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狼・告白録  作者: 與部 仁人
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二つの世界

 あれから僕は、自分の中にあるものに注意深く耳をすませ、幼いころから見ないふり聞こえない振りをしていたものに目を見張った。

 デカルトの教えのように、最初の真偽を問いただし、分解し、順番に向き合うべき真実を構築していく。見直しもおこなった。

 問題の本質は、正しい自尊心を持てなかったことだ。私とは、何者か?私の自我とは何か?それを真剣に考えることを放棄させる呪いを、今、確かに捨てなければならない。

 まず、人が生きることから考えようか。生きるとは何だろうか。幸せになること。幸せの定義はなにか。お金を稼ぐこと。大切な誰かと楽しい時間を過ごせること。好きなことをすること。

 僕はこれらの事柄の中に過ちを見つけた。お金を稼ぐことはとても大事だ。生きるために必要だからね。でも、生きるって息を吸うだけじゃないと思うんだ。いや、とてつもない不幸の最中にいる人にとっては、逆にそれが正解だということを僕は認める。しかし、今いる僕と今いる僕の周りについて考えるなら、それは不当だし、実はそれこそが、為政者による呪いだということを理解している。美徳は、とうの昔に裏切っていた。

 難しい話だね。でも、僕に必要だったのは、そういう反逆の狼煙みたいなものだったんだ。人生は戦いだ、と誰かが言った。その意味が今なら分かる。人間は、自分が抱えるエゴを注意深く分析し、その手で誰を傷つけて、誰を救っているのか、その意味を理解しないといけない。守るために傷つけなければならない。でも、それを知っているのなら、人は手を取り合う努力だって出来るはずだ。

 僕は、僕なりの戦い方をする。

 僕の何を守りたくて、何を武器にして戦うのか。


 一か月間、じっくりと考えた。だが、答えが出なかった。以前のような鬱屈とした気持ちを抱えて、灰色の日常を一週間ほど過ごした後、答えがでた。

 それは、以前訪れた美術館ではない、他の私設美術館に行った時だった。そこは、19世紀の絵画を取り扱った美術館で、ゴッホやモネ、ルノワールがあった。

 その中でも、ひと際気を引くものがあった。

 その絵画は、大地と夜空を朝日が美しく照らし、女神と天使、あるいは人間が元々は一つのものだったように、互いに優しい微笑みを向けている。威圧的な宗教感はなく、むしろ、浮遊感と神秘さとを感じさせた。

 フィリップ・オットー・ルンゲの『朝』。それがこの絵の名前だった。

 呆然と、この絵の前で立ち竦み、そして、思った。僕も描いてみたい、と。この神秘的で観念的なものを、人間は絵としてあらわすことができることに感動した。そうだ。人間は表現することができるのだ。目に見えず、言葉にするのも難しい、だけど、人々が感じている心のずっと奥にあるもの。それは、僕自身がずっと奥にしまって、見ない振りをしていたもの。

 かつて、僕は絵を描いていた。単純に絵を描くことが楽しかった。上手に描けると誰かが褒めてくれて、もっと楽しかった。だけど、歳を取るにつれて、次第に絵を描かなくなっていった。考えてみれば、その理由はたくさんあった。絵柄が気に入らないと言われた。自分よりも上手に描く子がいた。それが原因で喧嘩や、少しの間いじめにあったこともあった。だが今一度始めよう。恐れる必要はない。“どんなことでもはじめは難しい”のだから。


 僕は、ほどなくして絵画教室に通い始めた。月過去に描いていたと言っても、落書き程度のものだったので、ほぼ素人みたいなものだ。それに、一から本格的に学んでみると、自分がいかに描き方を知らなかったのか思い知らされた。

 とはいえ、絵画教室は本当に楽しいと感じることができる。月に2回通う程度だが、先生が教えてくれる技法一つ一つが新鮮で、実際に描いてみて、出来上がったものを眺めると満足感があった。

 慣れてくると、オリジナリティを加えて、自分だけの世界を作りだす練習をおこなった。

 いつしか、仕事が終わったら絵と向き合うことが多くなり、描くことさえできれば、その日は報われたように思えた。

 こうして、僕の中に二つの世界が生まれた。一つはあの灰色のつまらない労働で、一つは彩り豊かな創作である。

 正直な話、僕は仕事が人生だと思っていた。考えることを辞めて、我慢することが人生だと。しかし、この世界には、そういった心が知らない世界がある。醜いことばかりではない、人は気付くことさえできれば、綺麗なものを作ることができるのだ。

