壱
それは、元旦の出来事だった。
新年を迎えたばかりの興奮の中、男は独りほろ酔い気分で裏通りを歩いていた。
本来ならば、世間がみな休みをとるこの時期、しかし彼には勤めがあった。
が。この男、「どうせ身内の行事なんだから、わざわざクソ真面目に詰めてることなくね?」と要人の警護とは無縁である文官の身分をいいことに、ゴロツキ呑み仲間とお気に入りの娼館を年越し梯子していた途中のことである。
暗闇に、鋭い囁き声が飛んだ。
「おいっ、ナニやってんだ、早くしろ!」
「こっちだ、急げ!」
およそ新年を迎えるに相応しくない切羽詰ったそれらの声に、我知らず耳をそばだてた瞬間。
暗がりから数人の人影が飛び出してきた。
何やら、大きな黒い布袋を肩の上に担いでいる。
うおっと驚きの声を漏らし、彼は身を捩って危うく彼らを避けた。
同時に、何かが落ちる小さな音が彼の耳朶を掠める。
微かな澄んだその金属音は、しかし微酔状態の彼の意識を捉えるのには十分だった。
刹那、その場の空気が緊張する。
が、「構うんじゃねぇ」との低い声が走るや否や男たちはそのまま走り去ってしまった。
「…ったく、なんだぁ…?侘びのひとつもしねーで」
そうぼやいて手にした携帯用の酒瓶を干すと、男はふと地面に何か光るものが落ちていることに気がついた。
…さっきの音はこれか…?
怪訝に思って、拾い上げる。
それは、銀色のやや無骨な指輪であった。
おそらく、男物だろう。小ぶりながら、値打ちモノのようにみえる。
が、台の中央に刻まれた細工を見た瞬間、男の眉根が寄った。
「飛雲に青竹…」
天界と水界を繋ぐ特務・通使の象徴であった。
「新年快楽」
「恭賀新年(謹んで新年のお喜びを申し上げます)」
「恭喜発財(たくさんの富がありますように)」
龍宮の中は、そんな新年の挨拶が飛び交っていた。
年が改まって、二度目の朝。
ここ龍宮では、正月二日は外部向け正月行事の日である。
龍宮では、年越しの儀式は基本的に身内のみで厳粛に行う。その代わり、二日目には天界・仙界・その他内外から多数の客人を招いて、盛大な宴会を催すのだった。従って、勢い二日目の早朝の正式な外交儀式の後は、気楽な雰囲気となる。日常の職務ではなかなか会うことのない仲でも、この日だけは自由に龍宮内の様々な場所を訪れ、旧交を温め新交を築くことが出来るのだった。
東宮尚書である奎と、かつての通使であり今は天帝のお側に侍る淮南老師の従者である鳶行も、そんな二人だった。
「御無沙汰しております、奎殿」
「これは、鳶行殿。離職の折以来ですね」
一通り挨拶回りを終えた鳶行が、本命である奎の処へやってきたのは、そろそろ昼の宴に向けて皆が動き出す頃であった。
東宮御所の外れ、簡素ながら風情のある中庭の小さな東屋で、奎は特別のお茶を持ち出してきて旧友を労う。
「その後、如何お過ごしですか?天帝のお側仕えともなると、何分色々ご苦労も多いことでしょう」
「私などは所詮老師のお世話をさせていただくだけですから、さしたることもなく無難に勤めさせていただいておりますよ」
にっこりと人好きのする笑顔。通使としての鳶行の評判の高さは、この微笑と謙虚さで成り立っていたといっても過言ではない。おそらくそれは、天界でも変わるまい。
「おお、そうだ」
奎が内心感心していると、鳶行はぽむっと手を打った。ごそごそと懐から小ぶりな包みを取り出す。
「奎殿、我が老師より託を言い付かってまいりました。『お互いお勤めが忙しくなかなか会うのもままならぬが、天界に来る機会があったら遠慮なく尋ねなさい。また、これは我が不肖の弟子達が世話になっているささやかな礼である』と」
鳶行はそう言って、その包みを手渡す。
「我が老師の仙林で取れました南紅梅でございます。つまらぬものですが、お受け取りくださいませ」
「これはこれは、なんと貴重なものを…ありがたく拝領いたします」
おしいだいて受け取る。淮南老師の南紅梅と言えば、玉帝でさえ望みのままには手に入らないという、究極の一品である。一粒その実を服すれば、人間ならたちまち昇仙が叶うとか。人外の奎達にとっても、それが貴重な妙薬であることには変わりない。
丁寧にそれをしまうと、奎の方でも準備していたものを手渡す。水界きっての上物である。
