「菫咲く頃」 2
サリフォール公爵家所有の馬車は、マイナール市内へと通じる関門を難なく通過した。
デレス王国の主要な都市は、目抜き通りから路地裏に至るまで、色取り取りのステンドグラスで装飾されており、まるで街全体が巨大な芸術作品の如くである。『硝子細工の都』と讃えられる王都の名をとって、クルプワ式と称される華麗な建築様式は、マイナールの街並みもまた鮮やかに彩っていた。
立ち並ぶ建造物の見事さもさることながら、まるで祝祭の最中のような賑わいに、農村育ちのフレイアシュテュアは圧倒される。騎馬隊に守護された華やかな馬車は、道行く人々の注目の的であり、興味本位で投げかけられる不躾な視線を憚って、侍女はフレイアシュテュアに断ると、馬車の小窓を帳で覆った。
「いつも、なのですか?」
緑と琥珀の眼差しを揺らめかせて、問いかけるフレイアシュテュアの顔色は心なしか青い。
「いつも、というのは?」
フレイアシュテュアの言葉の足りなさを、やんわりと指摘するようにして侍女は尋ねた。
「いつでもここは、こんなにも騒がしくて、人が多いのですか?」
「はい。マイナールに限らず、活気ある都市というのはこういうものです」
「そうですか……」
物心つくかつかずかの頃から、『魔女』と呼ばれ忌まれてきた経験により、フレイアシュテュアは人が怖いのだ。臆病に身を竦ませているフレイアシュテュアの心情を慮り、ヴェンシナはそっと言い添える。
「これから君が暮らすことになる場所は、この辺りよりずっと静かだよ」
「そうなの?」
「うん。エトワ州城はとっても広いお城だから、下町の喧騒までは届かないよ」
ヴェンシナが微笑んでくれたので、フレイアシュテュアは僅かながら胸を撫で下ろした。旅の間もそれ以前も、この『兄』の存在に、どれほど心癒されてきたことだろうか。
*****
馬の蹄と馬車の車輪が、整然と舗装された石畳を叩いてゆく。フレイアシュテュアの緊張をいやが上にも高めながら、一行はいよいよエトワ州城の外郭門を潜った。
庭をぐるりと半周して、馬車は州城の北棟に乗り付ける。御者が扉を開いてくれたので、ヴェンシナは先に地へ降り立ってフレイアシュテュアを待った。
「さあ、お嬢様」
「……はい」
侍女に促され、立ち上がったフレイアシュテュアは、半ば倒れ込むようにしてヴェンシナの手に縋る。フレイアシュテュアの震える指先を握りながら、ヴェンシナは小声で囁いた。
「大丈夫だよ、フレイア。自信を持って、顔を上げて」
「ええ」
ヴェンシナに気強く励まされて、フレイアシュテュアは勇気を振り絞って前を向く。
州城の人々が驚き、はっと息を飲む気配が二人を包んだ。
アレフキースの傍を離れて、密命の下に行動している今、近衛騎士の制服でいては不自然なので、ヴェンシナは特別に支給された紫紺の騎士服を身につけている。栗色の髪をした、華のある顔立ちの少年騎士――実際は青年というべき年齢だが、知らぬ人には幼く見えるであろう――に、エスコートされてゆくフレイアシュテュアの姿は、春の女神のように清らかで、その緑と琥珀の神秘的な瞳は、見る者の視線を抗いがたく吸い寄せた。
絢爛豪華な城の中に招き入れられて間もなく、サリフォール女公爵自らが、玄関広間まで彼らを出迎えにやってきた。そして一歩身を引きながらその傍らにあるのは――。
「!!」
フレイアシュテュアとヴェンシナ。二人の驚愕を制するかのように、青年は笑み零れる唇の前に、さりげなく人差し指を立てる。
「どうかしましたか? ヴェンシナ」
「い、いえ失礼を致しました」
女公爵がさも怪訝そうに眉を寄せてみせたので、ヴェンシナはひやりとしながら謝罪をした。サリフォール家は優雅な狸の巣窟だと、かつて噂に聞いたことがあるが、おそらくそれは真実に違いない。
