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水底の森  作者: 隼海よう
第一章 捩子
3/8

2. 作られた平穏でも、決してそれは偽物ではないのだ

 

【夢魘】



 きぃ、……ぱたん

 ぎぃぃ……ぱ、たん



 ああ、ブランコが揺れている。



 何もない闇に一人で立ち尽くしていた桂は、どこかとても遠いところから聴こえるその音に顔を上げた――顔を上げた、けれど自分の前髪も、睫毛も、鼻先も、何もかもは視界に存在しなかった。完全な暗闇に感覚すら曖昧で、指を広げてみてもその輪郭も分からない。ゆらりゆらりと自分の存在がかげろうのように揺れるのを感じながら、桂は、ああ、あれはあのブランコだ、と音のない息を吐いた。


 公園の片隅で錆び付いていた鉄製のブランコは、風が吹いても揺れることなんて滅多になくて、そのくせ大きく大きく漕いだ後にぽぉんとボールのように飛び降りると、まるで子供の無茶を非難する母親のようにきぃぃ、ぎぃぃぃ、とやけに大きな音でいつまでも鳴っていた。帰り道、どこまでも物悲しげな音だけがついてくるような気がして、誰もいない背後を何度も振り返ったものだ。そのせいか、今でもこの音を聞くと胃の辺りがぞわぞわした。


 こんな場所まで追いかけてきてしまったのか。赤い鉄錆の匂いばかりが鼻を突く、あの寂れた公園の古いブランコ。お前は何がそんなに寂しいの。


 ふわっと、視界の端を何かが掠めた。自分の顔が今どこを向いているのかも分からないまま桂はそちらを振り返る。何かがとても遠いところでぼんやりと光を放っているのが見えた。その光がじりじりと大きくなる。自分の身体が歩いているのか、それとも光が近づいてきているのか。桂はにじり寄ってくるそのピントの合わない月明かりのような青白い光をぼんやりと見つめていた。



 きぃ、ぎぃぃ、……ぱた、ん



 音は光の中から漏れてくる。靄のような光球と闇の境目が桂に触れる。触れたのは分かるのに、桂にはそれでも自分の身体が見えなくて、そうか、ぼくはきえたのだ、と思う。


 光に温度はなかった。暖かくも、冷たくもなかった。桂の見えない鼻の先で呼吸するように明滅し、錆びた音をただ繰り返す。



 きぃ、ぎぃぃ

 ぎぃぃぃ……ぱ、たん



 桂の意識の片隅に、小さな小さな不穏が生まれた。光が一度ふんわりと膨らんで、それからひゅうっと萎むたび、その不穏は揺れながら大きくなった。


 真っ暗闇の中、むき出しの意識のままで光と向き合いながら、桂は一歩後ずさる。それと同時に、光の中にぼんやりと浮かび上がる白黒の何かを見つけた。その瞬間ざあっと桂の意識は冷たくなった。目の前の光がぐにゃりと歪む。


 違う、これはブランコじゃない。


 夢だ、と、桂は気づいた。これは夢だ。あの夢だ。起きろ、起きろ、起きなければ。今すぐに、ここから離れ、目を開けて、身体を取り戻さなければ。



 きぃ、……ぱたん



 光の中に扉が見える。見覚えのある、木製の大きな扉。白黒のそれが、きぃぃ、と細い音を上げて薄く開き、それからゆっくり、ゆっくりと、名残惜しげに閉まる。ぱたん。


 桂の意識の全てが痺れる。耳の奥で警報が鳴る。けれど桂はその光から離れることができない。瞬きすら、自分の意志に従わなかった。



 ―― ねえ



 ドアがまた、軋む音をたてて薄く開いた。その向こうに覗く、ここよりももっと昏い昏い闇。きらりと、その中で、何かが光った。


 爪だ。



 ―― ねえ、どこへいってしまったの



 か細い声が桂の耳ではないどこかからするりと入り込んでくる。開いた扉から青白い手が覗く。その手は蝶のようにひらりひらりと宙を探った。細い指が桂には見えない何かをなぞる。そしてふっと一瞬動きを止めて、桂の方へ手招きを始めた。



 ―― そこ、そこにいるの?



