学徒・出会い
仰向けに寝ていた右耳の近くで、アラームがけたたましく朝を知らせる。寝返りをうつように左手を伸ばし、無気力にボタンを押す。眉間に皺を寄せながら、重い瞼を必死に開けると時計は朝の6時30分を示していた。思い切り上半身を布団から引き外して背伸びをする。両腕に金剛力士像よろしく力を入れ、肩甲骨あたりに気持ち良さを感じる。首を軽く回し、ゆっくり立ち上がる。6畳間くらいの自室にはカーテン越しの光が差し込んでいた。
1階へ駆け下り、洗面所へと向かう道すがらの台所で朝食の準備をしている母親とコーヒーを飲んでいる父、それと妹に「おはよう」と声をかけた。歯磨きと洗面と朝食と着替えを30分くらいで済ませ、大学講義のテキストを詰め込んだ手提げバッグを持って、最寄の駅へと自転車を走らせる。
駅のホームでスーツ姿の大人達に交じって茫然と立つ。
「本日もJR西日本をご利用くださいまして、誠にありがとうございます。1番線に参ります列車は・・・」
聞きなれたアナウンスと共に閑散としてホームに電車が滑り込んでくる。扉が開くと行儀よく電車に乗り込み、どこにも座らず窓から外を眺める。
太陽の光を受けて黄金色に輝く田畑の中に切妻造の家々が横へ流れていく。早起きはつらいが、利点があるとしたらこの景色が見えることだな、なんてそんなことを思う。
乗り継ぎの駅では群衆がすでにできている。僕は少々の気怠さを感じながら、群衆に押され流されたりして電車に吸い込まれた。しばしのバランスゲームと椅子取りゲームに勝ち、いつものように遠方の地方都市駅につくまで座席で寝ることにした。
駅を降り、10分程度歩いたところに学校はある。携帯で時間割表を確認し、講義が開かれる予定の東校舎を目指す。枝分かれした並木道を歩いていくと、リュックサックや手提げかばんを持った若い学生達が各々の目的地へとぞろぞろと歩いているのが目の前に見えた。学生集団に合流し自分も東校舎へ目指す。
そして僕は講義聞く。なんてことはない。いつもと変わらない1日。講義が終われば、友人と食事をして、サークル仲間となんやかんやして、遊んで寝る。4年間、こういったことが恒久的に続き、大学名を笠に着た就職活動をおこない、就職して一生を働くことが普通なのだとしたら、僕はある日をきっかけに少し違った方向へ進んでしまったのだろうと思う。
スケジュールに書いてある講義の名前は、臨床心理学概論だった。専門課程の講義で、その時の僕は大学2年生で心理学を専攻していたために必修であった。教室には20名弱の生徒が座ってスマホをいじりながら教授が来るのを待っていた。
講義の内容は初回ということもあり難しいものではなかった。それは精神分析の歴史であり、シグムント・フロイトのヒステリー研究から始まり、アドラーの個人心理学、ユングの深層心理学、ハルトマンのパーソナリティ発達の構造や機能、エリクソンやマーラーの紹介など。思ったより面白かったというのが自分の素直な感想であった。
回を重ねるごとに興味をそそられた。ある時の講義では、カール・グスタフ・ユングの分析心理学について重点的に講義がおこなわれた。人間は外向型、内向型に分けられ、さらに4つの心理機能の傾向によって分類するというタイプ論、無意識の源泉が共通するとする集合的無意識、元型論、ペルソナについてなど。マンガやゲームなどで聞いたことのある言葉もあり、その元ネタが理論的であることに驚かされる。
興味を持った僕は、大学図書館へ行き、ユングの著作を読むことにした。元々読書を嗜んでいた僕は、読解力にはそれなりの自信があったが、どの著作も難解で理解するのが難しかった。フロイトの著作は、あくまで理屈と理論で埋め尽くされた学術論文という体をなしていたが、ユングは独特の表現が多分に含まれている上に文学的な引用も多い。気合と根性だけで読んでいくうちに何となく理解が進んだ。大学にいて、暇な時に図書館にこもる僕は、ひょっとしたら熱心な学徒のように思われたかもしれない。
