捉えどころがない人となり
通話ボタンを押してしまったのが運のつきか。『プロデューサーさん!見えてる?』そのスマホには推しが上空を真っ逆さまに落ちている画面が映るので心臓に悪い。「危ない!気をつけて!」『大丈夫!地球にまで繋がる秘密のトンネルがあるのさ~』人工衛星に到達する宇宙エレベーターですらナノチューブ等の資源の問題でまだ完成してないというのに、天使たちはどこまで技術が進んでいるのか……自分はヨンサくんの母国語を履修したらチホさんに聞いてみようか。
「起きたら夢オチだったじゃ済まされないのかな、こんな珍事」『だったらメモを見た皆は君を狂人だと言うだろうね。たとえ世界が大義名分を振りかざして君を社会から排除しようとしても僕はクオミイニョンでかばってるよ』当社比で声を小さくして呟いても地獄耳ヨンサが聞いている。いや、天使だから地獄は似つかわしくないかな。
長時間の通話はバッテリーの大量消費にも繋がるので地球に着いたらまた連絡してと言って切った。というか、電池を充電する場所って……?
「それなら突き当りまで進んで右に曲がると君の家が用意されてあるから、そこに行けばいい」後ろからぬっと出てくるチホさんの登場は毎回心臓に悪い。「は、はあ。ありがとうございます……」
ここに来てから数時間ほどしか経っていないが、天使たちは人間の事を会話が出来る外国人程度にしか思っていないのだろうかと考える。ヨンサくんとあのトンネルに繋がる穴の前で別れた後クオミイニョンをチホさんに案内してもらって、通りがかる魂が見えはしないけど眼前にまで迫っているような気がして、好奇心がダイレクトに伝わる。自分が言葉を話すと周りに群がるのが伝わってくるし表情すら感じられるようだった。魂から質量を持って人間のような体になるのには前例を見ているとそう難しくないように思うけど、内気だから匿名でいたいのだろうか。アイドルの魂とは言うけれど、烏合の衆みたい。「失礼だな」……後で訂正しよう。天使は、メタ的存在だ。「すみません、脳みそ覗けるんでしたね」
「そうだ。話に戻ろう。クオミイニョンには君が食いつくような図書館も設えてある。是非立ち寄ってくれ」図書館!オタクとしては心が弾まずにはいられない。自分はアイドルの事を考えアイドルに会いに行く以外は本に時間を注いでいるから、図書館は心が休まる場所でもあった。第2の故郷はドームだし第3の故郷は図書館かもしれない。ただ、やはり問題点が「でもチホさん、やっぱり言葉が分からなくて……」「ふむ、辞書を読んだ後に古代の教科書を読んだら人間らしい観点から新たな法則が見えると思ったのだが。仕方ない、少しばかり知恵を授けよう」また魔法を使うのだろう。今思うとヨンサくんに易々と触れられたのはここに着いた時に彼がかけた魔法のせいかもしれない。「ああ、催眠など容易いからな。ただ一般的に地球人は催眠に罹りやすく自分から催眠術にかかりにいくような挙動を見せるが、どうやら梅田は人一倍自我が強かったのでヨンサが催眠をかけざるをえなかった」脳内を覗かれて自分が言葉を発さずとも続いている会話に、もう違和を感じない。チホさんはそれよりも凄い魔法をかけるのかな。「その空間内でしか効き目がないが、君に古代の言葉が分かる、梅田らしく言えば魔法だ。手を私の頭にかざしてくれないか」言われるとおりに自分はチホさんの頭に手を伸ばす。それと言うのも私は160近いのにチホさんとは30cm以上離れていて手が届かないからだ。少しばかりそう思うとチホさんが軽くしゃがんでくれた。「あ、スミマセン……」
しばらくすると頭が痛くなって、手の先から光が自分に迫ってき、脳にしわが沢山刻まれているようだった。「これで、私にも?」「文字が読めるし、話せるようになるだろう。まあ古代の言葉だから周りの魂とは死語しか話せないだろうが」それは少し、呪いだ。
「でもこれで、魂の声も聞こえるんですよね?」「それは、少し制限をかけてある。クオミイニョンに住んでいる彼らは顔が見えないのをいいことに、」あ、愚痴でも言ってるのかな。
「君よりも地球の大地に対する賛歌をうたっているし、地球のアイドルのSNSに複数のアカウントを使って愛を表現している」「は、はあ。なんというか、……壮絶ですね」憎む種など、やはり天国にはないのか。
「純な魂はトップアイドルラノハーマ以外に進む道はないからな。四六時中アイドルの前向きな話ばかりだ。たとえ悪徳ゴシップが彼らの目に映ったとしても見なかったことにするだろう」ああ、お花畑に住んでいるようなファンみたいだ。「強い生き方ですね、少し憧れます」「まあ、常駐していることで思想が凝り固まって我を通そうとするやつが最近増えてきたが……」
