中身の無いリアルさ
最近の5chの流れは、幼稚さからご都合主義に移っている。その根幹はリアルさになる。こんなになんでも上手く行かないって違和感の話しになる。次に、何でも上手く行く流れに面白さを感じないって話しになる。この2つは種類が違う。前者はご都合主義の否定の問題で、後者は肯定についてもそもそも面白くないって話しになる。
ただこの2つは密接に関わっている。他にもゲームみたいな世界観に辟易するって話しもある。これは前者ともろ重なる。このゲームみたいにはなろうの中でも不満が多い。それは元の異世界ファンタジー好きの想定している世界観と違いすぎるからだ。それは多分指輪物語みたいなものだろう。
どこが違うのか?でゲームは便利だからやそれがより楽しさを上げるために創られたもので、他にもあるぷろぐらむ上の誓約やデータの容量の問題で簡便化された都合もある。この問題は根が深くてゲームを楽しむにはインプット装置が必要なり、どれだけ進化しても、操作が煩雑になりすぎて困難になってしまう部分がある。そのため古いシステムが原因だけじゃない。
一貫してリアルさと言う軸からのズレが起こす嫌悪に繋がる。だが後者はそうじゃないが密接に関係してる。ここがかなり重要になる。上手く行くことの楽しさ。これを突き詰めると、簡単すぎて面白くない。ここに行き着く。そうすると以前の流れの幼稚さにも繋がってくる。この簡単すぎて面白くない。ここが問題になる。
上手く行かないと面白くないのに、簡単すぎると面白くない。じゃそのちょうど良いバランスって何?ここに行き着く。量の問題か?そこで質だと気がついたので書きたくなった。これ多分ゲームのプレイヤー感覚だと思う。それを受動的時間に支配される映像作品の面白さで楽しんでるから駄目なんだと思う。
結局自己投影の言葉で片付けられる。
ゲームにおいて簡単すぎるは面白さの点で絶対にありえない。そんなものがこんな大流行するわけがない。なろうは成功が決して簡単すぎるわけじゃない。難易度を下げないと逆に上手く行かない、リスキーだと感じてしまうバランス調整がなされている。かつそれが完全に崩壊してるリゼロなどは量じゃなくて、質=根本的に作りが違うのが分かるだろう。
全く別の物を見てるのに、多分それを認識できてない。リアルさへの違和感の前に、決定的な根幹部分である刺激やツボがそもそも全く感じられてない。リアルさの違和感は多分些細な問題だ。なろうは無理ゲーのクソゲーが無いって話しに過ぎない。
次に否定の方に入ろう。まずそこでなろうの中で抵抗のある人と、外のアニメ側は全く違う。そもそも異世界ファンタジーを強いて好んでない。その差はなろうの中の抵抗がある人と同一であるはずが無い。好きなものは大体リアルさを犠牲に出来る。逆に対して好きじゃないものは大体リアルさに煩くなってしまう傾向がある。
じゃ好きなのに、何故なろうの中の人は?そこでゲームだ。こういう世界観の異世界ファンタジーは好きじゃない。だからリアルさが気になるとなる。リアルなファンタジーじゃないから嫌いなのでは?違う。じゃ聞くがリアルなファンタジーとは何か?多分これ堂々巡りになる。なろうで好んでいる人は大体この堂々巡りが不味いと感覚的に分かってるんだ。
根本的にはその人が想定する世界観と違うから嫌いなんだ。リアルさの問題に突っ込むとどうやっても異世界ファンタジーじゃ堂々巡りになる。人を分類して、そもそも異世界ファンタジーが強いて好きじゃない人は、なんらクッションを置く事なく直接リアルさへの違和感がまず気になってしまう点だと思う。
異世界ファンタジーが好きな人はワンクッション置かれる。これじゃないってやつだ。両者は何が違うの?じゃなろうとは違うゲームファンタジーが嫌いな人向けのファンタジー作品を創っても多分好みを持たない多数派には受けない。え多数派なの?そうなる、異世界ファンタジー好きはとても多い。
だが以前指摘したが、今の多数派はアザーな人々、その他の人々になる。好みを持たないプレーンな状態は多数派に絶対になる法則が今の時代にはある。政治なら無党派が多数派となると理解すると分かりやすいし、これで自民と言う多数派と過去の一般大衆の好みってものが一致する時代もあるのは理解できると思う。政治はまだ一つを支持する多数派が存在するって話しになる。
だが阿部政権に対して、ほかに選ぶ人も居ないって消去法で選ばれてるのは多くの人が認識してるだろう。ある意味コレはアザー=無党派の発想なんだ。今の時代は多数派=アザーな人々で見るとすべて紐解ける。色が無いのが多数派だと思えば良い。この人達は多分、異世界ファンタジー好きがこれだと思う異世界ファンタジーが作られても多分興味を示さない。
それどころから興味が無いから得意のリアルさに対してのツッコミが盃って違和感を抱くだろう。所詮は好みが無い常態でのリアルさについては、その程度の言及に過ぎない。
空っぽを根拠にして何か話してもそれはほとんど価値の無い言及になる。それが意識出来てない。からっぽから否定をどれだけ繰り返しても多分意味のある言及には絶対にならない。
要するに、今の否定的な流れに耳を傾ける意味は無い。今の流れでは好みは常に少数しか満足させない。その中で例外的だったのが、流行になる。それが上手くネット小説の流れにはまったとなる。これは私が過去書いたと思う。多くの人を満足させるには、一過性の流行しかないと。
それを繰り返すのは不可能だ。数多くある飽き飽きテンプレをローテーションで回していくしかないのだ。または少数の好み=信者とアザーな人々が勝手に言ってるものに対して受ける以外に無い。結局は無いものねだりの無駄な言及でしか無い。飽きたのは誰でも同じで、繰り返しのローテーションを満足してるか?または少数偏った好みで楽しめてるか?しか無い。
それを意識できない人間の言及に振り回されるのは馬鹿なんじゃないだろうか?と私は見ている。そして大衆的物語の見方が未熟だった頃私もそれに振り回されたのだ。