そこにはなにもない
倉庫から飛び出してきた影はぐんぐん大きくなり、桟橋に乗って先のほうで止まった。
倉庫の後ろのほうにできていた壁の穴から出てきた俺たちは桟橋の付け根のほうにいる。そんなに広い桟橋じゃないからお互いの距離はそこまで開いてない。青褐がごろんとしたら頭が俺の膝に乗るくらいの距離? 想像したらなんだか笑ってしまい、紫黒にどつかれた。
「何を呑気に笑っておるのだ、このバカ者」
へへ、と笑うとリックが変な顔でこちらを見ている。
「今のおっさん声、誰だ?」
「え、紫黒だよ」
「お、紫黒なのか? すげえ、蛇の言葉がわかるぞ」
「……」
おっさん声って、リック……。紫黒が複雑な顔してるじゃないか。そりゃリックはものすごくいい声してるけども!
「子どもの戯言だ、許す」
「おっさん、俺28歳だぞ」
「ワシは198歳だ。主なんぞ赤子だ」
「ちっ、ジジイめ」
「フッ、吠えてろ小童。主だけ仲間外れは気の毒だからな。月白に頼んで蛇の言葉が一時的にわかる術をかけてもらった。青褐と藍墨茶は人に化けたときに使っていた人語をそのまま使っていたようだがな」
水を向けられた藍墨茶が胸を張った。
「私たちはそこの無粋な蛇と違って親切だから、ねえ、青褐」
「……、んむ」
青褐もまじめに頷く。なんだろう、この緊迫感のない感じ。まあチリチリした空気よりましか。
そんな呑気なことを思ったのも束の間で、青褐からぶわりと瘴気が吹き出した。月白さんの光が一瞬だけどすべて覆われたくらいの濃い暗い瘴気が、半分壊れている第三倉庫周りを塗り潰さんとばかりに広がっていく。油断していた俺とリックはうっかり吸い込んでしまい、肺に入って激しく咽せた。一呼吸程度なのにかなり瘴気を取り込んでしまったようで、ものすごく体が重たい。
「やっと会えました、月白様……」
咳で浮かんだ涙の向こう側にいる青褐は心なし嬉しそうだ。先ほど話したときとはがらりと違ううっとりした目を月白さんに向け、口の端を歪めている。
「ちっ」
月白さん、舌打ちした!?
振り返ると表情の変わらない(蛇だからいまいちわかりにくいんだけど)月白さんが尾の一振りで瘴気を浄化している。黒々とした霧のような瘴気が海に降る雪のようにふわふわと落ちてきた。光の綿が舞っているようでとても美しい。綺麗な月白さんがふわふわ踊る光に包まれてさらに美しく輝いて見える。
月白さんが俺とリックにそっと頭を乗せた。ふっと息を吐かれ、いい匂いだなと思ってたら空気の塊が喉の奥から登ってくる感覚がくる。咳き込むと、横にいたリックが大きくゲップして黒い塊がポロリとこぼすのが見えた。同じものを吐いたようで、俺の手にも黒い煤みたいなのがついている。月白さんの神気で体内の瘴気を追い出してくれたのか。体が軽くなってありがたいと頭を下げた。
「相変わらずムカつくわ……」
藍墨茶がぼそっと呟いた横で、青褐は嬉々としている。
「さすが我の月白様だ。神々しいほどに美しい」
「わっちは青褐のものではありんせん。紫黒のものでありんす」
カラスは黒い、と当たり前のことを言うようにさらっと答える月白さん。甘さが入ってたらのろけなんだけど、当然のことを聞くなという感じでとてもかっこいい。隣で紫黒がすっごく嬉しそうにゆるゆるうねうねしてるのはあえて無視した。
青褐は忌々し気に尾を揺らす。カチカチカチ、と威嚇音が鳴るたびに瘴気をまき散らした。先ほどの溢れ出たようなものと違って薄いが、粘った泥のように足元を固めている気がする。
「貴女はまだそのようなことを……」
青褐は吐き捨てるように言い、ギラギラする目をこちらに向けた。
「紫黒、お前はまだ魅了魔法など使って周囲を誑かせているのか!?」
「蛇聞きの悪い。ワシは198年生きていて一度もそんな魔法使ったことはない。というかそんなものは使えぬ。黒色個体だが鉄黒ほど魔力はなかったし、そんなに立派なものではないぞ」