“赤の書”というユングによる一風変わった本がある。それを知ったのは、ある日本人の心理学者による解説書に書かれてあった故であり、その日本人学者先生は、その本を目にすることなくこの世を去ってしまわれた。そして、その本はこの大学の閉架図書にある。
検索機から印刷した伝票を手にし、閉架図書へ向かう。閉架図書は薄暗く、斜め上から差し込む窓の光と蛍光灯によって部屋の明るさは支えられていた。本棚は上層と下層に分けられ、中央の一本道が吹き抜けになっている。人がいる気配はない。かつてサークルの先輩が、あそこには幽霊が出るなどと冗談を言っていたが、なるほど確かにここは少し不気味だなと思いつつ目的の本を探す。
静寂。こんな、もの好きな場所にいるのは自分くらいだろうなどと思案しながら歩き探している矢先、本をめくる音が聞こえた。人がいたのかと驚いたのと同時になんだか気恥ずかしくなり、目が音のした方を探る。はたして、自分が探していた本がある書架に“彼女”はいた。
白いレース服と青いドレススカートを身にまとった女性は、その身長の半分はありそうなほど大きな赤い本を、両足を崩し、しかし美しい姿で座って読んでいた。白金色の髪は床に届きそうなほど長く、きめ細かな白い肌は窓から差し込む光に照らされて反射し、瞳は伏すように本に注がれていた。その浮世離れした姿に、茫然とし、思わず息を吞む。なぜこんなところに外国人が?なぜここに“少女”がいるのか。
「こんにちは」と彼女が言った。
顔を上げた少女の真っ直ぐな瞳が僕をとらえ、不意をつかれた僕は「こ、こんにちは…?」という情けない声を出してしまう。
「驚かせてしまってごめんなさいね。この場所が一番落ち着くから」と彼女は言った。
「いや僕も、気を使わせてしまって申し訳なかった」
手持ち無沙汰な気持ちを隠すために右手で頭を掻きながら返事をする。馬鹿げた話だが、少なくとも幽霊の類ではないようで安堵した僕は、彼女をついつい観察してしまう。年齢は、自分より4つくらい下だろうか。如何せん、外国人の外見は日本人のそれとは違うので、あまり自信はない。聞いた方が早いか。ここは日本の大学で、ここにいるということは、つまり・・・。
「その…、日本語がお上手ですね。留学生ですか?」
「いいえ。10年ほど前にドイツから両親と一緒にこちらへ来ました。父はこの大学で講師をしていて、父が授業をしている間、この場所で好きなことをしているといった風です」
「そうだったんですね」ははは、と笑って場を取り繕う。何か話題はないかと思案するなか、彼女が読んでいる大きな本に気づく。
「その本はもしかして、ユングでしょうか」
「その通りです。これをお探しだったのですか?」
「ええまあ。…少し拝見してもいいですか?」
もちろん、と彼女は言って僕に見せてくれた。聖書を思わせるような美しいカリグラフィーと挿絵はまるで魔術書のようだったが、残念なことにドイツ語で書かれているようだった。
「うわぁ。これは読めそうもないな。ドイツ語じゃないか。外国語はからっきしダメなんだ」素の言葉が漏れ出る。
「大丈夫ですよ。後ろにちゃんと日本語訳がありますから。私は原文が読めるので興味本位でこのページを眺めていたんです」解説する彼女は少し自慢気に話す。もう少し話していたかったが、彼女が読書中であったことを思い出し、挨拶をしたらその場を離れようと思った。しかし彼女は何かまだ言いたいことがあった様子で。
「あなたもユングに興味があるのですよね。でしたら、少しお話ししませんか。これも何かの縁。シンクロニシティ、とでも言うのでしょうかね」と、声をかけてきた。
シンクロニシティ。それなら自分も知っている。意味のある偶然というやつだ。全くな偶然は存在しない、すべてには意味がある、などと言ってしまうと運命論のように聞こえるがそうではない。それは人間側の問題であり、認知上の問題でもある。
