7.狼の娘と狼殺し
彼らは夜、あるいは狼と名乗った。彼らはもともとネイェドリーとその血族に城の半分を渡すと言っていたが、引き連れてきた人々の住む家ができるまで、という条件で城のほとんどを人間に明け渡してくれ、彼らは二つある塔を居住地とし、夜の間だけは騎士の間を空けておくようにネイェドリーに申し入れた。
無論ネイェドリーは深い感謝と共にその申し出を受けた。
一族の中には異形のものの城に入ることを頑なに拒むものもいたが、まさか野宿をさせる訳にもいかない。城に入っても誰も危害を加えられることはない、と説得し、部屋の扉に丸太を差し渡すことで彼らを納得させた。
そして、ネイェドリーと彼の一族には、ひたすら耕作と家作りに励む日々が始まった。
狼の娘、ネイェドリーの意中の女は名をエミーリアと言った。
ネイェドリーが願っていたように、彼女とネイェドリーはすぐに言葉を交わすようになった。彼女ほどこの地の動植物に詳しい者は狼の中にもいなかったからだ。
どこを開拓すればいいのか、どこで良い薪が拾えるのか。
ネイェドリーは日中書き留めておいた疑問を彼女に問いかけ、彼女は丁寧に答えた。そうして夜毎、塔の彼女の部屋で大きな紙をのぞき込むように二人で地図を作っていった。新しい領地の為の地図だ。昼の領民達が少しでも安楽に暮らせるようにとの思いから作る地図だ。
それは狼達が自由に動き、使っていた場所を制限されることだったが、エミーリアもほかの狼もそれに関してネイェドリーにいやな顔を見せたことはない。
狼達は驚くほど寛容だった。
蝋燭の明かりの下で金色のようにも輝くエミーリアの瞳、青白い肌色に浮かぶほの赤い唇。優美ではあったが媚びた所のない、むしろ顔の作りだけみれば硬質な雰囲気、涼やかな声。地図を指し示す細く長い指、小さな手の甲。緩く背で一つにまとめただけの髪がさらさらと動く様子。
その外見に、その厚意に、その知性に、ネイェドリーは夜毎彼女のすべてに見惚れ、惹きこまれた。
ネイェドリーのどこに彼女をひきつけるものがあったのか、それは定かではないが、彼らが移住して一年も経った頃には、彼らは地図づくりの為ではなく、森の案内のためでなく、逢瀬を重ねるようになっていた。
狼達との取り決めも、始めてみれば当初懸念していたほどの動揺を起こさなかった。狼に指名された者は怯えおののきながら狼に喉を差しだし、翌朝確かに起きあがれない者も出たが、一日二日静かに休んでいればすぐに回復し、確かに鋭い牙を突き立てられた喉に、傷は残らなかった。
ネイェドリーも無論当主の役目として毎月彼らに血を差し出したが、牙を突き立てられると頭に靄のかかったように強く酩酊し、痛みもあるはずなのだがどこか鈍く、痛みよりはただぼんやりとした緩い快楽を感じた。
相手はエミーリアであることも、ほかの狼であることもあった。
彼女が相手の時は殊更快楽が強い。ネイェドリーは己の喉元から離れる彼女の腕を掴み、より多くを差しだし、より深い快楽を与えられたいと願うこともあったが、そんな時エミーリアは悲しいような痛みを感じているような顔をするので、あきらめざるをえなかった。
暗闇でなお身の内から淡く光るようなエミーリアの、いつも青白い頬に血の気を帯び、月色の目は黄金を強くし、唇は赤く染まり、その表情はネイェドリーと同じ、それよりも強い快楽を感じていることを表しているのに、決してエミーリアは必要以上にネイェドリーから奪い、また、与えようとはしなかった。
更に一年後、ネイェドリーは選んだ相手をずっと変えずにいる狼と、毎回変える狼がいることに気づいた。
狼達とは一ヶ月に一度、それはその月の契約の前夜、贄を告げられる場だったが、騎士の間にネイェドリーと彼の甥が呼ばれて会うことになっていた。
日の光で死ぬ訳ではないが苦手だという狼達は、そのかわりのように夜の広間を蝋燭でこうこうと照らす。暗い廊下を歩いてきた人間の目がしばらく眩むような明るさだ。
その明かりのなか、出会った当初は濃淡の差はあれど皆一様に月色の目をしていたはずの狼達の中に一人、まるで人のような目の色に変わった者がいた。
その若い狼、ラファエットは決して相手を変えようとしない上、目の色が変わってからは狼の中にあっても遠巻きにされているようで、騎士の間でもたいてい離れたところに一人で立っていた。
しかしそれは一概に拒絶するものでもなく、忌避するような畏怖するようなあるいはうらやむような、正と負が絡み合った敬遠のように、ネイェドリーには感じられた。