「今の時代にあってると思いますよ」自分も20余年人生を生きてきて、日常でアイドルのように個性を発揮させる人はあまり見たことが無い。地球全体が社会に適合した量産型をつくっているようで、あまりにも灰色がかった未来しか見えないからだ。だからこそアイドルを中心とした界隈が盛り上がる循環がしっかりと確立しているのだけど。まあ現実がどれほど非情でもどの時代、どんな場所にいようとアイドルは非現実な夢を見せてくれる。出来る事ならばクオミイニョンの魂と一緒に永遠にアイドルを見たいと思う。
「ハハハ」「凄い、生きてきた中で一番の空虚な笑いだ……」チホさんは公私ともに寡黙で真面目だったから嘘でも真顔で笑ってくれたことをありがたく思うけど。それにしてもだ。「いや、君が永遠にここにいることは難しいからな。ただでさえここを夢ではなく現実だと捉えてしまったから足に自分の体がのしかかる重力を感じるだろう。そして更にすべてを自覚してしまったら君は嫌でも地球に帰ってもらうことになる。夢を見ない人間からはエモを得られない、私達には必要ないからだ」アイドルを冷めた目で見るのは、やめろということか。「またドルオタも冷めた目で見るのはやめたほうがいい。彼彼女の青春を受け止めろ」「いや、それは時たま感じる同族嫌悪ですけどね……」その1秒で過ぎるオタク特有の嫌悪以外は特に感じたことが無い。
「そうか、ならここでもその調子を保ってほしい」
図書館にはまた後で寄るとして、思ったよりも疲れてきたのでチホさんに連れられて自分の部屋に移動する。見た目はオーディション会場が縮小されたような、かまくらを思い起こす外見だ。しかしドアを開けたところで自分は驚くことになる。「いや、そのままじゃないですか」実家で暮らしていた時の自室同然、というか、そのままクオミイニョンに移動したようだ。「クローン技術を使用した。喜んでいただけたようで何よりだ」床に散らばっている没の原稿まで……「丁寧に、再現しなくても」「そういったところにアイデアは潜んでいる。貴重な資料だ」どうしてか、今なら没後に少年時代の落書きを載せられる文豪や絵描きの気持ちが分かる気がする。「まあ私は端くれなんだけど、それでも恥ずかしいわ……」いったんチホさんには悪いけど外に出てもらって急いで部屋を掃除する。缶詰め状態を冷静な目で見つめ返すとよく人間が住めるものだななんて思う。これ、女子以前に人間として生活感が疑われる。
何があったかは省くとして自分は一応綺麗にした。ベッドに、原稿を書く机とパソコン、それとタンスとクローゼットとドレッサーが顔を出す。ただし、何か物を1ミリでもずらせば雪崩が起こるので、テープを張った場所以外にチホさんが歩ける場所はないけど。「なら、私は3歩しか歩けないことになるな」「……まあ、空中なら入っていけないことも、ないです」私は、アイドルにとても甘い。
その時、手に持っていたスマホが鳴り出した。メンバーが大方決まったのだろうか。「やあ!プロデューサーさん、メンバーが決まったよ。画面に映していくね」画面越しに見たことのあるアイドルが映る。
まず最初に映ったのは出たがりで愛嬌のある中心的人物になりそうなアドストローのラップ担当、『コジュン』だった。背が高く、浅黒い肌に薄い生地のタンクトップが目に眩しい。「ヨンサの言っていることは半信半疑だったけど、意外とプロデューサーが人間ぽかったし、まあ考えが変わった。期間は短いけど、これからよろしくお願いします!」とても礼儀正しい見た目通りの好青年だ。この期間限定チームを見ていると薄々あのメンバーが魂として入ったのだな、と推測出来る。「分かりました。こちらこそよろしくお願いします!」
続いてメンバーが映されていく。コームの『ソンユ』だ。少し白っぽいグレーの髪の毛をなびかせて、彼が控えめに喋る。「面白そうだな~と思ったらいつの間にか僕が輪の中に入ってました~よろしく~」語尾を伸ばす癖があるらしい。
3人目はドリームサムシングのボーカル担当『ソハン』だ。お腹と背中がくっつきそうな勢いで痩せている彼は儚くて危なげな雰囲気すらある。「オレ、一生をかけるんで頑張ります」顔には出ないが情熱的なところがファンにとっては魅力だとよく聞く。
