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水底の森  作者: 隼海よう
序章
1/8

夢の箱庭

 


 幕が上がる、

 劇は終わった、

 紳士淑女は家に帰る。

 芝居は彼らの気に入ったろうか。

 喝采が起こったようには思ったが。



    ーー 『ランプが消える』より




 



 時折長い長い夢を見る。




 夜空に突き刺さる刺のような鉄塔。

 迷路のような本棚の海。

 朽ちていく音楽室。

 夕闇に沈むシルエット。




 その夢はいつだって、暖炉がぱちぱちと軽い音を立てて燃えるあの部屋から始まる。微睡んでいた私はうっすら目を開け、背の下の柔らかなソファの感触を、誰かがそっとかけておいてくれた毛布の頼りない重みを感じて一度ゆっくり瞬きをする。人前で寝ることなど滅多にない私が安らかな眠りを貪っていたことに気づかない振りをしてくれていたらしい友人たちが、横を通り過ぎざまに私が目を開けたことを確認してそっと微笑む。それに私は微笑み返し、もう一度瞬きをする。ごとん、と、暖炉の薪が音を立てて崩れる。


 私は立ち上がり、一瞬の立ちくらみをやり過ごしてから歩き始める。身体はやけに軽い。夢だからだ。けれど夢の中の私はそれに気づかず、自分の存在の頼りなさに小さく身震いをする。そして暖かい部屋をするりと抜け出す。


 あの塔の螺旋階段が私はあまり好きではなかった。壁はひやりと冷たく、窓はほとんどない。まるで中世ヨーロッパの古城を模したような造りにある種の執念に似た昏い熱を感じてしまい、私はいつも俯きがちに古い石段を踏みしめた。


 夢の中で私はぐるぐるとその階段を昇る。軽い身体は疲れを知らない。どんどん、どんどん、上へ上へと昇っていく。私は一人最上階を目指しながらぼんやりと考える。毎回エレベーターがないことに低く文句を言っていたのは誰だっただろう。屋上まで昇るときなど、あの文句がだんだん弱々しくなっていくのがなんだかひどく可笑しかった。きらきらと輝く目をした彼女は今も元気だろうか。……ああ、彼女は死んでしまったのだったっけ。




 ―― 鳥籠の小鳥は触れない




 Aの歌声が聞こえる。奇妙に音程の外れた、からくり人形のように間延びした抑揚のないあの歌が。


 どこから聴こえているのだろう、ここには私しかいないのに。そんなことを考えて昇ってきた階段を振り返ろうとして、やめる。どうせ無駄だ。ここはAの鳥籠なのだ。どこにいようとどこへ行こうと、その影を追える者などこの世界のどこにもいない。


 私は階段を上がりきる。そして迷いなくひとつの扉へ突き進む。扉に重量はなく、まるでシルクの布を払いのけるように簡単に向こう側へ開く。


 その先に長く長く伸びる空中回廊。私は駆け出す。床も壁も天井も光に濡れる滑らかな石で組み上げられ、けれどそこにあの螺旋階段と同種の陰鬱さはない。細い回廊の両脇に大きく切り取られた窓にガラスはなく、その向こうにどこまでも黄金色に燃える世界が広がっているのだ。


 木々がざわめく。そこここに長く伸びる影が揺れる。遠く見えるあれは花園。春になると異国の花々の鮮やかな色に溢れ、むせかえるように甘い匂いが立ちこめる。



 まるでおとぎ話のように夢の世界は美しい。


 天使の遊び場。神様の箱庭。




 ―― 鳥籠の小鳥は帰れない




 回廊を抜けて私は東塔に入る。途端に押し寄せる、古い紙と糊の匂い。一気に視界が暗くなる。


 私は巨大な本棚の海を泳ぐ。足音すら吸い込まれる静寂。天井にまで届く細く長い梯子が、ぽつりぽつりと寂しげに立てかけられている。時折唐突に、落とし穴のように床に細い階段が現れる。本で埋め尽くされたこの塔のそこかしこに現れるその階段はどれも短く、降りた先にそれぞれ秘密基地のような小さな部屋がある。私はそのうちのひとつ、三階の床にある、マニアックな洋書ばかりがひっそりと詰め込まれている小部屋がお気に入りだった。そんなことを思い出しながら、足元に口を開けた秘密の入り口を私はひらりと飛び越える。


 本棚の迷路を抜け、ひとつの扉が見えてくる。高いところにあるたったひとつの明かり取りの窓に照らされて、浮き上がるように真鍮のドアノブが輝く。私はそれに駆け寄り、倒れ込むように扉を開ける。