一度、ラファエットの相手が、ひどい熱を出していたことがあった。それをネイェドリーが告げ、明日は別の人間にしてほしい、と頼んだ所、彼はひどく心配そうな、悲しげな顔で「ならば私は今月はやめよう」と断った。ネイェドリーが狼の長を見ると難しい顔をしていたがうなずいたので、その月ラファエットには誰も割り当てなかった。
彼が次の月になるまで食事をしなかったのか、あるいはここに人間が移住するまで彼らがそうしてきたように、森にすむ動物の血を飲んだのか、ネイェドリーは知ることがなかったし、彼にとっては、一族の誰かが取り決め以上に狼達の贄にならないことだけが大事だった。そして約束は守られた。
次の月、ラファエットは相手の熱が下がってもう元気に働いていると聞いて嬉しそうに微笑んだ。
けれどラファエットを含めて狼達の誰も、なぜ目の色が変わる者がいるのか、相手を変えるものと変えないものがいるのか、ネイェドリーに語ろうとはしなかった。
☆ ☆
ネイェドリーがそれを理解したのは、七年後のことだ。
その年の冬、ラファエットの相手をずっと務めてきた女、カミラが産褥で死んだ。
カミラの夫、ヨハンによると、赤子を死産で産み落とした後熱と出血が収まらず苦しむ女の元に、夜毎彼が訪れては、血止めの効果のある薬草や清らかな氷を置いていったという。
狼達は皆目を疑うほどに美しく、ラファエットも例外ではなかったがしかし彼は日に日に窶れ、蝋燭の暗い明かりでも顔や手が痩け、目の下は黒々と落ちくぼみ、肌は輝きを失っているのを見て取ることができたという。
そして毎夜訪れるラファエットがそっと女の頬を撫で、汗ではりついた髪をかき分ける仕草は愛情にあふれ、ヨハンの胸を苦くさせた。意識のおぼろな女がその手に反応し笑みを浮かべたりうなずこうとしているから尚更だった。
ヨハンは最初の夜は狼を恐れて部屋の隅に立ちすくみ、次の夜は邪険に追い払った。その次の夜は扉を堅く閉ざしていたがいつのまにか部屋に青年が居たので、瀕死のカミラの前で声を荒げてラファエットを罵った。
彼はおとなしく追い払われ、罵倒されるままになっていたが、夜、女を訪ねることはやめなかった。
ヨハンはネイェドリーになんとかしてくれ、と訴えた。
「狼達のおかげで俺たちは住む場所を持ち、作物が育つまでの間飢えることも凍えることもなく安全に暮らしてこれたことは感謝しています。カミラが最初の月からずっとあの若い狼に血をやっていたことも知っています。あいつと狼との間に何があるわけじゃないということも、分かっています。しかしあいつの夫は俺だ。もうすぐ死のうとしているカミラの部屋に他の男が訪ねてくるのは我慢ならないんです!」
「……彼女は何と言っている? もしも彼女が狼の訪れを許しているのなら、おまえも許すべきだ」
彼女はお前が言うようにもうすぐ死ぬのだから。
ネイェドリーが声にしなかった言葉を、ヨハンは理解していた。カミラは狼の訪れを許していた。むしろ心待ちにしているだろう。
ヨハンはカミラに夫として愛されていると思う。それを疑ったことはない。けれど狼とカミラの間にはヨハンの入り込めない感情の行き来があって、それが許せないのだ。
ヨハンの煩悶は二日後の朝に終わった。
その未明、カミラがとうとう死んだのだ。
数日の、仕事と看病の疲れが溜まっていたのだろうか。うとうとしていた間のことだった。ふと目をあけると夜明けというのもまだ早い、弱いおぼろな光の中でカミラはヨハンが眠る前と変わらずに静かに横たわり、けれどすでに呼吸も鼓動もすでにない骸となっていた。
そしてそのカミラの傍ら、粗末な寝台と明かり取りの細長い隙間の間に、人程の大きさの不思議なものがあるのを、ヨハンはみた。
夜が開けきっても薄暗いはずの部屋で、弱い朝の光でカミラの死を見極められるほどの明るさを感じたのは、この塊の中で光が反射し増幅していたからだとヨハンは思った。
黒い塊の、内側から光を放つ様はそうとしか思えなかった。
ヨハンは蝋燭をともしてその塊を見ようとして、すぐに自分の行動を後悔した。
それは恐ろしい形をしていた。
人と、動物の狼をとてつもなく大きな手が無造作にこねまわしたように見えた。狼の前足と人の手が半ば解け合いながら塊の中心あたりから生えだし、もう一方の腕は足とからまり、獣の足は背中にくっつき、と無惨な有様だった。
