泣き女は思う
星が一つ、また一つと消えていき、空が明るくなってきた。
背景が明るくなったことによって山の影がくっきりと映し出されている。夕焼けの赤と違い、夜明けはピンクと紫が合わさったような色だ。新しい日の始まりを喜んでいるような色は夜気の残る冷たい空気にあっている。
悶えていたベルグリフはそのまま眠ってしまっている。
何とも気の毒な姿勢に申し訳ないとは思うが、同時におかしくて笑ってしまった。
こんな人間もいるのだな、としみじみする。
ベルグリフの周りには妖精たちが楽しそうに飛んでいた。
精霊が好く気をまとっているのだと思ったのだが、いろいろと見せてもらったときにそうではないと知った。生まれつき精霊や妖精に好かれる『愛し子』ではなく、その気質によって好かれるものか。なかなかに珍しい。話には聞いていたが見たのは初めてだ。
額にかかる髪をそっとすくう。
夜の闇を固めたような色。漆黒なら彩の国にありふれているが、この色は珍しい。まあ人間に違いが判るとも思えないがな。
その寝顔を見ていると、謝罪時見た記憶を思い出す。
二年前にベルグリフが起こしたと言う婚約破棄はワレが見聞きしたものとは違って新鮮だった。
婚約破棄される男は愚昧なものが多く、自身の犯した失態により間女ともども破滅していったな。そのせいで悪意が生じ、面倒をかけられたこともあるが、あの転落ぶりは見ていて実に愉快だった。
まあ時折は婚約している女が性悪で、婚約破棄も致し方なし、という場合もあったか。身分に関係なく婚約破棄がはやっているのかと思うくらい、各国で行われていた時代もあったな。
ベルグリフのところもそうであったが、間女は桃色の髪が多かった。桃色に何か意味があるのだろうか。
最もベルグリフの桃色女はちゃんとした聖女だったらしい。元国王と結婚して領土を視察しているなど、なかなか面白そうな女だ。
「この国を愛している。兄上を愛している。友人を愛している。俺を助けてくれた多くの人々を愛している。幸せになってもらいたい」
記憶の中のベルグリフは兄である王にこう言っていた。
自らの婚約者だったアナスタシアをアーチボルトに託したことを後悔していないかと尋ねられた時だ。
正直、驚いた。
ベルグリフの記憶の中に、そういった心を形作れるような善きことが少なかったのでな。
人間とはここまで惨いことができるのか、とひどく驚いた。
きらびやかに飾られた部屋にいる家族から隔離され、離れた個室に閉じ込められた子供。
無関心な父親と感情を抑えられない母親。
厳しいだけの祖父と祖母。
何かを教えに来たらしき人間はそろってため息を吐いて視線を逸らす。
剣の稽古と称したうっぷん晴らしのようなもの。
向けられる鞭の痛み。
周囲からの失笑。
兄が亡くなったとされてからは、さらにひどくなっていた。
ワレが知っている人間なら捻じれている。
現に悪意をまき散らし、ワレを巻き込んで勝手に滅んだ人間はそうだった。
他者を妬み、世界を恨み、不運を嘆いて、死んでいった。
故に、ワレは人間が好きではない。
記憶を見る前は、大変恵まれた環境で育ったのだろうと思っていた。
ベルグリフという第二王子のことは聞いていたし、無警戒に近づいてくる姿はいかにも育ちがよかったからな。
しかも、月が綺麗だ、などと突然言うとは思わなんだ。
柔らかな笑み、あけっぴろげな声。
頬に触れた手は感じたことがないほど暖かだった。
そのまますとんと隣に座った時は、こいつは阿呆だなと思ったものだ。
しかし、そうではなかった。
記憶だけでなく、体も確認したが、刻み込まれた痛みは本物だった。
なぜ、こやつは、身の回りのものを愛せたのだろう?
自分を低くしてまで、他者の幸せを願うのだろう?
