3. 呪いって信じる?
【幽霊】
硬質な秒針の音だけに支配された沈黙が、ずいぶん長く続いていた。
桂の向かいには青ざめた茜、その隣には眉を寄せ考え込むような表情の帆月。そして桂の隣にはしれっとトモヤが腰掛け、椅子の後脚に体重をかけてゆらゆらと揺れている。
誰も口を開かない。
時計の中で、長針がぎこちなくかちんと震える。
あの後、カルテットの演奏が一曲終わったタイミングで、茜が外に出てきた。早めに部屋に戻る、と桂に伝えに来ただけだ。演奏を聴いて演劇のインスピレーションが湧いたと興奮した表情で桂に話しかけてきた彼女の顔は、しかし立ち尽くす桂と岬、都の様子を見、それから三人が見つめる先の存在を見て、みるみる色を失った。
……あれ、なに?
誰もその答えを持たないことにおそらく既に気付きながら、茜が扁平な声で尋ねた。そして誰も答えない沈黙に、
今回の余興のうちのひとつ、とか、だよね?
そう続けた声の震えが、彼女自身が自分の言葉を信じていないことをはっきりと物語っていた。
ホールの中で演奏が再開した。重なり合う弦楽の響きは遠い。
一度強い風が吹いた。吹き付ける雪に息が詰まり、その場にいた四人全員が顔を伏せる。そして風が収まり、再び雪原に目を向けたとき、そこにはもう最初から何もなかったかのようにただしんとした純白だけが広がっていた。
「青史をやったのと同じ奴かね」
鼻を鳴らして呟いたのは、互礼会には出ず共同談話室で爆睡していたトモヤだ。ソファに埋まる彼を見つけたのは桂で、目を覚ましたトモヤは桂のただならぬ様子に興味が湧いたらしく、こうして寮長たちの集まりにも「青史の代わり」という名目で顔を出している。
「分からない、けど……」
彼と同じく実際のその光景を見ていない帆月がさらに表情を険しくして応える。彼女は互礼会の最中に正月休みから戻ってきたらしく、荷解き中の自室を訪ねた副寮長に呼ばれて桂たちの元へ駆けつけた。
トモヤは何を考えているのかいまいちよく分からない表情で肩をすくめ、
「そう考えた方が都合はいいよな」
その言葉に応じる者はいない。けれど否定する者もいない。
都合が良い、という残酷な響きに賛同するには若干抵抗があるものの、桂もそうだろうと思っている。いや、正直なことを言えば、そうであってほしいと、ほとんど願望に近い形で思っていた。
頭を割られて倒れた青史。
誰も入ることのできないはずの場所で踊り狂っていた何か。
それらふたつに関係があってほしい。本来であればどちらも現実ではないと思いたかったが、どうせ現実ならば、せめて根元はひとつであってほしい。
この場所に狂気が複数存在するなんて、想像もしたくない。
「……ゆーれい」
青ざめた顔で黙り込んでいた茜が、ぽつりと呟いた。
「は?」
「幽霊、じゃ、ないかって」
聞き返したトモヤに掠れた声でそう返し、茜がこちらを見る。その大きな目に今にも溢れんばかりの涙が溜まっているのを認め、桂はぎょっとした。トモヤは怯まず肩を竦める。
「なんだそりゃ」
「だって、あんなの、普通じゃない」
「コテージで練習してたやつがたまたまヒートアップして出てきちゃっただけとかさ〜。そーゆー可能性もあるかもしんねーじゃん」
「さっきそれはありえないって話になった。桂も帆月も届出は受けてない。もちろんあたしも」
「まぁそうなんだけど〜。だからってなんでそんな素っ頓狂な発想になるんだよ」
「昔ここで死んだ寮生がいるのは事実じゃない。その子が雪の中で死んでたらしいって話も、みんな知ってる」
「それで幽霊ってか?飛躍しすぎじゃね?」
「だって!」
茜が声を荒げる。瞬きを忘れ見開かれた瞳がガラス玉のようにつるつると人工の光を反射する。そして、ぽろりと、ついに臨界点を超えた涙が左目からこぼれ落ちた。感情の決壊。茜はわっと両手で顔を覆う。