そして左肩から狼の顔が生えていた。
狼の目は開かれていて、正常に首の上に顔があったのなら、カミラを見つめていると思しき方に視線があった。
そのときヨハンはカミラの灰色がかった菫色の目と、この塊に生えた狼の目が同じ色をしていることに気づき、そういえばあの若い狼も同じ色をしていた、と思い至った。
ああこれはあの若い狼なのだ。
ヨハンはすんなりと納得し、恐ろしい姿に変わった彼に対する不可解さや、嫌悪や、哀れみを感じ、なにはともあれ彼らの長であり、狼達との折衝役でもあるネイェドリーに報告しなければ、と思った。
カミラと、それから迷いながらも黒い塊にシーツを掛けてその姿を隠し、ようやく明け始めた空の下を城に向かって走った。
知らせを受けたネイェドリーは、しばし思案をしたが、そろそろ眠りについているはずの狼の長の部屋に向かった。
女だけならば人間の流儀で埋葬するが、ヨハンが若い狼だと主張するその黒い塊とやらをどうすればいいのか彼には分からなかったし、狼達が目覚める今日の夜まで放っておいたり勝手に何かをするのはためらわれたのだ。
狼の長、ヴァーツラフはまだ起きていた。ネイェドリーが何かを説明するまでもなく、彼には何が起こっているのか分かっているようだった。
「オットーとニエルを向かわせる」
「しかしもう陽が上っていますが」
「構わぬ。日を浴びたとて死ぬ訳ではない、フードを被れば影響も少ないだろう。我らが日のあるうちに動くのは、君達人間の契約を侵すことになるが許してほしい。できるだけ人間は外に出ず、外を見ぬようにしていただければありがたい。我らは昼間、他の生き物に見られるのを嫌う」
「今から触れを出します。半刻お待ちいただけますか? 今日の昼までは誰も外に出ぬようにいたします」
ヴァーツラフは感謝を示して深く頭を下げた。ネイェドリーは警鐘を鳴らし昼までは誰も出歩くことなく外を見ることもないように、と広めた。
オットーとニエルは、どちらも月色の目をした若い狼の兄弟だったが、彼らがヴァーツラフの部屋に入るのと入れ違いにネイェドリーは彼の部屋を辞し、自らも執務室から出ないようにして午前中を過ごした。
昼をすぎて女の粗末な家にいくとすでに葬儀の支度は整っており、部屋に黒い塊は無かった。
疲れた様子のヨハンが一人でカミラの亡骸の眠る寝台の脇に座っていた。彼はネイェドリーを認めるとのろのろと立ち上がって深く腰を折った。
「狼が二人来たか?」
「はい。あれを二人で抱えるようにして出ていきました。俺は恐ろしいもので、部屋の隅に立っていましたが、俺に構うことなく出ていきました」
「そうか。いいか、狼のことについては口を噤んでいるのだ、誰にも話してはならぬ」
「分かりました。ただ、俺はあれに触りました。わざとじゃなくて、シーツをかける時にちょっと触ってしまったんですが、それで何か悪いことが起きないかと」
「それについては長殿に確かめて必ずお前に知らせる。あまり心配しすぎぬようにして待っていろ。……葬儀の支度は整っているようだな」
「はい。午後になってこいつの姉さんが来てくれてすべて整えてくれました」
「そうか。彼女も、子供のことも、残念だった」
「ありがとうございます」
再びヨハンは深く頭を下げた。葬儀のことは心配ないだろうとネイェドリーが城に戻ろうとしたとき、ヨハンはおずおずと尋ねた。
「ネイェドリー様。あの、こいつが死んでしまったのは、狼の所為ってことはないんでしょうか」
「それは無いだろう。私も毎月していることだが、全く影響はない。女にしても、名前をあかすことはできないが彼女よりも若い者もすでに老いた者も、悪い影響が出たことはない。……お前にはあきらめきれないことだろうが、お前のカミラの死は、狼とは何の関係もない、不幸な偶然だ」
はい、と応えた声はとても小さく、納得しきれていない響きがあった。
いっそ狼の所為だと言ってしまえばヨハンも納得するだろう、納得し、狼を排除しようという動きが集落全体に広がり……強大な力を持つ狼か、昼間行動できる人間か、どちらかがどちらかを滅ぼすまで、あるいはこの里を捨てる時まで争いが続くだろう。
一族の長としてネイェドリーには、それは決して選んではいけない未来だった。ネイェドリー個人として狼達に敬意を感じているし、自身にはなんら影響はない。なにより、悪影響はないとすでに言質を貰っている。
それを真実だと信じる以外、この地で両種族が平和的に共存していく方法はないのだ。