「黙れ!!」
黒いつむじ風が飛んでくる。
さっき服を切られた奴だと思い、とっさに水の盾で防ごうとしたら、紫黒がささっと俺たちの前に出た。そのまま飛んでくるりと輪を描き、尾を一振りさせる。それだけだったのにつむじ風は綺麗に消えた。弾いたんじゃなくて消したのがすごい。思わず拍手したら嫌な顔されたけど。
「まあ落ち着け。ワシはヌシらが人間にしたことを知っている。鉄黒が多少話してくれたが、片側からの話では信が足りんのでな。なぜヌシらがこのようなことをしたのかを聞き、棲み処の長としてナナト様がご帰還する前に形をつけねばならぬ」
「……、お前に話すことなどない」
「そうか。ではこちらから問う」
紫黒は少しだけ目を閉じ、一息吐いてから開けた。まっすぐに体を伸ばし、くすんだ暗い緑色の大蛇を見つめる。
「鉄黒は青褐が月白に横恋慕し、ワシを恨んでいると言った。月白に魅了の魔法をかけていると信じておるようじゃな? 月白が本当に愛しているのは自分なのだと。今でもそう思っているから、このようなことをしでかしたか?」
青褐は答えなかったけれど、その体の奥にある瘴気がぶわっと膨れ上がったのがわかった。倉庫で向けられたときは手加減していたのかと思うほどの真っ黒な瘴気はこちらに向かうことなく青褐の周りに漂っている。
続けて、紫黒は右の体側面に赤と黒の斑紋が入っている灰色の大蛇に目を向けた。
「鉄黒は藍墨茶が自分こそナナト様の専属侍女にふさわしいと信じていた故、月白を憎んでいたと言った。それを糧に術をさらに磨いたそうだな。ワシを求めたのは月白への当てこすりか? ワシのことなど好いておらぬだろう?」
藍墨茶は青褐のように瘴気を出さず、ただ低い声で笑っただけだった。目だけが爛々と輝いているのが逆に怖い。背が寒くなったのは俺だけではなかったようで、隣のリックも腕をさすっている。
「返答がないのは肯定とみなすが、何か言いたいことはないか?」
大蛇たちはシューシューと息を吐くだけで何も言わない。ただ目をぎらつかせてこちらを睨んでいる。
「ヌシらのそんな独りよがりな考えだけで、たくさんの命を殺め、魔物となったのか? ワシらの同胞が穏やかに暮らす地を荒らそうと考えたか? なにより、ナナト様に血を望ませたのか?」
「……」
「鉄黒は人間たちをナナト様の贄にするために禊の大樹の元に血を垂らしたと言った。血を求めるナナト様が人を害することで父君の元に戻れなくなりこの地に留まる。自分たちは人を喰らって蛟になる。紫黒と月白は青褐と藍墨茶にくれてやり、人がいなくなったこの地は我ら蛇がナナト様と永遠に暮らす楽園となるはずだったのに、と」
ふいに紫黒の体が大きくなった。大きくなったと言っても今朝、共に夜明けを眺めたときの大きさだったから大蛇の半分にも満たないのだけど、威圧だけだったら大蛇たち以上だ。
「ヌシらは、ナナト様を、自分の欲求のために利用したのか? 同胞を誑かし、命を啜って眷属にし、人間に取り憑かせたのか? 人間を誘き寄せて贄とし、自らの力とするため血肉を啜ったのか? 答えよ!」
ガツンと殴られたような衝撃が来て後ろに弾かれた。大蛇たちより俺のほうが紫黒に近い位置にいるので、紫黒の体から湧き上がる圧力が苦しいほどのしかかってくる。くらりとして倒れかけたところをリックが支えてくれた。そのまま俺のポーチに手を突っ込み、癒し水の瓶を取り出す。
「飲んどけ」
「リックは?」
「もちろん飲む。そんで今のうちに空瓶に水入れとけ」
言われた通りに水を飲む。空き瓶に癒し水を作ろうとしたら魔力不足でできなかった。先ほど頑張りすぎたみたいだ。魔力回復ポーションは真赭を癒したときに飲み切ってしまったんですでにない。6本あった水は残りが3本になってしまったけどまあ仕方ないか。先ほどの大蛇との一戦は結構なダメージになっていたらしいから少し不安だけど、今飲んだ水のおかげで全身にあった切り傷がふさがったから良しとしよう。