 ゆら、ゆら、と手が揺れる。桂はそれをじっと見ていた。視界を動かすことはできず、ただ、闇に浮かんで揺れるその手招きを見つめる。



 ―― そこに、そこに、そこに、いるの?



 やがてその手は痺れを切らしたように、扉の隙間から伸びてくる。ゆっくりと、生き物のように指を蠢かせながら、それは桂の存在に触れる。唐突に桂の身体が桂のもとに戻ってくる。細い桂の腕を、腹を、胸を、首を、温度のない掌がなぞった。鎖骨、首、顎。確かめるようにその指は桂の身体を辿る。頬、唇、瞼。触れられる場所からひんやりと冷えてくる。起きろ、起きろ、起きてくれ。桂は必死に自分に願う。ベッドの上で、汗をかき、首を掻きむしり、うなされているであろう遠い自分に。



 ―― ああ、こん、こんなところにいたのね

 ―― 私の可愛い子

 ―― こんなところに、

 ―― こんなところに?本当に?

 ―― ああ、いい、いいわ、ど、どうでもいいの

 ―― さあ、こっちへ

 ―― こっち、こっちへきて

 ―― こちらへ、ほら、もっと近く

 ―― 近くにきて、ちか、近くに、ねえ、さびしいの

 ―― 私の可愛い、可愛い、



 すすり泣きながら死んだ魚の腹のような色をした手は桂をなで回す。桂は棒のようにその場所に立ち尽くしていた。がんがんと頭が揺れる。脳みそを吐いてしまいそうだ。



 ―― ごめん



 今にも壊れてしまいそうな噎びに重なるように、別の声が桂の背後の暗がりから聴こえた。



 ―― ごめんな、桂

 ―― ごめん、ごめんよ



 その声もまた泣いていた。振り返ることもできず、耳を塞ぐこともできず、ただ桂は重なり合う泣き声に絡めとられる。ねっとりと闇が濃密に重くなる。身体が、身体が動かない。



 ―― こっちへきて、ねえ、わたし、私の愛しい、愛しい子

 ―― ごめん、桂、ごめんよ



 どろり。



 唐突に、桂の頬で、手が溶けた。指が、指であった部分が、固まり損ねたゼリーのような、人体の一部であったはずのものが、頬に、顎に、首に、震えながら絡み付く。


 いやだ、逃げろ、だめだ、逃げたい、逃げさせて。


 桂は言うことを聴かない足を見下ろす。ぼんやりと闇に浮かぶ輪郭。頼りない膝小僧、棒のようなふくらはぎ、骨張ったくるぶし。それらを辿り、そして、桂は声にならない悲鳴を上げた。


 ずるり、ずるりと、粘着質な何かが、桂の爪先を這いずっていた。闇から溶け出たようなそれは粘つきながら足の爪、甲、脛へと這い上がってくる。


 桂は必死にそれを振り払おうとする。けれど身体は動かない。かつて手であった何かが桂の首からぬるぬると頬を、鼻を、瞼を、這いずる。爪先からは粘ついた影がふくらはぎから膝裏へと桂を搦め捕ってくる。



 ―― ほら、はや、早く、こっちへきて

 ―― ごめん、ごめんよ



 青白い、もはや原形をとどめない粘りが桂の唇を割り口内に入り込む。悲鳴すら上げられない。かつりと何かが上の歯の裏にあたった。



 爪だ。



 桂の意識が崩壊する。視界が闇に墮ちていく。肌の上を異物が這う。喉の奥からゆるやかに浸食されていく。


 いやだ。


 桂の存在が今度こそ消えていく。嗚咽すらもう漏れてはこない。


 いやだ、やめてくれ、だめだ、助けて ――




 がばり、と、目を開けるのと同時にベッドから飛び降りた。まだ太陽の気配すらない濃厚な夜の中、月影だけを頼りにトイレに飛び込む。桂は便器に嘔吐した。


 後から後から胃の中のものが逆流してくる。あらかた出し尽くし、開いた口から漏れるのが嘔吐きと胃液だけになっても、しばらくの間桂は便器から顔をあげられなかった。胃がぎりぎりと捩じれるように痛む。


