その光でいたいから
時系列のズレがあるので後で2話目を修正したいです。
何日か経って、自分はネズミの元を訪ねることにした。ただ、巣の場所は分からないので訪ねるも何もまずは雲上を歩いているものを探さなければならなかった。
いつも自分の部屋で寝て起きて、チホさんに会ってレッスンや電波の良い場所で地上と通信するために毎日ヨンサくんが落ちていった穴の周りで集まることがルーティンになりつつあったが、今日は早起きして寄り道をすることにした。柔らかい鉄柵のようなデザインの雲から飛び降りようとしなければ、天国は自由に行き来できる。家を出て右に曲がって、中央にある大きな広場ぐらいの大きな綿雲から左に行けば、いつもの集合場所がぼんやりと見えてくる。そこから寄り道するといえば、綿雲を前進することか。知っている場所以外は辺り一面薄暗いので、初めて歩くのには少し怖気付いてしまう。しかしここで戻ってチホさんを待つにしても、あのチホさんを、完全に信頼出来ないかもしれない。アイドルにこんなことを言うのも失礼だが、敏腕プロデューサーであるにしろ、最近のチホさんは何かおかしい。大切なアイドルを、復活の儀式の生贄として使っているような非人道的な考えすら見受けられる。最近、微かだがそういう兆候があった。きっと遠い目で見ればクオミイニョンも地球も地獄の範囲内なのだろう。
「この世で信じられるもの、推ししかいないな……」自分は深くため息をついた。
天国と地獄の介在者とも言えるような立場の科学者たちは、まったく中立なのか、または輪廻に則って好き勝手に運営しているのか。どうしてあのような姿になったのか。はたして見極める必要があった。暗闇の中をずんずん進んでいく。道中薄目で歩いて行ったので、何があったかは分からないが、深く思いつめながらメモに出来事と思った事を書き、早歩きになっていると随分遠くまで来たようだった。目をパッと開く。広場よりも大きい雲の上にいることは確かだが、もう広場から出発した時よりもとても暗くなっていて、というよりかはもはや闇そのもので、モグラでもなければ自分の目から見える手も識別できなかった。そして、姿も見えない何かに引っ張られているような気がした。
気がつくと肩に、チューチューと鳴く例の動物がいた。昔ハムスターを飼っていたので、小動物の扱いには少々手慣れている部分がある。「ネズミ!やっと見つけた」尻尾をつまんで、手のひらに乗せる。すぐには逃げ出さないようだ。見つけても周りが暗いことには変わらなかったが、晴れやかな感じがした。胸の内で暖かく灯る心が2倍に増え、臆病そうなネズミの頭を優しく撫でてあげた。すると、脳に直接声が届く。一種のテレパシーで小難しい天空の言語だ。「引き止めてしまってごめんなさい!私は外国の専門調査員に入って間もないものですが、調査の途中で体が重くなって動けず、仲間の応援を待っていたのです。私は魂にはしがみつけないもので……このまま、向こうにある建物まで運んではくれませんか?」そう言ってネズミは自分が先ほどまで歩くことだけに夢中になっていたおざなりな道を指した。刹那、その指した方向が光ったように思えた。といっても暗闇に慣れていないと見えないような、うっすらとしたものだが。
そうか、注視して歩けばよかったのか。そうとなれば、自分はとんぼ返りに動き出した。今歩いている道がどれほど細いのかは分からない。足を踏み落としたらどこに向かうのかすら不明だ。肩に乗せたネズミが小さく悲鳴をあげた。「急に動き出さないでくださいよ!テレパシーを使っても人間の思考を受信できる能力は持ち合わせていないんですよ!」
「あ、それはすみません。最近思考を盗聴するものに囲まれていたせいで口に出さなくても伝わるものだと。しかしながら、なんというか、受信能力は持ち合わせていないんですね」「チューニングすればなんとかなるでしょうが、そこまでして他人の考えを聞きたいとは思いませんよ。世迷いごとに左右されずに、我々は我々の道を行くだけなので」ネズミは本職を誇りに思って言ったようだった。「つかぬ事をお伺いしますが、ネズミたちはどこから生まれてどこに行くのですか?」「人間的な質問ですね。そんなに面白い話でもありませんが、私はネズミの世界から来たんですよ」前提がもう面白い。「クオミイニョンとシステムはそんなに変わりません。科学が好きなものが集った、地球にあるもので比較すればジオラマサイズのクオミイニョンという風な場所で、我々は有志で集まり宇宙船をつくりました」クオミイニョンのパラレルワールドのような解釈で間違いはなさそうだ。様々な天国が多世界として広がっているのだろうか。
「そして宇宙を旅して様々な死地をくぐり抜けてきたのですがついに。宇宙船にガタがきて、ここに不時着したんです」「ネズミさんも不時着ですか!奇遇ですね、私もです」それほどまでにクオミイニョンは絶大な万有引力を持っているというのだろうか。いや、この場合はアイドルの魅力がそうさせたのだろう。自分の持論ではアイドルという存在はエモの受取手が対となって存在しない限り成立しないものだと考えているが、それはアイドルの魂が人の器を使ったアイドル活動と仮定しての話だ。この場合は星単位でアイドルの煌めきが輝いているのだろう。
「不時着仲間ですね」口角が上がったときのあの特有の声色で何故だろう、擬人的なネズミの素敵なアルカイックスマイルが脳に焼きつく。ネズミは話を続けた。「原因を探ってもこの星の不思議なパワーに邪魔されて究明出来ないんですよ。図書館にあった古書によると、魔術が発達しているらしいですね。なんとかなれば良いんですけど」「魔法のパワーって、ネズミさんたちが集まってもなんともならないんですか?」
「ええ。少数精鋭ではあるものの数も力も向こうの方が圧倒的に上だ。だから今はおとなしく、チホさんのお手伝いをしながらこの星に居候させてもらっています」ふーん。チホさんか。「そうなんですね。ところでチホさんとはどういったご関係で?」
