3. できそこないのマスカレードで歪な紳士は嫋やかに
【文化会】
この寮は行事が多い。
月に一度はイベントが開かれるので、特に上級生の中には行事疲れしている寮生も少なくない。しかしそんな生徒たちにとっても年に二度開催される文化会は特別だ。寮の四大イベントといえば春の文化会と秋の文化会は欠かせない。
芸術の道を志す寮生たちの発表会、と言ってしまえばそれまでだが、その一言では到底片付けられない、いっそ異常なまでの規模でこの宴は開催される。一高校の寮祭としての豪勢さという意味でも、成果を発表する生徒たちのレベルという意味でも。そもそも、このためだけに異常に高額な入寮費を支払った親にここに放り込まれた者もいるのだ。
教育機関の水準を遥かに超えた資料と設備。楽器だろうが画材だろうが惜しみなく与えられ、管理者を通じて外部講師を呼ぶこともできる。校庭の隅に並ぶ小さなコテージ群は完全防音で、一棟貸し切ってそこで毎日楽器の練習をしている者もいる。入寮時の申請内容によっては高校のカリキュラムの一部免除を受け練習時間を確保することすらできる。
高卒の肩書きを得ることができ、一流の指導と環境が揃っていて、さらに無駄な誘惑もない。こんな場所は金の有り余る芸術家の親たちには理想的なんだろう。
ぷぉー、とすぐそこで大きな音が響き、桂はびくりと小さく跳ねた。振り返ると四人の仮装した隊列が行進していく。トランペット、クラリネット、シンバル、大太鼓と並んだ彼らはそれぞれ帽子に小旗がひらめいていて、午後の演目の宣伝だと分かった。思い思いに歩いていた人々がその玩具の兵隊の行進のような彼らに茶々のような歓声をあげ手を叩く。
その隊列の向こう側には数々のカラフルなテントが並び、そのさらに遥か奥の方にはさまざまな垂れ幕が垂らされた空中回廊が見える。いつもどこか、微動だにしない硬く重い蓋をされているようなこの空間が、まるで今日だけは光の下の別世界みたいだ。
わあっと周りで声が上がった。すぐ近くに立っていた男性の指差す先に目をやると、大ホールの屋根の上にひとりのパフォーマーが立っていた。くるりくるりと様々な形状の道具を投げてはキャッチし、時折軽やかに宙返りする。あれも寮生の一人だ。
見上げた屋根の上、澄んだ青空に向かって赤い風船が飛んでいく。呼び込みの明るい声がそこここで響く。どこか浮き足立った空気、行き交うたくさんの人。今この敷地内にいる人間のうち、見慣れない顔はすべて許可を得た出店者や業者、外部講師、業界人だということは分かっているが、やはり外部の人間とすれ違うことに違和感は拭えない。普段は絶対に敷地内で目にしないスーツ姿の男性とすれ違い、臓器が定位置を見失ったように腹の中がざわめいた。
「けーいちゃんっ」
どしんと何かが突進してきてよろめく。振り返った先に立った人物の衣装の極彩色に一瞬目がくらんだ。
「トモヤ」
「なぁに制服なんかきてんだよーお堅いー」
「一応寮長だしね」
「もー禿げっぞー」
肩をすくめたトモヤの右手にはデジタル一眼レフカメラが握られている。たしか去年の文化会で買ったものだったはずだ。外出を許されず自由に買い物もできない寮生たちのために、この日はこういった業者たちも多くブースを構えている。
「撮ってるの?」
「そーそ、面白いぜー変なかっこの奴いっぱいいるし」
「そういうトモヤも……」
桂の視線に、トモヤがぱっと両手を広げた。下半身は派手な黄色と赤のストライプ、上半身は水色と赤と黄色のパッチワークで、頭には紫と黒の二股帽子を被っている。彼が何に扮しているかは一目瞭然だ。
「なんか今年の外部演目がさあ、サーカス舞台にした歌劇っていうじゃん?こーゆー格好してたら舞台裏入れてくれっかなぁとか思ってー」