 胃液すら出なくなってようやくふらりと立ち上がる。立ちくらみが過ぎ去るのをじっと待ってから便器に水を流し、何度も何度もうがいをした。


 ベッドに戻り、隅に腰掛ける。全身が気怠く、かといってもう一度寝転がる気にもなれず、桂はその場に項垂れた。気を抜くとやけに鮮明な夢の名残が追いかけてきた。深く息を吸い、それからゆっくりと吐く。まだ微かに痙攣する胃を、もう吐くものは何もない、と、心の中で宥める。


 桂は自分の影がぼんやりと床に伸びているのに気づいた。顔を上げ、窓の外を見る。整頓された勉強机の上に大きく切り取られた窓の向こう、紺青の夜に煌々と月が浮いていた。


 ずきり、と頭が痛んだ。眉をしかめる。一瞬の鋭い痛みはじんわりと広がり、やがてどこが痛むのかよく分からない鈍痛に変わる。ああ、またこの夢に苦しめられるのか、と、桂はひとりため息をつく。


 今回は、二日か、五日か、一週間か。なるべく短い方が良い。儚い願いは幼い子供の約束事と同じくらい叶わないと知っていて、力なくそんなことを思う。


 桂はゆらりと立ち上がり、窓に近寄った。透明なガラスに手をつくと、指先に伝わるひんやりとした夜の冷たさが気持ちよかった。


 北寮最上階の東端に位置するこの部屋からは、ぬっと聳える東塔がよく見えた。太い鉛筆のような、どこか無骨な印象を与える石造りの大きな塔。その屋根に使われているのは鉛か青銅か、胴体の部分と色も質感も違い、月明かりに照らされてつるりと輝いている。夜になるとすべての入り口が施錠され、閉ざされてひっそりと静まり返るこの場所は、西洋の城というより古い修道院かなにかにも見えた。


 ぼんやりとそのある種神秘的な光景を眺めていた桂の視界の端に、ちらり、と、何かが揺れた。動くものの何もないはずの世界で、目は自然とそちらに引き寄せられる。


 ……あれ、は。


 桂の視線の先で、人影がひとつ、東塔から伸びる回廊を足早に中央塔へ向かっていた。


 桂はじっと目を凝らす。回廊は遠く、顔まではよく見えなかったが、桂にはその人影に見覚えがあった。消灯時間もとうに過ぎたこの時間、この場所にいるはずのない人物。


 この時間、寮は完全に外部から隔絶される。外から侵入することはおろか、原則的に生徒が宿舎から出ることもできない。けれどこんな時間に、どうしてあんな場所にいるんだろう。本に囲まれて居眠りでもしていたのだろうか……もし自分の目が確かなら、あの人はそんなこと絶対にしなさそうだけれど。


 身を縮め、人に見つかるのを恐れるように回廊を歩くその華奢なシルエットはすぐに死角に入り見えなくなる。桂はしばらく再び無人になった回廊を見つめていたが、やがて考えることをやめた。


 この管理された世界で、逸脱することは容易ではない。ということは、きっと、そこに何らかの意志があるのだ ―― そしてそれを探ることは桂に許されていない。


 桂はゆっくり窓から離れる。机に置いていた読みかけの本を開き、ベッドに寝転んだ。


 時計は二時。まだ夜は長い。けれどどうせもう眠れない。


 鈍く痛む頭を無視することにして、桂はぱらりとページをめくる。




【生徒会室】



 ことり、とシャーペンを置く。ふっと部屋の空気が弛緩した。


「やあっと終わったー」


 トモヤがぐうっと伸びをする。ホワイトボードに話し合いの記録を取っていたかのが、細かな文字の羅列の横に『決定!』と大きく書いてぐるぐると囲った。


「じゃあ議事録提出してくる」

「あ、俺も行きますっ」

 