そして周りよりも少し体格が幼いのはホライズンの作詞作曲とダンスを担当する若手注目の神童ともうたわれている『シゥ』だ。「チーム全体から一歩引いて制作者側に回ってしまうこともたまにあるんですけど、今回は終始みんなで作れるようなことやりたいです!よろしくお願いします!」声変わりしていない柔らかくて耳触りの良い声は多くの世代に愛されてエンジェル・ボイスのあだ名もついていた。でも自分が気になったのは、隣の女子アイドル2人だった。男女混合グループでライブをするつもりだ。
5人目のアイドル、テコテコの『イチカ』が上目遣いでこちらを見つめる。「えっと、その、私がここにいることは場違いなんでしょうけど……頑張ります!お願いします!」赤みのある茶色のショートカットでさっぱりとした美人な見た目とは裏腹に、おどおどしている。
その次に気になったのは、というか画面に映った瞬間、自分自身が平静を保てるのか不安になりそうだった。淡色申告の悪女キャラで売り出している『ミンジャ』だ。ただの噂だが、彼女はチュウォンが生前最後に会った人物で、まあ……とやかく言われていた。明るいピンクの髪をかき上げながら気だるげな感じで挨拶する。「……頑張りまぁす」少し公私混同している面もあるが何となく、最初に相談したい人物だった。「彼女と相談したいなら、君のネガティブな考えを払拭してからにするべきだ」すべてを見通しているチホさんが後ろから小声でくぎを打つ。ザワザワする気持ちを押さえつけてヨンサが全員を画面内の画角に収めるのを見つめる。
「そこに第一審査から勝ち上がったヨンサを加えて7人なんですね。分かりました、今から新曲を聞いて振り入れをして1週間しかないのは痛手ですけど、その分私もみんなのことを心からサポートしたいのでよろしくお願いします。」その後何個かチホさんマニュアルに書かれている業務命令を喋って画面を閉じた。今から1週間都内に用意した地下1階を含めた5階建ての、屋上のある大型のレッスン室で午後6時から任意で深夜まで練習というものだった。毎日1時間は必ず練習を生配信する。言葉にすると人間の活動限界を超越したハードスケジュールだが、なるほど、みんな1度は大賞を取ったことがある人気メンバーなんだ。それに体力面も重視したように思える。1週間の付き合いとはいえ仲良くしてくれたらいいな。
「それはどうだろうか。早速問題が起きているぞ」ハハハ、まさか。「あ、通知だ」
ヨンサが相談したい人がいる!というメールを送ってきた。内容を斜め読みしていると、下にミンジャの写真が載っていた。一緒に映っているのは……あぁ、どこにも流出していない、チュウォンとのツーショット、らしかった。
元より淡色申告の中で悪女キャラとして名高い彼女だったが、相次ぐ男性アイドルとしてのスキャンダルやスクープ、4股疑惑など、悪女であることはキャラの中にとどまらずミンジャ自身の性格にまで悪影響が及んだ。ただこういう報道がなされても、本人も淡色申告が所属する事務所も触れることなくスルーして、事態がおさまるのを見守るというのがパターン化されていた。そういった動きは、ファンや推しが被害に遭った他グループのファンがミンジャはクロだと確信するにあたって極めて大きな証拠にならざるをえない。かくいう自分もチュウォンと生前最後に会ったという疑惑を事実として飲み込むのには、本人を目の前にしてもまだ時間がかかりそうだった。どれだけポジティブに考えようとしても、彼女が口を割らない限りは、複雑で不吉な塊が取り除けずにいた。
改めて文面を読み返す。『プロデューサーさんですか。お願いがあるんですけど私と彼の関係はみんなには秘密にしてください。よろしくお願いします。』よそよそしさが前面に出ているメールは一瞬本人が打ったのか疑わしかった。確かにお世辞にも愛想がいいとは言えずまだ関係者に対して壁を感じている様子だったが、自分はこれはどうも言わされている、と感じてしまう。「どうしよう、これから1時間練習室の生配信があるのに、ミンジャに濡れ衣が着せられている、このままじゃ生配信を見たファンが悲しんで地獄行きの烙印を押されてしまうの!?」「落ち着け。まだ全て決まったわけじゃない。ヨンサに一部始終を聞いてもらった方が早いだろう」またチホさんに諭された。せっかちは自分の欠点だ。「そう……ですね。ヨンサさん!今通話出来ますか?」スマホに向かって喋ると着信画面にヨンサくんの名前が表示される。2コール以内にヨンサくんが電話を取って応じた。『もしもし』ヨンサくんの声がスピーカーで響く。自分がもしもしと返すと彼が間髪入れずに喋って来た。『梅田ちゃんにチホさん?いきなり大変なことになったね。さっき仲良くしたい一心でミンジャに気軽に接してたんだけど、避けられちゃって』それは、まごうことなき地球でのヨンサくんの母語で、自分は天使のヨンサくんとはまた別に壁を感じてしまう。でもまあなんだかんだ壁があって異星人である彼が腑に落ちてしまう自分もいるけど。