「いや見た目で判断しないでしょ」
「しかも着てみたらさぁ、あれなんか俺イケてね?とか思って」
言いながらトモヤがくるりと回ってうやうやしくお辞儀をする。たしかに似合っている。それに、あちこちに仮装している人や舞台衣装のようにきらびやかな格好をした人がたくさんいる中、彼の格好は妙に目立たない。真っ赤なドレスを着た人がすぐそこで笑う。色とりどりの雑巾を接ぎ合わせたような奇妙な服を着た人が午後の舞台の呼び込みに声を枯らしている。季節外れの真っ白なワンピースを着た人が踊るように駆け抜けて、兵隊に扮した人がラッパを吹く。この混沌とした空間で、トモヤの格好は制服の桂よりもむしろこの場所にしっくりと馴染んでいるように見える。
「桂、昼は?」
「まだだよ」
「お、じゃあ西広場に旨そうな中華でてたからさ、そこで食お」
「いいよ。三十分後くらいでいい?」
「あいよー」
トモヤが軽く片手を上げて、跳ねながらくるりと回る。そして去り際についでのようにカシャリと桂に向けてシャッターを切り、んじゃなー、と笑って人ごみの中に戻っていった。黒と紫の二股帽子はすぐに鮮やかな世界に紛れて見えなくなる。
意識したら途端に空腹が襲ってきた。思い返してみれば、会場準備と外部の特別入寮者の対応のせいで昨夜からあまり食事を摂っていない。立ち入り禁止区域となっている各寮棟の施錠を確認したらすぐに昼食を取りに行こう。
ぱぁん、と誰かが巨大クラッカーを鳴らした。そこから舞い上がったカラフルな紙吹雪が風に吹かれて散っていくのを目の端に捉えながら、桂は歓声をあげる人ごみを抜け足を速めた。
【舞台】
わあっと大きな歓声が上がる。空に突き抜けていく盛大な拍手に重ね、桂も手に持っていた油淋鶏のパックを置いて手を叩く。ステージ上に立つ二人の女子生徒が、互いに向かい合い、固い握手を交わす。赤く煌びやかなドレスの彼女が、濃紺でシックなドレスの彼女に、ありがと、と言ったのが口元の動きでわかった。ドレスの色も表情も対照的な二人は同時にお辞儀をし、ステージの袖に去っていく。
「すっげー」
階段状に作られた観客席で隣に座ったトモヤが、もしゃもしゃとエビチリを頬張りながら呟いた。それに桂も深く頷く。
たった今舞台袖に引き上げた深紅のドレスの女子生徒は今回の午前舞台の大トリで、声楽で学内でもかなり有名だ。彼女が今回歌い上げたのはドイツの有名作曲家の歌曲。ピアノアレンジバージョンではあったものの、原曲の豪奢な響きを全く損なわない迫力のある歌声は鳥肌ものだった。
けれど、正直なところ、未だ鳴り止まないこの拍手の半分以上は伴奏者に送られているのでは、と、密かに桂は思った。
濃紺のシックなドレスを纏い主役の陰に隠れるようにして舞台に進んだ帆月は、裏方に徹するつもりだったのだろう、最初から最後まで微笑みもしなかった。しかしピアノの前に彼女が座り、細い指が鍵盤を叩いた瞬間、さっと空気の色が変わった。
「ピアノ、あれだよな?西の寮長だよな?」
トモヤの問いかけに、うん、と頷く。へーえ、とトモヤは再度感心した声をあげ、
「あの子、ハコ入りちゃん?」
そう軽く投げかけられた言葉に、思わずぎくりと桂は動きを止めた。
『ハコ入り』。時折耳にするその呼び名は、例えば先ほどの主役の彼女のような種類の生徒に対して使われる。芸術のため、己の能力を磨くため、それに適したより良い環境を得るためだけに莫大な金を払ってここに入寮した生徒たち。ハコ入り、と囁く声には大抵揶揄の響きが混じる。表立って口にする人間はほとんどいない。寮規として定められているのはもちろん、それを口にすることは、「自分はそちら側ではない」と宣言するのと同義だからだ。
