合流
やっと運河が見えてきた。
倉庫の群れが夕日に近い日に晒されて色褪せて見える。だいぶ時間が過ぎてしまった。夜になったら本格的に大蛇退治が始まりそうだ。その前に冒険者たちを何とかするのが俺の役目。
あれ、俺の役目って、ベルの護衛じゃなかったか?
だんだん当初の目的からずれているような気がするが、まあいいか。
時間ばかりが過ぎて何も解決してない。
冒険者ギルドと騎士団の本部には探している冒険者たちは渡し場の倉庫にいる確率が高いと伝令を送った。テイマーの騎士ベイリーは自分の影に入れてる影馬を呼び出し、それに乗っていった。影馬は影を抜けていくので足が速いし、乗っている間は乗り手も建物なんかを通り抜けるらしいから、三番倉庫に着くまでには戻ってくるだろう。羨ましいが影馬はそんなにいないからなあ。そもそもテイマー自体が希少職か。
そんなことを思いつつザクザクと進んでいると、先頭から悲鳴が聞こえた。
クラークが何か見つけたらしい。さすがスカウト、目はいいな。だが、毎回悲鳴をあげていたら敵に見つかるぞ。
「どーした!?」
俺より先にいるランドが叫ぶ。
返答が来るより先に、短い悲鳴があがった。先頭のほうから順番に、まるで点呼のようだ。何やってるんだと目を細めると、すごい勢いで何かが近づいてくるのが見えた。
黒くて細長いなにかが先を行くすべての騎士を転ばせている。鎧の騎士たちが足元をすくわれて見事にすっ転んでいるさまは最近聖女様が流行らせた『ぼーるいんぐ』という玉遊びのようだった。
「惜しい。全員すっ転んだら『すとらいく』だったけど、ランドが残ってるから『すぺあ』だな」
呟いたのと同時に、側頭部に衝撃が来た。驚いたがスパーンといい音がしたくらいでさほど痛みはない。
思わず手をやると、何かに挟まれた。挟む、いや、噛まれた、か?
「よお、紫黒じゃねぇか。なにやってんだこんなとこで?」
噛んでいるのは黒くて長い蛇だった。シューシューと威嚇するような音を出しながら赤い目で睨んでいる。ものすごい重圧だ。こんなに目つきの悪い蛇だったかと思った瞬間、ザワリと胸が騒いだ。
「お前、確かベルと一緒だったよな?」
紫黒、頷いて肯定する。そして首を倉庫のほうに回し、シャシャッ!と音を出したのち、首の周りに体を巻き付け、急かすように何度も絞める。
「まさかと思うが、ベルは、三番倉庫とか行ってたりするか?」
紫黒は一瞬固まった。赤い瞳が揺らぐ。三番倉庫の意味が分からなかったようだ。
「えと、箱みたいなやつだ。荷物を入れておく建物。ナナト大河の横にある人が作った船とかが泊まってるとこ。わかるか?」
いきなり首を絞められた。すごい力だったんで、死ぬ死ぬ!と紫黒の体を叩く。無意識だったようで、紫黒は急いで力を緩めた。まったく、俺以外だったら落とされてたぞ。
そのとき、ゴードンとクラークが先頭からこっちに来た。途中にいたランドも俺のところに来る。
「先頭からです。三番倉庫付近で不穏な動きを見つけたため、マシュー騎士とエリオ騎士が先行の許可を求めています」
ものすごく嫌な予感がすると思いながら紫黒を見る。黒い蛇はものすごく不機嫌な様子で鋭い威嚇音を出した。ああ、なるほど、そういうことか。
「紫黒に俺を迎えに行けと言って、三番倉庫に行ったんだな?」
なんというか、安定のベル、というか……。
思わずため息を吐くと、紫黒は忌々し気にシャーシャーと言い、軽く首を絞めて俺を急かす。
首に巻き付いている蛇にゴードンたちは驚いていたが、すぐに見たことのある紫黒だと気づき、急に背筋をピンと伸ばしてやたらといい姿勢になった。蛇が怖いのかもしれないと思ったが違うようだ。
「ランド、俺もマシューとエリオと先行くわ。他にも何人か連れてく。なるべく早く追いついてくれ」
「おうよ。先に全部片づけててくれると楽できる」
