アナスタシア
この世に生まれて早20年。
いろいろあったけれど、今が一番満ち足りていると思います。
あの日は本当に驚きました。
アーチー様が再びわたくしの前に現れるなど、想像もしなかったのです。
神の像のようなそのお姿は、記憶の中の少年とは変わってしまっていましたが、豪奢な金色の髪と美しい森の瞳はそのままでした。
わたくしが初めてお慕いした王子様。
あの頃も同世代の令息と比べるとがっしりした逞しいお姿でしたが、今のほうが素敵です。何年もわたくしと同じ年齢に成長したお姿を想像しておりましたが、それ以上の凛々しさ。見惚れるしかありません。
幼き頃、お父様に連れられて出席した茶会で、王子様方の婚約者候補に推薦されていると聞きました。とても誉なことなのよ、とお母様から聞きましたが、会ったこともない王子様方にどうしたらよいのか、とても不安でした。
わたくしの他にも多くの令嬢が出席していたことにただただ安堵したのを憶えています。
同世代のご令嬢は何人かお会いしたことがありましたが、今日はなんだか気合が違うと子どもながらに感じました。わたくしと同じく婚約者候補として気負っていたのかもしれません。
初めてお会いした王子様方はそれぞれとても魅力的でした。
黒い髪が夜の闇のように見える第二王子ベルグリフ様。茶会に興味がないようで、のんびりと風景を楽しんでいらっしゃいます。
光に愛されたような金色の髪の第一王子アーチボルト様はわたくしを見た瞬間動きを止めてしまわれました。何かお気に障ることがあったかと心配になり、近づくと、わたくしの目を見て呟きました。
「と、とても、愛らしくて、綺麗で、びっくりしただけだから……」
家の者以外にこんなことを言われたのは初めてで、わたくしの頬は見苦しいほどに赤くなってしまいました。しかも相手は素敵な王子様。先日読んだ物語にある白馬の王子様はアーチボルト様と同じ金髪でした。しかもその挿絵よりもアーチボルト様のほうがりりしく素敵なのです。
わたくしはあっという間に恋に落ちました。
そんなわけでしたので、次の日から王子様方と一緒に勉強するようにと聞かされて舞い上がってしまったのは仕方がなかったと思います。
帝王学の授業と王妃教育はカリキュラムが一部重なるのでしばらくは一緒でした。
わたくしたちは並んで座り、地理や歴史などについて学びました。三人だけの幸せな時間でした。
しばらくして王妃教育に王妃だけのマナーなどが入るようになったため、三人で学んだのは大変短い間だったのですが、今でもその時の温かい気持ちは憶えています。
王妃教育が順調だと褒められた日、わたくしはアーチボルト様の婚約者になりました。第一王位継承者であるアーチー様の隣で共に国を守るのだと思うと体が震えました。
ずっとずっと、おそばにいられるのだ。
大人たちが話している間、ガゼボに追いやられていたわたくしはアーチー様の靴の爪先だけを見て黙り込んでおりました。顔を見るのが恥ずかしくて仕方なかったのです。
「アナスタシア嬢が、妻になってくれるなんて、もう、どうしたらいいのか……」
頭の上からアーチー様の困惑した声が聞こえました。
ひょっとして嫌われているのでは、と恐る恐る顔をあげますと、耳まで真っ赤に染まったアーチー様が両手で顔を覆っております。
「どうしよう、明日死ぬんじゃないだろうか、幸せすぎる……」
絞り出すようなつぶやきに、明日儚くなってしまうのはきっとわたくしですと断言しました。
その夜、ベッドの上ではしたなく足をばたつかせたのは秘密です。
だけど、それは束の間の夢でした。
襲撃があり、アーチー様が亡くなったと聞かされたのはそれから2か月後のことでした。
わたくしは悲鳴を上げて倒れ、一月ほど起き上がれませんでした。
アーチー様がいなくなってしまった。
わたくしにもう微笑みかけてはくれない。
あの陽気な声はもう聞こえない。きらきらする瞳に見つめてはもらえない。
ずっと隣にいてくれると信じていたのに、かなわないのです。
修道院に入ろう、と思いました。
一生、アーチー様のことだけをお慕いして生きていきたいと願いました。
しかし、現実は非情です。王国は存続しなくてはならず、そのためにはすぐに次の王位継承者が王太子になる必要がありました。
第二王位継承者だったベル様がそこに来るのは当然のことです。
そして、わたくしは王妃になると決められた身。貴族の婚姻に私情は許されません。
すぐに、わたくしの婚約者はベルグリフ殿下になりました。
ベッドで泣きじゃくるわたくしに、母は優しく仰いました。
「結婚は貴族間のつながりを重視しているので個人の感情などは捨てなくてはなりません。結婚してからはぐくむ愛もいいものですよ」
わたくしなど顔も知らない殿方のところに来たのよ、とよく聞きましたが、お父様とはとても睦まじいです。ゆっくりと愛をはぐくまれたのでしょう。
わたくしとベルグリフ殿下でしたら、同じ痛みを持つ間柄、きっとうまくいく、そう説得されました。
ベルグリフ殿下。
