川面の月
それに最初に気づいたのはリックだった。急に手首を引かれて抱えられ、月白さんの近くに転がされる。
桟橋の隅に這うような形で後ろから覆いかぶさったリックは俺の目の上に右手を置き、左手でぎゅうっと俺を抱きしめた。
「目を閉じてじっとしてろ!」
視界を塞いだのに目を閉じる?
後頭部にごつっとリックの額がぶつかったのを感じ、急いで目を閉じた瞬間、これまで感じたことがないほどの光に襲われた。
光が痛い。
暴力的ともいえる光は体中の穴から入り込んでくるようだった。大蛇たちから救い出してくれた月白さんの光も眩しかったけどあれとは比べ物にならない。月白さんの光は強くてもどこか暖かかったけれどこっちは突き刺すほど冷たくて、直接見ていたら目を焼かれて一生盲目になっただろう。ものすごい圧力で体中が軋む。先ほどの紫黒のときのように押し潰されることはないが、それ以上に体が痛んだ。なんというか、入り込んだ光に内側から溶かされてるみたいだ。
「っく……」
頭の後ろでリックが息を飲んでいる。目の上の手が熱くなってじんわり湿っているのが感じられた。分厚い掌でふさがれていても感じる光なのだ。目をつぶってるだけのリックは大丈夫か心配になる。
「リック……」
「大丈夫だ。動くなよ」
「うん……」
石のように固まってじっとしていると、後ろから笛のような音が聞こえた。
りゅー りゅるる りゅーる るるりゅ ……
りゅー るるり りゅーる るるりゅー ……
風が川を渡るような清らかな音が破裂しそうな光に差し込んでいく。
りゅー りゅるる りゅーる るるりゅ ……
りゅるる りゅーる るるるりゅりゅー ……
りゅー りゅるる りゅーる るるりゅ ……
足元からもう一つの笛が聞こえてきた。最初の音より低い体に響くような音は最初の音と重なって美しい和音を作っている。それら速くなったり遅くなったりしながら柔らかく響いた。指先から入って心身を癒しながら足元に抜けていくような気がする。
相変わらず強烈に眩しいけど、息はしやすくなったかも。
『だいじょぶか、にーちゃん!?』
ふわり、と耳元で声がした。聞き覚えのある元気な声はここにはいないはずの子蛇のものだ。
「灰青?」
『そだよ! そろそろ儀式だから来たんだけど、ちょっと様子が違うね』
「儀式って?」
『ナナト様がお帰りになる儀式だよ。オイラたち棲み処の蛇は魂の火でナナト様の道を照らしてお見送りすんだ。それでジャスティンのとこに体を置いて、魂火だけ飛ばして戻ってきたんだけどさ、話に聞いてたのとは違うみたいだねえ』
「そうなんだ」
『それでどうしたのかと思ってたときに、とーちゃんとかーちゃんが見えたから来てみたんだけど、まさかにーちゃんたちまでいるとは思わなかったよ』
「まあこっちもいろいろあったんだよ」
左右の耳元を行ったり来たりする声に囁きで返していると、後ろにいたリックが袖を引っ張った。
「こんな時に何をぶつぶつと」
「ああ、灰青が来てるんだよ」
「はあ?」
「ナナト様の儀式のために魂だけ飛ばしてきてるんだって。光が収まったら見えると思うんだけど、今どうなってる?」
「わからん、と言うか目を開けられる気がしねぇ」
リックの右手をずらして様子を見たいと思ったんだけど、リックは手を緩めない。
「だから見るなっつーてんだろ」
「ううっ」
感覚的にはさっきより眩しくないようにも思うんだけどな。
「まだ目を開けるなよ、ベル、リック。目玉が灼け落ちるぞ」
低い笛の音が一瞬止まり、紫黒の声に変わった。返答する間もなくすぐに美しい笛の音に戻る。なるほど、この音は月白さんと紫黒がだしているのか。息継ぎ程度だけど、俺たちのために月白さんと合わせて間を作ってくれたらしい。
そこに小さくヒューヒューという音が混じった。灰青の魂が奏でる音のようだ。耳を澄ますと同じようなかすかな音があちこちから聞こえてくる。棲み処の蛇たちの魂がそれぞれの音で高い笛の音に合わせて歌っていた。
月のない静かな夜空を塗り潰した光をなだめるような優しい音が柔らかく辺りを包んでいく。
暖かくて、涙が出そうだ。なんか弱ってるな、俺。我知らずしゃくりあげそうになった時、目の上の圧力が緩んだ。体に回された手がポンポンとあやすようにリズムを取る。