「私はヘルミーネと申します。あなたは?」
「僕は、與部 仁人。この大学で心理学を専攻しているんだ」と
ヘルミーネと名乗った少女は開いていた大きな本をバタンと閉じて、変わったお名前ですね、と微笑んだ。
「ヨブさんは、この本を探していたのですよね。なぜ、この本を?」
「ただの興味本位だよ。ユングがずっと秘匿してきた日記のようなものが、どんなものなのか。苦悩した人間が書き上げたものがどんなものなのか」
言葉に熱が籠る。
「勉強熱心なのですね。ですが、赤の書は書き上げられたものではなく、彼の精神的な闘争の片鱗を垣間見ることができるに過ぎません。しかし、非常に興味深い本です。英雄ジークフリートを殺す場面は、画期的だと感じます」
「まるでファンタジー小説だなぁ。絵も確かに描かれているけど、学術書とは程遠い。しかも、英雄を殺すことが画期的とは」
驚いている自分に、ヘルミーネは落ち着いた声で答える。
「英雄は、自分に植え付けられた理想で、それを追い求めることは猿真似でしかないのです。自分の人生は自分で生きるようにと彼が言っているようにと、私には聞こえます」
「あなたに、理想はありますか?」ヘルミーネの澄んだ声が届く。
理想。そんなものあまり考えたことが無かった。特に大きな夢も持ってない。ただ、普通に働いて、普通に家庭とかを持てたら良い。そんな程度。普通が一番ではないか。決まっている。
「特にはないかな。将来は公務員になって、安定した収入と安定した休日があれば何も望むものはないかな。内定がもらえれば、そりゃ熱心に働くけどね」と、自分で言ったことが急に恥ずかしくなりははっと笑ってごまかしてしまう。
不安定で不確かな時代だからこそ、堅実で賢明な選択が良しとされる。何も間違いではない。
事実、大半の友人や知人が、大学が提携している資格学校の公務員試験対策講座の受講を検討しており、自分も参加する予定である。
高校受験、大学受験と続いて3度目の人生の受験だ。自分もその大きな物語の流れに乗り、内定を勝ち取るために努力する。ただそれだけ。
目線がふと腕時計に向き、次の講義の時間が迫っていることに気づく。
「ごめん。次の授業がはじまってしまう」では、また機会があったらと言いかけた瞬間、ヘルミーネは少し待ってと言った。
「もう、私はここにはいません。この本は、このまま元あった場所に置いておきますので、是非読んでください。ヨブさんの感想を聞きたかったのだけれど、またいつか」
その日の講義が全て終わり、時計は午後の4時を示していた。再び大学図書館に戻り、馬鹿みたいに大きな赤い本(赤の書)を借りる手続きをおこなった。さすがの事務員も驚き、怪我をしないように気を付けて、という言葉をもらった。通り過ぎる学生諸子から、少々変な目で見られながら帰宅する友人の待ち合わせのため、所属するサークルのサ室に向かう。自分の所属するサークルは部員が少なく、案の定サ室はがらんとしていた。ドスンと机の上に置き、ふぅと腰に手を当ててのけ反る。スマホをいじりながら、友人が来るのを待っているとギイと扉が開き、お待たせと彼は言った。
電車に揺られ、自分の足元に例の本が置いてある。その妙な存在感に少し笑えるように思った。
「與部君も、まぁもの好きだね」
「むしろ、富士君は分かってくれそうだと思ったけどね。哲学を専攻しているのだから、そういったものに造詣が深いと思っていたよ」
「ひどい偏見だね、こりゃ。素直な感想を言ったまでなのに。でも、自分で好きなことを勉強しようという姿勢は悪くないと思うよ」と富士君は、足元にある赤の書に目を落としながら答えた。彼は哲学専攻の生徒で、自分とは違うタイプの難しい本を多く読んでいるにちがいない。そこで僕は一つアドバイスをもらおうと思ってこう尋ねた。
