ある歴史家の書 ―『無』の力と神竜―
聖魔王ベルフレアは統治者としてはもちろん、魔術師としても極めて優れた人物であったとされる。
そんな彼女が使いこなしていたと伝えられているのが『無』を操る力である。任意の対象を文字通り無に還してしまうというこの凄まじい力は、魔王ベルフレア以外に使用できる存在は確認されていない。人間はおろか魔物においても、未だに未知の領域にある魔法なのである。
そのまさしく魔王と言うに相応しい力の証明と言えるのが、彼の貿易都市ドラゴニアの存在である。現在では広大かつ恵まれた土地を備えた貿易の中心として栄えるこの都市であるが、魔王降臨以前はそもそも存在すらしていなかった。というのも、この地には巨大な山が存在していたからだ。
その山には、遥か古くから生きている古竜が住まい、近隣住民には神竜として崇められていたとされる。しかし現在の研究によると、この神竜は長く生きた事で知能が高まっただけの単なるドラゴンであるという説が一般的である。
この神竜であるが、以前は土地の守り神として貢ぎ物を人間に捧げられていた。強大なドラゴンの存在は人間にとって土地の支配者のように映ったのである。しかし、魔王ベルフレアが降臨すると、一転して神竜は地元民から疎まれる存在となった。世界を支配して以降次々と人間に恩恵をもたらしてくれる魔王と、ただ貢ぎ物を要求するだけの神竜では当然の成り行きであったといえよう。
人心が離れていっている事を悟った神竜は暴挙に出た。あろうことか、偉大なる魔王に攻撃をしかけたのである。偶然自身の近くにいた魔王に対してブレスを放ったのだ。
普通の人間なら一瞬で消し炭になるであろう神竜のブレスは、しかし魔物の頂点たる魔王には無意味であった。傷つけるどころか服を汚す程度にしかならなかったという。
この俗物極まりない哀れな愚行により、神竜はこの世を去る事となった。魔王に刃を向けた狼藉をその命を以て贖う事となったのだ。
そしてこの時神竜に対して魔王が使ったと言われるのが『無』の力である。その威力は想像を絶するものであった。神竜はおろか、彼が縄張りとしていたはずの山すらも跡形も無く消滅させてしまったのだ。
神竜と神竜の住んでいた山を魔王が消し去ったという噂は瞬く間に近隣の領地に広まった。そしてここから、かつては山を挟んでいた領地の間での貿易が盛んになっていくこととなる。今までは、山とそこに住まう神竜が邪魔で貿易が妨げられていたのだ。
やがて貿易が本格的になると、いっそこの土地――山があった土地――に新しい都市を作ってはどうか、という意見を言う者が現れ始める。山が無くなった事によって生まれた広大な土地を、まるごと貿易都市にすることが決定したのである。
こうして誕生した貿易都市はドラゴニアと名付けられることとなった。ドラゴン――神竜が魔王に無礼を働いてくれたおかげでこの都市が誕生したのだ、と皮肉って名付けられたのである。
――やがて、ドラゴニアは貿易の中心点として、近隣の都市では随一の速度で加速度的に発展していくこととなる。