夜の闇のような黒い髪と日に当たったことのない貴婦人のような白い肌の王子様。
快活なアーチー様の影のように、いつもひっそりと隣で微笑んでいらっしゃる、そんな謙虚な方。
何度かお話させていただいたけれど、静かな言葉遣いはなぜか安心させてくれるものでした。
確かにあの方とでしたら、穏やかな生活が送れると思いました。
あの事件ののち、久しぶりにお会いしたベルグリフ殿下はとてもお疲れのご様子でした。初めて見る憔悴した姿に動揺し、思わず一歩下がってしまったほどです。
「俺でごめんね。でもきっと、幸せにするから」
新しい婚約者の微笑みは胸が痛くなるものでした。
アーチー様の思い出を共有して、いろいろなことをゆっくり話したいと思っていた気持ちを封印してしまうほどに。
15歳の春、学院に入学いたしました。
ベル様と違うクラスになってしまいましたが、それを喜ぶ自分がいたことがとても嫌でした。
そのころのわたくしは王妃教育が厳しくなってきていたため、授業が終わったらすぐに王宮で学び、夜中に帰宅という生活を送っておりましたこともあり、常に緊張した状態でした。笑顔を作る余裕もないまま、毎日を過ごしていた気がします。
ベル様とは廊下ですれ違う程度にしかお会いしませんでしたが、お互いなんとなく声をかけないままでした。
そうやって日々を重ねていた折、同じクラスのフィリシティ伯爵令嬢がわたくしに耳打ちしました。
「最近、ベルグリフ殿下に付きまとっている女生徒がいるのですよ」
聞けばその女生徒は最近平民から男爵家の養女となった令嬢で、愛くるしい容姿と媚びるような態度でたちまち多くの男子生徒を魅了したとのことでした。
婚約者のいる男性も虜になっているらしく、フィリシティ嬢の婚約者もその一人であるようです。
「噂をすれば、ほら、あの方ですわ」
伯爵令嬢の視線の先に目を向けると、ふんわりとしたストロベリーブロンドの令嬢がつまずいて転んだところでした。そばにいた男子生徒が手を貸して立たせています。近くには呆れた顔のベル様がいました。何やら言葉を交わしているようです。その表情にわたくしは凍り付きました。
ベル様が、笑っていらっしゃる。
わたくしは一度もそんなお顔を見たことがありませんのに……。
ふいに涙があふれてしまい、とても驚きました。
1年が過ぎ、ベル様は生徒会長に就任いたしました。
その周りを宰相の次男サイラス様、騎士団長の三男ライル様、王室付商人の四男のジャスティン様、そしてストロベリーブロンドの女生徒ミランダ様が固めています。皆様とてもお美しいので眼福だと騒がれておりましたね。
わたくしは王妃教育の為学院のお仕事に就くことはできず、置いていかれたような気持ちでした。
それがまたわたくしの心を重くし、沈ませます。
一年の中には何度かベル様と夜会に参加することがありました。
ベル様のエスコートは完璧で、女性ならばみな憧れるようなものです。馬車の中でも社交辞令から始まって学院のことや町で流行っている最新のお菓子の話など、流れるように話題を提供してくれました。
それでもわたくしは微笑みすら浮かべられませんでした。その話題はどこから仕入れたものなのかと、卑しい心でいっぱいになってしまっていたのです。
そんな時でもベル様は文句ひとつ言わず、温かく微笑んでいました。
馬車から降りるときも、ダンスの時も、必要以上に触れることはせず、夜会の間はずっと隣にいてわたくしを壁の花にすることもありませんでした。
「ベル様は本当にできた婚約者ですわね」
たくさんのご令嬢がそんなベル様を羨ましいと仰いましたが、わたくしはとても違和感を覚えておりました。できすぎているというか、なんというか、不思議なのですが、うまく説明できません。
ただ、夜会が重なるごとに、わたくしはこの方を愛せるのだろうかと悩みました。
あの日はそんな細かい違和感が重なって頭がおかしくなりそうとため息をついておりました。
年越しの夜会は夜通しなので少々辛いのですが、その日に限ってベル様からエスコートできないとの連絡が来たのです。丁重な詫び状とともに、父君であるグッドウィル公爵に頼めないだろうかと書かれていました。
「こんな大事な夜会に、何を考えているのだ」
お父様はぷりぷりと怒った風でしたが、王太子の要請には逆らえません。わたくしは久しぶりにお父様、お母様と三人で夜会に行くことになりました。
会場に着くと、ベル様がエスコートできなかった理由がわかりました。
隣にあのミランダ様が並んでいたからです。
すうっ、と血の気が引きました。わたくしはベル様を愛していないし、きっとベル様もわたくしを望んではいないけれど、こんな公の場で見せつけられることはない。胸がいっぱいで苦しくなりましたが、お父様が心配しますので、無理に微笑みを作りました。
そして、あの騒動が起こりました。
「アナスタシア嬢、今日をもって貴女との婚約を破棄する!」
かけられた言葉に、わたくしは驚きを隠せませんでした。
ベル様は今、何と仰ったのかしら?