眠っているベルグリフの額にそっと触れる。
なぜ、と問いかけると、一人の子供の笑顔が脳裏に浮かんだ。
5歳くらいの金髪で快活そうな少年は緑色の目をキラキラと輝かせ、ベルグリフの手を引っ張る。
「大丈夫! 俺とベルなら無敵だ!」
少年は心の底から嬉しそうに笑っていた。弟が好きでたまらない、そう顔に書いてある。
ベルグリフと思われる少年はおどおどしていた。普段から自信を失わせ、虐げられた者の多くは常に不安を抱えている。自己評価がどんどん下がり、他人の言うがままに動く存在になると聞いた。当時のベルグリフはそんな子供だったのだろう。
「ボクは、兄上の、代用品だから……。もっと、ちゃんと、しなくちゃって……」
「はぁ? 何言ってんだ? ベルは俺の弟じゃないか」
「弟は、兄が何かあった時の、予備だって、母様が、言ってた……」
「馬鹿か? 予備とかそんなん、いらないに決まってるじゃんか。俺は俺しかいないし、ベルはベルだろ?」
「ごめんなさい……」
「阿呆!謝るなって」
金髪の少年はベルグリフをぎゅっと抱きしめ、背中をポコポコと叩いた後、にかっと笑った。
「そうだな、まずは自分のことを『俺』って呼ぶところからだな」
「俺……?」
「そうだな。ぼくってのは『しもべ』って文字に置き換えられるって彩の国の使者が言ってた。男の召使の意味なんだそうだ。おれは『おのれ』ってのになるらしい。自分を召使と呼ぶより自分自身と呼んだほうがいいに決まってる。今日からそうするんだ、わかったな」
「…………」
「ま、そうだな、ベルの母上や祖父殿の前ではボクのほうがまだいいか。いきなりだと驚かれるだろう。最初は俺のところに来た時だけやってみればいい」
「う、うん……」
「お互い王子だから色々大変だけどさ、俺はベルと二人ならこの国をサイッコーに幸せな国にする自信がある! そのために、いっぱい頑張ろうぜ!」
兄の笑顔はとてもまぶしかった。
兄が喜んでくれるなら頑張れるかもしれない、ベルグリフは思った。
ベルグリフの愛の根底はここだろう。
この兄がいたから耐えられた部分が大きいのだろうな。
風の精霊の噂によれば、新しい王はなかなかにやり手らしい。今までにない発想のものを作り上げたり、父王が取り組んでいた道路整備などを公共事業として市井の者も参加させるなど、大きな改革を次々に行っている故に、近隣の国が警戒して大使を送っていると聞く。
ベルグリフの話から理解するに、あの時の三人はこの国の発展を妨げた因子の一つだったのだろう。いなくなったことが喜ばれる生か、不憫よの。
その王がやりやすいように動き、雑務などを一手に引き受けて支え、王を害する手に踊らされることを恐れて自立しようとするとは、またなんとも。
この愛ではいろいろとしんどいことも多いだろうに。難儀なことだ。
ふわり、と空気が動く。
さわやかな朝の空気にかぐわしい香りが混ざった。突風が生じ、くるくるくると渦を巻いたのち、真っ赤な花びらを散らす。
妖精たちが小さく悲鳴を上げた。
ベルグリフの周りを飛んでいた光の玉がそちらに向かって飛んでいく。
「やめんか、妖精ども」
音も立ちずに着地したのはドライアドだった。内側から輝くオーラを放っている。ここだけ早く朝日が昇ったようだ。
さすが大精霊。ワレとは風格が違うな。
「いろいろと迷惑をかけたようだ。悪かった」
頭を下げると、ドライアドはふんと鼻を鳴らした。
「言ってくれるな。こちらにも落ち度がある。旅をしているだけの精霊に領地に住むモノが手を出した。管理者として失格だ」
たしかに、もとはと言えばここの国の悪意がワレを侵食したのが原因だったな。途中から意識が飛んだこともある。長く生きてきたがここまでの悪意は久しぶりで、いろいろ感慨深かった。
とはいえ、倍以上にして返した感はある。裁かれても仕方ないところだ。
しばらく無言で向き合う。精霊とは頑固なものなのだ。
やがて、ドライアドが折れた。
「このままでは共に収まらぬだろう。そこで一つ、こちらの頼みを聞いてもらいたい。オレも泣き女の頼みを1つ聞く。それで手打ちにならないだろうか?」
これはありがたい申し出だ。
ワレが頷くと、ドライアドは安堵した顔を見せたが、すぐに大きくため息を吐いた。
「実はな、オレのうっかりで困ったことになっている」
「困ったこととは?」
「ベルグリフのことだ。泣き女の声で魔力が途切れたため、こいつはここに落ちてきた」
「……、すまぬ」
「いや、それは事故だ、追及しない。問題はオレが干渉したことで、ベルグリフの時間がゆがんでしまったことでな」
ドライアドは自らの愛し子で王妃である娘を泣かせてしまったことを話した。精霊は愛し子を溺愛する傾向がある故、大層辛かったようだ。
「オレは1日だと思ってたんだが、向こうは10日経っていてな……」
「……、ああ、精霊アルアルだな」
「アルアルだよな……」
亀を救った釣り人が海の宮殿でひと月過ごしたら地上は100年過ぎていた、というおとぎ話があるが、これは海竜王の娘のことだ。気に入った親切な男がいたけど逃げちゃった、と明るく笑っていたのを思い出す。
精霊にはよくあることだ。
「了承した。手を貸してやる」
「恩に着る」
精霊同士が手を組むことは非常に少ない。属性の相性もあるが、基本的に自分が一番なので自分に利がないことは避けるためだ。
まあ、今回は、特別に応じてやろう。
楽しそうだからな、と。
がっつり握手した時、本物の朝日が山の端から出てきた。
読んでいただいてありがとうございます。
回想シーンなので短めです。