 再び外回廊が現れる。光を増した斜陽の猛々しさに、私はそっと息を吐く。




 ―― 鳥籠の小鳥は謳わない




 Aは滅多に姿を見せなかった。


 そのくせ、あの歌ばかりそこかしこに落としていくものだから、Aの顔は知らなくてもあの珍妙な歌は知っているという人間の数は少なくなかった。そのことに気づいた時、私たちは顔を見合わせて少しだけ笑ったものだ。うろ覚えの歌はテンポも音程も人それぞればらばらで、鼻歌ですら歌う全員が音痴に聴こえるという奇跡のような現象に、笑い上戸で背の高い彼も、その隣でいつも静かに微笑んでいる彼も、肩を震わせて笑っていた。



 ああ、穏やかなあの日々の夢。あれほどに血なまぐさい現実に晒されておきながら、思い出す風景はいつだって春風のように微笑む。




 ―― 鳥籠の小鳥は忘れない




 緩やかな弧を描く回廊を渡りきり、次の塔の入り口にたどり着く。だんだんと心臓が早鐘を打ち始める。


 扉を開けた先にある、先ほどよりさらに鬱蒼と停滞した北塔の空気。いくつもの時代を沈黙とともに超えてきた古く重く黴臭い書物たちが私を見下ろす。



 もうすぐだ。



 夢の中の私が夢の中の私に言い聞かせる。



 もうすぐだ、早く、早く、あの螺旋階段を昇って。



 夢の中の私が夢の中の私を急かす。


 夢を見ている私の声は夢の中の私に届かない。行ってはいけない、あの場所を見てはいけない、だってあそこには彼がいる、彼が静かに佇んでいる、それを見てしまったら、私は、もう、私は、きっと。その声は誰に届くこともなくただ内側に渦巻いて消えていく。


 私は古書を掻き分けて進む。塔の中心の巨大な吹き抜けから湿った風が吹いてくる。それが私の前髪を揺らす。ああ、私の髪はこんなに短かったっけ。そこで些細な違和感が夢の中の私の胸に生まれる。けれど足は止まらない。


 片隅に隠れるようにひっそりと伸びる螺旋階段に駆け寄る。目が回る程高く伸びるそれの行き着く先は天井で、一見まるで意味を成さないように見える。構わず私はそれに飛びつく。そして駆け上がる。上へ、上へ、上へ。




 ―― 鳥籠の、




 そして私はたどり着く。唐突に視界は光に溢れ、私は目を細める。


 ガラス張りの窓がぐるりと張り巡らされ、透明なそれを通して見える遠い遠い世界の端っこで、巨大な火の玉がゆっくりと沈んでいく。


 彼はそれを見ている。

 その背中を私は見ている。

 何もかもが息絶えようとしているその部屋で、鮮やかな橙色につやりと濡れる、グランドピアノ、観葉植物、不安定な揺り椅子、そして窓際の彼。


 私は口を開く、息を吸い込む、ゆっくりと一歩足を踏み出す。


 全身を夕陽に染めた彼のシルエットが、振り返る、ゆっくりと、振り返る、柔らかく細められた目が私を捉える、その瞬間まであと数センチ、あと数ミリ、あと、






 ……そこで夢は終わるのだ。






 いつになったら忘れるのだろう。この夢を見るのはいつだって畳の部屋で意図しない眠りについているときで、起き上がるたびに私は打ちのめされるのだ。


 ここはどこだろう。

 なぜこんな場所に私一人きりの影が伸びているのだろう。

 どうしてこんなに静かなのだろう。

 みんなはどこへいったのだろう。


 うまく回らない頭でそんなことを考え、ふと私は自嘲する。


 あの場所で、あの醜く無慈悲なあの場所で、誰も彼もが一人きりだったにもかかわらず、どうやら私はあの場所に生きる彼らに奇妙な一体感を覚えていたらしい。いわば戦地に赴く兵隊のような。私たちは生きなければならないという、その使命に結びつけられた歪な絆を。


 だからこんなに虚しいのだ。


 あの鳥籠は、もう私には見えない。その残骸が夢の中で遊ぶだけ。




 夜空に突き刺さる刺のような鉄塔。

 迷路のような本棚の海。

 朽ちていく音楽室。

 夕闇に沈むシルエット。




 束の間の夢のような夢。


 あの閉ざされた鳥籠で、たしかにあなたを愛した日々の夢。




 ……ああ、呼び声が聴こえる。あるいはあれは悲鳴だろうか。

 行かなければならない。私の名を呼ぶあの人の元へ。

 行かなければ。

 行かなければならない。

 あの優しい地獄を、私は自ら捨てたのだから。




 耳の奥に小さく残る、ああ、あの歌の結びはどのような哀しみだったか。鳥籠の主が紡ぐ、笑みを含んだその歪んだ旋律を、私は確かめるように小さく小さく口遊む。







 鳥籠の、






 ―― 鳥籠の小鳥は愛せない







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