「さっきは殴って悪かった」
リックが謝るなんて珍しい。
「……、雪が降るよ」
「バーカ。俺だってたまには反省する。あの時は自分が死んでもいいんだと思ってるベルに腹が立ったんだ」
「ごめん」
「謝るなよ。ベルにはベルの価値観があるんだろ。さっき、青褐たちと話をしているのを聞いて俺もまだまだ青いと思ったよ。知らんうちに俺の価値観を押し付けてたなと思った」
「……」
「だがな、俺は親しい奴が自分から「死んでもいい」と言うのには腹が立つし、命を無駄に散らそうとすれば殴りたくなる。大事な奴ならなおさらだ。それはわかってほしい」
「うん」
「だからな、今もちゃんと五体満足で町に戻るぞ。できるだけ護るが、お前も守られる価値があると自覚して、命を大事に」
「わかった」
困ったな、気が緩むと泣きそうじゃないか。いろいろあったから仕方ないにしても脱力するのはまだ早い。
そんなことを思っていると、空気に溶けていくように笛の音が消えていった。
つま先を何かがトントン叩く。
「もういいぞ」
紫黒の声がして、リックの手が離れた。
体を反転させ、ぺたりと座り込む。後ろに手をついて体重を乗せ、見上げる姿勢で目を開けると、満天の星空とぼんやり輝く月白さんが目に入った。だんだん目が慣れてくると、俺のすぐわきには再び大きくなった紫黒がいて、膝のあたりに身をくっつけているのが見える。耳の近くをふわふわ漂う小さな光は灰青のようだ。
「くそう、チカチカして見えん」
紫黒の反対側にいつでも動ける体制で膝をついているリックがいて、焦点の合わない目を揺らしていた。光を直接見はしなかったと言うが、ぼんやりとしか見えないようだ。少しだけ治療の魔術を使ってみたけど、魔力が回復してなかったから微々たるものだった。こんなことならもっと魔力回復ポーションを用意しておけばよかったな。
『見て、にーちゃん』
ため息を吐いていると、耳元で灰青が囁いた。ふわりふわりと飛ぶ灰青が大河のほうを示す。
まだ少しぼやけた目を向けると、大河の真上に今までに見たこともないほど大きな月が出ていた。
新月なのに、月?
目をごしごしとこすり、じっと見つめる。
まだ少しぼんやりとしているが、大河に光の帯を落としている大きな球体が月でないのはすぐにわかった。月にしては明るすぎるし大きすぎだ。直視できる分太陽よりはまぶしくないけれど、それでもかなりの輝きで大河や倉庫街を照らしている。きっと町からもよく見えるだろう。好奇心旺盛な人々が近づいてこないといいんだけど。
大きな光の珠は朝日のように大河の上に登っていき、中空で止まる。おかげで昼間のように明るくなり、周囲が見渡せた。紫黒たちだけでなく遠くの大蛇たちも目を細めて喉を鳴らしている。
その周りには花びらのような淡い光がふわりふわりと集まっていた。珠の輝きに消されそうなほど淡い光だが、一つ一つの存在がわかるほどキラキラしている。
「奇麗だなあ」
呟くと、後ろの紫黒と月白さんが光のほうに進み、ゆっくりと頭を垂れた。
「ナナト様、お待ちしておりました」
桟橋の縁ギリギリのところで紫黒がぺたりと伏す。月白さんも紫黒と並び、天を仰いでりゅーるると啼いた。
りゅーるる、とあちこちから音がする。ふと見れば横でフワフワしている灰青の魂もりゅーるると歌っていた。たくさんの光が珠を歓迎しているように合唱する。
『久しいの、皆の者』
珠の中から鈴を転がすような声が聞こえた。
同時に光の珠の中に髪の長い女の影が映る。影は見る見るうちに実体となり、まっすぐな黒髪と黒い肌の美女になった。肌や髪と同じ色の黒い瞳は日のささない深い海の底のように暗い。
その瞳はぐるりとあたりを一周し、月白さんの上で止まった。
『月白、紫黒、禊の守り、大儀である。だが』
視線が青褐たちに向く。柔らかに微笑んでいた美女の顔が嫌悪に歪んだ。
『なんだあの醜きモノたちは? あのようなモノが視界に入るなど不愉快極まりない』
舌打ちに続く冷たい言葉に大蛇たちは硬直した。ただ漏れだった瘴気が一瞬止まったほどだ。だがすぐに藍墨茶が桟橋の縁に寄り、体を天に伸ばして叫んだ。
「ナナト様!私です!藍墨茶です!」
『なんと、藍墨茶か。よくもまあそんな醜悪な姿でわたくしの前にでられたものよ』
「!!」
