出立前に一仕事
ゼブラシア山脈は王都のほぼ真北にある、世界で一番高い霊峰マクフェイルがある山脈だ。
その向こうにはラメール国があり、山脈を貫通する街道がある以外は行き来が困難なため、強固な国境の守りとなっている。
遠い昔、まだ王国ができて間もなかったころ、ラメール国の一部の貴族が山を越えてこちらに乗り込もうとしたことがあったが、道の険しさに全員が遭難し、挫折したそうだ。
その後、ミラのような転生者がトンネルという技術を伝え、たまたま山腹にできた魔窟を利用して唯一の街道を作った。もともと魔窟なので魔物が出ることから、大きな商隊や国の使者が腕に覚えがある冒険者などの護衛を雇ってでないと使えないと聞くが、隣国との距離はぐんと近くなり、国交も深まったのだ。
中でも霊峰マクフェイルには霊獣が住むと言われていて、神樹の精霊であるドライアド様と同じように我が国を見守ってくれているのだと信じられている。もっとも、愛し子である姉上に会いにたびたび王城を訪れるドライアド様と違って、その霊獣を見た者は今のところ一人もいないので、どんな風貌をしているのかも知られておらず、信憑性は薄い。一説によるとその霊獣と出会ったら生きて帰れないので目撃証言が得られないからだとのことだが、それもまた定かではない。
山の深いところにはナナト大河を筆頭にコンフォートビター王国から海に向かう川の水源があり、森の恵みも豊かなために母なる山とも言われているが、同時に魔獣や魔物も多い。自然発生する魔窟も多々あるため、多くの人にとっては生き辛い地域でもある。
故に、この地には王国設立時に最も信頼できる部下を辺境伯として封じた。それが今のパスコー辺境伯で、代々国から第三騎士団を預かっている。広大な領地の中ほどには王宮には劣るが巨大な砦と、その下にある街を守る高い城壁を持つ街があり、点在する村を見守るとともに、魔物から国を守っている。
そんなわけで第三騎士団の精鋭がゼブラシア山脈にこもって訓練するのは日常のことなのだが、王宮からこの地に来るといつもすごいことをしてるなと感じる。国を守る騎士たちの献身には頭が下がる思いだ。
ゼブラシア山脈近くのポータルは砦の中ではなく、城壁から馬車で1時間ほど離れた場所にある。
これはゼブラシアのポータルだけではなく、王宮以外の、街にあるポータルすべてに共通することだ。利便性を考えると砦の中に立てたいのだが、ポータルへの転移魔法を安定させるためには転移に特化した魔術師のみが常駐する場所が望ましいため、人が多くて魔力が煩雑な場所からはわざと離している。
唯一王宮のポータルだけは王宮内にあるが、ここは登録した使い手(新規の場合はなじませるためにポータルが使えるようになるまで1週間かかる)のみの利用と、転移以外の魔法を遮断する特別な結界を使っているので他属性の魔術師がたくさんいても平気なのだ。
そんなゼブラシアのポータルに俺と紫黒が転移したのは、ライルが王宮に戻った翌々日の午後だった。
本当なら翌日の朝に立つつもりだったのだけど、ライルと兄上のところに出発の許可を取りに行ったのちに立ち寄った執務室で、ジョシュア達事務官が机についたまま白目を剥いて撃沈している姿を見つけてしまったからだ。
俺の机があるはずの場所には山になった書類がこれでもかと積まれていた。たぶん椅子も同じ状態だろう。
「……、ベル様、なんかすごいことになってるな」
後ろから覗き込んだライルがあちゃーと呟いて目の上に手を置いた。見たくない、と言うところだろう。リックだったらくるりと踵を返して逃げただろうな。
「ナナトに行く前はここまでじゃなかったんだけど、1か月くらい寝込んでて、ここに来られなかったからなあ」
「そかー。なんというか、ここもベル様頼みなんだな」
ライルが呆れた顔をしている。
「ベル様はできることが多いからなんでもやると誤解されるけどさ、寝る間も惜しんで努力してるんだ。それを知ってる奴が少ないからこうなる。それって問題だと思うぞ」
「俺にできることなんか大したことはないんだけど……」
「そういうのもよくない。ベル様が苦労しないでやってるみたいに見えるから、楽したい奴らが仕事を押し付けて、こうしてどんどん増えていくんだ。将来的に冒険者として王宮から出ていくと決めているなら、周りのことも考えて、少しずつ他部署に回すなりしないとダメだ。ジョシュア達まで倒れてしまったら、仕事にならなくて陛下や妃殿下が苦しむ」
「……、全くその通りで反論できないよ」
そうしている間にも新しい書類が来て入り口にある棚にねじ込まれて行く。そこももうすぐ決壊しそうなほどパンパンだ。
マスタードアラの部屋だってここまでじゃなかった。というか、俺が寝込んでる間に何があったんだろう?