「私のほうこそ、大したものではござませぬが、紅珊瑚と白珊瑚の枝をお受け取りくださいませ。不躾かとは思いましたが、あえてお好みの形に細工できるように枝のままでお持ちいたしました。ご希望の形がございましたら、どうぞご遠慮なく改めてお申し付けいただければ、細工師を手配いたしますので」
「なんと見事な枝ぶり…。こちらこそ、恐縮でございます。我が老師もきっとお喜びになるでしょう」
おそらく朝と同じくらいここまで丁寧な挨拶を交わしているのは、龍宮広しといえど最早この二人だけであろう。
ひとしきり久しぶりの談笑を楽しんだ後、ふと鳶行が切り出した。
「それにしても奎殿、東宮御所へのお勤めには大分慣れられましたか?確か、まだ一年は経っていらっしゃらないと思いましたが…」
「仰るとおりです。御下命を頂戴したのが昨年の三月ですから、まだ一年には足りませんね」
「あの時は吃驚いたしましたね。私はもう既に老師の元で学ぶ傍ら通使を勤めさせていただいておりましたが、奎殿はまだまだ勉学を続けられるものだと思っておりましたから…」
「ええ、私もてっきりそのつもりでおりましたから、突然の御下命があった時には心底吃驚いたしましたよ」
鳶行の感想に、奎も苦笑する。
かつて奎は、仙界の玄牝老師の元に水界からの留学生として遊学していた。淮南老師や鳶行とは、その時に知り合ったのである。無論いずれは官吏になるつもりで学んでいたわけだが、役所勤めの経験が全くない自分に、数千年ぶりで設立された東宮御所のそれも尚書(つまり、総責任者)が命じられるとは夢にも思わなかった。まぁ、実際赴任してみれば、百戦錬磨の官吏よりも自分のようなぺーぺーがやるに相応しい仕事のような気もしているが。
「そういえば、あの時その通達を持ってこられたのは鳶行殿、貴方でございましたね」
「ええ、そうでした。いつもの連絡便だと思ってお届けしたら…」
「あの時の老師のお怒りぶりといったら、大層意外でしたよ」
「奎殿が玄牝老師に報告するや否や、『龍の爺め~っ!』でしたものね。余程、愛弟子を取り返されるのが悔しかったのでしょう」
脳裏に当時の様子がありありと浮かび、二人は知らず顔を見合わせて微笑を漏らす。たかが一年前のこととは思えないほど、懐かしくも楽しい思い出であった。
「ところで奎殿、我が不肖の弟弟子、鷺序の様子は最近如何ですか?きちんと、ご迷惑をかけることなくお勤めを果たせているでしょうか?」
「ええ、それはもう目覚しいばかりですよ。龍宮のしきたりも熱心に学んでおられますし、日一日と成長を感じされられます。我が主、天籟様にも少しでも見習って鷺序君の爪の垢でも煎じて飲んでいただきたいくらいです」
大きな溜息をつく奎に、今度は鳶行が苦笑する。
「東宮様はまだまだお若くていらっしゃるから…細かいご政務のこととなると、なかなか骨が折れるのでございましょう」
「アレはただの怠慢です!先日は鷺序殿にも非常にお恥ずかしいところをお見せしてしまって…東宮尚書として情けない限りです」
「いえいえ、天籟様があのように天衣無縫な方でいらっしゃるからこそ、我が愚弟鷺序のような者でもなんとかお勤めを果たせて頂いておるのでございますよ。ありがたい限りです」
「鷺序君には、本当に感心させられてばかりですよ。鳶行殿に及ぶのも、時間の問題かもしれませんね」
「そのようにお褒め頂いて、気恥ずかしい限りです。どうぞ、アレに間違いがあったら遠慮なく叱り付けてくださいませ。何かと、抜けていることが多い子ですから…。そういえば、先日もはりきって東宮様主催の三日目の儀式に天帝の親書をお届けするのだと出て行きましたが、恙無くお勤めできていますでしょうか?」
「いえ、まだお見えにはなっていらっしゃらないようですが…。東宮の儀式は、明日ですからね。本日の夕刻頃に着かれるのではないですか?」
奎の言葉に、鳶行は首を傾げる。
「…それはおかしいですね。もしものことがあっては大変だからと、四、五日前には向こうを出たはずです。寄り道をするような子ではないはずなのですが…奎殿、もしあの子が着きましたら、新年だからといって浮かれて羽目をはずすことが無いようにと厳しく戒めてやってくださいませ」
「鳶行殿、大丈夫ですよ。鷺序殿ならきっと、この混み具合に巻き込まれていらっしゃるのでしょう。何分、この時期は客人が多いですからね」
安心させるようにそうは言ってみたものの、脳裏にちらちらと過ぎる悪い予感を、奎は否定しきる事が出来なかった。