その夜、エミーリアがネイェドリーの部屋に訪ねてきた。
彼女と会うのは一ヶ月ぶりのことだった。
ヴァーツラフは狼と人間があまり親しく交わりすぎるのを快く思っておらず、ネイェドリーは彼を憚って、エミーリアが訪ねてこない限りは狼の住居に彼女を訪ねることをしなかったのだ。
とはいえ会えなかったこの一ヶ月ひたすらに会いたい、会いたいと願っていた相手だ。一ヶ月振りに彼女を見るなり大きく笑みを浮かべ、ネイェドリーは彼女を部屋に招くと椅子に座らせ、寒がりの彼女の為に暖炉に薪を増やした。
濃色のフードマントを深く被ったエミーリアは大人しく椅子に座り、暖炉の方へ華奢な足を伸ばした。僅かに垣間見える頤が少し尖っているように見え、ネイェドリーは彼女と向かい合うように椅子に座り、フードを取ってくれるように頼んだ。
エミーリアは暫くためらい、フードの縁に指をかけていたりしたが、ぱさりと音をたててフードを背に落とし、まっすぐにネイェドリーを見詰めた。
その目は、青く染まっていた。
「ラファエットが死んだわ」
「…ああ。やはりそうだったのか。ヨハン……カミラの夫はあれを狼に違いないと言っていたが、大きな黒い石のようなものだと聞いたので。ただ、ヴァーツラフの様子がおかしかったからヨハンのいう通りなのかもしれないと思っていた」
「私達は、死ぬと結晶のようになるの。自身を狼と呼んでいるのは、結晶の形からよ。人間のようでも狼のようでもない醜悪な化け物。人でなければせめて狼であれ、と願ったのよ」
「私は見ていないんだ」
「見なくて幸いだわ。あなたには見てほしくない。私がこんな風になったからには」
「その目、ラファエットと同じなのか。いったいどうして……」
エミーリアは息を吐き、言葉を捜すように少し沈黙した。油分を含んだ松の薪がばちばちと音を立てる。松の皮が炎で剥がれる音が好きなのだとエミーリアはかつて言っていたが、今はその耳に音が届いている様子はなかった。
暫くの沈黙の後、彼女は呟くように言った。
「狼が心から愛するとき、相手と同じ目の色を映すのよ。本当に馬鹿な話。私達は愛さない為に、死なない為にこんなところに隠れ住んでいたというのに、寂しくてたまらずに結局、人を呼び込んでしまったのね。……ラファエットは死んだわ。狼が心から愛するというのはそういうこと。愛する相手が死んだ時、狼も一緒に死ぬ」
「……君も……?」
エミーリアは頷き、目を伏せた。その、藍色めくほど青い目の色は、ネイェドリーのものと同じ色だった。
「嘘だと言ってくれ」
ようやくのことで、ネイェドリーは声を絞り出した。
狼は長く生きる。エミーリアは三百年生きていると言った。狼を統べるヴァーツラフは七百年を生きているとエミーリアから聞いた。
人間の定命は百年を超えない。六十年、七十年生きれば十分に長生きをしたと見做される。
ネイェドリーは四十をいくつか超えた歳だ。長く生きたとしても、あと四十年生きられるかどうか。
長く生きるエミーリアにとっては短すぎる時間だろう。たったそれだけで彼女が死んでしまう。自分の死が、彼女を殺してしまう。ネイェドリーには耐えられないことだった。
「嘘だと言ってくれ。頼むエミーリア、どうか嘘と」
「……ごめんなさい。ネイェドリー」
「ならば私を狼にしてくれ。君達とおなじものにしてくれ!」
「ごめんなさい。私もあなたには永遠ほどにも長く生きてほしい、永遠ほどにも一緒にいたい。けれど誰も、人を私達と同じようには出来ないのよ」
「君を殺したくない」
「……愛しているわ、ネイェドリー」
欲しかった言葉だった。何度も夢想した。エミーリアがそう言ってくれるのを。
けれどネイェドリーの胸に喜びはなかった。
否、喜びをはるかに凌駕する悲しみが胸を満たした。
「ああ……、嘘だと言ってくれ、エミーリア」
力ないネイェドリーの囁きに、エミーリアは悲しげに微笑んだ。
☆ ☆
やがて近隣の山里と交流を持つようになり、ネイェドリーは山里一帯を治める領主と戦う代わりに、彼の仕える王に、領土を持つことの許しを得る為に王都に上った。
王は彼に名を尋ね、ネイェドリーは「狼殺し」と答えた。
その声に篭る自嘲と悲嘆に武張った話の好きな王は気づかず、狼殺しという名に喜び、武勇を讃えるとしてネイェドリーに辺境伯の名を与えた。
以降、後の世までネイェドリーと辺境伯の後継は代々、『狼殺し辺境伯』と呼ばれることになる。




