5.王と収税官
エルンスト・ヴェツェラ。この国の王太子が自分の従兄弟であることを私は子供の頃から知っていた。
王都にある貿易商の一人娘と王子の一人だった男の恋物語はとても有名だ。
前代の王には正妃や側室の産んだ子供を合わせて男児が七人いて、王子は側室の産んだ六番目の子供だったし、王族自体の数も多かったから王家の中では然程注目される存在ではなかった。
けれどそれも、身分もなければよほどの豪商というわけでもない商家の娘と結婚したいがために王族の身分を捨てる、ということになれば話は別だ。
王家と商家の間で何度も使者が行き来し、劇場では結婚がまとまる前から早くも引き裂かれる恋人の悲恋劇が掛かり、王都では中程度の、とくに目立つことはないけれど長く堅実な商売をしている貿易商の名は、一気に知れ渡った。
名が売れて商売に有利に働くこともあったがむしろ悪い方に転ぶことの方が多く、娘の父親、私の祖父は大変な苦労をしたらしいし、母も好奇心や揶揄な中傷に疲れ、何度も何度も結婚を諦めかけたそうだ。
それを覆したのはただひたすらな王子の愛情だったという。毎日貿易商の家に通い、商人に頭を下げて仕事を覚え、怖気づく娘に日に何度も言葉を尽くした。
『僕は君と一緒に過ごす日を手に入れる為なら、この国を出て行く覚悟もある。王族としての仕事以外は働いたことのない僕だけど、幸い健康に生まれついた頑丈な体を持ってるし、何でもして君を幸せにするよ。……でも、僕は出来ることならば逃げたくは無い。君と私の家族に私達の結婚を祝福して欲しいし、何より僕は近々籍を抜かれるにしたって王族だ。何かがあったら国と民の為に命を捧げるのが王族だと言われて育ってきた。無論君が一番大事だけれど、それでもこの国で、この国の為に生きていきたい。だから時間をくれないか? そして信じて待っていてくれないか?』
王子はことあるごとに娘にそう訴え、そしてとうとう国王の許しを得て王籍を離れ商家の婿になった。
それから一年もしないうちに王太子の結婚が決まったのは王の配慮だったのだと今でも両親は王に感謝している。王太子の結婚が決まると商家に婿入りした元第六王子の噂などあっという間に消えてしまったからだ。もちろん事実は消えないからそれからも好奇心にさらされたが、商売が貿易商だ。元々旅の好きだった母と、一度も王都から出たことのない父は結婚してから船で世界中を回り、ほとんど王都に帰ってこなかった。
私は、船の上で生まれた。二歳になって初めて王都に帰ってきて、それからは祖父母に育てられた。両親はまたすぐに旅立ってしまったし、私には落ち着いて育つことのできる環境が必要だと祖父がこれだけは譲らずに両親に強く言い張ったからだ。
両親とは一年に一度くらいの頻度でしか顔をあわせなかった。戻ってくる度、父は「今度の航海は一緒にいこう」と私を誘ったが、私は海に出るより学校の方が楽しかった。特に数学は私を夢中にさせた。母は「おじいちゃんの血ね」と笑い、父は遠い国にはおもしろい計算の用具があるぞといった。
父は航海と貿易に夢中で、息子も夢中になるに違いないと思いこんでいたのだ。
でも私は船で生まれたくせに酷く船に酔う性質で、出来る限り海には近づきたくなかったし、父の航海熱を引き継いだ弟と妹がいたので、私は都で自分の好きな勉強に打ち込んでいられた。
五歳違いの弟が少し大きくなってからは、弟が貿易業を継いで海に出て、私が店の経営をするということが半ば暗黙の了解になっていた。
けれど私は官吏になりたかった。
私が官吏になりたいと思ったのはいつの頃からだっただろう。
父と同腹の兄は仲が良く、父が王籍を離れた後もよく家を訪ねてきたり、時には外交のついでがあるからと一緒に航海に出たりもしていた。
私はこの叔父が好きだった。父とよく似た風貌をしていたが年中航海に出ているせいでたくましく日焼けした父とは違い、王宮で司書をしている叔父は色白のおとなしい人で、私が興味があるというと貴重な数学の本を持ってきてくれたり、王宮の仕事の話をよくしてくれた。
「ウルマンは頭が良いね。大人になったら私の仕事を手伝ってくれないか?」
冗談なのか本気なのか叔父はよくそういった。私も大好きな叔父の役に立ちたい、と謂われるたびに思ったものだった。
或いは地方から働きに出てきている奉公人達が故郷の領主達から不法に税を奪われているという不平をよく聞いていたからだろうか。彼らは都に出てくるまで、定められた税率があることすら知らなかった。
あるいはやはり、三歳年上の従兄弟の存在があるだろうか。