「富士君は、哲学書とか、難しい本を読むときはどうしてるんだい?コツとかあるのかな?」
そうだね~…と彼は顎に手を当てながら語り始めた。
「とにかく読み切ることかな。一文一文を生真面目に理解しようとはせず、いっそ後戻りしないつもりで読む。感覚で読むというべきか。本によっては、筆者が伝えたいことが2回、3回と出てくるから嫌でも頭の中に入る。ある程度は誤読してしまうかもしれないけど、慣れる慣れないにしろ、理解というのは概ね読者に委ねられる。知識を貰うように見えて、実は反対で、読書は自分が問われているんだ。要は読み続けては、立ち止まって考えて答えを出すというプロセスが理想なのかも」
すでにこの会話自体に自分が問われているような奇妙な感覚に襲われたが、それこそ自分なりに理解できた…気がする。いやはや、哲学というのは難儀だ。求めた答えの斜め上というか数段上の方の返事が返ってくるのだから。
「ありがとう。参考になった。つまり、気合と根性で読めということだね」
土曜日と日曜日は休校である。サークルも活動が消極的な文化系なので、やはり学校に行く必要はない。
故に、土曜日の8時間は貴重な収入源であるアルバイトをするわけなのだが、今お世話になっているバイト先はあまり好きではなかった。
初のアルバイトだったとはいえ、手際があまり良くない僕はミスばかりしていて、よくバイト先の社員に叱られていた。また間の悪いことに僕の気弱な部分が体育会系の社員(元ホストだったらしいが)の気を障りやすく、仕事のメモ帳を地面に叩き付けて怒鳴ったり、サービス残業を強いることも多々あった。
悪いのは仕事のできない自分である。そう結論づけ、その先のことを考えることはあまりしなかった。だから、不思議と辞めたいと思うことがあっても、それを実行することに関して、自分自身に説得力を持たせることができなかった。
だが、ヘルミーネとの出会いと、心待ちにしていた赤の書を読むことができるというささやかな幸せが、このつまらない不幸を耐え抜くために必要十分な源泉であった。
ヘルミーネと出会った週の日曜日。丸一日かけて赤の書に向き合った。改めてその佇まいに驚かされ、魅了される。ユングが秘匿し、スイス銀行に眠っていたのだというオカルトじみた事実だけでワクワクしてしまうが、その内装故に、期待はさらに加速していく。
色鮮やかな直筆のカリグラフィーは整然と並んでおり、西洋の写本を思わせるが、随所に描かれているキチンと区分けされた絵の塗りを見ると、どちらかというと東洋仏教の曼荼羅を彷彿とさせる。ユングがフロイトと決別した後に訪れた精神的危機に陥った時に密かに作っていたものらしいが、とても狂人が作ったとは思えないほどに美しいと感じる。
今までに幾つかの著作は読んできおり、そのどれもが難解であったが、この本も例に漏れずなかなかに難解であった。理論や理屈で書かれた学術書とは違い、どちらかといえば文学的な表現が目立つ。一見ファンタジー小説のように見えたが、古典神話の英雄や聖者、そして神をも通して、自身の病に対して真摯に向き合った闘病記のようなものだということが読み続けていくうちに理解した。膨大な分量の故に、その日に読めたのは100ページ相当であった。
平日は大学とサークル活動、土日はアルバイトという習慣の随所で僕は読書に夢中になった。アドバイス通りに約一ヵ月かけて読み切ったが、内容のほとんどすら理解していないということを理解した僕は、図書館で借りなおしの手続きをおこない、根気強くもう一度読み直すことにした。すると、テクストが僕の胸に迫り、感情と感覚を呼び覚まされることに気づく。1度目はまるで映画を見るように僕自身が観客であり、傍観者であったが、2度目は体験者であった。2度目の際に目にとまる部分は、あまり使っていなかった日記帳に書き留めることにした。