「別に珍しくもない主従のようなものですよ。ここでの魔術が弱まっていたならば、逆になりうることもできたんですがね」征服者のような恐ろしい考えを呟くネズミはそんなことを気に留めず軽くため息をつく。「ど、どうやってのし上がろうと」「我々は科学の素晴らしさを広めに星から星へ転々としているんです。といっても別にその星の大切なものを引き換えになどはせず、慈善事業、と言うんですかね。無償でその星の科学技術の発達を手助けしている身です。いやあ、そういう活動をしているといつのまにか崇拝されるものでね。次第に関係は構築されていくんですよ」どこか味を占めている肩に乗った科学者に、背筋が冷える。「そういうのって、科学以外のことも教えているんですか?」「はい。天国の言語は宇宙共通ですが、中には自ずから他言語を学んで深入りしなければいけない要素もあるので、まあ科学を取り巻く識字や世界の方程式などは必要ですね。星によって存在する生命体の平均的な知能指数は違うものの我々からみれば全て下等生物なので、等しく教授していますよ」「わあ、なんだか。自然に他人を見下しているのが浅……酷……惨……」ネズミの元あるマイナス的な思想に言葉を詰まらせる。先程助けた時はとても喜んでいたのに、今では人が変わったような恐ろしさがある。こんなのでも、天国にいることができるのか。「浅はか、酷い、惨憺たる考えですか?矮小な人間にとってはそう感じるでしょうが、宇宙は未曾有の大きさで様々なケースを見つめていると天使のように優しい我々でも心を鬼にしなければいけない時もあるんですよ」「それとこれとは、うーん。……失礼なんですけど、生命倫理などは今まで教えてきました?」鼻で笑う音が脳の中に残響としてあった。
「どうして人間の定義づけたちゃんちゃらおかしい制限を我々が守らなければいけないのですか?」「そ、そのスタンスで教えてきたのだったらいつか地球にあなたの教授で進化を遂げたUMAが来た時、阿鼻叫喚ですよ」「まさか。各々宇宙旅行は節度をもってやっていますよ、それで言えばヨンサという天使も我々のおかげで宇宙旅行を楽しんでいるでしょう?」「ヨンサさんはまた違うのでは……」「あ、着きました。ありがとうございます。ここで降ろしてもらっても大丈夫です」とはいってもあたりには何もない。先程より明るい場所に来たもののまだ広場の方は見えず、ずかずかと進んだ道の中程の距離のようだった。恐らくネズミサイズだから彼らの寝床とする実験室も相当こじんまりしたものだろう。「……よければ、入りますか?」手のひらにのったネズミは振り返りざまに聞いてきた。「いいんですか?お邪魔しても」聞きたいことは少なからずある。
「ただ、私が入れるかどうか」「それなら大丈夫ですよ、さあこの扉を潜って」ネズミは雲の上にふわと降りて扉があると思われる場所で鳴いた。自分も腰を降ろしてミニチュアのような扉のドアノブをつまむ。開けた途端、中に広がっていたのはグロテスクなものだった。自分が今までネズミだと思っていたものは、背中の骨が骨板となって装甲化され、手足や尻尾は悪いものでも食べたのかと思う奇天烈な配色で、何よりもその顔は喋る時にありえない方向へ曲がっていた。顔だけでも綺麗な目、可愛らしい口をして地球のネズミの体裁を保っていたと思えたが、一瞬で願望へと変貌した。本当の目は耳の後ろにでもあるのだろうか……最大限まで口を開けるとその耳のキワまで口が開き、中は牙が綺麗に並んで正面から見るとヒトデが現れたようだった。それになぜか、それらはネズミの大きさではなく自分の目の前で行われていた。自分が小さくなったのか、ネズミが大きくなったのか、これもきっと1つの魔法なのだろうか。
「その怖い牙は一体なんのためにあるんですか!」たくさん脳内で話し合いがなされていたが、自分が声を絞り出すと一瞬こっちを見る。そしてまたテレパシーで会話が始まった。送り届けた今となってはネズミともとれないエイリアンだけが自分に気づく。「その節はありがとうございます。私たちのチームに招待しましょう」そう言って机に向かっているネズミの間を通り抜けて奥の部屋へと進んでいった。突貫作業で作られたのか、下の床はデコボコしてたまに動く。地上のネズミたちはその小さい手を動かし1人分の作業スペースもままならないような場所で必死に設計図を作っているようだった。地球では高価とされるような金やレアメタルのような素材が切り貼りされた奥行きのある部屋で、向こうの方では何かが飾られていた。開発途中のものだろうか、地球人の所感ではどう取り繕ってもゴミにしか思えないそれは巨大なケースに入れられてその中で何と交わることもなく浮かんでいる。「あれは何ですか?」「我々の船を動かすエンジンです。まあ、動力源なのですよ」「動いて……ます?」「少なくとも我々には1秒に数千回もの速さで動いていますよ。この熱気を保つためにもね」周りがざわざわとしていても調査員のネズミの声はすぐそばで聞こえる。落ち着いた声だからだろうか。そう思っていると視界から慌ただしい景色は消え今度は無彩色を基調とした殺風景な部屋へと移った。重たそうな扉を閉めると、聞こえる音は自分の心臓と、奥へ進むネズミのペタペタといった足音だけだ。無響室に足を踏み入れるのは初めてだったので心臓が高鳴りを見せ、またそれも直に伝わってきた。
「ここが我々調査員が働く場所です。生憎今は私以外もっと重力が強い場所で仕事しているので、部屋には誰もいませんけど」ネズミの声一言一言が自分の全ての組織に介入してくるむず痒さがある。そのむず痒さを一身に受けないためにも遮って自分から話す必要があった。
「あ、あのネズミさんたちの影響力は天国のどこまで及んでいるんですか?」咄嗟に出た言葉は終着点を考えていない。非常にマズった。「ほう、我々のコネで何かしたいことでも?」「え、ということは結構な力が……」「この天国での場合だと、ラノハーマの少数の、一部の魂に一定の支持があるので、大方人気だと自負してはいますよ」その言い草だとエリート層にも多少の理解は示されているようだ。
「ってことは、少なからずラノハーマに行ける可能性も!?」「通行証さえ発行してもらえたなら通してくれるでしょう。私も助けてもらった身なので、この後時間があるならラノハーマに来ますか?」想定外の結果になった。非常に喜ばしいことだが、体感時間で寄り道をしてから結構経っていることに気づく。チホさんを待たせるわけにはいかない。「行きたいのは山々ですが、チホさんが……許してくれるかどうか、分からないから」「ああそれなら、自室でまだやることがあるといって引きこもってますね。なんでもアイドルの管理に精を出しているようで」それは……チュウォンのためにも力を注いでくれているのだろうか。「なら、今なら、言い方は悪いですけど目を盗んで……」「チュウォンの姿を一目見たいのでしょう?」まるで心を見透かしたような発言に自分は心臓よりも先に体が飛び上がる。「分かりやすいですね。だってあなたはそのためにここに呼ばれたのですから」「そそそ、そういえばそうでしたね、思い返せばあのロケットにも同行していましたし……」「まるで好きな人しか見えない盲目的な人間のようだ」ネズミはくくっと笑って、魔法にかけられて推しのことしか考えられない自分を嘲っていた。