耳から入った言葉が頭にたどり着きません。
そんな私を冷たい目で見降ろしながら、ベル様は続けました。
「貴女の振る舞いにはもう我慢がならない。貴女は王妃としてふさわしい女性で私にはもったいない存在なのに、私の婚約者として尽力しているからだ」
???
意味が分かりません。
わたくし、褒められている気がするのですが、気のせいでしょうか?
「私は自らの浮気による婚約破棄の代償として王位継承権を剥奪され、王家からも追放されるだろう」
王位継承権を剥奪?
追放?
それって、まさか……。
「空席になる王太子には私の兄、アーチボルトが座ることになったから心配はいらない。貴女はその婚約者として、正妃教育に邁進するように」
アーチー様は死んだのに、何を夢みたいなことを!
わたくしの中で何かが弾けました。
アーチー様の死を弄ぶつもりなのだろうか? もしそうだったら、ベルグリフ殿下でも絶対に許さない!
そう思って顔をあげたとき。
私は奇跡を見たのです。
「やっと出てこられたな」
懐かしいはずの声は記憶のものより低くなっていました。
内側からの輝きを表しているような金色の髪。
深く包み込む森のような緑の瞳。
きりりと引き締まった顎。
高い鼻筋。
広い肩幅と鍛えられた筋肉に包まれた体躯。
そしてなにより、絶対的な、存在感。
そんな、まさか……。本物なの?
大きく目を開いて硬直するだけだった私の前から、ベル様が動きました。
アーチー様のもとへ。
そしてすっと跪くと、服の裾に唇をつけました。最上級の臣下の礼です。あの方がそんなことをするのはこの世に4人、陛下・正妃殿下・側妃殿下・そして、兄君であるアーチボルト殿下だけ。
本物、なのですね……。
わたくしは胸がいっぱいになり、その後のことはあまり覚えておりません。
ウエイル公爵家の方々が何やら言い争っていたのは目に映りましたが、何を仰っていたのかは心に届きませんでした。
何やらお芝居を見ているような気持ちです。
そうしているうちに陛下がご到着なされました。
こちらもなにやらやり取りがあったようですが、臣下の礼を取っておりましたわたくしには見えるはずもなく。だけどそのおかげで混乱した顔をさらすこともありません。
いつの間にか隣にベル様がいましたのも、この時ようやく気づきました。腹立たしいことにとても安堵してしまいました。
そんな私の耳に、陛下のお言葉が届いたのです。
「アナスタシア=グッドウィル嬢はベルグリフに婚約を破棄されたが、正妃教育をものにしており、次期王妃として申し分ない姫である。よって、アーチボルトと婚約させることにした」
胸の中に広がった思いがあふれないように堪えるだけで必死でした。
涙があふれそうになり、我慢すれば全身が薄い赤に染まっていきます。
感情をこらえていると、近くからすすり泣く声が聞こえました。
そっと目を向けると陛下の御前でアーチー様とベル様が抱き合っております。貴族たちの前で、アーチー様は大声をあげて泣いておりました。
それはとてもとても温かな光景で、何物にも代えられない素晴らしい愛で。
わたくしもいつの間にかあふれた涙を止めることができなかったのです。
「今でも皆様がわたくしのことをのけ者にしたと恨めしく思っておりますのよ」
唇が離れた隙に言うと、アーチー様は困った顔をしました。
ええ、2年たった今でも、忘れておりません。
「事情があったにせよ、わたくしには真実を明かしてほしかったです。すべてお話しいただいた時、とても情けなくなりました」
「仕方なかったんだよ。俺は神殿から出られなかったし、なにより生きていることで周囲に危険を与える存在だった。愛するアナに何かあったらと思ったらとても怖かったんだ」
「それはアーチー様の理屈です。アーチー様がお姿を隠してから8年の間、ベル様はわたくしの婚約者でした。もっとわたくしを信じてほしかったのに」
「誰が信じてなかったって?」
背後からの声に振り返ると、バラの茂みからベル様が出てきました。相変わらず変なところから登場される方です。
「ここに近道があるんだ」
言いながら、アーチー様をわたくしに押し付け、ベンチの隙間に身を滑らせるベル様。まるで猫のようです。
「いちゃいちゃはそれくらいにして公務に戻ってもらわないと、って思ったんだけど、何の話してたの?」