 綺麗な文字の綴られた議事録用ノートといくつかの資料を抱え、さっと立った都にすかさず続いたのは岬だ。目を輝かせて跳ねるように立ち上がり、ぱたぱたと都の隣に駆け寄る。


「いいよ、提出するだけだし」

「いいんです、行かせてください!」

「二人で行く意味がないわ」

「俺にはあります!」

「……じゃあ岬くんに任せて私は」

「えっ……でもこれって会計が提出していいもんなんですか?やっぱり立場のある人じゃないと」

「……ただの議事録よ」


 都と岬の押し問答が始まる。いつもの光景に慣れた面々は特にからかうことも突っ込むこともない。トモヤはくわあ、と大きな欠伸をし、かのはホワイトボードの文字を消している。


「ともかく!俺はこっち、都先輩はこっち!」

「あ」


 ついに岬が都から資料の束をまるごと奪った。薄いノート一冊を残して両手がぽっかり空いてしまった都は、少し困ったようにぱちぱちと瞬きをした後、小さくため息を吐いて歩き始める。諦めたような背中と、嬉々としてその隣にくっつきスキップするように歩き出す岬とのツーショットが部屋を出て行くのを眺めながら、あのクールな都を困惑させられるのも岬だけだろうな、と桂は小さく笑った。


「あの、会長、これ……」


 か細い声にぱっと視線を向ける。艶やかな黒髪を背に流した日本人形のような女子が、数枚の紙を桂に差し出していた。


「プログラムとタイムスケジュール、あと出演団体リスト、外部に配布するものの草書です」

「ああ、ありがとう。ごめん、やらせちゃって」

「いえ……」


 それを受け取り微笑んだ桂と目が合うと、彼女はぱっと目を伏せた。黒髪から覗く耳がほのかに赤い。ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせながら、会長、お忙しそうなので……、と蚊の鳴くような声で呟いた。


「寮の方で、文化会とかも……あるんです、よね。お疲れみたいですし……」


 切りそろえられた前髪の下から気遣わしげな黒目がちの目が桂を見つめる。その上目遣いの視線が自分の目をくっきりと縁取る隈に向けられているのに気づき、桂は黙って首を振り笑った。これは忙しさのせいではない。夜が来るたび朝を待つのに少し疲れているだけだ。


「そーそーけいちゃんはマジメちゃんだからねー。会長とか寮長とかそーゆーボス的なヤツはどーんと構えてりゃいいのどーんと。禿げるぞー」

「じゃああんたも働けばぁか」


 重心を後ろに傾けてぎぃぎぃと椅子を揺らしていたトモヤに、向かいから明るい声が突っ込む。生徒会に支給されているノートパソコンをロッカーから運んできたかのが、腰を下ろしながらトモヤを軽く睨んだ。


「俺はほら、存在が仕事ってやつだから」

「なにその利己主義極まりない主張」

「人間空気清浄機とお呼び」

「ちょっとそこの酸素泥棒」

「よしお前表出ろ」

「むしろお前が表出ろ」


 かのとトモヤの間に火花が散る。すぐそばで始まった口喧嘩に雪実がおろおろと眉尻を下げる。「大丈夫、放っとけば良いよ」と桂が笑うと、彼女は桂を見上げて、あ、はい、と小さくはにかんだ。


 生徒会の面子の中で最も地味で目立たないのが彼女、一年書記の那須雪実だ。他のメンバーの個性が強すぎる面もあるが、自分に自信がなく引っ込み思案な雪実は常にどこかおどおどとしている。彼女は自宅生で、聞くところによると海外を中心に不動産事業を展開する資産家の娘らしい。言われるとたしかに、控えめな立ち居振る舞いにも、大人しい自分にも安全な居場所が用意されていることを純粋に疑わない様にも、守られて生きてきた子供特有の、世間に保証された自分の存在に対する根拠のない確信のようなものが垣間見える気がした。