紫黒の威圧が強くなっていく。高く上がっていた大蛇たちの頭が押さえつけられるように下がっていき、地面にお辞儀するような形になってきた。ミシ、ミシ、と桟橋に浅いひびが入る。
大蛇たちと同じだと思うダメージが来て立っていられず、膝をついた。全身をぐいぐい押さえつけられて息が詰まる。このままだと地面とキスするなあと呟いたら、後ろから淡い光がふわりと注いで俺たちを包んだ。
「おゆるしなんし。紫黒が我を忘れて怒るのを久しぶりに見んした」
月白さんが守護の術を使ってくれたようだ。圧力がなくなり、体が楽になる。癒し水だけでは治らなかった魔力が少しだけど回復して氷水を含んだ時のようにすっきりとした気になった。一息ついていると、リックが飛び出して紫黒の頭を平手打ちする。
「桟橋壊すな、阿呆!」
え、そっち? ま、まあ、リックだもんね。
というか紫黒の近くはまだ圧が高いはずなのに普通に動いているリックはすごい……。
紫黒と言い合いを始めたリックを見、後ろの月白さんがくすりと笑ったのが聞こえた。
「ぬしさんもそうけれどあの男もオツでありんすね」
「オツ?」
「おもしろい、という意味でありんすよ。ぬしさんもそうけれど、あのような人間がいるならば共に生きるのも悪くない気がしんす」
そう言って月白さんは柔らかく微笑んだ。
だが視線は大蛇たちに向けられている。青褐の全身から出ていた瘴気は広がる前に月白さんの神気で打ち消され、ここまでは届かなかった。一時は姿が見えなくなるのではと思うほど黒かったそれはいつの間にか灰色まで薄まって、逆立った鱗が見えるほどになっている。
「お前に何がわかる?」
桟橋にくっつくほど押し付けられていた青褐が苦しげに言う。
「我が生まれたときより、お前は何でも持っているではないか。蛇たちはお前を信じて心を寄せている。ナナト様の信頼も厚い。鉄黒のようなやさぐれとて腹に一物抱えるのみで行動には移さず、月白様はお前がいいと言う。さらに言えばそこの王子だ」
「え、俺?」
突然こっちに話を振るとは。思わず目をぱちくりさせていたら、青褐が憎々し気に舌打ちして俺を睨んだ。
「そうだ、お前だ。昨日来たばかりのお前に紫黒が接触した。それだけなのに一晩でこれだけ親しくなるなど、不可解だ。魅了を使わぬ限りありえぬ!」
「魅了云々はともかく、その点は俺も思ったぞ!」
リック、何で青褐に同意するんだ? 紫黒にペタンコにさせられそうなのに、藍墨茶が吹き出してるよ。
全員の視線が集まり、苦笑いしか出ない。
「そんなこと言われても、気が合うってそういうものだろう? 俺とリックだって冒険者ギルドでパーティ組んで、その日の夜には一緒に寝たじゃないか」
「……、語弊がある言い方するな!パーティ全員同じ部屋だったろ?」
「そういえばティティスさんだけ女性だったけど全然気にしてなくて、俺のほうが照れたな」
「……、何が言いたい?」
「あ、ごめん。まあだから、そういうものなんじゃないかなと」
「は?」
青褐が腑抜けた声を出したと思ったら、急に周りの空気が軽くなった。
紫黒を見れば呆れたように口をぽかりと開けている。そのせいか全身から出ていた威圧感がなくなっていて、急に圧がなくなったからか、大蛇たちが桟橋に崩れ落ちていた。青褐からも瘴気が出ていない。
俺は紫黒の隣に立ち、そっと頭に手を置いた。
「青褐は魅了って言うけど、紫黒はそんなの使ってないはずだよ」
「な、なにを!」
「青褐が言う通り、俺が紫黒と会ったのは偶然だけど、その後いろいろと話をした。鉄黒の術にかけられて凹んでいた俺を慰めてくれたりもしたよ。紫黒は口はよくないし冗談も下手だけど、俺のことをたくさん気にかけてくれて、怒ったり励ましてくれた。それで俺はぐっと救われたんだ。青褐にも藍墨茶にもそういうことあったんじゃないか?」