「きっとチホさんも許してくれますよ。なら私は上層部に許可をとってきます」そういってネズミはドアを閉め喧騒の中へ姿を消した。
誰もいなくなった空間でまた、体内のポンプの音が聞こえる。どっ、どっ、どっ、どっ、と高まりは正常な反応を示していた。
生きていることは、あまりにも罪だ。永遠の美に死という妄執まで、人間は概成したままで生きていかなければならない。不完全なのに自分たちは1人という単位として数えられる。最近はその度に心を貫く一種の虚無感があった。アイドルに触れることでそんなぐにゃぐにゃとしたものから目を背けられたが、こんな自分と向き合うために作られたような部屋にいると精神はよく分からないものになった。言葉にするとつまらないような、だからあえて形容しない心の形だ。誰かと話していないと不安になる、誰かが隣にいないと不安になる、チュウォンが、ステージに立って、いないと……
自分ももう大人だ。しかし精神は幼稚で純粋で美しいままで、あの秋で止まっている。袖を濡らすほどの涙がその証拠だった。不信感は多方に芽生えた。デマを流す痛いファンやニュースアプリ、死亡したアイドルとして十把一絡げにする一般人、失った光が大きければ大きいほど落とす影も暗くて深いものだった。駄目だ、このままだと永遠に殻に閉じこもってしまう。そう思えば思うほど何もない部屋から動き出すことが出来なくなってしまった。破るための自分の殻がまた増えたような気がした。自我などとっくに何処かへ行ってしまった。地球ではただ無意味に一週間を過ごしていた。だからせめて、天国に来たならば、推しの死に顔を一目でもいいから見たかった。止まった時計を見ても、自分の中の止められた時計は動き出さないだろうが、率直に言うと地に足をつける気づきの糧になると思った。結局、推しとして見ていてもそれは自分のはしたない人生の糧以上のものではなかったのだ。
ネズミはノックもせずに部屋の中へ立ち入った。「どうしてあなたはそう、暗い気持ちになることが得意なんですか?」「好きでやってるわけじゃないですけど……ってええ?」もしかして、心中の想いごとが天使と同じように透けて見えるというのか。「この部屋限定ですけどね。完全なる孤立を味わえば自然と真我に伝わるものも見えてくるでしょう。人間に多少の興味がないといえば嘘になるので、煙に巻いて連れ出してしまいました。申し訳ありません」全くもって謝罪も感謝もない冷徹な声色にネズミの性格がうかがえる。性格というか、ネズミの土地の風土や考え方による文化としての『感受性の薄さ』として捉えるべきだろうか。
「何はともあれ、通行証が発行できましたしラノハーマに向かいましょうか。研究所の裏口から出た方が近いので、こっちに来てください」そういうと、ネズミは最先端の指紋認証を使って先ほどまでただの白い壁だった所に穴を開けた。一瞬の出来事で理解しがたいが、隠し扉のようなものだと説明してくれた。
向こうの景色は、薔薇がついた神聖な半円アーチが幾重にも連なってラノハーマへの道を示していた。太陽光となんら変わりないノスタルジックなその光は足元の輝くタイルを照らす。ひさびさに見た明るい日の光に思わず目を覆った。危うく失明しかけるほどのその美しさは筆舌に尽くしがたい。「そう、初めてチュウォンに会ったあの憧憬が今でも心を縛り付けていたのだ」いつのまにか小さくなっていたネズミが肩の上でおどけて囁く。本当は部屋が無くても声が聞こえるんじゃないのか、胡散臭い存在になりつつある。「おっと、勘違いしないでくださいね。今のは独り言ですよ。我々は誰の味方でもなくただ科学の素晴らしさを広めるためにやっているので」「……あなたに使う気力はもうないです」「なら足先にわずかな気力を集中させてくださいね、あなたが芯まで向こう側に辿り着きたいと思わなければ一生抜け出せられないので。帰って来る時も同様です」耳元でそう言われると、遠くに見える光が更に遠くにいくような錯覚を受ける。慎重に、一歩ずつ踏みしめた。チュウォンに出会った時のことを思い出して、踏みしめた。先へ進むごとにゼリーズの輝かしい青春の日々を思い出した。楽しくなって、軽いステップすら踏んだ。懐かしい浅葱色のペンライトの海、彼らを美しく魅せる照明や舞台演出、そして全てはそのためにつくられたのだといっても過言ではない際限なく続く彼らのライブ。
様々なタイアップが続いて、ゼリーズを愛するファンの人口も増え、初めて自分にオタク友達とも言える人が出来た。嬉しくって、連番の度に合わせるファッションを考えることも1つの楽しみになっていた。交換相手が身近にいるから、トレカやブラインド商品に安心して貢げた。ゼリーズのクラゲの形を模した公式のペンライトをドームの前に掲げて一緒に写真を撮ったりした。推しのぬいぐるみを引き連れて歩くと全てが聖地になったも同然だった。ドラマの撮影場所や、チュウォンがまだ練習生だった時に初めて外国でライブをしたライブハウス、様々な場所を巡った。彼、ひいては彼らに関しての思い出は尽きることはない。1stライブのライブレポまがいの思い出だけでも向こうに辿り着けそうだ。
「なのに、どうして」ああ、その言葉だけで自分の目の前から光が消える。ネズミよ、余計なことをしないでくれ。
床のタイルは音を立てて崩れ去る。いずれ自分の足元のタイルさえも落ちるだろう。それでもどうにかしたいと悪足掻きしてラノハーマの床を掴む。本当にあと少しだった。既にネズミは腕を伝って安全な場所へ行き高みの見物をしている。一体何がしたいのか、訳が分からなかった。落ちたら先はどうなるのか検討もつかない。なぜか頭からブラックホールのイメージが離れなかった。自分は無になれるのだろうか、ならいっそ落ちてしまっても構わないんじゃないのか。
自分の人生なんてこんなもんだ、何も成せないまま終わってしまうのだ。チュウォンやヨンサ以外の人間の気持ちを疑って不信感に苛まれたまま死んでいくんだ。「もう限界……」言葉通り、片手は機能しなくなり遂には全ての指が滑り落ちた。
ありがとう、一瞬でも夢を見せてくれて楽しかった。好きなアイドルの歴史に触れられて良かった。
「俺の手に掴まって!」
暗闇をかき消す希望あるその声は耳に届くよりも早く伝わる救いが、具現化された。恐らく、自分は救われたのかな。朦朧とした意識の中で日光が眩しく思える。あの声は誰だったのかと考えているうちに次第に答えが目の前に現れてきた。