仕方ない、俺はゼブラシア山脈で待っている騎士たちと魔獣に心の中で手を合わせた。
「ライル、騎士たちには悪いが1日だけ出発を遅らせる。悪いけど手伝って」
「え、無理。だって俺、騎士だし」
「……、騎士だって書類仕事あるんだよな? いいから手伝う!」
「ひー、ベル様の目が怖い!」
ライルは涙目になって肩を落とした。
紫黒に出発が1日延びたことを告げると、紫黒は一度ナナトに戻って月白さんに会うと言った。
『人の仕事はわからぬからな。1日あれば可愛い嫁に会える。明日はいつごろ立つのだ?』
「ええと、午前中は兄上に仕事の報告をしなくちゃだから、終わり次第食事をとって、午後一番くらいには出たい。王宮のポータルを使って、制限無視して駆け抜ければ、夕方には現地に入れると思うんだ」
『わかった。じゃあ明日の朝には戻る。先に行くなよ』
するりと窓を抜ける黒い背に、気を付けてと声をかけたら、了解したと言うようにくるりと回り、木々に紛れた。
そして、俺は自分の執務机を片付けるところから始めた。
ほとんどが決算書類や嘆願書だったので、必要なもの以外はすべて処分した。かさばってるだけで中身が薄いのがなんとも。書類用の紙は用が済んだら白紙になるので再び利用できるから、たった1行とかでも1枚に書くのが問題なんだよなあ。びっしり書かれると読みにくいけど、中身がなさすぎるのも辛い。
ライルに大きな箱を用意させて、終わったもの、再検討で返すもの、許可できないもの、などの分類で分けていく。意味のない頭紙などを白紙に戻して再利用の箱に押し込んでいったら、それだけでライルと俺が座る場所ができた。
「ベル様すげえ」
もくもくと片付けている横で、俺と箱を往復しているライルが目を丸くする。
「すごい速さだけど、全部見てるのか?」
「うん」
「まさかと思うが、全部憶えてたりしないよな?」
「全部は難しいけど、できる限りは憶えるよ」
「……、すげ」
「すごくないよ。兄上なら全部憶えられる。俺には難しい」
そうしていると、半分気絶していた事務官たちが目を覚ました。
「あ! ベル様がいる!」
「も、戻ってきた……」
「こ、これで、寝られる……」
「う、ううっ、うっうっ、べりゅしゃまああ」
ジョシュアたちは揃って号泣した。なんだかいろいろと大変だったらしい。
聞くと、不正をしているらしき領地がいくつかあり、そこを宰相に確認してもらいたいと思っているのだが、うまく逃げられているので溜まっていく一方とのこと。まあ、宰相だって領地持ち貴族と王家の間に挟まれたくはないもんな。
「ちょっと待ってて。ここをすぐ片付ける。疲れているところ悪いんだけど、一人こっちを手伝ってくれるかい?」
事務官たちの仕事により、いらないものを除いたら俺の机の山は他部署に持っていくためのサインが必要なものばかりだった。
目を通しつつサインをして指示をすると、その場にいた全員が回復ポーションを一気飲みし、手を貸してくれた。ライルがいるから一人でいいと思ってたので、自分の仕事は大丈夫かと聞くと、俺がいないとダメな仕事を先に片付けると言う。ジョシュアから次はゼブラシア山脈に行くことになったのは聞いているそうだ。
「またしばらくお留守なのかと絶望してました。1日でも残ってくれて、騎士の皆さんには申し訳ないけどベル様に感謝ですね」
よかったよかったと涙ぐんでいる彼らを見てるととても心苦しい。
「ごめん。俺が倒れてたばかりに苦労かけてるね」
頭を下げると、事務官たちは慌てて首を振った。
「そんな、やめてください!」
「ベル様は冒険者として身を立てたいと常々おっしゃっているのに、私たちの仕事が不十分なせいで城から出られないのですから」
「ベル様がいないと決済ができない書類なんてのは単に甘えているだけです。陛下はともかく、宰相閣下や財務大臣閣下などが判断を下すものまで入っているのですよ」
「ベル様が安心してゼブラシア山脈に行けるよう、もっと頑張ります」
