「恋文」 4
『我が愛しの姫君、フレイアへ。
手紙をありがとう。文字でも名を呼んでくれて嬉しかった。私の耳には、はにかむ君の声が届いたと言えば、君は笑うだろうか?
そう書いた端から、今度は君の笑う声が、空耳に聞こえるほどの重症だ。フレイア、君という人を知り初めて、私の病は篤くなる一方だ。私の名を詰まらせている君よりも、そんな君を思い浮かべては、頬を緩めている私の方がさぞかし滑稽だろう。
私のことを名前で、早く呼び慣れて欲しいと思い、けれどいつまでも、初々しくあって欲しいとも思う。どちらでもいい。こんな小さなことで、悩んでくれる君が恋しい。
月の光に君の髪を、星の煌きに君の瞳を、風の揺らぎに君の吐息を、炎の明かりに君の火照りを……、私はやるせなく思い出している。フレイア、文字だけでは足りないので夢で逢いに行く。その時には改めて、名を呼んでくれるだろうか? 夢の中の私は堪え性もなく、君に不埒を働くかもしれないが許して欲しい。
エトワ州城での暮らしには、また少し慣れただろうか? サリフォール公とは早々に打ち解けて、色々と話せているようで安堵をしている。
公の述べた通りに、ランディは確かに、使えるだけ使っておいて損はないと私も思う。彼は私の影として、長らく王宮の中枢にいたので宮廷事情に詳しいし、口を出せば手も出したがる仕事の虫だ。君の課外授業の指南役も、じっとしてはおれずに、趣味と実益を兼ねて買って出ているものと推察している。
フレイアに気兼ねはあるのかもしれないが、仮にも近衛二番隊で副隊長を務めていた男なのだ。君の華奢な足で踏ん付けたくらいで、怪我をするほどやわではないから、上面に騙されて甘やかさなくてよいのだぞ。
シュレイサ村へは本当に、赴いてよかったと思っている。理由を数え上げればきりがないが、フレイア、何よりも君と出逢えた。私の人生に、君という幸いを迎えることができた。村の復興は一通り終わったと聞いているが、みな息災であるのだろうか?
サリエットのことだが、シャレルたちの結婚式の当日は、単純に私の着ていた近衛の制服に浮かれていただけだろう。一度のエスコートを、一生の自慢にしてもらえるというのだから、王太子でいるのもたまには悪くない。
あの日の宴で君と踊り損ねてしまったことは、私も実に遺憾に思っている。そしてだからこそ、初めてのダンスは、このまま君の社交界への披露目の日まで取っておきたいと考えている。身勝手な考えかもしれないが、それは二人にとって感慨深い出来事となるはずで、特別な記憶として胸に刻みたいから。
私は王宮で君を待っている。曲が始まれば、真っ先に君を誘おう。【勝利の神】の加護を祈願した御守りを贈るから、それを身に付けて、勇気を出しておいで。君の心臓が破れてしまわないことを祈っている。
ところで、同封したヴェンシナからの手紙なのだが、フレイアはもう読んだだろうか?
もしも堅苦しい言葉で綴っていたならば、手紙の中でくらいは、昔ながらの『兄』に戻ればいいのだと伝えてやってくれないか。私が与える許しよりも、君のわがままの方が、おそらくヴェンには効き目があるだろう。
返事もまた、私宛のものにこうして忍ばせてくれれば、密かにヴェンに渡しておこう。
ああそうだ、信用されているとは思うが、封を切って中を確認するような、無粋はしないことも保証しておく。君たちの絆は、たまに妬きたくなるほど深いけれど、世が邪推をするような類のものではないことを、私が誰より知っているのだから。
君との距離を取ったヴェンを見ていると、私は彼から、そしてそれ以上にフレイアから、奪い去ってしまったものの大きさを思い知らされる。私はフレイアに、それを補って余りあるものを与えられているだろうか? 君はすぐに自分を抑えてしまうから、心配をするなと書かれてしまうとかえって気がかりになるのだぞ。
この世の誰よりも私は君を想っている。私に添うことが、君の幸せだと言ってくれるならば、心だけはいつでも傍にいよう。フレイア、誰に憚ることもなく、身体ごと君に連れ添えるその日まで。
真心の全てを君に捧ぐ。
永遠に君のしもべ。
アレフキース・サリュート・ドゥ・デルディリーク』
*****
その熱烈な恋文を、さっさと読み終えてしまうのがもったいなくて、フレイアシュテュアは襲い来る感情の波に心をたゆたわせ、時折文字を追う目を休ませながら、一言一句を噛み締めるようにして胸の奥にしまった。
アレフキースの色に染め上げられ、浮ついた心のままでヴェンシナの手紙を読む気にはなれずに、フレイアシュテュアはそれをひとまず手芸道具の籠の中に片付けた。ヴェンシナには、ヴェンシナに対する、特別な想いがある。ついでのようにあしらうのではなく、気持ちを改めてから向き合いたかった。
そうしてから、封筒に戻し、閉じていた恋文をまた開いた。何度読み返しても一向に、飽かないのは何故だろう? 嬉しくて、幸福で、胸がしびれて、けれど……。最後の署名に辿り着いてしまうと、たまらなく寂しくて、切なくなるのは何故だろう……?