「ディッD.A!?さん!」ゼリーズの弟分ユニット『サクリファイス・フライ』のリーダー、D.Aさんだ。ファンからは本名のスヒョン呼びで呼ばれている。普段の砕けた感じと天才的なダンスの才能のギャップがウケていた。
「どどどどうしてラノハーマに!?」抱きかかえられているポーズを拒絶し距離を取る。「俺今、地球ではお国の義務で兵役中ってことになってるっしょ?あれ本当は天国に帰省してて、ほんといまバカンスなんすよぉ」ニィと笑う白い歯が綺麗に輝く。「だからラノハーマにもお試しで行けるしテキトーにぶらぶら歩いてたら抜け道から必死でもがいてるキミがいたワケ。助けたら助けたでビビってるし面白れーのな!名前なんて言うんすか?」「あぁ、そうなんですか……なんにせよ助けてくださってありがとうございます。私は梅田良乃です。良ければ、チュウォンさんがいる場所まで案内していただきたいのですが」刹那、難しい顔をしたような気がした。「ん?あぁ。OKOK、俺についてこいよっ!」
「えぇと、D.Aさん……」「スヒョンで良いっすよ、ここでステージを披露するわけでもなしD.Aよりも親しみ深いんすから」「ではスヒョンさん、兵役ってどのような仕組みになっているんですか?」「俺に聞くんすかぁ?説明下手な俺にぃ?もっと喋るの上手い俺の相棒に、って地球にいるんだった」スヒョンはグループ内でも人気のメンバーだ。彼が指しているのは幼馴染みのメンバーのようだが、スヒョンのようなアイドルが入隊しているとその穴を埋めるのは経済的に見ても難しい。「どしたんすかぁ難しい顔して」「え、いや……ちょっと、今考えてること当ててみてくれます?」もしかしたら、見た限り翼はついていないし地球から魂と体を一緒に天国まで持ってきたから、体から魂が解放出来ずに制限があるのだろうか。その制限の1つが思考を覗けない…「よく分かんねっす」…で合っているようだ。「変なことを言ってごめんなさい。ただ帰省の間は翼がついていないから天使ではないのかなと思ってしまって」「そっすそっす。俺の国だけ特別にこういう義務が課っせられてるすけど、正味な話クオミイニョンの技術で遠隔?で俺を映してホログラムで訓練場でトーエーして1日訓練すればいいんすから。そしたら後の6日間は天国でなにしても自由だし、思い思いにみんな過ごしてるらしいっすよ。ラノハーマを見てコーマイの精神を改めて志す人とかいるし。……無理矢理現実から目を背けられたモラトリアムってこういうことなんすかね。帰省していながら天国の言葉は分からなくて、人間である以上親から産まれているのにその便宜上の親にも帰省とか言いながら顔向け出来なくて、俺は、……最近毎日、チュウォン兄さんの顔を見に行っているんすよ」明るい道を歩きながら、スヒョンは感傷的になりながらもその言葉を彼なりに紡いでいった。「そうなんですね……」なんと言えばいいのか、分からなかった。こういう時に自分はバッドコミュニケーションしか出来ない方向性にあるから、言い澱んでしまう。「時にウメちゃん!何も使わず終わりから始まり、マイナスからプラスに変えられることって出来るっすか?」「ウメちゃんって。えー……凄く抽象的ですけど……しがないオタクは0から1も生み出せないです。方法が分からないですし」「アハハ!出来てるじゃないっすか!」「そう、ですか?」一体どうして、快く笑いながらそう言えるのだろう。
「現に」スヒョンさんは一呼吸おいて長台詞を喋った。「終わりからの始まりを身近に感じているっしょ。愛する向こう側の人の死を結果的には上手く受け入れて、ロスを乗り越えて人間的な営みを続けられている。そしてヨンサくんに呼ばれて今ここ、天国にいる。それって凄いんすよ。中には宗教的に彼を愛してしまい地獄に堕ちる者もいる中で……ウメちゃんは気まずさを感じながらも重力を感じて素敵な地獄に一生を捧げることに決めたんすよね。ヨンサくんもそれを見抜いての行動だと思うんすよ。そんなエモい現実に流されながら、クモの糸にすがってチュウォン兄さんのことを諦められない。誰も彼もそうなんすよ。今度地球に行ったら裏側の人にも聞いてみたらどうっすかぁ?きっと異なる言葉でもその人は答えると思うんすよ、『現場を見ていないのに実感が湧くわけない。彼はまだ生きている』」あぁ、そのタメ語がすとんと心に落ちてくる。自分は今まで本懐を見失っていたようだ。そう感じたと同時に、話を聞いていた時からずっと眩しかった視界が輝度を落として、ピントを合わせられるようになった。クオミイニョンの建築物とそう変わりない西洋的な、美術館のような建物が目の前にあった。
「ラノハーマ、不思議な場所っしょ?願ったら目の前に適当な物件が現れるんすよ!ウメちゃんと俺の場合はこれね」上にある紋章……地球上で最大規模のアイドル運営会社、『タイム社』のものだろうか。どうやらラノハーマにある建物の不完全な部分はその建物を見た人が補完しているシステムにあたるようだ。その紋章を見上げると首を痛める。それぐらいに豪華な代物だった。「これってアレっすよね。よくわかるっす」スヒョンは何かを指す言葉全てが指示語になってしまう呪いを一笑する。大方言おうとしていることはわかった。「そうですね、アイドルに用意される大型のハコの殆どがドームやライブハウスはタイム社が取り仕切っています」確か今度ダスクヴェイパートレイルが出演するフェスもその会社が主催している。「あー!それっすね。ここはラノハーマの永住権を与えられた歴代のアイドルたちが、歌謡番組や音楽のアワードで獲ってきたトロフィーの複製が飾ってあるっす。そういうのが飾ってあるし脳が無意識にタイムって会社を選んだんでしょーね。チュウォンは奥の方にいるっす。さあ階段をあがって」彼は長い足で軽々と階段を飛び上がっていく。自分も後から上っていった。
いよいよチュウォンと対面できる。いつのまにか胸は希望で満たされていた。「チホ先生とかのトロフィーも気になるっすけど……」今優先するべきはチュウォンと会うことだ。スヒョンの高そうな革靴が音を立て、2人して足早に移動する。