エルンスト・ヴェツェラ。王子は成人するまで母方の名を名乗る。ヴェツェラ公爵家のエルンスト。成人すれば王太子となり、将来王となることを定められた彼と初めて会ったのは、私が十四の時、学校から家へ戻る途中のことだった。
突然近づいてきた立派な馬車が私の横に止まり、降りてきた御者によって無理矢理馬車の中に押し込められた。
まさか誘拐か! と血の気の下がった私の目の前に、座席に座った彼がいたのだ。
栗色の髪、白磁の肌。高級な人形のように少女めいて整った顔と、差し出された白い手。好奇心と驕慢の混じった笑み。
「エルンストだ、ウルマン。やっと会えて嬉しいよ。母様が君と会うことを許してくれなくて、でも叔父上に君の話を聞いていたから、ずっと会いたかったんだ」
「……エルンスト、殿下?」
「殿下はやめてくれ。私達は従兄弟同士だろう」
そういってエルンストは私の手を握った。私は呆然と、なされるがままに彼の向かいに腰掛けた。父が元王族とはいっても私が生まれた頃には当然ながら王家とは公式に縁が切れており、行き来もなかった。私の家は中流の貿易商で、私は裕福な子息の多く通う高等学校に通ってはいたがそれはあくまで市井の商家としての部類であって、貴族や騎士など家柄のある者は家に教師を住まわせていたから、そういった階級との付き合いは全くといってなかった。
いくら従兄弟といわれても、彼は王子であり、王太子になるはずの人間だ。私とは身分が違いすぎた。
馬車の中でエルンストの話を聞きながら私は現実感を失い、ふわふわと要領の得ない受け答えをしただろう。
だというのに何が気に入ったのか、それから何度もエルンストはお忍びで王都へやってきては、馬車の中で話をすることもあれば、市場を一緒に歩くようなこともあった。そんな時は周囲に護衛の人間がいるとわかっていても、帽子や服装ではごまかし切れない品のよさを持つエルンストが何か悪いことに巻き込まれやしないかとひやひやしながら隣を歩いた。
私が十五歳になるとエルンストは正式に王太子になり、ヴェツェラの名を捨てた。
それで多忙になり私のところに顔を出す余裕もなくなるかと、寂しさ半分安堵半分思っていたら彼は無いはずの暇を見つけては顔を見せにきた。
なのに不思議なことに彼は私の家に来ることは無く、祖父もまた、理由はわからなくもないが、エルンストと私が会うことにあまり良い顔はしなかった。つまるところ祖父と私は似た人間だということなのだ。
『身分違い』この言葉は、娘が王族と結婚した祖父と、父に元王族をもった私の心にこそ重くのしかかる言葉だった。
「ウルマンは将来何になるつもりなんだ? 王宮で私を助けてくれないか? 叔父上もそれを望んでいる」
私が十八歳になり、学校を卒業する年になると頻繁にエルンストからそういわれるようになった。彼は祖父や父にも私に言ったのと同じ内容の手紙を送ったらしい。祖父からは『お前の好きなようにすると良い』と少し悲しげな顔で言われ、海を挟んだ隣国にいる父からは絶対に反対だ、という返事がわざわざ急便で来た。本人もすぐに帰ってエルンストと直接話をする、と書き送っても来ていたが、それには及ばない、と私は返信した。
私はそれから祖父に頼み、祖父とは血縁関係のない縁戚の家に養子に入った。公正に試験を受ける為だ。
その頃には私は、収税官になることを決めていた。エルンストに言えば簡単になれただろうから、言えなかった。両親には、家を継がないことを言えなかった。どのみち難関といわれる試験を突破できなければ、収税官になるもならないもないのだ。
エルンストとは、父にくっついて旅に出ることになったから、と嘘をついて連絡を絶った。
それから二年、勉強に勉強を重ね、私は収税官になるための試験に合格した。事後承諾になった両親にはものすごく怒られ勘当を申し渡されたが、私は満足だった。
六年間地方官吏として働き、中央に呼び戻されて二年。二十八歳になった私はエルンストの存在を意識の遠くにおいやっていた。実際収税官が詰める執務室は一応王宮内に位置しているとはいえ王族の住まう本宮や彼らの外交や執務の場である第二宮とも離れた外郭近くの第三宮にある。王族はもとより子爵以上の貴族すら滅多に顔を合わせないのだ。
エルンストも三年前、前王の急逝によって早くも王となり、数年前に少し親交のあったくらいの平民の従兄弟のことなどすっかり忘れているだろうと思っていた。
