コンパの思い出 日本の学生文化から無くなってしまったもの
15年前に書いた文章です。過去運営していたホームページからの転載です。
このホームページ、もう更新不可になっていますが、ネット上には残っています。
が、数ヶ月後には、ネットからも消えるという通知が先日ありましたので、残しておきたい文章、少しずつこちらのサイトに移していこう、と思っております。
03.12.10記
今、若い人のコンパというと合コンが中心ということになるのだろうか。
コンパの席では、話をするか、一気飲みをするか、王様ゲームのようなゲームを するか、といったところなのだろうか。よく分からない。
私の大学時代のコンパ。ほとんど所属していたお勉強のサークルで行った。 公式なもの、私的なもの。かなりの数をやったと思う。
ある程度酒がまわると、各自の持ち芸を披露することになる。
私は、そのような席上ではだいたい2番目くらいには、声がかかった。
一番よくやった芸は「一人相撲」。
ひとりで、呼び出し、行司、アナウンサー、解説者、対戦する両力士、みんな やった。 力士は北の湖と貴ノ花にしたケースが多かった。かなり受けた。
あとは○○さんの岩崎宏美。
両手に箸を1本ずつ持って、歌いながら、歌のリズムに合わせて、 腰をくねらせて踊る。
最後はたいてい鴨居にぶら下がっていた。尚、この人は、 私を相撲同好会 に誘った人(四股名 千葉光)である。
○○の東村山音頭(やはり踊りが絶妙だった)
○と○の東京音頭。
○が男役でビール瓶を持ち、○が女役で座布団で受けて・ ・・
その他色々。
そしてみんなで、先輩から伝わる春歌を歌う。
かなり前に、コミックの「ホイチョイクラブ」でも指摘があったが、この みんなで春歌を歌う。という日本の酒席における文化はもうすたってしまったよ うだ。
管理人の在学中は、大学の生協で「青春譜」という歌集が売られていた。
最初のほうは、校歌、応援歌 がちゃんと載っていたが、何ページかすれば、あとは替え歌。
そして後半はほとんどが 春歌だった。
雀の学校とか、金太の大冒険とか、あとタイトルは知らないが 「ゆうべ、父ちゃんと寝たときは・・・ : Last night sleeping with my father・・・」 の歌などなどなど・・・
一昨日、今、管理人が入っている、相撲のサークルの忘年会があり、その前、有志によるカラオケで隣に座っておられた、元大学教授の昭和5年生まれの方に確認したが、(その時は知らなかったのだが、あとで別の人に訊いたところ管理人の母校の先輩だった) その方も、この「Last night sleeping with my father・・・」の歌はご存知だった。
つまりわれわれの後輩世代は数10年間連綿と続いてきた、美しい日本の学生文化を絶やしてしまったのである。
いったい、いつから歌われなくなったのだろうか。
会社の10年くらい後輩だと、もう経験がない。
知っている歌を色々教えたが、受けない。
そして、
「その時代に学生時代を過ごさなくて良かった。絶対いやですよ。 だいいち、女の子もいたんでしょう。かわいそうじゃないですか」などと言う。
たしかに女の子もいたケースも多かった。別に気にしなかった。そうか、今だったら セクハラということになるのか、と思い至った。
でも、私はコンパが大好きだった。女の子はどうだったか、知らないが、みんなも楽しんでいたと思う。
私の芸は大概は同じことをやるのに、いつも、結構受けていた。
社会人になって一度、やったことがある。受けなかった。
「そうか、あれは学生の中だけで通用する芸だったのか」
と思い至り、以後、封印した。
学生時代のコンパ。みんなが、「さあ、楽しむぞ」 という意欲を持って参加していたと思う。だから、受けたのだろう。
ただ、学生時代であっても、一度、ショックなことはあった。
私は自分の芸に、受けるために、それなりの工夫はこらしていた。磨きもかけたつもりだ。
いつも 一緒では・・・と思い、別の芸も考えて披露したりもした。
それが、あるときの合宿の際、一年後輩が、NHKのラジオ体操をやった。それだけである。 何の工夫もない。しかし、私の芸とは比べものにならないくらい受けたのだ。
たしかに、その後輩のラジオ体操は素晴らしかった。そのとき、
「どんなに努力しても、しょせん天才にはかなわないんだ」
と思った。
だから数年後に見た「アマデウス」
モーツアルトに対するサリエリの気持ちはよく分かった。
学生時代は、そのサークルの友人の下宿によく泊まった。
東中野に2人おり、 よく行った。最高で連続10日くらい、そこに泊まり(たまに部屋を変えて)、自分の下宿には帰らなかったこともある。
で、私はこう見えて、結構、綺麗好きなのである。そういう生活であっても、 銭湯にはちゃんと行っていた。
そして、ジーンズ、上着は着たきりでも平気なのだが 、下着は 毎日変えないといやなので、その友人たちに
「洗いざらしで良いから、くれ」と 言って下着を分捕った。
泊まったのは前記の東中野に限ったわけではないから、結果と してかなりの友人の下着のコレクションがあったかと思う。
ある日、その東中野の友人に、いつものように
「洗いざらしで良いから、くれ 」
と 言ったら
「もうない」
と言う。
困った。
そうしたら、その熊本出身の友人は
「よし、お前に良い物をやろう」と言う。
くれたものは褌である。
装着方法は友人が教えてくれた。
下着としての褌が、あんなに簡単で、あんなに良いものだったとは知らなかった。
紐があり、そこに垂直に切れがついており、その切れを、後ろにして紐を前で結ぶ。
切れを、後ろから股間を通して前に持ってきて、紐と腹の間を通して余った切れを前に垂らす。それだけである。
時は夏。通気性に優れた下着で実に快い。
以後、たったひとつのその褌を愛用した。
といってもひとつしかないわけだから、いつも穿く(締める、だな)というわけ にはいかない。
今の時代の表現で言えば、ここ一番の勝負下着ということになるのだろう (ここ一番の勝負、は結局おとずれることはなかった。もし、あったら・・・き っと 受けを狙っただろうな)。
夏休みになって、それを見た(どういうシチュエーションで見るんだ?)祖母が
「へえ、○○は褌を締めるようになったんか。じゃあ、おばあちゃんが作ってやる」
と嬉しそうに言って、作ってくれた。
私の所有する褌は5本となり、これによって、中4日のローテーションを組む ことが 可能になった。
その後、祖母が亡くなり、いつしか私の身辺から褌も消えてしまった。
結婚後 、家内に2,3回「作って」と頼んだような気はするのだが、まだ作ってくれない。
途中から、違う話になってしまった。