 桂はかのとトモヤの声をBGMに、雪実に渡された資料に目を通す。


 寮で秋の文化会が開かれるのに合わせ、この高校では音楽祭が開かれる。寮生限定の文化会と違い全校生徒が参加できるこちらの行事は、各学年の音楽選択の生徒たちによる合唱や合奏の発表の他に、芸術系に秀でた生徒たちの成果発表会の意味も含まれている。寮生のような『特殊な環境』は与えられずとも、他の高校に比べあらゆる種類の設備の整ったこの高校はそういう方面の生徒たちにとって十分恵まれた場所だ。午後の一般開放では父兄や他校の友人たち以外にもたくさんの一般客が訪れる、一大行事だ。その分生徒会の仕事も多く、最近は文化会の準備に加えてこちらの準備にも奔走している。


「だぁからうるせーなぁ、彼氏とうまくいってないからってこっちに当たんなばぁか」

「おー言ったなこちとら振られないように必死だこのやろう」

「いっぺん振られてこい色ボケ」

「よしまじで表出ろ万年独り身男」


 ヒートアップするかのとトモヤの言い合いに苦笑する。タイムスケジュールにいくつかの指示を書き込んで雪実に返し、都と岬が帰ってきたのを目の端に確認しながら桂は新たに資料を出して机に広げた。職員室に行って帰ってきただけなのに鼻歌でも歌いだしそうなくらいに嬉しそうな顔をした岬は、入り口近くで立ち上がりぎゃんぎゃんと言いあっているかのとトモヤに立ち止まり、深いため息を吐いた。都は驚くことも苛立つこともなく完璧に二人をスルーして自分の席に戻る。


「ばーかばーか、大竹かののかは馬鹿のかー」

「はい聞こえないー音痴すぎて聞こえないーぃ」

「はい二人ともそこまでー」


 岬が二人の間に割って入る。身を乗り出してにらみ合っていたトモヤとかのが同時に岬に目を向けた。


「恥ずかしくないんですか、今時小学生でももう少しレベル高い言い合いしてますよ」


 呆れながらもこうやってちゃんと仲裁に入る岬は偉い。だって、


「なぁんだよぉワンコ、かまってほしいんならそう言えよぉー可愛いヤツじゃねぇのー」


 がばりとトモヤが岬の頭を捕まえてわしゃわしゃ髪をかき回す。違いますやめてください離してくださいうわあ痛い痛いやめてってば離せ!と悲鳴を上げながら藻掻く岬は、こうやってトモヤに玩具にされる結果を分かっていて、それでもちゃんと二人の仲裁に入るのだ。もしかしたらこのメンバーのなかで一番大人なのは彼かもしれないと桂は思う。


「……まだ仕事あった?」


 我関せずとばかりに帰り支度をしていた都が桂の手元に目を留めた。細かな文字の書き込まれた図面のようなものに、すっと眼鏡の奥の一重を細める。桂は顔を上げ、笑って首を振った。


「ん、これは別口。音楽祭関係はもう今日やることはないよ。帰って大丈夫」

「そう」

「なになに、会長他にも仕事してんの?文化会のやつ?」


 ひょこりとかのが都の後ろから顔を覗かせた。その向こうでトモヤと岬がプロレスなのかじゃれあいなのかよく分からない遊びをしながら(主にトモヤが)げらげらと笑っている。つい数秒前までトモヤと言い合いしていたことなんてけろりと忘れたような顔をして、かのは都の肩に顎を乗せ頬を膨らませる。


「あーいいなあ、秋の文化会。一回でいいから潜入してみたいー。なんかもういろいろ有り得ない噂ばっか聞くからさあ、どんなだよって話。春の文化会には今年いったけどさ、あれより規模大きいんでしょ?」

「……まあ、そうね」

「あーいいなあいいなあ、羨ましい!ねえ雪ちん!」

「え、あ、はい」


 都がさりげなく立ち位置を変え距離を開けたことにかのは気づかない。隣の雪実に同意を求める無邪気な彼女に桂は黙って微笑んだ。


「俺としてはその能天気が羨ましいわ」

「んだと!?」


 岬にヘッドロックを決めたままトモヤが投げた声に、かのがぐりんと勢いよく振り返る。あからさまに馬鹿にした顔でため息をつき首を振るトモヤ。それにつかつかと歩み寄るかの。岬はヘッドロックを決められ声も出ないようで、二人の再燃した口喧嘩に挟まれながら無言でじたばたと暴れている。都が小さく呆れたため息をつき、帰り支度を再開する。