「ミンジャは今どこに?もうすぐ練習風景の撮影があるのに……」『生配信にはリアルタイムでコメントを送れるから、メンバーの並びに非難が飛び交う恐れもある。自分のせいでメンバーに迷惑をかけたくないからとか、なのかな』その時電話越しに声の向こうで物音が聞こえた。この状態でヨンサくんが見つかると本気で宇宙人と交信しているのかと疑われる、とチホさんが隣で囁く。「ヨンサさん、どっかに隠れた方が」そう言う前に電話に語りかけていた存在が一瞬にして消えたのが分かった。ヨンサくんの本能に従った逃げ足が速いことはファンやメンバー間でよく話題に上っていたので言う前に消えてもなんら不思議ではない。一瞬静かになった後、開けたドアを乱暴に閉める音が部屋に反響する。そして次に聞こえて来たのは女性の声だった。少しハスキーで我が強そうな声色だ。遠い所で何やら呟いている。
『どうして私の実力を認めることが出来ないの!』急に怒った大きな声が耳をつんざく。
『アイドルなのに……に恋愛感情を抱くわけがない。……地獄に落とされた私の家族は誰も救ってくれない』まるで演技練習をしているように怒鳴る彼女は、どうやらミンジャらしかった。家族が地獄に落とされた……?疑問に感じたところで、ストレスを発散し終えたミンジャは部屋を後にした。
『こ、こわあ……』自分もヨンサくんと同じ感想が心中に湧き出る。その時隣で調べ物をしていたチホさんが口を開いた。
「彼女の発言は、強ち間違いではなさそうだ。情報源は不確かだが、ミンジャの彼氏とされるアイドルの熱烈なファンが彼女や彼女の肉親にいちゃもんをつけて慰謝料などを要求しているらしい」そう言ってチホさんが見せてくれたのは、『交際疑惑にショックを受けたファン、コンサート終わりに救急車で搬送』といった見出しの記事で、コメント欄に救急車で搬送された人とはまた別のファンが怒り狂った文面で『かわいそう!救急車を呼んだお金もカウンセラーのお金も全部彼女に請求しなさい!』と書いていた。「このコメントを書いたファンは挙句の果てに街中で署名運動を求めて彼女を彼女の母国から追い出そうとしたのだ。結果は人数が足りず提出は取りやめになったそうだが」
恐ろしいのは、全て本人や事務所が触れていないのに1つの行き過ぎた被害妄想のせいで危うく彼女が追放されそうになったことだった。いくらミンジャの真の人物像がメディアや事務所によってぼかされているからといって、痺れを切らすのはあまり良いとは言えない。そもそも記事ですらまともに機能していないことだってあるのに。「君の思う通りだ。上から見ていたが記事に書かれている時間帯に会場や駅までの道で救急車が呼ばれた形跡はおろか記録もない。あろうことか、この記事を発信した企業の本社所在地は遠い海辺の更地……虚構にもほど近い信憑性のないものだ」
『何々!何見てるの!』チホさんが手に持っているカルテのようなものに書かれたフェイクニュースの記事を読み上げる。
ミンジャのことを知りたいと思った。彼女自身の口から嘘偽りない告白を聞くのは何が飛び出してくるか分からない不安があったが、それでも嘘八百のメディアを鵜呑みにして気が触れるよりかはましだ。どうにかして彼女に真実を話してほしいと思う、だけども天界からの電話は通じないだろう。ヨンサくん曰く「はたから見れば何を話しているのか分からない。特にその言語は魂の3分の2を天使にされている彼彼女らの感情に未知のものとして悪影響を及ぼして精神の分裂に繋がりかねない」らしい。間接的でもいいからどうにか出来ないかな……。
「なら先程のようにスマホを盗聴器代わりに置くのはどうだろうか?」あ~確かに、さっきのは事故だったけどあれなら誰にも悪影響を与えずミンジャの悩みを解決出来る、かもしれない。「わー!練習開始まであと30分なんだけど!」「ヨンサさん、これはチホさんからの提案なんですけど」かくかくしかじか話して、作戦を立てる。というのも突貫作業だけど……ヨンサくんがミンジャの気を引いてここの練習室に呼び出したところで、洗いざらい話してほしいと伝えるものだった。とても作戦とは言えないけどヨンサくんのポテンシャルを信じているから出た結論であって、その中でも彼の話術は信頼に足るものがあった。