などと優しい言葉をかけてくれる。俺が中途半端な立ち位置にいるばかりに迷惑をかけているのに、謝らせちゃダメだ。
「ありがとう。そしたら残り時間でどこまでできるか挑戦するよ。とりあえずここを1時間で片づける。サポートよろしく!」
「心得ました!!」
げんなりした顔のライルと対照的に生き生きし始めた事務官たちは実に心強い仲間だと思う。
そして俺たちはいっせいに仕事に取り組んだ。
きっかり一時間後。
「いやったあぁぁ!! 終わったー!!」
「ウヒョヒョヒョ!! 終わった! 終わったよぅぅ!!」
「ジョシュア、みんな! やったよ、俺たち、がんばったよ!!」
「がんばった!! ベル様!! もうサイコーぉぉぉっ!!」
宣言通り書類が片付け終わり、変なテンションで笑いながらハイタッチしている俺たちを、追加の書類を持ってきた別部署の事務官が驚いた顔で見ていたが、細かいことは気にしない。
その後、いつの間にかいなくなっていたライルが、俺の部屋付きの侍女たちと大量のサンドイッチを手にして戻ってきた。
久しぶりのまともな食事、と目を輝かせる事務官たちにはしばらく頭が上がらないな。
一仕事終えて心地よい気持ちだけど、終わったのはあくまでも俺の机周りだけで、執務室にはまだたくさんの書類がある。
「これは、1日で片付くかなあ」
ため息を吐いて卵サンドを齧ってたら、ジョシュアがまったくですと嘆いた。
「ほとんどが貴族の治める領地からの決算書類です。不透明な部分があって突き返されたものばかりでして」
言いながら、ジョシュアが一抱えもある紙束を持ってきた。
「例えば、これはカヴァナー領の一年分の収支と税金関連の書類です。数字が去年と大幅に違うので問い詰めたところ、半分以上が使途不明金の上、領主でないとわからないと担当者に逃げられました。他にも似たような貴族の領地がありまして、それで再調査にと財務大臣のところに依頼する予定なのです」
「どれどれ」
サンドイッチをぱくつきながらパラパラとめくる。
カヴァナー、カヴァナー、ええと、たしか……。
「ジョシュア、これはこれでいいんだ」
「え?」
「ほら、カヴァナー領は一昨年大規模な魔窟からの暴走があって、冒険者を雇ったり村の復興をしたりするために王家に収める額を5年間は税額を1/10にしてたはず。代わりに、素材を提供するようにってなってたんじゃなかったかな?」
「え、えええ!?」
「たぶん素材の買取価格の変動で数字が変わったんだと思う。たしか一昨年の書類に陛下の指示の写しや素材買取価格一覧を添付してたはずだよ。見てない?」
「……、すみません」
カヴァナー領を担当していた事務官が青くなって書類をあさっている。
「あ、あります! この数字が並んでいるやつですよね?」
「そうそう。わかりにくくてごめん。それを参考にもう一度計算したら合うはずだよ」
それだけでごっそりと棚一つ分が空きそうだ。
担当の事務官は手の中のスープカップを落としそうなほど肩を落としている。
「実は、領主であるカヴァナー侯爵は決算書類を作るのが面倒だと、二か月前から温泉地に行ってるらしいんです」
「そかあ。それは兄上に報告だね」
「私も先入観にとらわれずに調べるべきでした。すみません」
涙ぐむ担当者の肩を叩くと、他の事務官たちも肩を落とした。彼らのせいではないのに、心が痛む。
「君たちのせいじゃないよ。とりあえずこれは片付いたね。ひょっとして、ほかのも同じとか?」
だったらヤダなあと思ってたのに、見せてもらった書類はほとんどが俺や兄上が以前変更した点を含まずに例年通りに計算して提出された書類だった。わからないところはすべて『使途不明金』ですませている。ひょっとしたら、父上の世代はそれで終わっていたのかもしれないなあ。せっかく兄上が領地の状態を見て税収を調整しているのに、これでは意味がない。
「ごめん。変更した部分なんかは領主が担当事務官に伝えていると信じてた。次からは気を付ける」