 面白いほど、僕の時間の使い方が変わった。仕事の面で言えば、一刻も早く帰るために、苦手な業務に向き合い、定時になったら、多少後ろ指を指されようと勇気を出して帰った。最悪、クビになってもいいと思えるほどに、僕は大胆に動いた。それでも我慢しなければならないところはあるので、その分別と線引きを自分なりに決めた。

 手当すらない若衆部の夜の会議と地域活動、そして飲み会は最後まで僕の天敵で、こんなことをしている暇はない、早く帰って自分のすべきことをしたいという気持ちと目の前の現実の狭間で歯ぎしりをして耐えていた。

 そういう意味では、僕はまだ幸福ではなかったが、以前の僕と違い、希望と夢を持ち、一日一日を重く受け止め、精一杯行動した。

 夢というと気恥ずかしくて仕方がないが、その気持ちは大事な生きる原動力であった。それは、将来画家になる、という夢だ。途方もない夢。本当に子どもみたい。でも、それでいいんだ。自分が描いたもので、誰かが幸せになる助けがしたい。僕なりの戦い方で、この世界と向き合う。実のところ、世界と向き合うってのは、自分と向き合うってことなんだ。


 描きだしてから、4年が過ぎた頃、描く絵は落書きを卒業して、多少様になってきた。先生から、絵画教室主催の画廊展示会が開かれるので参加してみないか、と提案を受けた。

 喜んで参加を希望し、一心不乱に作品作りに没頭し、通勤中も仕事中もそのことばかり考えていた。

 その甲斐あって、それなりに自分が納得いく作品ができた。僕が好んでいるのは油絵で、人物画を描いた。完成したのは、提出期限の一日前で、細かい調整ばかりだったのでそんなには焦っていなかった。

 出来は悪くない。ただ、作品に描いたのは少女像というだけあって見せるのが少々恥ずかしい。とはいえ、他を描こうとも思えなかったので、これはむしろ必然だと思うことにした。

 展示会の日、作成者はその場に四六時中いる必要はないが、解説や感想を貰うために1時間ほど展示会に顔を出さなければならないことになっている。努力義務なので、参加を拒否できるのだが、皆作者はリアクションを欲しがっている。僕もその一人だ。

 かくして、午後の2時から3時の間、期待と恐怖の時間を過ごすため会場へ赴いた。会場に着いてみると、僕の絵の前にちゃんと人だかりができていた。自分のだけではないが、それを見て安心した。

 絵に対して右側に立ち、見物者に礼を言う。一通りの解説をして、何か質問はありますか?と尋ねると、意外な人がそこで手を挙げた。金髪に透き通る目を持つ男性異国人はヘルマンだ。

「その絵に描かれている女性とは、どのようなお関係なのですか?」

 意地の悪い笑みを浮かべ彼はそう質問した。

「さて、どうでしょうね。皆さまが期待するようなドラマチックなものではなくて、僕自身残念な気持ちにならないでもないですが、そうですね。ここに自分がいるきっかけを与えてくれた女性、とでも言えばいいでしょうか」

 苦笑して、僕は答えた。



 展示会が終わり、ヘルマンとお茶を飲む約束をした、午後の5時。

 良いお店がありますから、と彼に連れられたはいいが、その店は会場から意外と遠いところにあった。

 店へ入ると、彼は店主に軽く会釈をし、ずんずん奥へと入っていく。廊下の先の扉を開くと個室があらわれ、中に入る。

「ここの店主とは、馴染みでしてね。またしても、VIPルームですよ」

「前から思っていたんだが、君は何者だい?」

「そのことも含めて、あなたにお話ししたいと思っていたのです。あたなは、合格したのですから」

「合格?なん・・・」

 言いかけた瞬間、ノックが3回鳴り、店員がコーヒーを二つ運んできた。まだ何も注文していなかったはずだが。…ああ、どうも。

 ゆっくり、扉が閉まる。

「それで、合格って、どういうことだ?」

 ヘルマンは優雅にコーヒーを一口含み、ハンカチで口元を拭くと、ついに話はじめた。

「僭越ながら、我が組織は、あなたを試していたのです。あなたは面白い人でしたからね。きっかけはあなたが書き送った手紙にありました。ユングの赤の書に関する感想文ということでしたが、あなたが何を、どこまで理解していたのか、いや、無意識であったのか、それはいいとしましょう。つまり、興味深いことが記されていたのです。それは、我々にとって起爆剤のようなものでして、衝撃を与えたのです。そして、我々はそれが必要で、つまりあなたの協力を得たい、というわけです」

「待ってくれ。話がよく分からない…」

「リスクを恐れて、隠して話すようでは説得も何もありませんね。失礼しました。最も、與部さんがこれかれ話すわたくしどもについて信用してくださるかも分からないですしね」