「楽しみですねぇ」次に足を踏む予定の場所から胡散臭い声が聞こえた。「げ!」ネズミだ。「踏んでも構わなかったじゃん」体勢を崩して階段から命を転げ落とさないように体幹を整える。「心外ですよ」「ウメちゃん!何それキモ可愛い!」隠すよりも先にスヒョンに怪物の存在がバレてしまった。「私にだってラノハーマへ行く権利はありますからね」「こ、こんな悪どい奴が……!?スヒョンさん、こいつが私を恐怖に貶めた張本人です!」んー?と顔をしかめて自分達にグイッと近づく。「なんでそんなことを言うんすか?怖い見た目だからってそこまでとは限らないじゃないっすか?」ネズミは既にスヒョンの肩まで登っている。守られる存在にありながら、それを良いようにしか自覚していないネズミは酷く周囲に無遠慮で悪意を振りまいていた。しかしアイドルに擁護されては何も言い返せない。「私1人ではここまで来れませんでした。感謝しています」不気味とも言える挙動でそれは感謝を伝えた。「いやいーんすよ!と言うか口凄いっすね!どっから脳に伝えてるんすか?」「やめときましょうスヒョンさん。大学の眠い講座みたいに喋りますよ」「俺ダンススクール通ってすぐアイドルの養成所行ったんで大学の授業聞いたことないんすよ!」「それはいい。まさに私の話を聞くために産まれたような好青年じゃないですか。まずこの牙と牙がですね……」ずっこけそうになるぐらい歪な歯車が噛み合ってしまった。
「私!チホさんを待たせているので!」いつでも来れる2人を置いて自分は軽く走りながら最奥部へ向かった。
梅田が早歩きで向かったのを片目に見てスヒョンとネズミは談笑を続けている。
「時にスヒョンさん、クローン人間というものをご存知ですか?」口をもぞもぞと動かしてネズミは最初の話題としては不適切とも取れるような題材を取り上げた。 「知ってるっす!1回MVでそんなコンセプトを使ってー、スタッフが俺らそっくりの動く人形を作ってくれて!CGがリアルに存在してるぐらい完成度がヤバくって!何度もロボットのメンバーに間違えて声かけちゃったっすね」聞いてもいないのにインタビューに答えるかのようにカメラ外のことを話す様は、職業病の現れのようだ。
「それはアニマトロニクスですね。いいえ、本質的なクローン人間とは『シコウが分かる他人の自分』という存在です。臓器移植が行われて、それに伴って臓器に記憶された自分自身の好みや性格が伝わり、ケースによっては一卵性双生児よりも好みが似るのではないでしょうか?なんとも奇妙な存在になるのです」「えーっ、そんなことがあっていんすか?本当に全部が同じになっちゃうんすか?」「精神から肉付けしようにも、多少いじりでもすれば壊れてしまうでしょうね、人間というのは」あたかもおもちゃのように文中で取り扱うネズミに倫理観はない。
博物館内の光る床が2つの生命体を冷たく照らす。「しかしながら、アイドルのクローンというのは僅かながら成功しているケースがあるんです。チュウォンまでとはいかなくとも小規模なら何度か……」
MV中の出来事でしかなかった事実が現実にも行われていることを知り、スヒョンは目をぱちくりさせる。「すげー……どこでどうやってなんすか?」
「まず生きているアイドルから体細胞を採取し、社会に出ることのなかった純白の清らかな生命に移植します。脳をつくる細胞は予め除いておき、成熟したところで魂を入れるのです」「魂って、それも本人から?」「人間は性格で分けたとき様々なコミュニティに分類されるでしょう、そこから実験として数多の概念的な魂が作られ、保管されるのです。我々の内に」「げ!……ネズミも実験されてるんすか!?」「ネズミの星だけでなく過去に赴いた地で何度か移植は試みています。宇宙旅行をしているのはその魂を保管するのに適している生物を探すためでもあるんですよ。しかし我々も我々で、生きとし生ける生物である以上その保管庫であるかどうかを基準として見た時に、多少の性格の歪みは発生するでしょう。そこで私のようなねじ曲がった者にはそれ相応の実験にあまり使われないあって無いような魂が入れられ、ブラックホール付近の危険仕事を任されるのです。立腹ものですよ」運用されるために生み出された生命はその構造に悪態をついている。「反乱は起こんないんすか?」「全ての事実は因果というものが関係してるんですよ。こう言っていても過去には確かに仕事を怠けた記憶がありますし、きっと未来ではこう言っていても周りの者に助けられるんですし」「そうでもしないとやってけないじゃないっすか」頭の後ろで手を組んで、不服そうな顔でスヒョンはぼやく。「でもいつか、星人全体を取り込んだプロジェクトが始動するでしょう。そういった100や1000の数じゃ足りない億単位を取り込んでクローンとも分からないような人間を、つくるのでしょう。様々な魂が蠢きあって、適性を基準として二極化された端と端の2つでさえも取り込んで……きっと今までのことなどもこの実験の1つになり、本来の願望としてはチュウォンを復活させるのが1番正しいのではなどと……全て独り言です、無視してください」「……無視できないっすよ。大々的な星人滅亡計画じゃないっすかそれ!俺我慢できないっすよ。故郷のクオミイニョンにも影響がいくんだし!」「そうとは言われても……、ヨンサさんが物事を正しく見ることができる、いわば観測者になりうる梅田さんを連れてきた以上、実験結果が見える一歩手前まで来ていますし。私のような下っ端には憂いを帯びることしか出来ないのですよ」「責任者を!上の人は誰っすか!」「やめてください。名前を汚すようなことはしたくありません。そもそも何が善で何が悪かなんて決めるのはエゴが根源にあるんですよ、それを基にした運動が結果的に何を生み出すかなんて反逆者と一般人では考えから違ってくる。様々なバックがついて仮想でありながら実際に敵として存在しているものを倒して一時の幸福感が得られて、何が楽しいんですか?」「突然の怒りとかじゃないんすよ!天国にいながら小さい客人のことをよく見てきて、あまりにも能動的じゃないその動きや考えのそうさせているものの、積み重ねなんすよ!ネズミの生きる道はそんなに理念とか哲学がないままでいーんすか!」「あなたのいう哲学は誰が決めてそう言っているんですか?勝手に主語をでかくして巻き込まないでくださいよ。アイドルの養分になる星人達に対してエモいとか何にも思ったことないくせに」「分からず屋!今から梅ちゃん呼んで地球に戻してもらうっす!連れてこなければ知ることもなかったんだし!」「あなたは流れてくる情報を聞かないように耳栓をして、ファンサービスと踊ること以外脳みそを使わないままで良いんですね」そうならば、と言った時にはもうすでにスヒョンは梅田めがけて荒々しくその場を去っていった。
いくつもの部屋を超えて、何分経っただろうか。
静謐な空間の、2本の大きな柱が何本も並んだ道の先にチュウォンと思わしき人物が立っていた。自分と彼を遮るステージやガラスケースは何もなかった。ただ、彼は立っていた。解散ライブの時、みんなが着ていた衣装で。全身黒のスーツで控えめな印象とは対照的に胸元の赤いコサージュが遠い天井の窓から差し込んだ一条の光によって美しく輝いていた。何よりも、あの時から止まっていたチュウォンの生きている事実が更新されたことが嬉しかった。間近で見てみるとその目は生気を失っている。魂は別の所に保管してあるのだろう。ただ会った瞬間はそんなことを考える暇もなく彼の目の前で泣き崩れたと思う。実際問題、スヒョンさんが追いついた時自分は正気を失っていたという。
