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狼・告白録  作者: 與部 仁人
10/14

『Ψυχικό σανατόριο』Ⅳ

 夢―4(※1)。

 またあの扉だ。文字は同じだったが、今度の扉は木造で、にわかに、向こう側から香ばしい匂いがする。

 ゆっくりと開いてみる。すると、カランカランと落ち着いたベルの音が鳴り、そろりと足を踏み入れる。

 天井には、3個ほどの吊り下げ式のランプがオレンジ色の暖かい光を放っていて、部屋を包んでいる。ランプの上にはシーリングファンが小さく音を立てて回っている。

 厨房とカウンター、そして机と椅子がある。いずれも木製で、古めかしさが感じられたが不潔さは無かった。むしろ店内は、気品や高貴さが満ちていて、数名のスーツやドレスを着た紳士淑女がそれを裏付けていた。そして彼らは、酒ではなく、コーヒーを飲んでいる。

 どうやら、ここはカフェのようだ。

 自分は場違いかもしれないと逡巡していると、ウェイターが歩み寄ってきて、僕を店の奥の座席へと案内した。

 椅子に腰掛けてみると、案外座りやすいことに驚く。

 程なくして、コーヒーが出された。かぐわしい香りと湯気が黒い水面みなもからほんのりと立つ。

 カップの取っ手を右手で掴み、口に運んでみる。酸味は少なく、心地よい苦味が口の中に広がる。大変に自分好みであった。

 コーヒーを楽しんでいる最中、目線をふと前に向けると、煙管を手に持った老紳士が瞳に優しさを、あるいは憂いを湛えて、僕に声をかけた。

「相席、よろしいかな?」

「ええ、どうぞ」

 老紳士は、向かいの椅子を手元に引き寄せ、ゆっくりと腰掛ける。

「煙草はどうだろうか?」

「ええ。構いません」

 慣れた手つきで煙管に火をつけ、彼は上空へと白い煙を吐き出した。

「君は、カフェの発祥を知っているかい?」

「はい」

「それなら、結構だ。もう気づいてるだろうが、今日は私が君のお相手、ということになる」

「はい。よろしくお願いいたします」

 

「まず君は、今の自分を“幸福”だと思うかい?」

「いいえ。ですが、自分が酷く不幸だとも言えません。それは、目に見えて僕より不幸だと思える人が、この世界にはたくさんいるからです。相対的に見れば、僕は普通なんでしょう」

 しかし、と僕は眉間に皺を寄せて言葉を紡ぐ。

「僕がいる時代と国では、基本的には物資に恵まれ、最低限、社会的な役割を果たせば餓死することはありませんし、生きていけます。しかし、それ以上に厄介な現代病が流行しています。それは、労働によって命を落とすもので、それは忍耐と偽りの美徳という古い時代からの呪いによるものです。若者は、大人を信用しておらず、希望も持てず、満たされない自尊心に葛藤しながら、日々を耐えています」

「なるほど。君の時代は、私より少し先のものだが、あまり変わりないようだね。だが、とりあえずは君のことを解決するとしよう。まずは、取り巻く不幸の原因について話をしよう。不幸の原因は種々ある。最初に恐怖心について話をしよう」

 老紳士はコーヒーを一口飲むと、また言葉を紡ぎ出した。

「人間には想像力がある。それは、未来を形作るための源泉でもあるが、結局のところ可能性の話でしかない。しかし、こと否定的なものとなるとそれは肥大し、彼にとっては現実のものとなる。恐怖とはこのことであり、彼はそれから目を逸らすために必死に現実の他の事柄に精を出す。君の世界においていえば、そう“労働”がそれにあたる。私が多く見てきたノイローゼ患者は、前兆として、自分がその仕事をしなければ、大変なことになる、休むことは不可能だとよく話していたよ。逆説的だが、現実は結果であって、最初のところでつまずいていることが多い。その恐怖の正体が何であるかは、人によって違う。それは倒産の危機だったり、手をつけてない他の仕事であったり、あるいは何もない虚無的な日常かもしれない。とかく、この恐怖への対処は自分の心に向き合い、飽きるほどそれについて考えることだ」

「次は、競争と虚栄心についてだ。競争は好きかい?」

「いえ、あまり好きではありません。しかし、良い結果を出すと嬉しい気持ちになります」

「そうだね。ある程度の競争と実感は必要だ。だが、ここにも不幸の原因が潜んでいる。それは、上位者でなければならないという呪いだ。最初は楽しんでいたことでも、優劣がつき、他者比較が進むと、劣等感に苛まれることになる。これは近代合理主義の資本社会では、よく見られることで、ある種の宿命のようなものかもしれぬ。だから、そのことを理解し、虚栄心に囚われないようにすることが肝心だよ」

 僕は痛いところを突かれたような気がした。

「虚栄心…ですか。難しいですね。どうも僕は比較ばかりしてしまいます。幸福そうに見える人を見ると、なぜ自分は彼らのように振る舞えないのか、と思ってしまいます」

「だからこそ主観の転換が必要となるのだよ。言ってしまえば、それは忘却に類するものでね。ああ、勿論お酒に溺れるとか、女遊びに興じるとかそんな話ではない。何事も度が過ぎれば、悪徳に転じるからね。さて、その忘却だが、つまり“熱意”が伴っているもののことだ」

「熱意…ですか?」

「そう。今の君の場合、必要なのは“熱意を持って没頭できる趣味”を持つことだ。幸福の源泉は趣味である必要はないし、他にもたくさんあるが、誰にでもできる幸せの作り方の一つが“趣味”だ」

 幸福の源泉が趣味だって?馬鹿な。そんな非生産的なことが幸福だと?