わたくしはこの時ふと思いました。
そういえば、この2年間、たまにアーチー様には愚痴を吐き出してしまいましたが、ベル様にあの時の不満を伝えたことはありません。
元はと言えばわたくしも秘め事に一員として加えてくれていたら、もしくは事前にちゃんと説明してくれていたら、わたくしは辛い気持ちにならず、もっと前向きな学院生活を送れていたのではないかしら。
そんな気持ちをつらつらと吐き出しますと、ベル様はとても困った顔をし、アーチー様の陰に隠れてごめんと手を合わせました。
「いや、だって、幸せにするって言っちゃったから」
「なんのことでしょう?」
「婚約の時だよ。あの時は兄上はまだ生死の境をさまよう感じだったけど、絶対に回復させるつもりだったから、約束通り兄上と姉上を幸せにしようと頑張ったんだ」
言われて、あの時の言葉を思い出します。
『俺でごめんね。でもきっと、(兄上と)幸せに(なるように)するから』
あれはそういう気持ちで!? と驚いている間にも言葉は続いています。
「姉上が俺なんかよりずっと兄上を慕っているのはわかってたし、兄上がずっと姉上への初恋をこじらせてるのも知ってたからさ、馬に蹴られたくないと思ってなるべく遠くで見守ってたんだけど、それで寂しい思いをさせていたのは申し訳なかった」
「夜会の時のエスコートは完璧でしたのに」
「あれは害虫除け。俺の婚約者だぞって顔していたら変なのに隙をつかれないだろうって。姉上には迷惑だったかもで申し訳なかったけど……」
「迷惑ではなかったですよ。でも学院では少し辛かったです」
生徒会役員として忙しそうだったベル今はミラ様をはじめとする役員様方と楽しそうにしていて、とても羨ましく思いました。
疎遠になったことで嫌がらせを受けているとも誤解され、クラスで孤立してしまったのも寂しい思い出です。
「あー、あれは本当に申し訳なかった。ミラにも叱られてたんだ。「アナスタシア様にひどいことをしているのがわかってるのか!?」って言われたよ。ミラも誤解されて大変だったみたいだけど、ミラはミラで楽しんで返り討ちにしてたし、気が付いたら恋の女神とか言われてたしなあ」
そう、ミラ様は忠告しに行くと飛び出した令嬢たちすべてを見事味方につけてしまわれたのです。なんでも婚約者との上手な付き合い方を伝授したとかで、あっという間に愛の女神と呼ばれておりましたわね。
「姉上がほかの男と話をしたのがばれただけで兄上の落ち込みがひどくてね。正直、婚約破棄の騒動がうまくいかなくて、姉上が別の男のところに嫁ぐとかなったらどうなるんだとドキドキしたよ。あの時ほど父上が立派に見えたことはないな」
「おいおい……」
「あ、これは言い過ぎか。内緒にしてくれよ、兄上」
お二人はお顔を見合わせて笑っています。こうしてみると昼と夜のようなお二人です。自らにない部分を補いあうことかできる関係は素敵だと思います。
「そういえば、何でベルはアナを好きにならなかったんだ? この可憐さだぞ」
突然肩を抱かれたと思いましたらとんでもないことを!?
アーチー様の質問に、ベル様は苦笑交じりに答えました。
「だって、兄上、最初から姉上に惚れてたじゃないか。絶対結婚するからお前に渡さないっ!って言ったくせに。家族になるってわかってる人に恋愛感情なんか持たないよ」
リンゴは赤い、と答えるような声でした。
言いながら、突然、ベルグリフ様はアーチー様のみぞおちに一発、拳を打ち込みました。すとんと軽い音がしたと思いましたら、ベル様が右手を振っています。
「やっぱり痛い。ああ、やるんじゃなかった……」
「何してるんだ?」
「いや、仕事してない兄上を殴っとくって、事務官のジョシュと約束しちゃったから……」
やっぱり自分が痛いだけだった、と凹むベル様。殿方に失礼かと思いましたが、なんだかかわいらしいです。
くすくす笑いながら、この方々と家族になれてよかったと思いました。
いろいろありましたが、とてもとても幸せです。
読んでいただいてありがとうございます。
アナスタシア嬢のお話を書かせていただきました。丁寧口調が難しかったです。
実は1.23.で1つのお話になってます。すごく地味なつながりですが、併せてお楽しみいただけると嬉しいです。