黙り込んで答えない桂を見て、トモヤはけらけらと笑った。
「べっつにだからってケチつけようってんじゃねぇよーただどっちかってーと“こっち側”かなって思ってたからさーぁ」
そう言ってまた料理を頬張るトモヤに桂は小さく苦笑して肩をすくめる。こんなことをこれだけ軽く言えるのもトモヤくらいだ。この場所では他人の出自も自分の出自も、生い立ち、時には苗字すら、触れることは禁忌とされる。
帆月がどちら側か、桂は知らない。けれど少なくとも『ハコ入り』ではないのではないかと思う。数日前、寮長の集まりの帰り道、青史の無邪気な賞賛に困ったように笑ったまま何も言わなかった帆月の表情が脳裏に浮かんだ。
ふと何気なく観客席を見渡す。午後の最後の演目が終わったばかりで、まだ半分以上の席が埋まっている。桂たちのように昼食を食べている生徒たちもちらほら見える。
と、視界に鮮やかな色の何かが入り込んだ。なだらかな小丘の斜面に作られた観客席から少し外れた、丘のちょうど頂上のあたり。青空を背景に、ぽつんと立った人影がこちらを見ていた。
歌劇の舞踏会シーンに出てきそうな仮面で顔の上半分を覆い、右半身は中世英国紳士のスーツ、左半身はコメディに出てきそうな不恰好な王子という、なんとも奇妙にアンバランスな格好をした骨のように細いシルエット。桂と目が合い、煌びやかな仮面の下でやけに赤い唇だけが弧を描いた。
すぐに分かった。Aだ。
ぱぁん、と遠いどこかでクラッカーが鳴らされる。奇妙なシルエットの向こう側、風に舞い上がったカラフルな色紙がひらひらと舞う。できそこないのマスカレードで歪な紳士は嫋やかに桂に向かって礼をする。そしてひらりと羽ばたくように両手を広げ、丘の向こうに消えていった。
「なんだあれ」
桂の視線を追ったトモヤが、桂の持つパックから油淋鶏をつまみ上げながら訝しげに眉を寄せる。
「Aだよ」
「うおまじか、あれがか」
ほんとに変人ぽいなー、とAが消えた方向を眺めてトモヤが呟く。どうやら本物のAを見たのは今が初めてらしい。ほんとに変人だよ、たぶん、想像以上に、と、桂は心の中でそれに答えた。
わっと観客席から歓声が上がった。二人同時に視線を戻すと、ちょうど舞台下に帆月たちが出てきたところだった。すぐにドレス姿の彼女たちは取り囲まれ、高揚した声が後方に座る桂たちの元にも届く。
メインだった彼女の周りには、寮生たちの他に、明らかに業界人だと分かる大人たちもちらほら見えた。彼らに艶やかな笑みを見せ、投げかけられた言葉に何か応える。名刺のような切れ端を渡されるのもちらりと見えた。彼女たちの戦いはもう既に始まっているのだ、と、その光景を眺めながら他人事のように桂は思った。ここは休戦の地であり、同時に今も刻々と鮮血の流れ続ける戦地でもある。鳥籠の鳥は盲目に囀れない。
帆月まじで凄かった、ほんとに、と、聞き慣れた声が耳に届く。主役と同じくらい、下手をしたらもっと多くの人に囲まれた帆月の手を取り、興奮した顔で話す青史が見えた。その子供のように上気した顔に、桂は小さく笑う。今夜のキャンプファイヤーに青史は帆月を誘うんだろうか。
「いやー華があるねー」
隣でトモヤがぱしゃぱしゃとシャッターを切る。たしかに、とその言葉に頷きながら桂はずずっと紙コップの茶を啜る。
ステージ前の盛り上がりはしばらく静まりそうにない。もう少ししたら午後の外部劇団の公演前確認に行かなければ。欠伸を噛み殺しながらぼんやりと考える。遠く、少し困ったように微笑む彼女の、ダークブルーのドレスが徹夜明けの目にしみた。
【異常】
ばちばちばち、と盛大な音を立てて巨大な炎が弾けた。風が吹き、金色の巨人の手が夜空を舐めるように大きく揺れる。それを囲む寮生たちがわあっと歓声をあげ、その声は真っ黒な空に吸い込まれていく。