「……殿下……」
熱を帯びた呟きを風が攫った。庭の花の香気をたっぷりと孕んで、北から南へと渡りゆく風だ。それに気付いて、フレイアシュテュアは南の空を見上げると、浮かび上がるアレフキースの面影に、 万感の想いを込めてそっと呼びかけた。
「――アレフ」
あの空の下にいるあなたのもとへ、風がこの声を運んでくれればいいのに――。
想いを託した風の行方を追いながら、面と向かっては呼べなかった自分を、フレイアシュテュアは今さらのように愚かだと思った。その小さな勇気と形のない贈り物を、アレフキースは手放しで喜んでくれただろうに。
恋は、まだ。
どうすれば器用にできるのかフレイアシュテュアにはわからない。紡ぐ言葉は拙く、触れることにも触れられることにも臆病で、いつまでたっても巧者にはなれない気がする。
交わす恋文の一つをとっても、恥ずかしさが先に立ってしまって、思いのたけを十分に伝えきれてはいない。アレフキースはこんなにも、自分の心を掴んで放さないというのに――。
いつまででも眺めていたい誘惑を、どうにか断ち切って恋文をしまい込み、フレイアシュテュアは宝飾品の箱を手に取った。隙間をそろりと覗き込むようにしながら、おっかなびっくり蓋を開けると、果たして中に納められていたのは、精緻なカメオの腕飾りであった。
綺麗な卵型の縞瑪瑙に彫り込まれているのは、夏男神サリュートの横顔と、その象徴である百合の花。枠と留め具は美しく彫金された純金で、鎖の代わりに色艶と粒を揃えた三連の真珠が繋がれていた。
凛と整った青年神の顔立ちは、とくりと胸をはねさせるほどアレフキースに似ている。
アレフキース・『サリュート』・ドゥ・デルディリーク……。
丈高く体躯に恵まれたフレイアシュテュアの恋人は、正に勝利を司る神の如く、剣を掲げる姿がなんとも様になる王太子だ。年の頃もちょうど見合うので、当代の芸術家がアレフキースの容姿を模してサリュートの像を刻むのは、何ら珍しいことではないのかもしれない。
それにしても――と、目が眩みそうな宝石を前にして、フレイアシュテュアは途方にくれる。アレフキースの気持ちは嬉しいのだが、『御守り』というのは、もっとささやかなものではなかっただろうか? 生まれながらの姫君であるならば、嬉々として取り出して、この場で手首に嵌めてしまえるのかもしれないが、慎ましい教会育ちのフレイアシュテュアには、手垢をつけてしまうことすら怖いくらいの財宝だ。
「フレイア」
両手で頬杖をつき、アレフキースにしか見えなくなってきたサリュートの横顔とにらめっこをしていると、円熟した女性の声に名を呼ばれた。この城の住人で、フレイアシュテュアを呼び捨てられる女性はたった一人だけだ。
「お義母様――、ご政務からのお帰りでいらっしゃいますか?」
「そう」
きちんと長椅子から立ち上がり、礼をもって迎えたフレイアシュテュアに答えて、四阿に入りながらサリフォール女公爵は微笑した。
フレイアシュテュアの養母であるこの女性は、名に実を伴ったエトワ州公として、二十年以上も前から州を治めている。政務後の気ままな庭の散策が、若い頃から彼女の習慣であり、心身健康を保つための秘訣なのだという。
「たまにはね、課外授業の様子を見ておきたいと思って寄ったのだけれど……。今日は一人なのだね、フレイア。ランディはどうした?」
「お兄様はおそらく、ご自身かサイのお部屋に居られるのでないかと思います。殿下からの小包を、サイが届けてくれたので、今日のお勉強はもういいとおっしゃられて――」
「なるほど、フレイアがゆっくりと恋文を広げられるよう、気を利かせたというわけか。そういえば、あなたの手元にあるそれは、殿下からの新しい贈り物のようだね? 何か考え込んでいたようだし、わたくしも遠慮をしようか?」