 生徒会役員六人の中で、自宅生はかのと雪実の二人だけだ。あとの四人は全員寮生で、どうしたって一緒に過ごす時間の長さも、深さも、密度も違う。それを羨むかのの気持ちがわからないわけではない、が。


 羨ましい、と彼女が言う、それだけでもうくっきりと境界線が明確になる。他校に付き合っている恋人がいて、放課後に会う約束をして、いそいそと化粧をして会いに行く。たとえばかのの日常に当たり前にあるその光景の、何一つとして桂たちには与えられないことが、彼女には分からない。自分がわかっていないことを彼女は知らない。それは時に残酷な無邪気さで桂達にまざまざと現実を突きつける。


 けれど、かのにはそのままでいてほしい、と、トモヤと小学生以下の言い合いをしている彼女を見ながら思う。


「それじゃ、お先に」

「……っ都先輩!」


 都が鞄を持って立ち上がる。と、その声に反応して岬がトモヤの腕から無理やり逃れ、いててて、とこめかみを押さえて呻きながら自分の鞄をつかむ。


「都先輩ご一緒していいですか!」


 光の速さで岬がぴゅんと都の隣にくっついた。都はそれにちらりと目をやり、微かに眉を寄せただけで何も答えず歩き出す。本当に主人が好きで仕方がない子犬のように、岬はにこにこしながらそれについていく。


 四人が残された生徒会室では、トモヤとかのがついに頬のつねり合いを始めた。その幼児の喧嘩のような光景を雪実がおろおろと見ている。


 桂は窓の外に広がる薄い夜と、そこに反射して映り込む自分たちの姿を眺めた。トモヤとかの、雪実、自分。つい先ほどまで行っていたミーティング内容が書き殴られたホワイトボード。各自のノートや資料が散らばった長机。古ぼけたコピー機。



 自分たちに与えられたこの日常が、与えられたものであることを、桂達はすでに知っている。与えられたもの。いつか失うもの。失うために与えられたもの。失うことがわかっているものは、いつだって尊い。


 けれどそのことを悲観したことはない。それはきっと、桂だけではないだろう。作られた平穏でも、決してそれは偽物ではないのだ。




【寮長】



「じゃあ大ホールと小ホールはこれで決まりな」


 長机に並んで座った青史が、きゅっとプリントに赤のボールペンで決の字を書いた。


「外舞台は?午前の大枠これで決めちゃうと午後に響かない?外部劇団の時間は余裕持って確保しないと当日ごたごたすると思うけど」

「時間早める?スタート早めればもう一団体は詰められるだろ」

「早めるって言っても九時が限界。それ以上早いと絶対どっかから苦情出る」

「昼に入れるか」

「ああ、確かに……飲食オッケーだし近くにいくつか軽食店出る予定だし、そうしよ」


 テキパキと青史とやりとりをしているのは南寮寮長の茜だ。大きく意志の強そうな目が、彼女の隣に座る人物に移る。


「セキュリティの方は?」

「リストの最終確認はこれからAに頼むところ。業者の入寮IDの配布はもう完了してる」

「大ホールと小ホールは完全開放だよね?」

「そうね。回廊への扉を封鎖してもいいんだけど、それだとあまりにも不便だから封鎖はしない予定。だから結果的に大ホールと小ホール、それに東側の回廊は開放する形になるわ。その代わり東塔と中央塔の入り口を完全閉鎖することになるから、その旨を寮生に伝えておかないと」


 茜の質問に答えた涼やかな声に、ふと桂はパソコンから顔を上げた。自分の真正面に座っている彼女が、その動きに気付いてすっと視線をこちらに向ける。薄く青みがかったような瞳と目があって、なぜか少しぎくりとする。