「ウメちゃん、帰るっすよ」自身の嗚咽で支配されていた聴覚に低い声が飛び込んでくる。「なんで、どうしてですか、まだ会いたい」「ウメちゃんはチュウォンさんを見てはならなかった。推してはならなかったんす」「なんでそんなこというんですか、いやだ、」「俺の一生のお願いっす!はやく地球に帰りましょう!ここで見たことも全部忘れて、地球でオタ活で人生が華やかになればそれに変えられるものなんてないんすよ!えっ……そ、それどうしたんすか」スヒョンは驚きから手が震え、冷や汗が頬を伝った。梅田の肩甲骨から服を突き破って、天使同様翼が生えようとしていたのだ。「私は、ここに留まりたい」涙が枯れて、覚悟した表情で梅田ははっきりとそう言う。「翼が生えたらダメなんすよ!チジョーの人間が、テンジョーの天使になろうとしても、いずれここの引力に耐えきれず中身から壊れてしまうっす」本当にさっきから 、何を言っているんだ。自分にかかる重力も引力も最初からなかった。雲から落ちることすら。
「現実に戻ってもただ彼が死んだということ以外何も残らない!しかも純な気持ちでヨンサくんを応援することができないならいっそのことここにいた方がマシじゃない!」「おかしい、何かおかしいっすよ」焦りを見せるアイドルに構う程の余裕はない。自分はここで生まれ変わるのだ。「人間界だったら天使になることは宗教の違いこそあれど、厳しい修行がマストなんっすよ、地獄よりも辛く天国のような幸せもない。いわゆるオタ活なんかよりよっぽど苦行っす。それをすっ飛ばして付け焼き刃で天使になろうなんて、ウメちゃんにとったら自殺よりもヒドいものっすよ!」「今更そんなこと言われても、もうこんなに……」梅田の翼は窓から注がれたラノハーマの光に照らされて、茫漠な翼を自身の意思とは真逆に広げて、またその翼が純白が故の狂気を孕んでいた。すんでのところでダークサイドに落ちかけた梅田をスヒョンが持ち前のお節介で必死に呼び戻す。「大丈夫、落ち着いて俺の手を握って……ああ!奴が追いかけてくる!」スヒョンは梅田の震えた手から緊迫した心音を感じると共に、余計な音も耳に入ってくるのが聞こえた。わずかだが床の上を小動物が歩く音が聞こえる。「梅田さん、あなたが戻るべきはチホさんの元ですよ。観測するべきは、愛すべきアイドルの誕生です」さあ早く、とネズミは自身の生命の行く末をも厭わない雄心的な態度で2人に近づく。果たしてそうなのか。
「梅田から寄る必要もない」そう、その声が聞こえたのはいつぶりだっただろうか。1日?いや、クオミイニョンに住んで錯覚しているから7日ぐらいかもしれない。日?1日という定義は何をもってしてそう呼んで、そう認識するのだろう。
「チホさん!すみません、寄り道をば……」救助の合図を送ろうとしたのも束の間、チホさんは莫大な数のアレ、ネズミを引き連れてやってきた。「そんな、どうして……」そう思ったのは自分だけじゃなくスヒョンさんもだった。手から伝わる冷や汗と、その横顔は絶望の感情に包まれていた。どうしてあんなネズミの肩を持っていたのがチホさんなのか。今ここで決断するのは容易には下せなかった。「なんとしてでも、我々は彼を復活させる必要がある。それは伝説を化学で示すことができるのだと言う実在的な証拠のために。君のメモも、そのためのものだろう?」そう言いながら彼は自分が常備していたと思っていたメモを、紳士的なスーツの右ポケットから取り出した。「そんなための、ものじゃ……」どれだけ言葉を振り絞っても、断定的な否定にまで辿りつかない。「大丈夫っすよウメちゃん、言葉を話すことは難しくないっすよ」スヒョンは小声で励ましてくれる。勇気づけられるものがあった。語気を強めて丸め込まれるよりも早くこちらも意思を表示する必要があった。
「そ……そんなためのものじゃない!ただ、ヨンサくんが故郷に連れて行ってくれてそこでの1日を観察して記録していただけなの!たとえ本当に夢だとしても、白昼夢は見られない体質だし、雲を踏む足から伝わる質感も珍しいから記録していただけで、日常を記録していただけなの!科学的なものよりももっと、人情的な温かみのある魂たちに触れてとても興味深かったし、けっしてアイドルを生贄としてしか見ないような、そんな冷徹なことをメモするために持っていっていた物じゃない!楽しいことだけを覚えておくのがそんなに常理に反しているんですか?……ここに来れたらもっと、楽しいことが待っていると思っていた、夢なんだとしたら。身を尽くして彼のいない未来に賭けようとしていた。でもそれは弱さでしかなかったみたい。スヒョンさん、いえ、アイドルに叫ばれてそう感じました。……色々と、チホさんへの失望が、そうしたんです。アイドルを物として扱う態度、生きる時代が違ってることによる価値観の相違。そして……そのような人を悪の道へと落とし込むエイリアンとつながっていることも。きっと、神様には分からないんですよね。エモの原動力が。人にとって1番大切なのは推しと言える存在でも、至福のひとときでもなく、エゴに塗れた神にとっては不毛とも言えるようなその私生活こそが何よりも、強い、エモを生み出す営みであると!」「ウメちゃん!」歓喜にあふれたスヒョンがよくぞ言ってくれたと言わんばかりに手をぎゅっと握る。いつのまにか、肩甲骨の痛みも引いていた。
ただ、そんな圧の強いだけの言葉で気を乱すような相手ではないことは重々承知している。チホさんの次の言動を固唾を飲んで見守った。ネズミたちもチホさんの指示が出るまで余計な手出しはしないようであった。次の瞬間、彼はその重々しい唇を動かして開口し次のようなことを喋った。「梅田は、ここに相応しい魂ではなかったのだ。今すぐここから出て行ってもらおう」その見限った態度に今までどれほどのアイドルが地獄を味わったことだろう。それはもう並大抵の睨みではなく、生きている中で初めて味わった新たな恐怖の形だった。なら返してくれるんですか、そう喋ろうとしたのに口は開けて閉じることを繰り返して、空気だけが抜けていく。「ああ、もちろんそのつもりだ。ただし、ここでの出来事はその小ぶりな脳からは消されるだろう」言わなくても感じ取れる天使の力を改めて仰々しい物だと思った。しかしひどい言い草だ。