「・・・」

「私は、ムセイオンという研究機関の一員で、職員として在籍しています。我々は、人間の福祉を増進するための研究機関として、心理学的、脳科学的な点からアプローチし、実験と検証をおこなっています。しかしながら、調査研究の方法が地上のそれとは違うものでして、我々は、地下科学と称して研究をおこなっています。あなたに体験していただいたと思うのですが、あの魔術劇場と言っていたものが、それにあたります」

「魔術劇場というのは…。やはり、あの奇妙な夢のことなのか?」

「ええ。魔術なんてカッコつけた名前ですが、あれは我々が開発中のシステムの副産物です。人間の無意識は、集合的無意識に結びついている。本来であれば、それは一方通行のものであり、個人は常に受け手ですが、我々は、逆にその集合的無意識を操作可能…かもしれないところまでしか来ていません。故に、あなたのような人でなければ、副産物のあのプロトタイプも一定の条件に当てはまった人にしか使えません」

 まるでSF映画だ。だけど、あの夢たちは妙にリアルで、そして、実は内発的なものだったということも理解している。だが、信じるのか?いや、それどころか、もしかして自分は。

「もしや、僕を被験者として勝手に頭の中を弄り回したのか?」

「こう言ったら怒るかもしれませんが、私たちなりの善意だったのです。あなたが、自分を実際以上に過小評価し、目覚めかけていたのにも関わらず、記憶を封印しようとしていた。あなたはカインの印を持っていたのも関わらず、それを無視しようと、非常に勿体ないことをね。ですから、あなたを迎え入れる就職試験を兼ねて、モニタリングしました」

 頭の中が意味の分からないことで一杯だった。考えを冷やそうとする自分と反対に、ヘルマンは、先ほどより、やや熱を帯びた口調で話を続ける。

「そして、與部さん、あなたは!見事答えへと辿り着きました。あなたなら、きっとこの世界を変えられるでしょう。その手助けを我々はすることができます」

 あなたなら、きっとこの世界を変えられる。この言葉の魅力は凄まじい。今までそんなことを言われたことはついぞ無かった。むしろ、お前の代わりはどこにでもいる、という言葉の方が世にはびこっているし、今もそのことで悩んでいる。

 両手で口を塞ぎ、考え込んでいる自分に、彼はなおも推してくる。

「もしあなたが職員として承諾していただけるのであれば、生活を保障するだけの財源はあるということを強調しておきましょうか。我々は、表向きは公益法人としています。それがこの名刺です。法人登記もしてあります。また、職員としてではなく、ただメンバーとして会員扱いをすることも可能です。その場合も、カインの印を持つ者としてのあなたの夢を叶えるバックアップはできます。返事は後日で構いません。この名刺裏の携帯に電話をかけてください。私の番号です」

 そう言って名刺を僕に渡した。

 名刺には、公益法人オメラスと書かれており、ヘルマンの名前があった。



 ヘルマンと再会する少し前のことを話さなければならない。

 それは、仕事を辞めようと決めた日のことであり、辞めることを正式に伝えた日のことである。順を追って話をすべきなのだろうが、それらは際限が無く、結局のところ同じことを言っているだけなので、同じ話はもうしないと決めた。つまり、僕はこの仕事に愛想尽き果てた。毛色が違いすぎたのだ。

 最初は謙虚だったものが、次第に自分を取り巻く状況と世界が何たるかを知ると、はじめは小さな疑いの火だったものが、やがて燃え盛る怒りと憎悪の炎に変わっていった。それを必死にこらえていたが、ある日、とある客に殴られてから葛藤の天秤は一気に傾いた。だがそれは導火線の火でしかなく、爆弾そのものといえば、それは、果てしない夢のことだ。画家になるという夢。我慢する価値が無いと思った瞬間、それは一気に爆発した。こんなところでは死んでも死にきれない。

 仕事を辞める、と所長に告げた時、最初の説得に3時間もかかった。僕は蛇に睨まれた蛙のようになり、ろくに話ができず、全く情けない限りだった。無理もない、喧嘩を売ったのは僕だし、相手は理解のある人とは少々言えない人物だったおかげで、サンドバッグの如く言われたい放題で、耳鳴りと不眠に悩まされることとなった。だが、苦境はむしろ僕の心を滾らせ、辞める覚悟は一層強まった。

 そして、3回の話合いを通して、やっと辞めることができた。その付近の出来事もこうして書き起こしてあるので参照していただきたい。(編集者記:数点の資料未発見)

 そういった事情もあり、ヘルマンからの誘いも、非常に魅力的であったのも事実だった。


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