに、これ以上は回りくどい説明にしかならないですね。結論から申し上げましょう。私の使命は、この世界の真実をあなたに伝えることです。この表現は正しくありませんが、今からお見せした演目は、世界の捉え方、そして、あなた自身についてなのです」

 なんと言った?この世界の真実?世界の捉え方?ひょっとして、自分は新手の宗教勧誘やネットビジネスのキャッチにでもつかまっているのか?馬鹿馬鹿しい。騙そうとする人間も余程の阿呆だが、それに騙されて、のこのこと、ここまで付いてきた自分も相当阿呆だ。

 どうやってこの局面を切り抜けようかと考えていると、ヘルマンはこちらを見透かしたかのように、言葉を放った。

「ああ、そう警戒しないでください。何もあなたを騙して、お金をむしり取ろうなんて考えているわけではないのです。むしろ我々は、あなた自身が覆い隠している個人性を再認識していただきたい、というただそれだけなのです」

 僕は、眉間に皺を寄せてヘルマンの言葉を聞いていた。

「こうとでも言えば、多少は信じてくれるでしょうか。『自分の限界を知ることが必要だ。そうでなければ、周囲の期待という人工的な制約の中であなたは奔走することになる』」

 その言葉を聞いて、僕は驚いた。それは、赤の書に記された文言で、自分の日記帳にもメモをしている文句であった。

「もしかして、ヘルマンさんは…」

 彼の目は、真っ直ぐに僕を見ている。

「そうです。彼女の兄です」

「改めて、あなたに問います。この世界を知りたくありませんか?」


「お話しを聞く気になられたようですね。ありがとうございます」

 ヘルマンは嬉しそうにニッコリと微笑んで、そう答えた。

「とは言ったものの、魔術劇場が開かれるにはちょっとした条件がありまして、今すぐというわけには参りません。この時間は、オリエンテーションです。質問をしますので、しっかりと頭で考えて、答えてください」

 ヘルマンは続けて話す。

「幸福とは何だと思いますか?」

「満ち足りていること、だろうか」

「では、あなたが満ち足りている時というのは、どういった時ですか?」

 言葉に詰まる。最後に満ち足りていると感じたのはいつだったか。最近は、仕事に忙殺され、ろくに遊んでいない。休みの日はよくゲームをしていたが、段々とやることも、やりたいと思うことも少なくなってきた。楽しかった思い出が多かったのは、大学生時代だったか。あれ、僕の趣味って何だっけ。何を楽しみに将来を待っていたんだろうか。言葉を絞り出し、なんとか紡ぐ。

「分からない。だけど、いつか幸福になるために、今努力している」

「なるほど。確かに、人は未来に向かって先進します。しかし、その未来は、いつ、やってくるのでしょうね」

「もしかして僕を馬鹿にしてるのかい?」

「いいえ、とんでもない」

 彼は顔を振って否定する。

「その答えを、厳密にはヒントを、実はあなたは、とうの昔から知っていたのですよ。そして、魔術劇場とは、つまりそのことなのです」

 答えを知っていた?どういうことなんだ…。

「さて、時間です。今宵、劇場が開かれます。メモの準備をおすすめします」


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