「だって、ここでこんなことが起こってるんだよ?ここがどこだかわかってるでしょう?普通の高校じゃないし、普通の寮でもないんだよ?ねえ、なんで?なんでこんなことが起こるの?なんでここでこんなことが起こるの?今日だって全員あそこにいたのに……!」
「それは分からないよ、茜」
徐々に甲高く上擦っていく茜の声を、帆月が遮った。
沸き立った湯への差し水のように、その声が空気を止めた。わん、と硬く凝った茜の叫びの残響が、一瞬だけ部屋を満たし、そして消える。
全員の視線を受け止めて、それでも帆月は落ち着いていた。茜をまっすぐ見つめ、
「全員が互礼会にいたかは分からない。参加するのがなんとなく当たり前って思ってるだけで、事実、私たちはあの場所にいなかった」
私たち、と言ったところで帆月がちらりとトモヤを見た。トモヤは片眉を上げただけで何も言わない。そうだ、この二人はあのホールにいなかった。同じようにあの祭典に参加していない寮生が他にいてもおかしくはない。
「悪戯に想像を膨らませるのはやめた方がいい。少なくとも良い作用は生まないわ」
「落ち着いてんね〜」
わけわかんないことが立て続けに起こってるってことは事実だけどね〜、と、肩をすくめて笑ったトモヤの声には微かな揶揄の色が滲んだ。桂が視線を向けると彼はこの場所の誰のことも見ていなくて、ただ目をつぶってぽきぽきと首の骨をゆっくり鳴らす。
たぶんトモヤは帆月のことを茶化したわけではない。このわけがわからない状況に何もできない自分たちを皮肉ったのだろう。
小鳥ちゃん。
あのいつも夢と現の狭間にいるような管理者が自分たちのことを呼ぶ時の言葉を思い出す。桂は今まさにその言葉が真実であることを痛いほど実感していた。鳥篭の中の小鳥。見知らぬ手が不躾に差し入れられても、小鳥はその理由を知ることも叶わぬまま握りつぶされることしかできない。
帆月がトモヤをじっと見つめた。茜は黙り込んだままずずっと鼻を啜って帆月を見ている。誰の視線も交錯しない部屋の真ん中で、桂はあの歪んだ歌声を思い出していた。
ーー 小鳥は静かに羽ばたいて
ーー 二度と帰ってこないでしょう
だって、と独り言のように小さく呟いたのは帆月だ。微かに目を伏せた、その一瞬だけその表情に躊躇がよぎる。
「だって、この場所について私たちが理解できていることが、そもそもどれくらいあるっていうの」
夜に塗りつぶされた窓がかたかたと風に鳴く。帆月の言葉に応えるものはいない。
***
「……なんだったんだろう」
思わず呟いた桂の声が、闇の中長く伸びる地下通路に鈍く響いた。さあ、と応えた帆月の声も何かを思案しているかのように小さい。二人並んで西塔からの暗い帰路を歩きながら、桂は、たった今投げかけられた言葉を頭の中で反芻する。
『呪いって信じる?』
Aは姿を見せなかった。西塔に入った桂と帆月を出迎えたのは調律の狂ったあの声で、薄汚れた光にかろうじて輪郭のわかる階段のずっと上の方からそれは歪んで降ってきた。
Aはすでに事件と呼ぶのも躊躇うあの出来事を知っているようだった。知っていて、その上で桂たちには何の情報を開示するそぶりも見せず、桂たちが何を言っても返ってくるのはあの歌だった。
出直しましょう、と帆月が短く言った。出直してAの態度が好転する希望は一欠片も見えなかったが、桂もそれに頷いた。疲労した桂の頭にその歌声はまるで起き抜けの工事音だ。脳みそがその響きに揺さぶられ、鈍痛に力無い悲鳴をあげていた。
二人が背を向けると同時に、声がぴたりと止んだ。風もないのに空気が揺れて、コンクリートの床にぼんやりと落ちる桂と帆月の影がゆっくりとぶれた。黴臭い空気が桂の鼻腔を侵食し、唐突に世界の時間軸から切り離されたような孤独感がつま先からひたひたと這い上がる。
君たちさあ。
それまでと調子の違う声に桂は足を止めた。半歩前で帆月も立ち止まる。ずっと遠いところで呟かれたはずのそれは耳元で囁かれているようにくっきりと届き、そこに覗いた冷たく理知的な響きに、すっと桂の体温が下がった。
君たちさぁ。
呪いって信じる?