長椅子に落ち着けたばかりの腰を、早々に浮かしかけた『母』を押し止めて、天の助けといわんばかりにフレイアシュテュアは懇願した。
「いいえ。お義母様さえよろしければ、是非ともご相談に乗って頂きたいことがあるのです。あの、このままこちらへ、おいで頂いてもいいでしょうか?」
「相談? 構わないよ、何だって言ってごらん」
女公爵は楽しげに膝を進めて、小さな悩みであればそれだけで、吹き飛ばしてくれそうな快諾をくれた。フレイアシュテュアはほっとしながら礼を述べた。
「はい、ありがとうございます。あの、これを殿下から、頂戴してしまいまして……。サリュートのご加護がある御守りだから、披露目の日には身に着けて王宮へ来るようにと」
「ほう、美しいね……」
フレイアシュテュアがこちらへ向けた腕飾りに、女性らしく瞳を煌かせ、女公爵は感嘆を漏らした。フレイアシュテュアに断りを入れ、箱ごと持ち上げたそれをためつすがめつして、改めて深々と感服する。
「凄いな、これは……。彫刻の出来はもちろんのこと、石も真珠も極上だ。おまけに王室お抱えの、名工の作ときている。まともに値を付けられたものではないぞ」
「そ、そんなに高価なお品なのですか!? あの、殿下に、お返ししてはいけないでしょうか? 私はとてもい、頂けませんっ」
動転してフレイアシュテュアは、どもらせた舌を噛んでしまった。痛みにきゅっと眉を顰める養女姫に、女公爵は眼差しでめっと叱りながら腕飾りを返した。
「それでは殿下が悲しまれよう。サリュートの御名に事寄せて、わざわざご自身の肖像を刻ませておいででいらっしゃる。ご寵愛の証なのだから、謹んで拝領すべきだね。披露目の折に……ということは、人目に触れさせるのを特に意識した代物だろう。殿下にも見栄というのがおありだろうから、張り込まれるのは当然だ。いずれ嫁入り道具として、王家に戻せば問題はない」
「よ、嫁入り道具……」
「次の国母となるために、わたくしのもとで花嫁修業をしているのだろう? フレイアは」
はいともいいえとも答えかねて、フレイアシュテュアは視線を泳がせた。フレイアシュテュアの望みは、ただ、アレフキースの傍で生きてゆきたい。それだけだ。それだけのことなのに、アレフキースは次代の国王で……、その伴侶となる自分の姿を、思い描くことができずにいる。
「自信が持てなくとも、そこはわたくしの目を見て『応』と申しなさい。殿下は一日も早くとお待ちかねの様子だけれど、全くフレイアには、当分披露目を許してやれそうもない」
女公爵は苦笑混じりの溜め息をつき、滑らかな所作でフレイアシュテュアの顎を掬い上げた。
「殿下は既に、あなたを選んでおいでなのだ。謙虚であるのはよいことだが、卑屈であってはいけない。大丈夫、為せば成るものだ。あなたの心を鍛え、養い、支えるためにわたくしがいる。己を信じ切れないならば、このわたくしを信じなさい」
たおやかさよりも凛々しさの勝つ、女公爵の黒い瞳は、アレフキースのそれを思い起こさせてフレイアシュテュアはどぎまぎとする。それを見抜いての悪戯だろうか? 女公爵はどこか男っぽく声を低め、アレフキースに似せたような物言いで、フレイアシュテュアに迫る。
「できるだろう? できないとは、言わせない」
「はいっ」
「よい返事」
晴れやかに笑う女公爵はご満悦だが、フレイアシュテュアには強引に頷かされてしまった感が否めない。けれど、反発する気持ちは生まれてこない。つい下や後ろを向いてしまいがちなフレイアシュテュアには、常に光を投げかけ導いてくれるような、この『母』の目映い気質に純粋な憧れがあるからだ。
「お義母様に、お願いがあります」
「何?」