「……」
「もしこんなことになる前に会えていたら、青褐、君とも親しくなれていたかしれない。さっき少し話しただけだし、君に殺されるところだったけど、簡単に喰えただろう俺に対し、まじめに返答してくれたじゃないか」
「……、そんなことはない」
青褐がイライラした口調で吐き捨てた。もっと何か言いそうだったけれどそこはあえて聞かない。
「藍墨茶だって同じだよ。俺が凹みかけていたら励ますような言葉をくれた。眷属を出したにもかかわらず、すぐに取り憑かせなかったしね」
「あら、たまたまよ。壁が崩れたから」
「そうかな? たとえ壁が崩れなくても、君は俺に眷属を憑かせなかったと思う」
藍墨茶の目が泳ぐ。その目が月白さんの上で止まった。
「……、月白がいなかったら、こんなことにはならなかったのよ」
頭をあげ、忌々し気に呟く。
「月白、あんた、何で私たちの棲み処に来たの? あんたが来たばっかりに、私はナナト様の元から追い出され、青褐は道を外した。もともと別のところにいたのよね? あんたが来たばかりに、私達は棲み処を追い出された。そして今はあと少しで蛟になれるかもしれないところを邪魔してるじゃない!」
藍墨茶の体から瘴気が滲み出てくる。振り返ると月白さんが無表情で前を向いていた。何か言いかけてやめている。はくはくと動く口が紡ごうとしていた言葉はわからないけれど、何故だかとても悲しいと思った。
それを見た紫黒が鼻先を震わせ、今にも飛びかかりそうに体をくねらせた。青褐も藍墨茶と同調したように瘴気を滲ませている。リックがさりげなく俺を引き寄せて庇ってくれた。さすが護衛騎士。
こんな空気の中でいいのかなと思ったけど、つい言葉がこぼれてしまった。
「月白さんがきっかけだったとしても、その結果を月白さんのせいにするのは違うと思う」
リックの腕を軽く叩いてから、一歩進んで紫黒の前に出る。
「君らと話をしていると自分は悪くない、全部相手が悪いって聞こえる。月白さんが青褐を好きにならないのは紫黒のせいで、ナナト様が藍墨茶を専属侍女から外したのは月白さんのせいだって。確かに君たちから見たらそれが真実なんだと思うけど、事実と真実は常に同じじゃないんだよ」
俺はゆっくりともう一歩だけ前に出た。
「青褐、君は月白さんを紫黒が誑かしていると信じているようだけど、君の好きな月白さんは『棲み処の長だけどまだ蛟ではない蛇の紫黒』に簡単に魅了されてしまうようなチョロい蛟なんだろうか?」
紫黒が後ろでシャーシャー鳴らしているのが聞こえる。心の中で手を合わせつつ『ゴメン』と呟いたがきっとまたしっぽではたかれるんだろうなあ。青褐のほうは目をぱちくりさせている。きっと思ってもみなかったんだ。
「もしそうだったら月白さんにとても失礼だと思う。君は月白さんの何を好きになったの?」
答が返ってくる前に、藍墨茶に視線を移す。圧力から解放されて首をあげていた藍墨茶は強い目で俺を睨んでいた。視線が刺さるが王宮で鍛えられている俺にはかすり傷程度の痛みだ。
「藍墨茶、君は紫黒を手に入れたいって話してくれたけど、本当に紫黒が好きだった? 俺には月白さんへの当てつけにしか見えない。愛情と執着は似てるけど別のものだよ。それは誰も幸せになれない」
「……、私はもう、紫黒様を手に入れたいと願っていないわ」
ふっと視線が緩む。
「私はただ力が欲しい。そのためなら魔物でも蛟でも構わない」
「魔物でも、か。魔物は魔物で大変だと思うんだけどね」
以前討伐した魔物が何体か脳裏に浮かんでは消えた。大体が襲い掛かってくるだけの獰猛な奴だったけど、中にはこちらに話しかけてきて思考を操るような奴もいたな。このまま魔物になったら藍墨茶はそっちのタイプになるんだろうか? それとも、魔気に乗っ取られてただの化け物になるんだろうか?