「俺も片付いてるといいなと思ってるが、まあ期待はすんな」
言って手を振ると、先頭に向かって駆けだした。
少し止まっていたからか、先頭には半分以上の騎士たちが集まっていて、指示を待っている。ちょうど倉庫群を見下ろす位置にある場所だったから、騒がしくなっている場所がすぐに分かった。
三番倉庫が一番目立っているが、隣にある二番や四番のほうでも争う人々が見える。時折爆発しているのは魔法だろうか? 風に乗って血や埃の臭いが流れてくる。耳を澄ますと悲鳴や金属音が聞こえてきた。
「こりゃ、見たらわかるな」
紫黒がシャッと息を吐いたのち、素早く飛び出して倉庫に向かっていく。ものすごい速さで、あっという間に追いつけない距離になった。
不思議そうに蛇と俺を見ていた騎士たちは何があったのかと無言で尋ねてくる。だが俺もよくわかってないから説明してやれないんだよな。
「俺たちはこれから冒険者同士の争いを止めつつ保護する方向でいく。めんどくさいからとりあえず意識刈っとけ!責任はランドがとる!」
うわあ、ひでぇ、という声は無視。
「マシューとエリオ、あと俺についてこられる奴はついてきてくれ。ついてこられないのはランドと来い!とりあえず先行く!」
言い終える前に走り出すと、マシューとエリオがついてきた。二人は俺より足が速いが、速度を合わせてくれる。他にも三人ほどついてきて、先行隊は6人になった。
ところどころ崩れた石の道に足を取られそうになりながら、下り坂を下りていく。倉庫はもうすぐだ。
「ベル、終わったら絶対シメる」
呟いたら隣にいたエリオが息を飲んだ。
三番倉庫の周りは惨憺たるありさまだった。
足の踏み場もないほどぬかるんだ地面の上に10人以上の冒険者が倒れている。死んでいる者もいたが、息がある者はすべて泥沼に首まで埋められて戦闘不能になっていた。一人だけ水で口を封じられている者がいるようだが、魔法使いだろうな。
ぬかるみのちょうど中央あたりだけが乾いていて、そこから倉庫に向かって足跡が続いている。
「こ、これは……?」
「ああ、ベルが相変わらずえげつない……」
口を開けている騎士の横でついため息を吐く。
少しだけ意識が過去に飛んだ。
ずいぶん前だが、ベルが一人で小鬼10匹に囲まれたときがあった。
あの日は小鬼より強い魔物、青鬼の殲滅のために出かけていたので、そちらにばかり目が行ってしまい、まだ初心者だったベルへの対応が遅れた。
小鬼とはいえ、駆け出し冒険者なら殺されてもおかしくない。戦闘力は軽いがすばしこい上にしつこいんだ。一匹でも初心者じゃ苦労するのに、10匹。そんな中に置いて行かれた初心者は死ねと言われたようなものだ。
気づいた俺たちが急いで戻った時には、ベルは小鬼に囲まれていた。律儀に荷物を背にし、守るように立っている。手元にあるのは短剣だろうか?
よく見れば小鬼の中には魔法を使うのがいた。斥候らしい矢を使うのまでいる。あいつらは小鬼の変種で、Cクラス冒険者でも手こずる奴らだ。
やっちまった、と思った。
確かに青鬼は危険だが、俺たちパーティの中にいれば守ってやれる。連れて行ってやればよかった。
だが、魔法使いのテティスが空き地に守護結界を張っていればそっちのが安全だから荷物と一緒に待たせればいいと言い、ベルも足手まといになりたくないと言って従ったんだ。
まさか魔法小鬼がいるなど、誰も予測しなかった。しかもテティスの張った結界を敗れるほどの魔力の高い小鬼が。
ひゅん、と矢が飛んできたのを弾く。俺らが戻ってくるのに気が付いたらしい。
そのせいで、ベルもこちらに気づいた。
だが声ひとつでないようで、小さく首を振る。その顔はなぜか微笑んでいるようにも見え、死を覚悟したのかと胸を掴まれたような気がした。
それと同時に、小鬼が動いた。
一斉に飛びかかる小鬼と赤い火の玉を見て、俺たちはベルが死んだと確信した。