時計はもう夜の9時を指している。業者たちはとうに引き払い、敷地内は、達成感のような喪失感のような、どことなくすかすかとした穏やかな空気に満ちている。掃き残された色紙の切れ端が地面に落ちているのを見つけ、桂はそれをつまみあげた。手のひらに乗せると、微かに吹いた風に簡単に舞い上がり炎の中へひらひらと消えていく。
キャンプファイヤーを思い思いに囲む寮生たちは、部屋着の者、衣装の者、仮装のままの者、さまざまだ。BGMのクラシック音楽がどこからともなく流れてきて、それを聞くともなしに聞きながら設営されたベンチでまったりと談笑する者も多い。橙色の炎の明かりに照らし出される彼らは奇妙に扁平な色をしている。昼間の賑やかに鮮やかな色も匂いも音も空気も、なにもかもが夢だったかのようだ。
少し離れたところから軽い口笛が届く。目をやると、数人が音楽に合わせてフォークダンスの真似事を始めたところだった。それにつられて何人かがくすくすと笑いながら手を取り合い踊りだす。ぽっかりと闇をくりぬいてできたような空間で、ゆるやかにおどけたダンスパーティーが始まる。
ひらりと軽やかにステップを踏む影があり、視線を向けるとまだピエロの格好のままのトモヤだった。誰とペアを組むでもなく、そこここに長く長く伸びた人々の影を相手に一人で影踏み遊びをしているように、カメラを片手にくるりくるりと回りながら移動していく。彼の影もまたくっきりと地面に象られ、トモヤがふわりと跳躍するたびに橙と黒のコントラストが呼吸するように伸び縮みする。桂の視線はぼんやりと奇妙なピエロの影を追った。
ふと、トモヤが足を止める。お、と思い目を細めて見ると、彼の前によく見慣れたふたつの影が並んでいた。トモヤはファインダーを覗き込みながら彼らに何かを言っているようだ。
色素の薄い岬の髪は炎の光によく映える。トモヤがまた何かいらぬからかいをしたようで、岬の隣にいた都が呆れた顔でその場を離れた。ぴょんと岬が跳ね、慌ててそのあとを追う。相変わらずの光景に、桂はひとりくすりと笑った。
濃密な夜に囲まれて、今この場所は深い深い眠りにつく直前のような、ゆるやかな静寂に満ちている。もちろん話し声や足音や、無数の音に満ちてはいるが、それらもすべて静寂に飲み込まれた夜の腹底でささやかにさざめくだけだ。
今年もまた、終わったのだ。寮の四大行事、秋の文化会。これから急速に世界は冬へと向かい始める。もうひと月もすれば雪がちらつき始めるだろう。
「お疲れ様」
ぼんやりと辺りを眺めていると、後ろから涼やかな声が届いた。振り返るとそこには帆月が立っていた。もうあの濃紺のドレスは着替えてしまったらしい。見慣れた制服のスカートが風に揺れる。
「うん、お疲れ様」
微笑むと、帆月が桂の隣に並んだ。
二人並んでキャンプファイヤーの炎を眺める。ぱちぱちっと音を立て火の粉が舞う。ふと見上げた夜空はどんよりとしていて、月がどこにあるかも分からない。
帆月の横顔が橙色に染め上げられる。長い睫毛の影がくっきりと頬に落ちる。ステージ用の化粧がまだ残っているのだろう、ルージュだけが鮮やかに紅い。
「ピアノ、すごいんだね」
横顔に話しかけると、ぱっと帆月が桂を見上げた。濡れたような黒目がつるりと光る。
「え、見てたの?」
なんか照れるな、とはにかんだ。彼女にしては珍しい表情で、桂も思わずふっと微笑む。
「前回も弾いてた?」
「ううん。今年の春の文化会も、去年の秋も、舞台音楽の手伝いしただけ。本番は全部録音だったから」
「うわ、でもそれも大変そう」
「楽しかったよ。顔が出ないだけ気も楽だし」