「ちょちょちょっと待った!その記憶を消す魔法って過去にいっぱい罪を溜めこんだアイドルが自分の黒歴史を内緒にしようと思って全人類に唱えたやつで、今では持ち出し禁止の禁書に指定されているやつじゃないっすか。チホさんは、どうして自分のランクも無視できるような封印魔法が唱えられるんすか」「いや、それとは別の方法でしょう……チホさんはしないと思います」チホさんはそんなことをするような人では無い。「加勢してくださいよーウメちゃん!」「ああ、もちろんそれとは違う方法だ。つまり」そう言ってチホは、今までつけていた手袋を大胆に口を使って取り外す。脱いだ後にあったのは手……ではなく、火花が走った機械のような、義手ともつかないSF映画の対人用のアンドロイドみたいだった。脅すようにしてその禍々しい手を見せつけていた。その瞬間、閃きが起きたスヒョンに電撃が走る。
「あーっ!やっぱりチホさんじゃない!いやでもチホさん、チホさんっす!ウメちゃんは分からないと思うんすけど、昔チホさんが地球でアイドルをしていた時代、公開して1時間で非公開になったミュージックビデオがあるんすよ!関係者にしか伝わっていないこのMVなんすけど、内容がまさにこんな博物館の中で、キリングマシーンと化したチホさん演じる暴走アンドロイドが殺しまくるってやつでっ」早口で全てを言い終える前にチホさんは梅田の首を刎ねんと10mぐらいの距離を軽々とジャンプする。すんでのところでスヒョンが梅田を抱いて交わしたものの、チュウォンの衣装に軽く傷が入った。梅田が悲鳴を上げる中、ゾーンに入ったアイドルは踊るようにして回避しながら喋ることをやめない。「いっぱい血を出すから!規制が入ったんすよ!そのMVまんまっすマジで!」「じゃあ殺されるじゃないですか!」縦横50mほどのその空間を縦横無尽に駆け巡る。床のみならず壁や天井にまで足をつけ、その機械はどうしても息の根を止めたいようだった。2人のペースについて行く事もままならない息絶え絶えの梅田は現状を嘆いていた。「なんで、チホさん、機械なんかに……きゃっ!」久々に声を荒げたことなど今はどうでもいい。最近ガンダの文化と無縁になっていた梅田は足をくじき、後ろには殺人を遂行しようとするチホが仁王立ちになっていた。「ひぃ!」なんと崩れてしまった体勢におぞましい口を開けたネズミがひっついていっせいにこちらを見ている。
「嘘、私、こんな所で……」死ぬんだ、と思った瞬間横目に映ったチュウォンが微笑んでいた。いつもの含み笑いそのままだ。今となっては、嘲りという印象しか心に残らなかった。
ふっと全てがどうでもよくなって、自分の生命の行末を客観的に見る余裕すら生まれた。天国でアイドルに殺されたオタクは、いったいどこへ行くのだろう。周りからの反感を買って地獄行きかな、それともラノハーマの審判を待っていずれ釈放されるのだろうか。だったらこの魂とこの体はどこに?なんだか、チュウォンの元へはいけない気がする。アイドルとオタクなのだから。でもその関係から放たれたただの魂は何になるのか?…………………………………………
ああ、なんだか、『エモい』なぁ……。
『梅田ちゃん!梅田良乃!聞こえるか!?ヨンサだ!自分を信じていけ!あいつはチホでもなんでも無い!地獄からの侵略者だ!チホはもうここにはいない!食われてしまったんだ!内も外も全部!そしてチホを食ったあいつはシナリオを書く力も手に入れた!このままだと天国も地獄もぐちゃぐちゃになって、地球は終わりへと向かってしまう!そんな、終わり方でいいのか!なんだかんだ君も、生き続けたいんだろう!?早くメモに自身の思いを書いてくれ!それは僕の力が入った魔法のメモだ!話を書き換えられるんだよ!』
頭が割れるほど響いたその声は、紛れもなくヨンサそのものの、天国の言葉で喋る声だった。気がつくとそこにはネズミの群衆が消え去って、心臓の部分を押さえて負傷しているチホ、何が起きたのかと目をパチパチさせるスヒョン、そして今までチュウォンだと思っていた偶像は実態はあるものの、ヨンサに成り代わっていた。
そしてなにより私は、命より大事な私のメモを手に持っている。『ヨンサ』……荒々しく書かれた、識字するには時間を要するようなそれはここにヨンサさんを召喚した証ということになった。
「梅田ちゃん!現実へ帰ろう、予定変更だ!地獄の力が暴走して天国の管理者すら操られている!緊急事態なんだって!」「でもどうやってここから……!?」「念じて!現実に帰りたいと!一瞬だけ夢を見ることを忘れて欲しい!」どうしよう!夢を見る、また忘れるという感覚がずっと夢見の状態だったので鈍くなっている。「僕の目を見て!」その目はチュウォンともヨンサとも、また生命体ともとれない不思議な目をしていた。あるようでない、ないようである、空虚ではない、過密でもない、しかし粗密やムラがあるわけではない。おかしな瞳だった。「スヒョンも降りてきて!ここにいちゃ危険だ!」そう言ってヨンサは亀裂が増す部屋からスヒョンと梅田を抱える。ヨンサは汗を流しながら、何らかの呪文を唱えていた。すると次第に視界がぐらつき白い光に3人が包まれる。「梅田ちゃん、メモを大事に持っていて!」その言葉が聞こえた時には、既にクオミイニョンに戻っていた。いつもの集合場所にあたるあそこだ。しかし空は普段のように夕方から夜に変わるようなあの暗さではなく、事もあろうか絶対にありえない西日が昇っていて、しかしそれは郷土心製品のMVの完成も意味していた。「転移魔法っすか?!スッゲー!」「喜ぶよりも先に、ここを通っていかなくちゃ帰れない!さあ一緒に!」真剣な表情でヨンサの魂が入ったチュウォンはそう2人に言う。その光景はもうなんだか、あまりにも動揺でしかなかった。こんなことを聞いては駄目なのだろうけど……。
「待って!あなたは本当に、……ヨンサさんですか?」不意をついて出た言葉は彼の目に大きなどよめきを与えた。「移動中に詳しく話すよ……さあ、飛び込んで!」多少の不安な心が残りながらも、意を決してその穴に飛び込むことにした。最初はトンネルの壁に何度もぶつかって体勢がよろけて、右へ左へ転がる小石のようにあちこちに体をぶつけた。しかしその浮遊感に体も慣れて、お腹に響く蟠りが消え去った後、体勢はまあまあ固定され、右隣のヨンサと左隣のスヒョンがそれぞれ手を握ってくれて、結果的にスカイダイビングのような形をとっていた。しかしながら、深淵だと思っていたその穴の中は思ったよりも明るくて、粒子がラメのようにひかめき、水族館のガラスケースのような役割を果たしていた。小さい星のような粒子はお互いにぶつかって削れていくけれど、研磨されたものは宝石のような輝きをもって遠く上の方へと登って行った。そう、そういったグリッター越しに目に映るトンネルの向こう側の景色はまさに天下の奇観ともいうべきもので、宇宙の星々が奥行きを持ってキラキラと輝いている。落下している事も忘れるようなそのきらめきに満ち溢れた景色が、なぜか急にぼやけて見えた。そうすると更に輝きに包まれているようでとても、とても美しいものだった。