ビデオ通話に切り替わり、反射的にインカメに映る自分の顔を逸らすためにスマホをチホさんの方に傾ける。ヨンサくんがパッと見渡した限りでは判別も出来ないような場所にスマホを忍ばせた後足音が遠ざかり、しばらくして今度は2人分の足音も聞こえた。
『ごめん!目に付けてたコンタクトが落ちちゃって……一緒に探してもらってもいいかな?』『いいけど』こちらからだとヨンサくんが背を向けている姿しか視認出来ないが、うまく連れ出せたらしい。『あれがないと、スタンドから応援している皆の顔が見られないんだよね』『……』表向きのカメラが回っていなくてもアイドルになるヨンサくんに中腰で乗り気でないミンジャは半ば呆れている。『しかも振り入れなのにメンバーにぶつかったらなんて批判されるか!一気に不仲説だし、まして異性のアイドルにぶつかったら……』異性のアイドル、という言葉にミンジャがぴくっと反応する。
『何?また私のネタを増やしたいわけ?コンタクトも嘘で既成事実を作ろうとしてるの?』ミンジャが立ち上がり光を失くした目でヨンサくんを見つめる。『まさか!冷静に冷静に、というか、君の属している淡色申告は実力派ユニットなのに、そっちのほうをネタにするべきだと僕は思うんだけど』ヨンサくんは飛び上がって、ミンジャに同調する。『ええそうね。人っていうのはなぜかネガティブなことの方に関心を寄せやすいの。それに負けない記録も私たちは持っているはずなのに』
『うん。だからここに選ばれたんだよ』淡色申告は、運動量の多いダンスで歌唱力も申し分なく体力面では男性グループに匹敵するレベルの強者揃いのユニットだ。ファンにあまり媚を売らない一匹狼のようなグループとしても評価され、そんなクールな一面に憧れる女子も少なくはなかった。ただ、確実にインフルエンサーになれる力があるのに伸び悩んでいるのは最早僻みや嫉妬にも似たバッシングが原因だった。きっと、こういう現実の苦しさは本人たちが一番苦労している部分だろう。
『1度大賞を取ったら100の非難が飛ぶ毎日で、もう最近はアンチの事を忘れるように練習にのめり込んでいる。うんざりだわ、全てが』悪循環を地で行っている最近の淡色申告の活動には、昔のような弾け飛ぶ純烈さは消えつつあるし体調不良を理由にサイン会を欠席するメンバーも少なくなかった。
『1回噂について言及するのは駄目なの?』ヨンサくんが笑顔で人の地雷を踏む。『あんたには何も分からないわよ。憶測で自分の知らない自分の人物像が出来上がる恐怖が』ミンジャが見捨てるように視線を逸らす。……人間不信になって壁を作ってしまうミンジャ、今まで誰にも相談してこなかったのかな。『ご、ごめん』怒気を帯びたオーラに気圧されてヨンサくんが謝ると気まずい空気が流れる。合同練習まで、後10分もない……。
『そろそろ元からないコンタクトを探すフリやめてくれる?』あまりにも核心をつく一言に自分が思わず図星のような反応をする。ヨンサくんは相も変わらずアイドルのままだ。『ん~ここにはなかったみたい、ごめんね。それより練習が始まるよ1』上がった口角を崩さずにヨンサくんはミンジャの手を取りダッシュで練習室を出た。……一瞬だけ、ミンジャがこちらを見たような気がしたが、気のせいだろう。自分も通話を切って放送準備をする、よりも早くチホさんが放送設備を整えてくれていた。「ひ~ありがとうございます!」「なんということはない」数々のアイドルをこうやって愛あるサポートで縁の下から支えてくれていたであろうチホさんの磨き上げられた手腕に、なぜか泣きそうになる。「すみません、愛しかないもので……」「主語が分からないが、泣くことはないと思う。それよりも放送だ」そう言うと、自分のポケットに入っている長年使っているスマホが震える。「天界でもWi-Fiが繋がる事あるんだ」通知から特設ページに飛ぶと7人がずらりと並んでいた。『僕達、1週間後に大型アイドルフェスでライブをします!見に来てね!』ヨンサくんが開口一番一同がざわっと不安そうになることを言う。『それ、ネタバレだろ!1日前に言おうって……えぇ!?』気まずい空気を吹き飛ばすようにコジュンが突っ込むと、ちょいちょいとソンユが手に持っていた社用のスマホを見せる。『もう完売なんだって~』『本当!?頑張らないと!』
ヨンサくんがよし!と気合を入れて練習モードに入り、メンバーもそれぞれ立ち位置に移動した。レッスン室によくある壁一面の鏡の前に、プロのダンストレーナーが仁王立ちしている。軽いレッスンを済ませた後、段々と振り入れをしていき次第にヒートアップする。コメント欄も『1週間でこんな激しいダンスを!?』『ダンス苦手なのにシゥが別人みたいに頑張ってるTT』と賑わいを見せていた。