帆月がひょいと肩をすくめる。いつもどこか雪の夜のような静けさを身にまとっている彼女も、大役を無事終えて肩の荷がおりたのだろう、いつもよりずっと空気が柔らかい。目を見合わせ、互いにくすくすと笑った。
帆月と出会ったのは昨年の春、入学式を数日後に控えた入寮式の日だ。この寮に入るためには選考を通過せねばならない。そのため毎年入寮者の人数はまちまちで、桂の学年は北寮が16人と例年よりも多く、逆に帆月が属する西寮は4人と例年よりも少なかった。
寮ごとに分けられたテーブルにつき、ふとホール全体を見渡した時、全学年の寮生が集まる中で一際目を引いたのが帆月だった。
今より少し短い、肩につくかつかないか程度の艶やかな髪と、はっきりとした目鼻立ち。女子にしては高めの身長、すらりと伸びた細い手足。横を通った先輩寮生が思わず振り返るくらいには整った容姿をした彼女は、ふるまわれたお茶を手にまっすぐステージに目を向けていた。
たしかに美人だった。けれど桂が彼女に目を奪われた理由はその容姿ではなかった。
少しポップな洋楽が流れ、テーブルにはホテルの朝食のように色とりどりの軽食が並んでいた。照明は柔らかいけれど明るく、ホール全体の陽気な空気を照らし出していた。どこか浮ついたざわめき、新入生を歓迎する声、そこここで起こる自己紹介。
その中で、彼女はひとりだった。
せわしないこの場所で、そこまでひとりきりになれるものかと、今より少し幼いその横顔を眺めながら桂は思った。
それから半年が経ち、一年生の秋、新しい寮長と副寮長の任命式があった。副寮長には一年生が任命される伝統で、現在寮長を務めている四人が、その日、副寮長に任命された。
「よろしく」
任命式後のパーティで帆月から声をかけられた。ちょうど桂は他の新寮長への挨拶を終え、会場の隅で飲み物を手にひと息ついていたところだった。その時初めて帆月と正面から向き合って、彼女の瞳が青みがかった不思議な色をしていることを知った。
「こちらこそ、よろしく」
「いきなりだけど、なんて呼べばいい?名字?名前?」
率直な質問に、正直面食らった。ぱちぱちと瞬きをした桂を見上げた帆月は、誤魔化すように笑うでもなく、ただ微かに目を細めた。長い睫毛が小さく震えた。
「ごめんなさい。でもこれからきっと一緒に仕事すること多いだろうし。呼ばれ慣れた呼び方のほうがいいでしょう」
臆すことのない彼女の言葉に、線の細いか弱そうな外見の内側にある鋭さを感じ、桂は内心感心した。
その頃にはもう、この場所の隠しようのない暗さに誰もが気づいていた。例えば、いつまでたっても目の慣れない、病室の湿った夜のような。圧倒的な質量の、恐怖にも似たなにかが隠されていて、迂闊に触れることも好奇心で覗くことも許されない闇。
この場所における名字ほど意味を持たないものはない。“家”とそれにまつわるしがらみを嫌う人間は、簡単に異なる名字を名乗ることができる。Aがそれを許しているからだ。あの奇妙で絶対的な秩序である管理者以外、誰の名字が本物で、誰の名字がつくりものか、誰も知らない。そのことを暗に帆月の言葉は指していて、その上で、桂に呼び名を問うたのだ。
「神倉でいいよ」
けれど桂は素直にそう答えた。これは自前の名字だが、知られて困ることは何もない。もうしがらむほどの結びつきすら家と自分の間に思いつけないくらいに、桂の手を握っていた人間は皆ずっと遠くへいってしまった。
「僕はなんて呼べばいいかな」
「帆月でいいわ。よろしく、神倉君」
そう答えて左手を差し出した帆月に、それは、その名字が君のものではないからなの、とは訊かなかった。ただ微笑んで、わかった、とだけ頷いた。手を握り、その掌が思っていたよりもしっとりと柔らかいことに桂は静かに驚いた。