「泣いてるんすか?」隣からそんな声がして、天使の翼を持った2人がついていることを実感する。彼らはその翼を巧みに使って、増して行く重力に耐えている。「憑物が取れたみたいで……よく分からないんですけど、ただ嬉しいです」「それはよかった」ほくそ笑むヨンサはチュウォンの体を持ってしてそう言っているので、少し心臓に悪い。
「えーと、色々聞きたいことがあるんですけど、どうしてヨンサさんはここに来れたんですか?」「いや、相談したいことがあって何度も電話したのに繋がらなくってね。不思議に思っていたんだけど、そしたら僕の第六感が働いてね、ヨンサ・センスかな?んで僕は魂と体を天国に持っていって、負荷はかかったけどチュウォンさんの体に実体ごと入れこんでね!君たちを窮地から救ったんだ。んーまそんな感じで、呼ばれた気がしたから急いで天国に向かっただけのことだよ」「助けてくれてホンッッットーーーーーーーに!感謝してるっす!」嬉しさが羽の動きにも表れているスヒョンはいつもよりもはしゃいでいる。見ているこっちも笑顔になるほどの溌剌さだった。
「ええ、本当にありがとうございます。それと……緊急事態と伝えたいことって?」「それはね……フェスを開催する会社の都合が変わって、後1週間で仕上げて欲しいのと、君たちも見たと思うけど、地獄界の侵略だよ」前者も後者も驚きの連続だ……。「どうしろっていうんですか、そんなの」「大丈夫、パフォーマンスに関してはフリ入れは結構できてきてるし、収録も終わってる。全員ワンテイクでね!で、地獄の方だけど、うーん……ここからじゃ見えないかな」イルミネーションのようなトンネルから目を凝らしても見えないようだった。「まあ、結論から言うと場所が分かったんだよ」「本当に!?」「うん、でもちょっと難癖でね。空中遺跡というか、文字通り空中に浮いていて、……彼ら独自の文化が外に出ないように連絡通路も絶たれているんだ」「ゼツボーじゃないっすかああああ」「いやいやいや、重力を無視しすぎでしょう」「それがね、彼らが持っている宝石、オーパーツとされる遺物の『浮遊石』こそが浮力をその地に与えているというんだ。堕ちてしまったアイドルがそこに監禁されている以上、何か裏があるとしか思えないんだけどね」落ちるその美しい顔に、儚さがよぎった。
「ていうかスヒョン君、どうやって翼が生えたの?それにうっすらと天国の言葉も理解しているみたいだ」そういえば彼は兵役中で、天国の契約期間も途中のはずだ。「わかんねっす!当たって砕けろの精神で飛び込んでみたら翼が生えててぇ」「なら、天国が壊滅状態になったことで契約そのものも破綻したとか?でもそれなら地球のみんなも飛べるはずだしなあ。梅田ちゃんも」「そう、ですねぇ」
「げ」そう言ってスヒョンは気まずい顔をする。顔面蒼白になったまま、ポケットというポケットを探り始めた。「どうしたんですか?」「いやあそれが。先輩に渡す予定だったこれをずっと持ってたままで……」左手に持っているのはブリリアントカットが施された小ぶりなダイヤモンドのネックレスだ。「あー!それ!」ヨンサもスヒョンに近づく。「やばいっすよー!やばいっす!」「なんですか?このネックレス」私がそう尋ねると、ヨンサは顎に手を置いて首を傾げる。
「これは……まあ、僕たちしかいないから言うけど、アイドルの中で昔から行われている交換の儀式だよ。アイドルになった以上、1度はこの宝石を持たなければならない。秘密のやり取りだから、暗号を使っていたり場合によっては合言葉もある。秘密にされ続けているそれは天使の羽根も素材に使われていて、ホームシックな地球の天使を癒す役目を果たしている。受け渡しは先輩から、または同期の間でもいい。送られ、受け取るものだ。ただ1度受け取ったらもう2度と手には入らない。だからってずっと持っておくのもダメ。羨むなら個人で偶像を作ればいいという話になる。しかし、スヒョン君は、その……借りパクをしようとしていたわけだけど」「ひど!言いがかりっすよ!」「だって今頃は、僕らのグループのメンバーに回っている筈だったんだけど!?」「えーっ!ド忘れしてた〜!」よく宇宙は無音だと言われるが、アイドルはそう言った常識をも凌駕する。もちろん良い意味で。
「え〜〜っ……あ!」途端、ヨンサが何かを思いついたようだった。「もしかしたらそれが、君を天使にしてるのかも!天使の加護ってそういうもんでしょ!?ねぇ梅田ちゃん!」急にこちらを振り返って、手をぎゅっと握られる。心情的には血管もギュってなって動悸が激しくなってる。「ええっ、まあ確かに。パワーストーンみたいなものでしょうか……!」思わず目を伏せてしまったけれども、相手に伝わるように喋ったつもりだ。
「俺〜!ついてるっすねぇ!」スヒョンは自身の強運を称賛してセルフハグをする。その自愛は誰も干渉することのない幸せを満たす1つの方法だった。
「じゃあ地球に着いたら渡してくれる?それまでは持っといてよ!」離したら危ないからね、と優しさを付け足す。「り〜っす」
先程まで遠くの方に見えていた青いその星は点から徐々に大きくなり、雨雲などが分かるぐらいにまで近づいてきた。言語の壁が生じるまでに聞いておかなければいけないこと、他に何かあったかな……。「あの、DVTのメンバーはみんな元気ですか?」「うん?そうだね、まだ魂と体の食い違いは起こってないよ。エモも各々で集められている。でも気になる人といえば、シゥかな。なんだか不思議な行動が多いんだよ。この前なんか練習を続けているのに飲み会に行こうとしていたし」「シゥって、あのグループの少年っすか?俺そこのメンバーと仲良くてグループの話聞いてるんすけど、あまりオフでも都合が合わないらしくて。いまいちよく知らないんすよね」「梅田ちゃんの審美眼は素晴らしいけど、君も相当のマニアだよね」「そうですか?確かに私も、前グループで兄弟として活動していたけれど、シゥのお兄さんの方が問題を起こして解散して以来知らなかったんですけど……名鑑を見た時にビビッと来てしまって。惹かれたというか」そして、話し終わった直後にヨンサも何か思い当たることがあったようだ。
「……あぁ、あぁ!それを聞いて思い出した。悲しい兄弟の話を」