「そもそも君らが蛟になれなかったのは、厳しい修行より簡単に、生き物の命を奪うという安易な方法に転んだからだろう? 神気を養わないで魔気を取り込んだ結果だ。月白さんは頑張って修行をして蛟になったんだと思うし、紫黒はちゃんと修行をして蛟になろうとているから術が使えているんだと思う。藍墨茶が手にした力とはそもそも質が違うんだよ」
「っ!?」
「それで、力を得たら、その後はどうしたい? みんなが君ではなく君の力に平伏すだけの世界は孤独だと俺は思うけど」
たくさんの人に囲まれているのに孤独を感じる、そんな環境に長くいたのでなんとなくわかる。
力があろうがなかろうが、誰も愛せず誰からも愛されない上に死を許されずに責を負わされるのは本当にしんどいんだ。そういう者は力を失うと同時に存在価値がなくなる。
俺の問いに大蛇たちは答えない。ただただ瘴気を濃くしてこちらを睨んでいるだけだ。
「そこにはなにもないのだぞ」
ふいに背後から声がした。
「自らの心に従わぬモノを害し、力のみを求める。その時は気分が良いかもしれぬが、行きつく先には何もない。何故それがわからぬのだ」
紫黒の声は一言ずつが刃の隙間からこぼれるような音をしていた。ギリギリと骨が軋むような音もする。振り返ると真っ赤な目がたくさんの感情で揺れていた。
きっと紫黒は色々なものと折り合いながら198年生きているのだろうと思う。その中には俺には想像できないような苦しいことや辛いことがあったんだろうな。諦めることも多かったのかもしれないし、見送ることもたくさんあったろう。大事にしているモノだって多いと思う。
経験からくる言葉は重たい。
だけど、と言いかけた時、青褐が飛びかからんばかりに跳ね上がり、真っ黒な瘴気を放った。
「なにもないとか言うな!」
青褐は目を大きく開き、全身を怒らせて紫黒を睨んでいる。
「お前はいつもそうだ!我らを見下して、勝手に決めつける!我がしたことはすべて無駄だと鼻で笑う!ふざけるな!行きつく先に何もないかどうかは我が決める、お前に決められたくはない!」
言おうとしたことを言われてしまった。この点では青褐に同意だな。
「今のは紫黒が悪い」
「ベル?」
「たしかに紫黒の言う通りだよ。そこにはなにもない、俺もそう思う。だけどそこになにもないなんて誰が知ってるんだ? 紫黒にとっては何もないかも知れないけど、青褐には何かが見つかるかもしれない。価値観なんてそれぞれなんだから」
また一歩進むと足元がギシギシ言った。さっきので入ったヒビの真上だったようだ。危ない危ない。
青褐と藍墨茶がなんとも言えない顔で俺を凝視している。多分紫黒と月白さんも同じような目を向けているだろうな。さっきからどっちつかずの言葉を発しているのは自覚してるけどこればっかりは仕方ない。俺には俺の価値観があるからなあ。
「同じように俺には俺の価値観がある。紫黒に魅了されているわけじゃないけど、紫黒が好きだから、力になれればと思ってる。だから魅了されたと思い込まれるのは心外だ。そこは理解してほしいと思ってる。そして、それを踏まえた上で、俺の立場から話をするよ」
もう一歩前に出ようとすると、リックに後ろから手首を掴まれた。ゆっくりと離れてたのがばれた、と心の中で舌を出す。守られた安全な立場で話すのが嫌だってだけなんだけど、リックの護衛と言う立場からしたら絶対ダメだったか。ごめん。
「俺はたくさんの冒険者を殺して喰らった大蛇の討伐依頼を受けた。大蛇は町を混乱させるためにレベルの低い冒険者に眷属を憑かせてナレノハテにしたり、町の井戸に毒を投げ込ませようとした。俺はBランク冒険者だから、依頼があれば魔物を討伐する。それが仕事だからね。私情は挟まない」
私情をはさみまくっているリックをちらりと見れば、何もなかった顔で頷いている。俺のは私情じゃない仕事だ、と口だけ動いたのがおかしくて少し口元が緩んでしまった。
そんな俺を大蛇たちは睨みつける。
「我らを、殺すか?」
「ああ」
頷くと、背後で紫黒がシャッと息を吐く音がする。
「ひ弱なお前に我らが殺せるか?」
「いや、無理」
「ヲイ」
「一人なら無理だ。でも、俺は一人じゃないから」
手首を捕まえている力が一瞬強くなった。背後の紫黒の圧が背に当たる。それだけですごく心強くてありがたい。
青褐と藍墨茶が大きく体を揺らし、黒い瘴気を吐き出した。月のない夜空を隠す大きな影が膨らんでいる気がする。目だけが光っているのを見ていたら、初心者のころに真っ暗な森で出くわした狂狼の群れを思い出して背筋が震えた。
そのとき、ミシリ、と桟橋が小さく音を立てた。
読んでいただいてありがとうございます。
今回はものすごく何度も修正をしていたためにずいぶん時間がかかってしまいました。
サブタイトルはずっとつけたかったものです。ここまで来るのに10話近く使ってしまいました。寄り道しすぎ……。
まだ少しかかると思いますがお付き合いいただけると嬉しいです。




