アーチボルト
この世に生まれて早20年。
いろいろあったけれど、今が一番幸せだと思う。
「アーチー様、いいのですか?」
何物にも形容しがたい、輝く湖のような美しい青が俺を見上げている。幸せだ。
この世のどんな宝石でもかなわない、なんて色だ、ずっと見ていられる。幸せだ。
この瞳がずっとこちらに向いていてくれるのならば空だって飛べそうだ。幸せだ。
「アーチー様……」
白磁もかくやの滑らかな肌がほんのりと紅を差す。なんて美しいんだ。
ふわふわとした髪は光を寄せ集めて内側から輝いているように見える。
「アーチー様ったら」
小さな手がそっと腕に乗り、我に返る。
そうだ、俺は今、ひっそりと事務仕事を抜け出して、アナスタシアとガゼボの椅子に座っていたのだった。
「ごめん、ちょっと寝ていたかな?」
「もぅ。こんなところをベルグリフ殿下に見つかったら、叱られてしまいますよ」
「違いない」
微笑みつつも叱るアナがかわいい。夢ではないかと思うくらいかわいい。
ちょっと頬をつねってみたが、ちゃんと痛かったので安心した。
本当は何もかも夢なのかもしれない、と今でも思うときがある。
隠されていた時の自分は死んでいたことになっていた。本当にこのまま朽ちていくのかと不安になったこともある。
俺を朽ち果てさせなかったのは半年違いの弟、ベルグリフだ。
生まれた時からずっと、母や祖父はベルのことを気にしていた。
母は側妃でベルの母である正妃のベリンダより爵位も下だったのだが、俺のほうが半年早く生まれたために王位継承権は俺のほうが上になっていたからだ。
「ベリンダ様が望んで、あなたが廃嫡されることになったら、すぐに辺境に行きましょうね」
母はよくそう言っていた。いろいろと気にかかることもあったのだろう。
ベリンダの敵意を正面から浴びていると自覚したのは8つの時。
その日はベルと二人、茶会に出席させられていた。とても晴れて暑かった。さっそく上着を脱いで叱られたっけ。
俺はたくさんいる貴族の子供達と遊び、ベルは庭を見ていた。ベルは子供のころから体を動かす遊びよりもぼーっとしていることが多かったと思う。今なら虐待で栄養不足だったのだと知っているが、当時は覇気のないやつだなと思っていたな。
あの日、俺はアナと出会った。
アナはあのころから飛びぬけて美しい令嬢で、申し訳ないがほかの令嬢がジャガイモに見えるほどだった。一目で恋に落ちたんだった。
アナも俺を見て顔を赤くしてくれていた、気がする。聞いてみたいが怖くてまだ聞いてない。
ベルのほうは、ぼーっと違うところを見ていたのを憶えている。この子に興味がないなんて、こいつバカなんじゃないかとあの時思った。
その時だ、ものすごく気持ちの悪い感情がこちらに向かっているのに気づいたのは。
振り返ると、母と並んでいたベリンダの顔がすごく歪んでいた。初めて人を見て恐怖を感じた。事実、帰ってから2日寝込んだ。知恵熱ではなかったはずだ。
アナが俺に興味を持っているのは一目瞭然だったと、後で聞いた。王位継承権のためにグッドウィル家を引き入れたかったのだろう。
このころからきっと、俺はウエイル一族にとって消さなくてはならない存在になり始めたのだと思う。
帝王学の授業は思っていたより簡単だった。
講師が穀倉地帯について話すと、穀倉地帯とはどのようなところか、穀物は何によって育つのか、人手はどれくらい要るのか、種をまくにはどのくらいの予算がいるのか、土の改良はどうするのか、など、いろいろなことが疑問になった。いちいち聞いては申し訳ないので、自分で調べたり、モンド家の生き字引と言われる執事に質問したりして、次の授業に備える。色々調べて学ぶことは楽しかった。
武術鍛錬は特に楽しかった。幼少より母が教えてくれたことが多かったし、スクワットで鍛えていたのも役に立った。基礎体力と体格の大事さを思い知った。筋肉は正義ってこともだ。
ベルはいろいろ難儀している様子だった。武術鍛錬は特にダメそうだった。時折体が痛むようで辛そうな顔をしてるのが気になったが、手当はいらないといつも言っていた。
しばらくして、父に呼び出され、講師たちによる評価を受けた。
公衆の面前で、講師たちは口をそろえて俺を褒め称えた。なかなか気分は良かった。
ベルはそこそこの評価だったので少し心配したが、けなされていたわけではない。努力家だと褒められてもいた。
だが、ベルは下を向いたまま黙っている。
子供のころに感じた嫌なオーラがベリンダから出ているのが見えた。俺はちょっとだけ優越感を憶えた。
ベルグリフは俺より劣っていると思う。体は俺より小さいし、軽いし、頭の回転も速くない。まあ使用人たちよりは早いと認めるが、王になるにはもう少し努力が足りないな。
などと思いつつ廊下を歩いていると、何かを執拗にたたく音が聞こえてきた。
肉をべしゃっとつぶしているような嫌な音。
気づかれないようにそっと音のほうに向かうと、そこはベリンダの部屋だった。
使用人はいない。
扉の隙間を見つけたので、そっと覗くと、這いつくばったベルの頭に足を乗せたベリンダが、鞭を執拗に振り下ろしていた。
「お前の、せいで、わたくしが、バカにされるだろうがあ!」
ベルは一言も発せず、ただ息を飲む音だけが聞こえてくる。
怖くなって、逃げた。
弟が虐待されていたこと、傷つきながらも帝王学の授業を受けていたことを初めて知った。
ベルグリフよりも自分が優れているなどと、何で思った?