それに、現状のままだったら、ちゃんと税を納める領民たちに申し訳ない。下手をしたら収穫が減った土地でも今までと同じように出せと無理をされているかもしれないし。
貴族たちはウエイルみたいに『自分たちは優れているので領民に貢がされて当然』と思ってるんだろうな。この意識は俺には変えられないだろう。たぶん俺が第二王子なのと同じくらい変わらない現実。
「書類上はただの文字だけど、この数字の一つ一つが国民の手だと思うから、おろそかにしたくない。このすべてが国民の努力の産物だ。俺は税金で国民に養ってもらっているんだから、きちんとしなくてはならないと思う。ジョシュア達には大変な仕事をさせてしまって申し訳ないけど、一人じゃできないから手を貸して」
今までは一人でと思ってたけど、ジャスやライルの言葉で目が覚めた。それに、確かに俺がいないときのこの状態は酷いしね……。
頭を下げたら、ジョシュア達は困った顔をしつつも口元を引き締めて頷いてくれた。気持ちは伝わったみたいだ、よかった。
俺は侍女たちが入れてくれたコーヒーを事務官たちに配りながら笑った。
「でもまあ、細かいところに手を抜くと自分に返ってくるよね。他の部の事務官たちにも見直しを徹底してもらわないといけないなあ。兄上に頼んで各大臣から部下に確認してもらうよ。そうしたらここの仕事も減りそうだ」
肩を竦めると、全員がその通りと言って笑い、場が和んだ。
代替わりして2年、兄上の治世に反発する貴族もまだ多いと書類を見て痛感した。国民の大部分は兄上を歓迎してくれてると聞くが、安定するのはまだ先のようだ。
それを考えると、ミラが父上と共に国内を回ってくれるのはありがたいのかもしれない。まあ、悪代官(?)をばっさばっさと斬っていく場面は少ないと思うけどね。
そんな感じで書類をチェックし、検討していったら、日が変わる前になってやっとほとんどの山が消え、棚にねじ込まれていた分もなくなった。他部署から書類を取りに来た事務官たちも仕事量が大幅に減って小躍りしている。
「これは、ゼブラシア山脈のポータルがある町だね」
最後に手にしたのはこれから行くポータルがあるパスコー辺境伯領のものだった。
こちらは大きく赤で『再提出』と書かれている。中を見ると、魔物の素材について重大な違反が冒険者ギルドにあるとあった。なんでもギルドの買取価格が王国の規定より大幅に安く、冒険者たちから苦情が出ているらしい。しかしその質は王国基準に達していないので仕方ないと言うことも書いてあり、現地にて確認が必要とある。
「これは、実際にモノを見ないと何とも言えないな」
ライルが夜食のカツサンドを飲み込みつつ唸った。
「俺もあんまりわからないけどさ、騎士団の遠征で魔物の素材を手に入れた時の価格は状態とか質とかで変わるけど、ここまで安いってのは何かあるのかも」
「例えば?」
「魔獣が一定の場に増えすぎるとその分だけ質が低下する。素材屋に聞いたら、魔獣を間引くのは、もちろん危険ってのもあるけど、素材の質の維持のためってのが多いんだとさ」
「なるほど」
「これだけじゃわからないが、騎士団を捕まえてる魔獣はなんかめんどくさいことになってるって言ってた。せっかく現地に行くんだし、魔獣と話をしたらパスコー辺境伯と領の冒険者ギルドのマスターからも話を聞いたらいいんじゃないか?」
「そうだね。いい機会だからこれは俺が引き取るよ。兄上にも伝えていくから、保留箱に入れておいて。あと、書類の控えも作ってほしい。現地に持って行っていろいろ確認してくる」
「心得ました」
控えを作るのは光魔法の『複写』で簡単にできる。
作ってもらった書類を袋に詰めたら、やっと書類が片付いた。
へたへたと座り込んだジョシュア達をねぎらったのち、俺とライルは部屋に戻り、明日からの準備をして眠りについた。
読んでいただいてありがとうございます。
やっと新章に入りました。新しいキャラも出せて楽しいです。ライルはリックと違うタイプの脳筋だったりします。
これからもよろしくお願いします。