 僕が理解に苦しんでいると、老紳士はこちらの意図を察したようだった。

「間違ってはいけないのは、趣味を単なる暇つぶしと混同することだよ、青年。分かりやすい表現があるとすれば、それは、生きがい、ということになる。熱意を持って趣味に興じることは、人間の魂を磨く行為に匹敵する。趣味があれば、不幸を耐え抜く良き友人となる上に未練の無い社会に生きていても、少なくとも生きるに値する価値を見出すことができる。そして、それは夢や希望を抱かせることすらある」

 正直な話、僕は驚いた。趣味は単なる暇つぶしだと思っていた。あまつさえ、薬にも毒にもならない無用の産物だとすら思っていた。

 目の前に座る老紳士は、生徒の意識的な集中力を集めるためにあえて間をおく教師のように息を軽く整え、僕に向き直った。

「つまりだ。やりたいこと、を見つけなさい。人生を通して熱意を注ぎ、君自身の宝としたまえ。それは誰にも盗まれることのない君自身の大事な資産だ」

 やりたいこと…か。嫌なことに、また僕の中の“常識”的な部分が批判と反論を作り出す。やりたいことを語るなんて、子供が大人になる過程でのみ許されることだ。だが、お前はもう大人だ。すでにその夢や希望の選択権を失い、自分が今いる舞台(社会的立場)の上で、社会からの要求を唯々諾々と受け入れていればいいのだ、と。その上で、やりたいことの探し方も分からない。

「青年よ。君にもう一つ必要なのがある。それは、覚悟、だ。諦観によるものではなく、信念から発する覚悟だ。先に述べたように、今の人々は互いに比較しあい、監視しあい、劣等感を煽り立てては、満たされようと、もがき苦しんでいる。そういうシステムの中に我々はいる。他者の目を恐れ、自分の価値観をすら捨てようとしている。傷つくのは怖い。否定されることは怖い。しかしだからこそ、それを理解した者はこのイデオロギーの連鎖を断ち切らねばならない。被害者であることも、加害者であることを辞め、戦う者とならねばならないのだ」

 僕は、彼の言葉に耳をすませた。何か得られるかもしれない。

「ひどい話だね、人間とは。矛盾の塊だ。幸福を得るために苦難に立ち向かわねばらないのだから。これから…いや既に、君のおこないに対して苦言を呈する者達がいるだろう。正しく聞こえるときもあるかもしれない。でもどうか、自分の夢や希望を無碍にせず、責任と信念を持って挑んでほしい。嫌われてもいい、と思えるほどにね。君のその努力を、見てくれる人もあらわれるはずだよ」

 さすがに喋り疲れてしまったなぁ、と老紳士は苦笑し、お互いにコーヒーを飲む。飲みながら考える。戦う覚悟、か。受験に就活と、今までも戦ってきたつもりだったが、それは誰かが用意した戦場のようなもので、一兵卒として指示に従ってきた。だけど、これからは。動機は得た。あとは、そのやりたいことをどう見つけるものか。

「お話しは大変興味深く感じました。しかしその…やりたいこと、というものの見つけ方が分からないのです。どうすればいいのでしょう?」

「憧れの人や尊敬できる人はいるかい?もし、いるのであればその人を真似るんだ。あるいは、将来こういうことをしていたい、やっていたいというビジョンがあれば、まず一歩踏み込んで実践をする。遥か東の諺にこんな言葉がある。“合抱の木も毫末より生じ、九層の台も塁土より起こり、千里の行も足下より始まる(ひとかかえもある大木も毛先ほどの芽から成長し、九階建ての高殿も土龍ひと盛りの土から作りだされ、千里もの道のりも一歩あるくことから始まる)。つまり、やらなきゃ始まらない、そういうわけさ」

 これからやることは決まった。答えも得た。あとはやるだけだ。

「さて、もうそろそろ時間だ。夢から覚める時だ、青年。もうこれらの夢の正体も分かって来ているだろう。あともう少しだ」

 夢の正体。僕が隠してきた、見ないふりをしてきた思いと言葉の数々。魔術劇場とは、こういうことだったのか。

 残っていたコーヒーを一気に飲み干し、先生に礼を言って席を立つ。頑張りたまえ、と後ろから声が聞こえた。それは声援のように感じられて、僕の胸の内が熱くなる。一歩一歩が勇気に満ち、そして、思い切り扉を、開いた。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

※1…夢—2、夢—3については資料未発見。発見次第、投稿する可能性がある。


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