だが、現実は違った。
宙を飛んだ小鬼が土の壁に阻まれて落ちる。飛んできた魔法も矢もすべて弾いた土壁はそのまま崩れて泥となり、まだ起き上がれていない小鬼たちを飲み込んだ。
距離を置いて魔法を唱えていたはずの小鬼は大きな水滴のような物に顔全体を包まれてもがいている。ゴボゴボと溺れているように喉を押さえてのたうち回った後、泥沼に落ちた。
矢をつがえていた小鬼二匹は全身を水に包まれた上、足元を這いあがる泥で固められている。泥が崩れると足も一緒に崩れ、水の中にある口から大きく泡が湧いた。
転がって泥沼から逃れた三匹が飛びかかろうとするが、足場を緩められて力が入らず、何度も転んでいる。うつ伏せになったもがいている小鬼のうなじにベルが短剣を刺していた。黒っぽい血が噴き出て服を汚すが、構わず次の小鬼に向かう。もう一匹も同じように殺したが、短剣が折れてしまった。
そこに背後から残りの一匹が襲い掛かる。
「危ない!」
スカウトのジョルジュが叫ぶ。まだ距離があるので手出しできないのがもどかしい。少しでも助けにとテティスが杖を構えたとき。
ベルは倒れていた小鬼の手にあった短い剣を取り、後の小鬼に突き立てた。太ももを刺されて悲鳴をあげた小鬼の首筋を振り返りざまに切る。噴水のように血を飛ばしながら、小鬼は泥沼に落ちた。
ふう、と息を吐きながら、ベルは泥沼で動けなくなっている小鬼と、溺れてぴくぴくしている小鬼たちにとどめを刺していく。
俺たちが着いた時、ベルは小鬼10匹分の魔石と討伐証明の耳を取るのに苦戦していた。いくつか泥にはまって取れないとぼやいている。
唖然とする俺たちを見たベルは、にこりと笑っておかえりなさいと言った後、荷物を少し汚したと頭を下げた。
テティスがごめんなさい無事でよかったと泣いて抱き締める。若い女性の豊満な胸に抱えられ、ベルは顔を真っ赤にしながら固まった。
「だだだ、大丈夫ですよっ。飛びかかってくる魔物は足場さえ崩せば踏ん張りがきかなくて戦闘力落ちますし、なにより泥の底なし沼だったらほとんどの場合抜けられません。魔法使いは水魔法で呼吸を奪えば無詠唱でも鰓呼吸できない限り息ができなくて魔法使えませんし、弓使いは最初さえ防げれば魔法使いと同じやり方で無力化できます。俺は剣術も少しは嗜みますし、水魔法の治療も少しはできますから、大怪我しない限り戦えます。テティスさんが謝ることはないです」
どもりながら、なんとか離れる。途中、両手で胸を力いっぱい押してしまい、触っちゃった柔らかかったどうしようと呟きながら顔を両手で覆って、真っ赤になってうずくまった姿はいつもの初心者の顔だった。
そんなベルと泥沼の中で死んでいる小鬼たちを眺めた俺は心の中で「こいつ、えげつない」と呟いた。
それから、力いっぱいベルの頭にげんこつを落とし、小一時間ほど「初心者が危険な真似をするな!荷物なんかいいから身を守って逃げろ!」と説教をしたのだった。
「まあ、殺してないだけあの時よりましか」
昔みた戦い方に懐かしさを感じつつ、後を頼むと言い残し、先に進む。
倉庫に入ると紫黒がいた。俺に気づいている紫黒は後ずさりしながら冒険者たちを睨んでいる。
中で戦っている冒険者はずいぶん少なくなっていた。30人を切っているだろうか? 倉庫が広いせいか、人数よりも少なく見える。もう十分減ったと思うのに、冒険者たちはまだ戦っている。
「どうなってるんだ?」
俺は思わず呟いた。
こんなに人数を減らして、何がしたいんだ?
大蛇を退治するなら、手がたくさんあったほうがいいんじゃないのか?
たしか鉄黒が死ぬ間際に『ナナト様が大河から出てくる直前、冒険者たちの血を捧げて我らが血肉を喰らうはずだった』って言ってたよな? ここで全滅させるって、意味があるのか? たくさんあったほうがいいんじゃないのか?