「この腕飾りを、お預かりになって頂けないでしょうか?」
「どうして?」
フレイアシュテュアの申し出に、女公爵は面白そうに目を細めた。カメオに刻まれた、アレフキースの横顔を恋しげに見つめてから、フレイアシュテュアは両手の中で、ぱつりと未練を断つようにして箱の蓋を閉じた。
「このお品の真価も、込められた殿下のお気持ちも、正しく量ることができない今の私には、不釣り合いなものだと思うからです。ですがきっと、頑張って、似合うようになりますから……。それをどうかお義母様に、見極めて頂きたいのです」
「……そう、わかった。ではフレイアの、社交界への披露目を決めるまで、わたくしが責任を持って保管しておくとしよう。それでいい?」
「はい」
差し出された女公爵の手に、フレイアシュテュアはもう一度腕飾りの箱を託した。それが次に、自分の手に戻される時――、その時を遠い将来にしないように、明日からもまた励んでゆこうと誓う。
「フレイア」
「はい」
「あなたには、公爵令嬢を名乗らせるに、確かにまだまだ足りないものがある。なれど、互いの想いが結び合っているならば、そぐわない恋人同士はいないのだよ……。たとえ生れや育ちに差があっても、人と人との心の高さに相違なんてない。そこはね、見失ってしまわないように」
身分を違えた夫と長年を連れ添ってきた、女公爵だからこそ口にできた台詞だろう。決して平坦な場所に築かれているわけではない、彼女の家庭のあたたかさを、フレイアシュテュアは肌で感じて知っている。その礎に、夫婦の情愛と信頼があろうことにも。
「……はい」
想う気持ち。想われる気持ち。それを信じて疑わなければ乗り越えてゆけるかもしれないと――。いくぶん形は違っていても、目指す未来の指針がそこにあるようで、フレイアシュテュアには心強かった。
*****
ヴェンシナからの手紙を読み、彼への返事をしたためていると、城の消灯を知らせる鐘が鳴った。
もうしばらくすればフレイアシュテュアの居室にも、侍女が灯火を消しにやって来るだろう。文机に向かったままでいてはまた、「夜更かしは美容の大敵」などと注意されてしまうに違いない。
ちょうど書き上がった文に急いで封をして、もらった手紙と重ねて引き出しにしまい、フレイアシュテュアは侍女に見咎められてしまう前に、アレフキースの恋文を片手に寝室へ逃げ込んだ。
アレフキースへの返事の方はといえば、まだ一行も書いていない。ヴェンシナ宛を優先したのは、アレフキースとは今宵の夢で逢えることを期待して、それも話題に盛り込めたらという、乙女の思考で明日の夜に回すことにしたからだ。
生身に触れられるわけでないことは、もちろんわかっているけれど……。鏡の中の自分に手招かれて、フレイアシュテュアは鏡台の前に座った。願いを込めて、女心が求めるまま、長い髪を丹念に梳る。唇に薄く、蜜を載せるのも忘れなかった。
淡い月明かりが、寝室の窓のステンドグラスを神秘的に透かしている。色彩を帯びた影の中で跪き、定型の礼拝をした後に、フレイアシュテュアは愛の女神フィオに特別な祈りを捧げた。そうして仕上げに、枕の下に恋文を敷くという、古典的なおまじないを施した。
寝衣の上に重ねていたガウンを脱いで、少女の憧憬を形にしたような、天蓋付きの寝台にフレイアシュテュアは潜り込んだ。なかなかに緊張の抜けきらない生活で、心にも身体にもやはり疲れが溜まっている。ふかふかの寝具が心地よくぬくもれば、眠気はじきに訪れてくれるだろう。
落ち着きなく、鼓動を高める胸の前でフレイアシュテュアは指を組む。瞳を見交わして、恋人の名前を呼べるように練習をする。
「……アレフ」
お休みなさいの代わりに、逢いに行きますと呟いて。
目を閉じれば。
夢の先に、あなたが――。