『もう一匹は、見たことがあった気もするが、思い出せぬな、ナナトの蛇か?』
「なっ!」
大蛇たちは身を大きく伸ばしたまま固まった。力を得た自分たちを見たナナト様は、喜んで手元に迎えてくれると信じていたのだろう。こんなふうに蔑まれるなど思ってもみなかったに違いない。
『ああ、もう、どうでもよい。目障りじゃ、去ね』
そう言って、黒い美女が手を一振りした。
それだけだった。
ただそれだけで、二匹の大蛇は石になり、すぐにひび割れボロリと崩れ、砂になって大河に落ちていった。悲鳴すら上がらない。ほんの一瞬の、それこそ瞬きするほどの間だった。青褐たちが最後のあがきのように発した黒い瘴気は美女の口に吸われ、喰われる。
『不味い』
ぱくんと口を閉じた顔すら艶めかしい。赤い唇を同じく赤い舌がぺろりと舐めた。
神々しい神気をまとっているはずなのに、俺にはその姿が禍々しく見えた。今のナナト様に比べたら青褐たちは小物だ。ああ、だから喰われたのか。
「怖ぇ……」
小さくリックが呟いた。
うん、すごくわかる。
ナナト様は大海に住む龍神の娘でナナトの渡し場の土地神的な存在だと聞いている。さっきの光はナナト様の存在の輝きだ。神気を帯びたまばゆい輝きはそれだけで弱い生き物を灼いてしまうほどだった。実際、俺もリックも失明するとこだったな。リックの勘ってすごい、さすが護衛騎士。
そんな存在の一振りで俺たちが苦労した大蛇はあっさりと消された。
殺されたというより消されたってほうがぴったりくる。飛んでいるだけの虫を殺すくらいの気楽さだった。気に入らないから排除した、ただそれだけのこと。藍墨茶は侍女だったっていうけど、知り合いとかそういうのは些細なことだったんだろう。藍墨茶も青褐もナナト様を慕っていたようなので心が痛む。
ずしりと重たい恐怖を感じた。
これが神に近い生き物なんだなと実感したが、なんだか複雑だ。モヤっとする。
そりゃ俺だってあの二匹を殺そうとしてた。たくさんの冒険者が犠牲になったし、ナレノハテにもされた。どんな理由があるにせよ、ここまで被害を出した魔物は退治しなくちゃいけない。あの二匹に俺が叶うとは思えないから、それに関しては感謝すべきなんだろうけど、気持ちが追い付かないんだ。
経過はともあれ殺すんだからそんなこと言っても仕方ないんだが、なんというか、ちゃんと戦って殺したかったんだと思う。いろいろ話をしちゃった分だけそう思うのかもしれない。自分の中で折り合いをつけたかっただけだ。要は自己満足、か。自分にがっかりだな、とため息が出る。
小さな光が飛び交う中、身を起こした紫黒と月白さんは無表情にナナト様を見上げている。仲間を害した蛇を退治してくれたことへの感謝はないが、それ以外の言葉もなかった。ナナト様もこの件は終わったとばかりに手をたたく。
『で、わたくしの希望のものをもってきたかえ?』
黒い目が三日月の形になった。粘っこい液体がまとわりついたみたいな空気に背がぞくっとする。
希望のものってのはつまり……。
人の血、贄。
「申し訳ございません、我が主」
紫黒は再び頭を地につけた。月白さんも水面ぎりぎりまで伏せている。
「お探しの人間が見つかりませぬ」
『そこに二人もおるではないか?』
「これはナナト様の禊を助けてくれた人間です。ワシらの同胞同様で、捧げることはできませぬ。ご容赦を」
『ふぅん……』
ふわっ、と光の珠が近づいたと思うと、紫黒の体の上で止まった。一瞬だけちらちらと瞬いたと思ったら、紫黒の体周りの桟橋に放射線状のひびが入る。木の橋がベコっと凹み、そこだけ沈んだ。潰れそうになった紫黒のもとに飛んできた月白さんも同じように大河に沈められる。
「紫黒! 月白さん!」
思わず叫ぶと同時に、体が宙に浮いた。
腹回りをぎゅうぎゅう締め付けられて苦しい。横を向くと同じ高さで同じように締め上げられているリックを見つけた。こちらに向かって手を伸ばし、何やら叫んでいる。
『わたくしに仕えているくせに口答えとは。人間ごときに何を気遣う? おとなしく差し出せばいいのだ』
視界に黒い髪が飛び込み、横を向くとすぐ近くにたわわな乳房があった。藍墨茶のような駄々洩れの色気がないので「あ、見ちゃった、ごめん」くらいな気持ちのまま視線を上げると、美しい顎のラインが見える。そこでやっと、リックともどもナナト様につかまれているのが分かった。右手が俺、左手がリック。両手に花じゃなくて申し訳ないがこちらも望んでないからいいか。