それは日に日に増し、右手が疲れることがしばしばあったが、人生においてこれほど自分を客観的にみることもなければ振り返ることもなく、また未来に対してこれほど助言を切望することがなかったのが分かれば、手を止める道理は全くないように思えた。
1度目は気付かなかったが2度目に気付くことは、何も文章に限った話ではないようだった。驚くことに手紙が挟まれていた。過去に借りた人の忘れ物かと思ったが、貸出の日付を見ると、自分が借りた日しか書かれていない。その手紙には、数字とドイツ語が羅列してあるのみで、きっとこれはヘルミーネによるものかもしれないと思い、大切に保管しておくことにした。
赤の書、一部抜粋(編集者記:以下原文ママ)
「自分自身を生きるということは、自分自身が課題となるということである。それは快楽とはならず、長い苦しみである。なぜならばあなたは自分自身の創造主にならなければならないからである。自分を創造したいならば、最上にして最高のものからではなく、最悪にして最低のものから始めることになる。(…)喜びではなく痛みである。なぜならば、暴力に対抗する暴力、罪であって、聖別されたものを打ち壊すのだから。」
「自分の限界を知ることが、あなたには必要だ。自分の想像力や周囲の人間の期待という人工的な制約の中であなたは奔走することになる。」
「だからあなたの実際の限界を見出すように努めなさい。」
↑そのためにもバランスを見出さなければならない。それは自分と反対のものを育むことによって、達成される。それは英雄的ではないが必要なことだ。
「悪は何ひとつ生け贄をささげることができない。悪は自分の目を犠牲にできない。勝利は生け贄を捧げることができる者である。」
これらのテクストは僕の胸を打ち、この世界には二元論で割り切れものがあるのだということを実感として学んだ気がした。自己の魂の探求、神と悪魔、科学と信仰、幻想と普遍性を凝縮したこの本は、僕にあるアイデアを浮かばせた。僕は今までに自分を含む人間自身に対して探求したことがあったろうか。世界について、人間について学ぼう、と。
入学して3度目の春が訪れた。大学構内の並木道には桜が咲き誇り、舞い散る桜が風に流され、スカートを抑える学生の姿は春の嵐といった様相であった。残念ながら、春の嵐と呼べるほどの青春は掠めもしないほど無縁であった僕は、果たして軽快な足でゼミ室へと向かった。ゼミ生は7名ほどと少なく、雰囲気もサークル活動のようだが僕は先生の話を熱心に聞き、質問をよくした。所謂、意識高い系みたいな感じで、我ながら滑稽だろうと思いつつも、学術、特に心理学に関して人一倍興味を持って接した。
3年生の夏休みは公務員試験勉強と地元役所のインターンシップをしていた。勉強と就活と交友を繰り返していたある日、ふとヘルミーネ(と思われる)の手紙を思い出し、大切に保管していた机の引き出しから出して眺めていた。赤と黒の数字の羅列とほんの数語のドイツ語。なにかの暗号であるのは分かるが、それだけではさっぱり分からない。もしヘルミーネからのものであるという仮定が正しければ、彼女と自分に関するヒントがあるかもしれないと思い、共通点を探る。これが挟まれていた赤の書が関係するかもしれないと見比べているうちに気付く。翻訳されていない原書には赤い数字でページ番号が振ってある。手紙の赤い数字とページ番号が対応し、二つ並んだ黒い数字は何番目かの行と文字数、つまり文章の一字を指す。まるで正解と言わんばかりに、手紙に書かれたドイツ語とも一致する。この数語のドイツ語は例題のようだ。解読を進めていくと、住所だということがわかった。ネットで検索をかけ、名前以外の必要な情報が分かると早速感想を書き送ることにした。
彼女は流暢な日本語を話していたが、文字は読めるのだろうか。きっと読めるのだろうが、親切心だと思ってドイツ語翻訳(と言ってもネット翻訳)した文章を日本語と併記して送ることにした。
宛名については、当然ヘルミーネにした。