あれから一年と数ヶ月が経った。二年生では同じクラスになった上、互いに寮長となり、必然的に一緒に仕事をすることは多い。けれど彼女を名前で呼んだのはおそらく数えるほどしかない。
ごう、と強い風が吹いた。目の前でキャンプファイヤーの炎が波にもまれる海藻のようにぐらりと揺れる。
「そろそろ行く?」
右手首の時計を見た帆月が言った。この後は中央塔で寮長会議を行うことになっている。
「そうだね」
頷いて、キャンプファイヤーに背を向けた。踊る生徒たちの笑い声を背に、闇に溶けるように立つ中央塔へ並んで歩み始める。そういえば青史は彼女を誘わなかったのか、と、桂は中央塔のずっと向こうに忘れ去られたように静かに佇む外舞台の影を眺めながら、ひっそりと思った。
* * * * *
「お疲れー」
小会議室には既に茜がいて、入ってきた桂と帆月にぶらぶらと手を挙げた。彼女の前には、敷地のいたるところに置かれていたどこぞの高級菓子の余りが並んでいる。小さなクッキーの大げさなほど上品な包装をびりりと無造作に開け、机に肩肘をつきながら茜がそれを口に放り込む。
「いやー終わったー」
温泉につかる中年男性のような声をあげる茜はもう部屋着姿だ。昼間、一瞬だけすれ違った時は上質な布をぐるぐると巻きつけたどこかの民族のような格好をしていて、くっきりと濃い化粧も相まって一瞬誰だかわからなかった。
コンパクトに四角く並べられた長机の一辺ずつに、桂と帆月もそれぞれ座る。
「今年は茜的にはどうだったの?けっこう人入ってたみたいだけど」
「評価は上々だったけどね、やっぱりだめ。全然まだまだ。あれじゃお遊戯会だわ」
不満げに眉を寄せぶんぶんと顔の前で右手を振る茜は、典型的なハコ入りだ。もちろん本人に聞いたことはないけれど、なんとなくそうだと分かる。背負うものが暗くない。本人もそれを隠そうという気はないらしい。
ハコ入り、すなわち強力な後ろ盾と贅沢な価値観に彩られた彼らまたは彼女らをよく思わない人間も寮の中にはもちろんいる。けれど自身の財力も能力も夢もすべて誤魔化そうとしない茜の潔さは気持ち良く、それが彼女が寮長である所以のひとつなのだろうと桂は思う。
「青史は?」
ペットボトルに半分ほど入っていた紅茶を一気に飲み干してから、ふと茜が首を伸ばして帆月の向こうの入口を見た。そういえば、という風に帆月も振り返り、それから首を傾げる。
「一緒じゃなかったのね。あいつ帆月のステージにえらい興奮してたから、ちゃっかりダンスでも申し込んでんじゃないかと思った」
そう、特にからかいの色もなくひょいと肩をすくめた茜に、帆月は少し困ったように微笑んだ。
こういう時に携帯ないのが面倒ね、ほんと、と不満げに呟きながら、茜が部屋の隅に据え置かれている固定電話に歩いていく。桂と帆月はその背中を特に理由なく目で追った。
茜は中学生の頃から自分用の携帯電話を持たされていたらしい。だから個人用携帯電話は持ち込み禁止、パソコンは支給はされても外部ネットワークには一切接続できないこの環境が、最初は信じられなかったという。桂は今まで自分の携帯電話を持ったことがないので何とも思ったことはないが、そういうものらしい。今日と同じような愚痴を、もう何度か茜の口から聞いた。
桂と帆月がそれぞれパソコンを開く。
「文化会が終わると一気に年末って感じ」
呟くと、帆月が相槌を打つように微笑んだ。
秋の文化会が寮の年内最後の大イベントだ。あとはクリスマスに小さなパーティーが開かれるが、一部の許可された寮生が帰省することもあり、規模は小さい。それに、クリスマスパーティーの主催はAで、寮長としてするべき仕事は何もない。
「無事終わってよかった」
「午後の講演の入りも上々だったみたいだしね」