ここで初めてわかったんだが、ナナト様の下半身は蛇だった。龍神様の娘と魔物を一緒にしちゃいけないんだろうけど、以前討伐した上半身が女で下半身が蛇のラミーって魔物にそっくりだ。そういえば南の国の神話に出てくる島を作った女神も下半身が蛇(というか龍?)だって聞いた。珍しい姿ではないのかもしれない。
そんな半人半蛇のナナト様は俺とリックを交互に見てにやりと笑う。
『それじゃ、味見と行こうかの』
言いながら、左手を口元に持っていく。リックはじたばたしていたが、強く握りこまれ、顔を赤くして硬直した。遠目にも汗が光ってるのがわかる。あばらくらい折れたかもしれない。それでも何やらパクパクしているので悪口でもぶつけているのだろう。
ナナト様がリックの首筋に舌先を当てたとき、川面から氷の粒が飛んできて口元に当たった。
こつん、くらいの音で、特に痛くもないだろう。それでも驚いたのか少しだけ拘束が弱まる。もがいているとドボンと音がしてリックの姿が消えた。顔を上げると、左手で口元を抑えているナナト様が目に入る。思わず左手を開いて顔に当ててしまったようだ。
大きな黒い目が動き、川面で見上げている月白さんに向いた。
『おまえ……』
「……、主様、その二人は、お許しなんし」
『私の体を礫で打つとは、いい度胸じゃの?』
「血を浴びれば御身が汚れ、禊が無駄になりんす」
『まだ言うか? 父上からの目付だからと大目に見ていたが、邪魔だ』
舌打ちすると、ナナト様は左手を月白さんに向けてふるおうとした。
脳裏に崩れ落ちた蛇たちが浮かぶ。
「だめだ!」
俺は土魔法で隙間を広げて緩んだ手から抜け出し、左手に飛びついた。結構な距離だったがちゃんと人差し指につかまれてほっとする。華奢に見えた手は大きな流木のように固く、ひりひりするほど魔力で満ちていた。一振りで魔物二匹を消すほどの魔力があるのを忘れてたわけじゃないが、そんなこと考えもしなかった。
「ベル!」
下からリックの声がする。手を広げてなにか言っているようだが、黒い指先からあふれる禍々しい力で耳鳴りがしていてよく聞こえない。
『人間風情が!』
ナナト様は右手についた土塊を振り払うと怒りの形相で俺を再びつかんだ。いつの間にかとがって伸びた人差し指の爪が脇腹に食い込む。肉に埋まる感触のあと、痛みが足先まで貫いた。すぐに抜かれた爪を追いかけるように噴き出した血がナナト様の唇にかかる。
ペロリ、と大きな舌がそれを舐めた。
『!! これは!』
ナナト様は自らの人差し指をくわえて俺の血を味わい、うっとりと喉を鳴らすと、手のひらに飛んだ血をむさぼるように舐め回した。
『ああ、なんという美味。わたくしが以前口にしたそれよりずうっと美味しいではないか』
「な、なにを……?」
『甘露じゃ。地に堕ちた古き王族の血と血気溢れる新しき王族の血がする。この古き血の味は、おお! 以前口にしたあの血をひく者か。絶望と喪失の味がするぞ。そこに混ざっておるのは……、なんと、王者の質だ! こんなうまい血があるとは!』
言いながら、脇腹の服を破り、傷に吸い付いてくる。女性に服を裂かれるなんてどんな罰ゲームだよ。
美味い美味いと喜色満面な声を上げつつ、ナナト様は顔を押し付けてくる。血と命だけじゃなく、精神力まで吸われているようだ。
こんな状況なのになんだかひどく情けない気持ちになった。『以前口にしたあの血』とか『古き王族の血』とか、ナナト様暴走の原因となったのが泣き女のときと同じく母たちの血だと知ったからだと思う。ほんと、最後まで迷惑かけられたなあ。
思わず笑ってしまう。きっとこのままちゅーちゅーと血を吸われ、死んでしまうんだろう。何度か死にそうだと思ってたけど、今度こそ死ねそうだ。リックと命大事にしようって誓ったのになあ。まあ今回は仕方ない。ちゃんと頑張ったから許してくれ。
次はもう少しまともな環境で生まれたいものだ。次があればの話だな。
そんなことを薄れていく頭でぼんやりと思っていた時。
『このバカ者どもが!!』
どこからともなく声がして、世界が緑に包まれた。
読んでいただいてありがとうございます。