自分たちが危惧していたアンチによるコメントは少ない。杞憂で終わって良かったと思うのも束の間、コメント欄に異常が発生した。内容をそのまま載せるのも憚られるほど下劣な長文で、1つのコメントがページを更新しても見切れるほど長く続いていた。「ミンジャに対するコメントだ」チホさんと思わずハモってしまう。周りのコメントが迷惑がって団結してスパム通報しようとしても、また別のアカウントで同じ文面が投稿される。「勘弁してよ……」そう呟きながら運営直々に長文コピペを全文ミュート―ワードに設定するよう言い渡し、場違いなコメントは数10分後に消えた。「アカウントを特定しようにも、これほど大量になされていると一々潰すのには大量の時間を要するな」チホさんは目の前に半透明なスクリーンを表示し、近未来的な方法でアドレスなどを調べている。だけど検索結果は海の上だったり無人島だったりめちゃくちゃだ。「そうですよね。ここまでくるとミンジャのアンチたちは熱心な狂信者のようにも思えるんですけど……」それを逆手に取ったミンジャの被害に遭ったファンが協力しているんじゃないかななんてみんなのダンスを見ながらしょうもない絵空事を考える。ただそんなアンチのコメントの余波は思ったよりもコメント欄にいた人たちに大きく伝播していった。『ミンジャとかいうアイドルの交際疑惑って本当?』『男女混合グループがそもそも無理があるのにメンバーの中にスクープ常連のお騒がせ女がいる時点で推しいても応援する気になれないw』そういったコメントがどれだけスクロールしていても過半数を占める。その流れにイラついてしまったのか、淡色申告の実力を認める人らが擁護に回ってきた。嫌な予感だ……。『はwそもそもこの中で大賞を1番取ってるのは淡色申告だし、ファンとの接触が多いグループとは根本から目指してるところが違う』『ソースもないのによく虚言を信じられるわね、そちらの層は知能が低いのねw』擁護したとしても、他者をけなしては意味がないどころか論争が激化する。コメント欄は勢いを増し誰もダンスを見ていないようだった。「ああ、問題が山積み……」そうしょげていてもコメントはとどまるところを知らない。画面内のみんなの真面目な練習は批評されるどころか誰も見ていなかった。
ところが、流れを変えたのは他でもない、クオミイニョンの魂たちだった。『キャー!!!!!!!!!!!!コジュンの圧倒的!彼氏感!看取られたい!私に花を手向けて!』『ソハンの隠微たるソウルは消えることはない。私達がどこまでも彼らにエールを送るからだ。ソハンの流動は儚いと思いきや、消えることはない。美術館に展示された彫刻作品のようにそれは作品名のつけられた世界遺産だからだ。ソハンは……』長いから省くけど、そうやってポジティブで詩的な長文を魂たちが捻出していた。「こういったものが常時私の耳に嫌というほど流れ込んでくるのだ」「そ、それは……」大変ですね。でもこれはいい流れだ。次第に落ち着きを取り戻しみんなダンスやメンバー間のなれ合いに注目する。これこれ、こういうのを求めていた。「うむ。人間たちのエモが回復していくな」なんとか自分たちが求めていた理想形に近づき思わずほっと息を漏らす。楽しい時間はあっという間で、1時間は秒で終わった。「秒で終わることはないだろう、いくらクオミイニョンと地球の間に大きな歪みが生じていてもヨンサがくれたスマホが時間を是正しているというのに」「よくある誇張表現ですよ」
それよりも、今後もコメント欄でこういうことが起きるならば、配信すら自粛しなければならない。早い所書き込んでいる人たちを特定して、いるならば親玉を突き止めたい。「いや、自ずから動かなくてもいいようだ」そう言ってチホさんは自分に運営宛に届いたメールを見せてくれた。『今までどれだけの人がミンジャの火遊びに付き合わされたと思っているんだ。いい加減にしろ!情報源の開示を求ム!』触れたらいけないようなタイプの文面だ。「この短い文章の中に、何か証拠を掴んだんですか?」「このコメントを打った当人は発信源を消すことを忘れていたようだ。しかもこれは今までのよりも信頼性の高い」チホさんがにやりと不敵な笑みを見せる。お母さんと一緒に見ていたドラマで悪役を演じていた、当時のチホさんと全く同じ笑いだった。「一体どこなんですか?」