「あとなにかある?」


 彼女が桂を見て小さく首を傾げた。さらりと細い髪が肩を滑る。


「ああ、……いや、ないんじゃないかな。僕らの管轄でできることは」


 桂が微笑んで首を振ると、そう、とだけ言って西寮寮長の帆月は視線を戻した。


 うーし、ようやく詰め切ったなー、と青史が伸びをする。時計を見ると、もう十時を過ぎている。夕食後に中央塔の小会議室に集まった四人の寮長はそれぞれ思い思いの格好をしていて、校内で見る姿とは印象が全く違う。濃紺のブレザーを羽織ると端正で爽やかなスポーツ少年そのものの青史も、くたびれたTシャツにスウェット姿だとどこか間が抜けて見えるし、姉御肌で少しキツい印象を与える茜も部屋着のパーカに身を包むといつもより幼く見える。なんてことを考えている桂も部屋着のTシャツにジャージだし、秋の文化会を控えてもう何度もこうやって夜遅くまでミーティングを重ねている今、その姿に何を思うわけでもないけれど。


 USBに今まで記入していた諸々の書類とデータを保存し、パソコンを閉じた。あとは当日ね、と立ち上がった茜に続いて桂も立ち上がる。と、


「それ、私が行くわ」


 すぐ傍からかけられた声に振り返ると、帆月がそこに立って桂に白い手を差し出している。


「Aのところに持っていくんでしょう」

「え」


 突然の申し出に目を丸くした桂に、帆月は小さく眉をしかめて自分の下まぶたのあたりを指でとんとんと叩いた。


「忙しくて寝られてないんじゃない?酷い隈」


 なんとなくつられて自分の目の下を指先で触り、それは、と言いかけて、言い淀んだ。


 この隈の原因、あの夢を見始めた夜。石造りの回廊を急ぎ足で渡って行った人影を、自分は確かに目撃した。月明かりにすら照らされるのを嫌うように早足で立ち去ったその人物は、自分の見間違いでなければ、……おそらく。


 口を開き、一度閉じた。それからいつものように微笑む。


 訊いてはいけない。たとえあの場所にいたのが彼女だったとしても、そしてそれが本来であれば実現し得ない行為であったとしても。



 詮索をしてはいけない。それはこの寮の最も重い規則に反する。



「ありがとう。でもこれ渡すだけだから」


 ゆるやかに首を振った桂に、


「……疲れてるところにあの人はちょっと強烈すぎると思うの」


 そう帆月が真顔で言うので、思わず小さく吹き出した。くすくすと笑いながら、もう一度大丈夫というと、帆月はそう、と浅く頷いた。



「そういや帆月、今年は伴奏で出るんだな。声楽の咲山だっけ?外舞台のトリだろ」


 四人連れ立って小会議室を出ながら、青史が思い出したように帆月に言った。


「去年は出てなかったよな。咲山直々のご指名ってこと?あいつストイックって有名じゃん。しかも今年はトリだしめちゃくちゃ気合い入ってるって聞いたけど。それで伴奏に抜擢って、実はお前かなりの実力なの」


 帆月が少し戸惑ったように瞬きをして、それから薄く微笑む。実は午前のトリってちょうど一番人入る時間帯なんだよなー、こりゃ腕の見せ所だな、と微かに上擦った声で続ける青史は帆月が微笑むだけで何も答えないことに気づかない。いつもはこういった機微に聡いのに、眠気と夜のテンションに感覚が鈍っているのか、青史は、絶対見に行く、と無邪気に笑う。それに応える声はなく、廊下の暗闇に青史の声だけが滲んで消えた。


 桂は下の階へ向かう階段の前で、じゃあ、と三人に手を振った。おやすみ、おつかれ、という声を背中に受けながら、ぼんやりとした非常灯だけが照らす階段を下り始める。消灯後の静寂は深い。遠ざかっていく茜のスリッパが、彼女が一歩踏み出すたび、ぱこん、ぱこん、と白い踵に弾む音が、妙に大きく長く響いた。