王の資質があるなどと、傲慢になぜ思った?
俺と同い年なのにあの細さ。食事もちゃんと食べているのだかわからない。そういえば幼いころ、こっそり遊びに行ったはずなのにたいていベルは一人でいた。周りに使用人など一人もいなかったではないか。
鍛錬で剣を振るわれてひどい目にあうこともあるが、母親に悪意を持って鞭打たれたことなど、俺は一度たりともない。
この環境をベルは耐えているのか。
恥ずかしくて死にそうな気がした。明日からどんな顔をして会えばいいんだと思った。
襲撃があったのはその夜だった。
夜中、悶々としつつベッドに横たわっていた俺は、首を絞められて目を覚ました。視界に馬乗りになる黒い影。同じく黒い煙。
ウエイルの影だ、と瞬時に悟った。
俺は枕もとの短剣で影を刺したが、しょせん8歳の子供の手、とてもかなわずに切り捨てられ、ベッドから落ちた。
「アーチー様!!」
薄れていく意識の中でハンスの声を聞いた気がする。1月違いのハンスは年が近いのでとても仲が良かった。
胸と腕の痛みは耐えがたく、これで死ぬのかと思ったら悔しかった。
ただ、同時にこれは罰かもしれないと思った。
自分の傲慢さへの罰。
生まれ変わったら、ちゃんと、自分だけでなく人のために生きられる人物になりたい。
そう思ったとき、意識は途切れた。
気が付いた時には白い部屋にいた。
見たことのある部屋だが、どこかは思い出せない。
ベッドの硬さに慣れなくて寝返りを打とうとしたら体中に激痛が走った。思わず息を飲んだほど。そのおかげで自分に何があったのかを思い出す。
飛び起きたくても体が動かない。棒でも入っているみたいだ。
もどかしく思っていると、誰かが手を握っていることに気づいた。
顔を向けると、ベルグリフが俺の手を握りしめたまま、ベッドに寄りかかって眠っている。椅子に座るでもなく、床にぺたりと座りこんで、だ。
一国の王子が、なんという姿で。
ふいに涙があふれた。
ベルグリフは俺よりずっと優れている、と確信する。
この手は離したらいけないものだ。この手があれば、俺は道を間違えないに違いない。
意識が戻ってから数日後、突然ベルが口にした言葉に俺は返事ができなかった。
「俺を憎むか、兄上?」
ベルを、憎む?