「アイドル関係の仕事に携わるスポンサー企業に設置されている社用のパソコンだ。会社自体は大したことないが、新入りの男性アイドルグループを中心とした地下ライブの主催をしている。社内に新人男性アイドルのファンが多く、その年季の入った審美眼で気に入ったグループを見つけてはそのグループのマネージャーなどを通じてハコを用意していた。そんな社員たちが何よりも恐れていたのは、女性アイドルや一般女性との交際報道だ。地下アイドルにはまだそういう恋愛の境目を掴めていない者も多い」「そういう地下アイドルにはクオミイニョンの魂は入らないんですか?」「まだ天国の魂の数がすべてのアイドルを保証するまでには至っていない。地球で人が産まれる度に無限の可能性を秘めた魂も付属するが、目をつけても大半は社会の流れに基づき早々にクオミイニョンの魂となる確率が低くなる。まあクオミイニョンの魂を付与したとして、それを上手く扱えない者も存在するが……話を戻そう」クオミイニョンに純粋無垢なアイドルの魂しかないのは、そういう事情があったのか。社会的という言葉とかけ離れたアイドルがいるのも頷ける。
チホさんが指でスワイプしながら、ヒットした検索結果を見つめながら喋る。「そして社員たちは自身の企業が主催を務めたアイドルが売れた時、10000人ぐらいのドームライブにも協賛していた。そういう活動を行っていく中で社員が手塩にかけたアイドルは徐々に人気になっていく。そうすると古参ぶる社員の中に自意識過剰になる者も現れた。普通この社員たちはグループが有名になると担降りのような動きで他の男性アイドルを探すのだが、1つのグループに固執してしまった者がいたようだ。その人物が人望に富んでいたので、様々な職種の友人を使い悪女のパブリック・イメージが強かったミンジャを、悪者に仕立てあげようと陰謀を考えていたのだ。そう、自分の手を汚さずゴーストライターやセキュリティ・ハッカー、熱狂的なファンになりすまして。だが、どうやらこのグループ結成の動きには本能で拒否反応を示してしまったのだろうな。前にスポンサーになったドリームサムシングのメンバー、ソハンがいたからだ」身から出た錆、とはまさにこのことだ。しかしそんな恣意的な会社も地球上に存在するのか……。「なら、今からその会社に行って何とかなりませんかね」「私たちには難しいが、地球のスタッフに話してその会社に行って、注意するよう言ってみれば何とかなるかもしれない。ヨンサを呼んでみるか」目には目を、ドルオタにはアイドルを?も、しかしたらヨンサくんの美貌に惚れてしまうだろうけどそんなことが実際にありうるのか。「不可能を可能にするのが私たちアイドルもとい天使の使命だと思っている」「か、かっこいい」過去に天候不順で野外ライブの開催が中止になるかもしれない危機を、襲いかかる驟雨や壊れたマイクにも負けずアカペラで1曲歌い上げた後晴天にしたアイドルが言うと重みがある。
ならば、急いで行動に移さないと。レッスン終わりに疲れているヨンサくんを引っ張り出すのは申し訳ないけど、レッスン室があるビルからは走って数分の距離に本社があったため事情を伝えてヨンサくんに動いてもらうことにした。「彼は疲れない。体力が天井知らずだ」隣からの一言で自分の不安は杞憂に変わった。スタッフと一緒に車で高層ビルの前に止まり、受付にかけあっているといった文章がメールで送られてくる。自分たちに出来ることは、成功するようただ祈るのみだった。
最後の既読表示から小一時間経ち、再びメールが送られてきた。『僕のファンが1人増えたよ!ブイブイ!』それだけで大切なお知らせという題名よりも遥かに大きな安心感を得る。『彼女は根も葉もない噂を信じすぎて現実を色眼鏡なしで見られなくなっていたんだ。だから僕がミンジャの代わりにアイドルの誠実さを30分ぐらい伝えたら、僕の金言が彼女の琴線に触れられたのか会社の方針は間違っている、やっぱり退職してただのドルオタに戻ると決意してその場で退職届を書いたんだ。さすがにそこまでは想像してなかったからびっくりしたんだけど、なんとか事態は収拾したっぽい。迷惑行為を省みてくれたお礼に握手したら彼女の乙女心が開花しちゃった!』
改行された文章を読んでいき、幾度となく感じていたアイドルの凄さにまた感銘を受けることになった。「不可能を可能にする、未完成が完成されたアイドルがやっぱり好き……」「未完成を完成させる、か。確かにその考えは我々のアイドルへの解釈にも通ずるものがあるな」「クオミイニョンの崇高な魂も、未完成を補完しようとはしないんですね」「青年たちのもとある人間性を否定し始めたら、綺麗に商品化された量産型アイドルが増えるだけだろう」その点でヨンサくんの所属するKDPは20人いながらも統率のとれたパフォーマンスで、お互いが不完全な人間でありながら全員で完成された芸術を創造しようとするのはアイドルの最前線をいっていた。そういうところが、自分のアイドルの解釈に最も肉迫しているからこそ、ヨンサくん含む20人全員の箱推しになれているのかもしれない。