「……脱獄者みたい」
決して大きくはない帆月の声が、地下通路のひんやりと底冷えする空気に落ちる。先ほど聞いたAの声を脳裏で再生していた桂は、はっとして彼女を見た。その視線で初めて自分が声を出したことに気づいたようで、帆月自身も少し驚いた顔をして桂を見上げて、ああ、ごめんなさい、とひとりごとのように呟いた。
「……実は僕もそう思ってた」
「あら、ほんと?」
片眉を上げた帆月に薄く微笑み、通路の先へと視線を向ける。鬱屈とした空気。桂たちの足元だけが中途半端に照らされているせいで、通路の先はより濃密な闇に埋められている。無意識に息を潜めてしまう空間。この学校の、あるいはこの寮の、暗い部分をすべて詰め込んで煮詰めたような。
脱獄。
帆月が口の中でゆっくりと繰り返す。そして、誰に宛てるわけでもなく、自嘲するようにふっと笑った。
「そうね。……だって私たちの鳥籠は少なくとも幸せな庇護ではないもの」
親族はおろか教師すら入ることのできない閉じられた世界。差し出される桁の狂った贅沢。これらがすべて、そう遠くない未来、残酷な世界に放り出され生き延びていかなければならない自分たちに与えられた一瞬の夢だと皆知っている。
「世界で一番奇妙な密室だと思うの、ここは」
まるでこの場所自体がとても大きな罪を犯した罪人みたい、と呟いた、その帆月の横顔に、桂はあの夜を思い出した。
月明かりに照らされる空中回廊。光から隠れるように早足で歩く人影。頭と胃の鈍痛と、喉奥にしこる苦味。
脱獄者。
改めて反芻し、心臓が小さく嫌な風に跳ねる。
あの夜、彼女は逃げたのか?どこへ?そしてわざわざ戻ってきた?どこから?そして、なぜ?
思考に潜り込みそうになり、やめる。駄目だ、これ以上考えてはいけない。踏み込まれない代わりに、踏み込まない。それがこの寮の大原則だ。
桂は帆月を見下ろし、肩をすくめた。
「じゃあ看守はAかな」
おどけたそぶりを見せる桂に、勘の良い帆月はすぐにそれを察する。少し顔をしかめ、
「せめてもう少し言葉の通じる看守がいいわ、囚人1としては」
「囚人2としても、もう少し歌が上手い看守がいいな」
互いに顔を見合わせ、小さく笑う。朽ちた空気が微かに揺れて、遠く、先ほど二人が通り過ぎた明かりの一つが、音もなくふっと消えた。
【坐視】
シャーペンを置く。こつん、と硬質な音が無音の部屋に落ちた。机のスタンドライトを消す。じん、と明かりが滲んで消えて、後にはいつもと変わらぬ夜だけが残った。
大丈夫なの、と、言葉を探し回った挙句にぽつりとそれだけを呟いたかのの声を思い出す。
寮で不審な事件が立て続いたこと。犯人はまだ分からず、手がかりすらなくて、寮生たちがどことなくぴりぴりしていること。
これから先同じような事件が起きないとも言えないこと。
つまり、ここはもう、安全を盲目に信じられる場所ではなくなっているのかもしれないということ。
そのことを自宅生であるかのと雪実に話したのは、生徒会の寮生メンバーの総意だった。もちろん、寮内部の出来事を自宅生に話すことには、全員が迷い、渋った。けれど最終的に、全員が、話すべきだという結論を出した。
青史の事件も、あの得体の知れない赤い人影の出来事も、誰かが何かをしたことは明白だ。逆に言えば明白なのはそれだけで、その“誰か”が誰かも、何が目的なのかも、何もかもが分からない。そしてもしかしたらその“誰か”は自分たちがよく見知った人間なのかもしれなくて、そうだとしたらもう、寮内だけの問題とは言えない。
余分な情報を排除して、簡潔に、そしてできるだけ端的に伝えた桂の話を聞き終えて、二人の表情は複雑だった。薄々感じていた異変の正体がわかったことに対する一種の安堵と、寮生たちに対する心配、得体の知れない不安。それらがないまぜになった沈黙を破ったかのは、縋るような目で他のメンバーを見渡した。
大丈夫なの?
誰も彼女と目を合わせなかった。その問いに答える言葉を、誰一人持っていなかったからだ。
結局、大丈夫だよ、一応情報共有しておこうと思って話しただけだから、と、桂が笑って答えた。
優しさとして誤魔化せる嘘は、きっと桂が一番うまい。
ぐうっと伸びをしてから外を見る。雲の多い空にはゆりかごのような半月が浮かんでいる。少し離れて聳える東塔の輪郭はくっきりと澄んで鋭い。冬の夜だ。今夜は氷点下まで冷え込むと天気予報が言っていた。
ふっと、視界の隅で何かが動いた。それが何かをきちんと確かめず、桂はただその動きを視界の隅にとらえたまま、さっとカーテンを半分閉めた。
文化会前、まだ何事も起こっていなくて、ここが安寧を約束された鳥籠だった、あの頃に初めて見かけてから、もう三度目くらいだろうか。どこかへ行こうとしているのか、どこかから戻ってきたのか、早足で空中回廊を渡る帆月に、その理由を尋ねたことはまだない。
見なかったことにしたからと言って、何がどうなるわけではない。
そもそも見ていたからと言って、何がどうなるわけでもない。
けれど、なんとなく。
蔓延る不穏と彼女が何の関係もないといい。
そんな、願いと呼ぶにはあまりに希薄な、漠然とした思いを巡らせながら、桂は半分に切り取られた夜をしばらくじっと眺めていた。