「ご無沙汰しております、サリフォール公爵様。本日は日よりも良く、ご機嫌もご尊顔も麗しく」
ヴェンシナは表情を引き締めて、折り目正しく挨拶をした。女公爵が手を伸べたので、美しく整えられた指先をおしいただき、敬愛を込めて口付けを落とす。
「お役目大儀でしたね。そちらで控えていなさい、ヴェンシナ」
「はい」
女公爵の言葉に従い脇に下がりながら、ヴェンシナは人が悪い青年とちらりと視線を交わす。彼らが見守る中女公爵は、薔薇色に頬を上気させたフレイアシュテュアへと、緩やかに眼差しを廻らせた。
「フレイアシュテュア」
「はい」
「遠路遙々とよく来てくれましたね。もう少しこちらへ寄って、わたくしに顔をお見せなさい」
「はい」
女公爵に招かれて、フレイアシュテュアの鼓動はますます高く跳ね上がった。サリフォール女公爵は、凛とした品格と若々しさに満ちた、黒髪に黒い瞳の端麗な貴婦人であった。その面差しや雰囲気には、嫡子ランドリューシュのみならず、甥にあたるアレフキースにも似通ったところがあって、フレイアシュテュアは慕わしさを 覚えずにいられない。
「初めまして、サリフォール公爵様。フレイアシュテュアと申します」
フレイアシュテュアはおもむろに進み出て、一冬をかけて叩き込まれた作法通りにお辞儀をした。極度の緊張のために幾分か、ぎこちない所作になってしまったが、咎められるほどの失敗ではなかった筈だ。けれども顔を上げてみると、女公爵は目に見えて表情を曇らせていた。
「お辞儀の作法はきちんと、学んできたようですね。けれどもわたくしを公爵とは、実に寂しい呼び方を。あなたはどのような立場でここへ来たのか忘れましたか?」
「……サリフォール公爵様の、養女として、です」
それ以外に、一体どう呼べばよいものか見当がつかず、フレイアシュテュアは困惑する。女公爵はフレイアシュテュアの心と誤解をほぐすように微笑むと、その顔つきとは裏腹に、わがままに言い付けた。
「そう。あなたはわたくしの娘となり、わたくしはあなたの母となったのだから他人行儀は認めません。わたくしのことは今から、お義母様とお呼びなさい」
「お義母様、でしょうか?」
「そうです。それでいい」
女公爵は満足げに目を細め、フレイアシュテュアを抱き締めた。柔らかな温もりと高雅な芳香が、フレイアシュテュアを優しく包み込む。
「フレイアシュテュア、あなたを当家に迎える今日という日を、わたくしはとても楽しみにしていました。話したいことはたくさんありますが、慣れぬ旅で、さぞかし疲れていることでしょう」
女公爵はそっと身を放すと、色違いの宝玉のようなフレイアシュテュアの瞳を、間近から覗き込んだ。
「正餐の前に声をかけます。それまでゆるりと休んでいなさい」
「はい……。ありがとうございます」
女公爵が物足りなげな顔をしたので、フレイアシュテュアはおずおずと付け加えてみた。
「……お義母様」
「ああ、可愛い! こんなにも愛おしい娘を貰えるなんて、王太子殿下に感謝をしなければ」
機嫌を良くした女公爵に、フレイアシュテュアはまた抱きつかれる。遠い記憶の彼方に忘れ去っていた、亡き生母への思慕が揺さぶられる気がした。
熱烈な歓迎にのぼせるフレイアシュテュアを思う存分抱擁してから、女公爵はその様子を楽しげに眺めていた青年の名を呼んだ。
「ランドリューシュ」
「はい」
「フレイアシュテュアを部屋へ、後のことは任せます」
「はい、母上」
青年は慇懃に女公爵に答えると、フレイアシュテュアに向き直り、満面の笑顔で片手を差し伸べた。
「おいで、フレイアシュテュア」