「自担についてのコラムを書くのは地球での仕事だ。今はこのプロデュースに集中しなさい」「すみません、気付いたらアイドルに五感を支配されているもので」
「多数のアイドルが所属する中でえこひいきはチームに不和をもたらす一因だからな。ひとまず、ミンジャの負担を少しでも軽く出来て良かった」まあ自分も、完全に故意の盗み聞きではあるものの彼女がシロに近い述懐が聞けたので胸をなでおろした。まだ流出していないツーショの件は追々考えるとして。
今頃ヨンサくんはレッスン室に戻り合同で練習をしていることだろう。推しが無事で幸せに暮らしてよかった、と同時に大きなあくびが出る。スーパーアイドルの鵜の目鷹の目はそれを見逃さなかった。
「まだ私たちの基準では6日残っているが、語学研修でもするか?」「いやいやいやいや、ヨンサくんの母語ですら覚えるのにめちゃくちゃ時間かかったのに……」「アイドルの私がマンツーマンで直々に教えるのに無料と来た。使わない手はないだろう」地球人の体力と天界の人の体力は比べ物にならない。苦学力行するか判断に迷っていると、放送を見ていたスマホに着信が来た。お母さんからだ。チホさんに静かにしてほしいとジェスチャーを送って電話に出る。
『良乃、今どこにいるの。あなた、原稿が間に合わなかったからって裸足で外に飛び出たんじゃないでしょうね』「ううん、ライブを見に行けなかった人たちと居酒屋に集まってレポを見ながらおつまみ食べてるの。そこへお出かけ用の靴で行ったから……」咄嗟に出た嘘で、常に家の中では正直者な自分は少し胸が痛くなる。『そう、ならいいの。いつ帰ってくるの?』それは……
「梅田良乃のお母さんですか」チホさんがスマホを奪取して電話に出る。自分は真っ蒼になって火事場の馬鹿力を発揮して大きくジャンプをしスマホを取り返す。チホ様強火オタクのお母さんは声を聴いただけで失神してしまう恐れがあるからだ。『い、今の声は誰?声が低くてチホ様ぽかったけど』「電波が悪くて声が低くなったみたい。またかけなおす!」急いで、電話を切った。ばいばいも言わずに。
このまま1週間、お母さんに嘘ばっか言うのはしんどい。なんとか出来たらいいんだけど。「君のクローンをつくったらいいじゃないか」「本気で言ってます?それ」「割とマジだ」真顔で若い言葉を使うチホさんに思わず笑ってしまうのを堪える。
「そ、そうです、か」笑っているじゃないかと言わなくても伝わる冷たい視線が、ぷるぷる震えるドルオタの姿を捉えていた。
結局圧に負けてチホさんの語学研修を受けた後少し仮眠をとって、自分は7人のメンバーに配信お疲れ様の旨を書いたコメントを送信した。ミンジャには個人トークで、1週間という限られた時間だけでもめいっぱい羽を伸ばすよう伝えた。
これからも自分は星に選ばれたアイドルにのしかかる重圧を取り除かなければならない。そしていずれは地獄にあるチュウォンの魂を、取り返せたらいいんだけども。クオミイニョンに建てられた仮の自室に戻り今日起こったことをパソコンに打ち込む。文章として書き起こすと、これは狂気の世界に放り出されても自分が自分であるための安定剤になった。アイドルの次に文章というのは癒しをもたらしてくれる。
パソコンをシャットダウンして、そうしていつものようにベッドに潜り込む。これまで何百回と通った、世界で一番短いと言っても過言ではない動線だ。ふとして、寝たらお母さんが起こしてくれる世界に戻ったりしないのかと思う。真実を知りたい反面、そんな大それた役目に自分などは相応しくないと思っている。こんなことに順応してきたら、自分も天使の仲間入りなんだろうか。一体、何に馴染めたら自分は満足がいくのか。……分からなかった。安定剤の効き目は薄い。もう眠るほかないようだ、枕を整えて仰向きに寝る。それでも寝つきが悪く、覚醒状態から落ち着けず中々入眠まで至らなかった。頭が痛くなって、自然と目から涙が出てきた。その時、窮地から救ってくれたヨンサくんの言葉を思い出す。
「君の生きづらそうな気持ちはよく分かるよ。それでも、僕たちの事は好きでいいからね」アイドルは、精神安定剤だ。散々泣きはらした自分は、原因が明確な疲れにかまけてぐっすり眠ることにした。