その時のベルはとても辛そうな顔をしていた。自分がウエイルの一族だから、と思っているのだとわかった。
とっさに言葉が出なかった。襲撃のことは神官長から聞いている。俺の大事な人たちを殺し、母の自由を奪った憎い相手、ウエイル公爵とベリンダ。一生かけて滅ぼしてやりたい。
だけど、そいつらを罰することはベルを切り捨てることになるのでは、と思ったのだ。
返事ができなかった俺に、ベルは何も言わなかった。
ただ、とても傷ついた顔をしていた気がする。
その後、俺は神殿に閉じ込められる生活を送った。
外には出られないし、神殿に訪れる人に見られてもいけない。俺は死んだことになっていて、存在がばれてはいけないのだ。
まあそれも生きているからだろう。助けてもらったことに感謝しよう。
そんなわけで、狭い場所でもできる筋トレをしたり、持ってきてもらった書物を読んだりして過ごした。
刺されたほうの腕は痺れて不自由になったが、まあ生きているので何とかなるだろう。
15歳になり、ベルは学院に入った。
神官長が特製の通信魔法付きイヤーカフを作ってくれたので、ベルが受けている学院の授業を聞くことができた。なかなか興味深い。ずっとつけていると魔力切れになるとのことで、授業中か緊急時のみだったが、それでも楽しかった。不自由だったろうにと、ベルに感謝しているよ。
しばらくして、ベルはピンク色の髪をした令嬢を連れてきた。なかなかに可愛い女の子だったので正直むっとした。
なぜならアナスタシアがベルグリフと婚約したことを聞かされていたからだ。聞いた時はすごくショックで寝込んだ。アナの姿をたまに思い出して和んでいた俺には衝撃だったから。ウエイル公爵が力を持ちすぎないように、王家とグッドウィル家のつながりを強固にしたいという気持ちはわかっていたし、アナが俺たちの帝王学の授業と同時に王妃教育を始めたことも知っていたので我慢したが、それでも心が苦しかった。
俺は我慢している。それなのにこいつは、可愛いとはいえ浮気をするなど……。
「兄上、ちょっと我慢してて」
そんな俺を無視し、ベルは俺の手をつかんだ。痺れで振り払えるほど力はない。その手に冷たくて小さなものが重なった。令嬢の手だ。
ふっ、と何かが入り込んでくる。暖かいものは光だ。じわりと腕から入って全身を満たしていく。ぬくもりが心地よい。眠ってしまいそうだ。
「そのまま眠ってくださいね」
気が付いたらしい。令嬢が微笑む。アナほどではないが美しい娘だと思った。その明るい紫の瞳にベルがひかれたとしても仕方ないかもしれない。
やがて目が覚めると、しびれはすっかりなくなっていた。体も軽い。生まれ変わったようだ。
驚いて目を丸くしていると、ベルが笑いながら令嬢を紹介してくれた。
ミランダ=フールー嬢。
長い付き合いになる聖女との出会いだった。
時は流れ、あの事件が起き、終わった。
俺の時は再び進み始め、今は愛する人とともに生きている。
この人を手元に送ってくれたのも弟だった。婚約していたのは誰にもアナを渡さないようにするためだった、と後でこっそり教えてくれた。手を出さないように距離を取っていたので寂しい思いをさせてしまったが許してほしいと言われたときは、この恩をどうやって返そうか真剣に悩んだくらいだ。
ミラといい仲だと思っていたのに、あっさりと父上との仲を取り持っていたし。仲人か!
あの時、出ていこうとしたベルを必死に止めた自分はえらいと今でも褒めている。
ベルは極端に自己評価が低いんだと最近気づいた。こちらが何を言っても本気で取らず、自分はダメだからと笑う。
正直、その笑顔は辛い。
王の資質はベルのほうがよっぽどある、と俺は思っている。仕事を与えればそつなくこなすし、自分なりに工夫をしてよいものにしていこうとしているのがわかるからだ。それが他人にいい影響を与え、空気がよくなっているのだが、全く気が付かないのも切ない。
兄として何とかしてやらねば、と最近すごく思っている。
そんなわけで、ベルがここを出ていこうとしているはわかっているが、あえて無視している。というか仕事たくさん与えて縛っている。
申し訳ないと思うが、それも愛だと思ってくれ。兄の愛が重くて悪いな。
「何を考えていらっしゃいますの?」
隣にいたアナが耳元で囁いた。
だめだぞ、アナ。そんなかわいい声をこんな近くで聞いてしまったら、こうするしかなくなるじゃないか。
俺はアナの唇に自分のそれをそっと重ねる。柔らかくて甘い。幸せだ。
この幸せをくれた弟に同じような幸せが来ることを、俺は心から願っている。
読んでいただいてありがとうございます。
お兄ちゃんのターンでした。思ったより早く仕上がってよかったです。
アーチーはガチムチ腹黒王子にしたいなと思っていたのですが、書いているうちにブラコン兄貴になった気がします。
溺愛シーン、難しいですね。がんばります
※ 誤字報告で「王教育」を「帝王学の講義(授業)」とご指摘いただきました。
王妃教育と並べていたので王教育のほうがいいかと思っていましたが、違和感がありましたね。
「帝王学の授業」に修正します。ありがとうございました。