こんなのバカげてる。
イライラしながら倉庫を見回すと、視界の中にふわりと飛ぶ黒いものが入った。
倉庫の真ん中あたり、冒険者が密集しているところだ。いろいろな武器を持った男に囲まれた細身の影が、振り下ろされるそれらをかわしながら輪の外に出ようとしている。手にしているのは軽そうな短い剣だが、薄刃の割に重そうだ。いや、剣は軽いんだろうが体力が追い付かないのだろう。何度か危ないことになっているが、紙一重でかわしているところに技量がうかがわれる。
先行した騎士たちが倉庫に入ってきて、驚いた顔になった。
「あれだけの冒険者たちを、あの剣でしのぐって」
「ああ、際どいところでかわしている。魔法か?」
「いや、目がいいだけじゃないか? すごいな」
「それにしても、手本になるくらい綺麗な剣筋だ」
そりゃ、王宮仕込みだからな。
だけど剣筋が綺麗だからいいってもんじゃない。かわし切れなかった槌が頭上に落ちそうになる。
俺と紫黒は同時に走り出し、槌を振り上げている冒険者を突き飛ばした。
「リック!」
「あとで説教だ、わかってるな!?」
「ううっ、嫌だああ」
一瞬頭を抱えたベルの隙をついて飛びかかってきた冒険者は紫黒に弾かれて壁まで飛んだ。ベルは嬉しそうな顔を紫黒に向けているが、紫黒のほうはものすごい勢いでベルの足にしっぽを打ち付けている。
俺たちが飛び込んだからか、騎士たちも入ってきた。人数が増えたので周りを見る余裕もできる。
よく見れば周りにいる冒険者たちは目と殺意をギランギランに光らせているが、自らが生き残るためだけに戦っているわけではないようだ。残っているからそれなり以上に腕が立つのもわかるが、命がかかっていると言う感じではない気がする。むしろ何というか、ゲームにでも参加しているような感じ?
「お前らを殺せば、俺たちは英雄になれる!」
「大蛇を殺すんだ!」
「金と名声をてにいれられるんだ、邪魔するな!」
「ブルータス様万歳!」
「グレイス様のために!」
どういうことだ、という意味を込めてベルを見る。
ベルは小さくため息を吐いた。
「この人たち、選ばれし者になるために殺しあえって言われて、ブルータスたちが止めるまで殺しあうんだって」
「はあ!?」
「なんかね、残った人間が大蛇を退治してこの町で英雄になるんだって信じてるんだ。この町の救い主になって、町の人に尊敬されて、いろんな人に崇められて、いい暮らしができるって思い込んでる」
「なんだそりゃ」
「正直な感想ありがとう。でもこの人たちは全員、自分の欲のために人を殺してる。殺さなきゃ殺される環境にあるから多少の余地はあるかもしれないけど、自ら進んで人を殺したことには変わりがない。しかも複数。今のままだと殺人罪で冒険者の資格を剥奪された上に騎士団送りなんだけど、そんなこと全く考えてない。というかそういう意識もない。自分さえよければって、隣の人を殺すのも厭わないようになってる。殺されたほうが悪い、弱いほうが悪い、そんな感じだね」
「そうか……」
「全部グレイスの呪いもしくはブルータスの術だったらと信じたいところだよ。それだったらまだ救いようがあるからね」
話の合間に切りかかってきた男をベルがあっさりとかわす。首の後ろをトンと叩いたら白目をむいて倒れてしまった。すごいな、リック、さすが騎士様、などと言いながら、ベルが手を叩く。
「そんなわけなんだけど、この人たち全員強くてさ。助けてよ、リック。紫黒が連れてきてくれるって信じてたから、待ってたんだ」
「なら外で待ってろよとか、いろいろ思うところはあるが、任せとけ!」
まったく、ベルは。変なところで甘えるよな!
俺は背中に括り付けていた大きな剣を抜いた。
朝から生死をかけた戦いをしていたせいか、冒険者たちは思っていたより弱かった。
いや、これはランドが騎士を率いて乱入してくれたおかげだろう。俺の剣はたった三人の意識を刈り取っただけで終わった。紫黒は外側から魔法で狙っていた奴を弾いていたらしい。さすが198歳は伊達じゃないな。
そんな黒蛇はベルの足から肩まで上がると、しっぽでこめかみをびしりと打った。いいぞ、もっとやれ、褒め称えたら同じように打たれた。何故だ?
そんなことをしていたら、マシューとエリオが近づいてきた。
「2番、4番倉庫をくまなく見回りましたが、生存者はいませんでした。近くで倒れていた冒険者はすべて死亡が確認されています」
「倉庫付近を回りました。冒険者たちどころか人っ子一人いませんでしたよ」
冒険者以外に被害が出ていないようなのは良かった。
ただ、何か重大なことを忘れているような?