「来年もぜひって言われたわ、団長さんに。Aに言うように言っておいたけど」
「お気の毒に。Aと直接対面したら怖気付くだろうな」
肩をすくめた桂を見て、帆月が笑う。
「でもあの人の手腕はすごいと思う。あれだけの外部の人間をひとりでさばくんだから」
帆月の言葉に、それは、たしかに、と桂も頷いた。外部とのやりとりはすべてAに任せており、寮長含め寮生は一切関わっていない。一日だけのイベントとはいえ、尋常ではない数の外部の人間が出入りしたはずだ。その管理体制はどうなっているのか、桂たちは何も知らない。
立ち上がったパソコンのログイン画面にユーザー名とパスワードを打ち込みながら、ふと外を眺める。キャンプファイヤーはもうそろそろ終わっただろう。細く開けられた窓からは秋の終わりの風が吹き込み、もう祭りの後の歓声は聞こえない。
茜が長机に戻ってきてどかりと座った。
「部屋電には出ない。なにやってんのあいつ」
「あれ。キャンプファイヤーにはいなかったと思うけど」
見た?と帆月に問うと、彼女も首を横に振った。
「見てないわ。業者の退去に立ち会う直前にすれ違ったけど」
「その時何か言ってた?」
「ううん。戸締り確認してくるとしか」
忘れてんのか、と茜が悪態を吐く。
「とりあえずハチに電話したら出たから、寮内探して引きずってくるように言っといた」
ハチ、というのは、東寮の副寮長を務める一年生だ。本名は釟太という。各寮にはその寮の寮生しか入れないため、青史に連絡が取れない以上ここに揃っているメンバーにできることはない。茜が手持ち無沙汰をごまかすように、フィナンシェの袋をぴり、と開けた。
「後処理が嫌いなの」
呟く彼女の傍には、回収したアンケート、全会場の入場者数と途中退場者数の集計表、各業者の報告書、等々が積み上がっている。それを横目に見て、茜は深いため息を吐いた。
「舞台も何もかもそうよ。この終わった後の倦怠感。絶望にも似てるわ。タチの悪いクスリを使った後みたい」
さらりと溢れた不穏な言葉にぎょっとして茜を見ると、桂の視線に気づいた彼女はくすりと笑い、冗談よ、と手を振った。白い右手がひらひらと、蝶のように力無くゆらめく。
「まぁでも帆月が数字に強くてよかった。あたしからきしだから、こういうの」
「茜は記憶力が抜群じゃない」
「あぁ、まぁね。少なくとも青史よりは記憶力ある自信あるわ」
「はは、まぁ青史はその代わりリーダーシップあるからね。会議まとめるのうまいし」
「ま、いい組み合わせってことね。去年の寮長たちもよく見てるわ。つってもその肝心のリーダー役がいないんだけどね」
ひょいと茜がフィナンシェの袋をゴミ箱に捨てる。袋の底に少し残った柔らかそうな生地がぱらりと床に溢れた。
「集計だけでもやっとく?」
桂の言葉に、茜と帆月が桂を見て、そうね、と同時に頷きかけた。
けれど、どちらの同意の言葉も声になることはなく、ばたん、と勢い良く開いた扉の音にかき消された。
青史か、と、三人が振り返る。けれどそこに立っていたのは、
「……岬?」
細い髪が乱れていた。全速力で走ってきたらしく、会議室の入り口の扉を開けた体勢で立ち尽くした岬は肩で息をしている。彼が、丸く大きな瞳で桂を見て、桂さん、と呼んだ。その声がかすれていた。なぜかその声を聞いて、桂と茜と帆月は、三人同時に身構えた。
なにかがおかしい。
直感的に思った。それは、ほとんど、理由のない確信だった。
柔らかな幼さの残る岬の顔が青ざめている。血の気が引き、薄い唇はかすかに震えているように見えた。
なにかが、起こっている。
「桂さん」
なにか、たとえば鳥籠の扉を止めていた捻子が外れるような、
なにか、
「……青史さんが」
―― とてつもなく異常なことが。