 * * *



 地下通路のどんよりと陰鬱な空気に音すら重く落ちるようで、桂の足音は響かずに鈍く消えていく。顔を上げて視線を飛ばし、けれど進む先はさらに深い闇に消えていくばかりで出口は見えない。桂は思わず深く息を吐いた。


 USBを手の中で転がしながら、この先で待っているであろう人物を思い浮かべた。強烈、と言った帆月の言葉に今更ながら強く共感する。


 あの少し頭の可笑しな管理者は、この暗い地下通路の先に建つ西塔に住んでいる。地下通路に入ることは四人の寮長しか許されておらず、さらにAは気まぐれに入り口をロックするので寮長たちですら自由に会えるわけではない……自由に会える権利を与えられていたとして、果たして自分たちが進んで会いに行くかと問われると首を傾げざるを得ないが。


 歩く先は闇、後ろを振り向いても闇。自分が歩く場所だけが懐中電灯に照らされてぼんやりと明るい。


 ……脱獄者、みたいだ。


 歩みを進めながら桂はかつて見た古い外国映画を思い出した。主人公であり脱獄者である囚人が逃げ回る場所は、もっと狭く湿っていたけれど、こことよく似ていた。


 馬鹿げた妄想だ。けれどあながち間違っていないかもしれないとも思う。


 完全に外界から隔離された場所。一介の高校の寮にしては厳重すぎるセキュリティ。出ることも入ることも容易ではない広大な敷地と、その中にばらまかれる桁の違う贅沢。


 この場所でやりたいと言えばなんだってできる。欲しいものだって手に入る。海外のオーケストラが聞きたいと言えば一ヶ月後には招待公演が開かれるし、絶版になった古い画集が欲しいと言えば二日後には手配されて手元に届く。何を求めることも許される ーー 自由さえ手放せば。


 入寮した頃はこの完全な外界との隔離に戸惑った。寮生以外は徹底して排除される空間。出入りはおろか、外部との電話や手紙、メールでのやり取りも禁じられている。そして寮生自身も年末年始以外は通学以外一切の外出を認められていない。年末年始ですら管理者に申請をして受理されなければ親族に挨拶をするために帰省することもできない。寮規に定められたそれは異常にも感じたが、そうではないことに気づくのにそれほど時間はかからなかった。



 この場所の存在意義は単なる寝食ではない。夢のような監獄。これから地獄に放り出される子供達に与えられる一瞬の夢、あるいは一瞬の休息。そのことを知った今、桂は寮規に意義を唱える気はないし、破る気もない。



 懐中電灯で先を照らす。ぼんやりと頼りない光の先に古びた扉が見えた。


 と、微かな音が鼓膜を震わせた。それは桂が一歩進むごとに近づいてくる。耳を澄ませなくてもわかる。Aの歌声だ。


 扉の前に立ち、桂は一度深く深呼吸した。それから扉に指をはわせ、ぐっと押す。重い扉がゆっくりと開いていく。ぎぎぎぃ、と獣の呻き声のように軋んだ音が暗闇に響いた。


 西塔に入り、息を吸う。空気はちっとも軽くならない。古びた建物独特の黴臭さとやけに無機質な冷たい匂いが混ざりあって桂の肺を満たす。先ほどから聞こえ続けている歌声は、壁につくりつけられた螺旋階段から転がり落ちてくるように、伸び縮みした奇妙な響きを空間に拡散させる。その響きの元を追うように桂は吹き抜けを見上げた。天井まで続く吹き抜けは不安になる程高い。夜に吸い込まれそうだ。


 ひょこり、と、動く頭がずっとずっと上にあった。目を細めてその影を見つめる。ほとんど表情は見えない。が、Aがあのどろりとした目でこちらを見て笑っているのがわかった。


 おやおや、きひゃ、という奇妙な声が吹き抜けを落ちてくる。そして骨ばった細く青白い腕がゆぅらりと上で振られるのが、微かに見えた。



「ようこそ、ようこソ、僕のカワイイ小鳥ちゃン」



 何も言わない桂に、監獄の主はそう笑う。




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