なんだったっけなと頭を傾けていると、報告の続きが来た。伝令はゴードンとクラーク。血の臭いで青ざめてはいるが、ちゃんと仕事をしている。育ってきているようで嬉しい。
「生存者は泥沼に埋まってた11人とここで確保した23人。ただ、死体の数が合わないんだ」
「どぶ板のネズミ亭でマスターから聞いた話では、100人ほどの冒険者が出ていったとのことでしたが、確認できている死体の数は21です。生存者34人、死体が21人、合計で55人なので、残りの45人ほどなくなっています。大河に落ちたとしても何体かは浮いているはずなのですが、それも確認できませんでした」
「ぎりぎりになって逃げたとかはないのか?」
「そのあたりは調査中だとランドルフ隊長が言ってた」
ふむん。
顎に手を当てて考えていると、紫黒がベルの耳元に顔を寄せた。
同時に倉庫の奥から酷い臭いが沸きあがる。シュルシュル、と何かが息を吐き出す音が続いたとき、ベルが叫んだ。
「逃げろ!!」
同時に捕縛している冒険者たちの前に飛び出し、両手を広げて水の膜で覆う。
透明な水の壁がゴボゴボと泡立った瞬間、大きく長い影が二つ、飛び出してきた。全身が粟立つほど禍々しい気をまとった大蛇だ。松ぼっくりのように逆立ったうろこの隙間には大量の血がこびりついている。
「うわあああ!」
恐怖に耐えられなかった冒険者がベルの守りから転げ出てしまった。必死に逃げようとしているが、ただ転がっただけなのであっさりと喰われる。蛇は頭から獲物を飲み込むと聞いていたが、こいつは足からだったので、悲鳴は完全に飲み込まれるまで続いた。自業自得とはいえ気分は悪い。
そういえば「でっかい蛇がどこからともなく現れて、死体と血を全部啜ってった」ってどぶ板のネズミ亭のマスターが言ってたんだった。うっかり忘れていた。ベルには内緒にしておこう。
大蛇たちはてらてらと光る体と目をこちらに向けていた。邪気のせいで水の膜が濁っていく。水の守りが切れる前に、ベルはその場の騎士に撤退の指示を出した。ランドや俺じゃなくて何故こいつがという顔をする騎士には俺が直接指示を出す。鉄拳と一緒にな。この状況で上下関係を気にするようじゃ生き残れないだろうに。
「リック、この二匹は紫黒の知り合いなんだって」
騎士たちがそれぞれに転がっている冒険者を担ぎ上げて準備をしているとき、紫黒を肩に乗せたベルが耳元で言った。
言われて紫黒に目をやると、赤い目を半分閉じて上を向いている。視線の先には大蛇が二匹。ベルの守りを壊すように何度も瘴気を当ててくる。
「蛟になる、そう言ってたらしいんだけど、手遅れだって紫黒が言ってる。こいつらは魔物になってしまった。生き物の血に酔い過ぎた。もう蛇には戻れないって」
「そうか」
「ナナト様には自分が責任を取るから、ここで二匹を始末してほしいと。ギルドに討伐依頼を出したら報酬がもらえたろうに申し訳ない。この礼は必ずするから、討伐してくれないか? そう言ってる」
ベルの言葉に合わせて紫黒は頭を下げている。
「討伐報酬なら俺が」
「馬鹿いうな」
俺は言葉を遮り、ベルと紫黒の頭をはたいた。
「ベルの友達は俺の友達だろ? 友達から金取るほど困ってねぇ。それにこいつらには俺もムカついてる。喜んで手を貸すぜ」
言い終わった瞬間、バリンと音がして水の膜が崩れ落ちた。
「やあ、紫黒。久しぶりだね」
「まだ蛟になってないのね。月白なんて捨てて私たちとくればもっと力が付けられたでしょうに、残念ですわ」
頭上から声がする。ねっとりとまとわりつく汚泥のように声に頭がくらりとした。
同時に走り出した騎士に飛びかかろうとする長い体に剣を振るうと、蛇が縄のようにしなって元の場所に戻った。鼻先から血が出ているのでかする程度でも当たったらしい。
「躾のなってない……」
己の鼻先をぺろりと舐めた蛇が唸る。
もう一度剣を振るおうと構えたところで、ベルが立ち上がり、にこりと笑った。
「俺はベル。紫黒の友達だ。せっかくだから少し話をしたいんだけど、時間は大丈夫かな?」
胡散臭い笑みを向けたまま大蛇たちの返答を待つベル。
あんな顔は見たことがない、いやあるか。王宮の仕事の遠征で二回くらい見た気がする。あの顔すると本当に王子なんだなって思うよ。
ベルがその顔のまま剣を下ろせと目で合図する。
俺は小さくため息を吐き、後ろの騎士に少しずつでいいから逃げろと指示した。
読んでいただいてありがとうございます。
誤字報告・感想・評価などいつもありがとうございます。とても励みになります。
色々と大変なご時世ですが、体を大事にしてくださいね。