その日。私は何の変わりもなく朝出仕するとすぐ同僚と予てから何度も提出していた地方への税率周知の徹底案について話し合った。同僚も地方の民が公で定めた税率を知らないことが多いというのを問題視していて、二人で収税長官に訴える為の書類を作り上げようとしているところだったのだ。
書類は細かい箇所を手直しして、殆どもう提出するばかりとなっていた。誤字などの最終チェックをしている私の前で同僚が少し興奮した声で言ってきた。
「そういえばウルマン。聞いたか? 今日、なんと陛下がこの第三宮においでになるそうだ。朝方急におっしゃられたらしくてな、さっきから長官達が陛下をお迎えする準備をどうしたらいいのか慌ててる。まあ俺達には関係ないけどな」
「これから総出で掃除とかさせられるんじゃないか?」
「そんなわけないだろう。あるとすれば服装検査とかな。まあ、陛下も長官達と会うだけで手一杯でこちらまではいらっしゃらないだろ。第三宮には長官と名のつく方が……何人いたっけ」
「二十五人」
第三宮は私の所属する収税を初めとして王宮の修繕や夜警など、絶対に必要だが大きな変化の少ない役職の者達が入っていて、宮の大きさの割にそれぞれの束ねる長官は数多くいた。その全てが日頃陛下を初めとする高官に会う機会など無い者ばかりだ。訴えたいことも多いはずで、彼らの話に耳を傾けていれば数時間はすぐに経ってしまう。結局適当なところで話を切り上げてさっさと帰るだろうというのが同僚の予想で、私もそれに賛成だった。
いったいどういう気まぐれで第三宮なぞに来るのか……、とちら、と思ったが、ほどなく長官の代わりに入室した副長官が始業を知らせ、すぐに忙しさに取り紛れてしまった。昼近くになって戸口のあたりがざわめくまで、私は今朝聞いたことをすっかり忘れていた。否、忘れようとしていた。もう私は王とは、エルンストとは何のかかわりもない人間なのだと自分で決めたのだから。
「ウルマン!」
叫び声に顔を上げると、戸口からまっすぐに向かってくるエルンストが居た。最後に会った十年前より一層精悍になった秀麗な顔。それが喜色と怒りを等分に浮かべて私を見据えている。彼の周囲だけが薄暗い部屋の中で輝きを放っているようだった。
「何故私に何も言わずにこんな所に? 会いたかった、何度も君の家に使いを出したのに、誰も君のことを教えてくれなかったんだ」
「陛下……!」
「止めてくれそんな呼び方。エルンストと呼んでくれウルマン。君は私の大切な従兄弟じゃないか」
エルンストの言葉と同時に部屋の空気が変わるのを、私はエルンストに抱きしめられながら感じた。それは肌があわ立つほどの冷たい変化だった。
□ □ □
「私は何故、陛下が私などを傍に置きたがるのか、わかったような気がしました」
「何故……?」
「私はその日以降、人を信じることが出来なくなった。その朝まで一緒に同じ目標にむかっていた同僚すら、信じられなくなりました。父が私を勘当してまで反対していた理由がわかりました……父やエルンストが生まれたときから囲まれている『現実』を、私は目の当たりにして……恐ろしかった。私がエルンストと同じ立場でも、誰かに傍に居て欲しいと願うでしょう、誰か、誰か」
「地位や血統で見る目を変えない誰か…?」
パヴェルの言葉に私は小さく頷いた。そう、私はうってつけだっただろう。従兄弟同士という血の近さ、けれど王位を巡る競争相手にはなりようのない相手。叔父が私を王宮に迎えいれようとしていたのもきっと、エルンストの為だった。
私は一杯に開けられた窓から入ってくる、涼やかな風を胸に吸い込んだ。
昨夜、ヴィクトルと共に席を立った辺境伯は今日は塔に閉じこもったままだ。貧血で寝台から起きてこられないということで、今日は執務室にパヴェルが座り、私は同じ部屋で報告書を書いていたのだが、何故か身の上話をすることになっていた。
パヴェルは机の上に置かれた書類にサインをしながら「本当に王の従兄弟だったのか」と呟いた。従兄弟というが実際血が繋がっているというだけで、父は王籍から外れているから、書類上では全くの他人だ。
「ですから昨日辺境伯が言われたような叙爵はありえないです。周囲が許しません」
「それにしても……。王は君を信頼しているんだろう」
パヴェルの暗い声に私は彼が何を心配しているのかわかった。
この領地と領民の為に働くことは、そのために王の傍近くに仕えることを選ぶことは、王の信頼に対する裏切りだ。二心がないからこそ私を傍に置こうとしている王を利用するために近づく。
「……私は、あなた方のために働きます」
「ウルマン殿」
「決めたんです。尤も、戻ってみたらとっくに陛下は私のことなど忘れて居るかもしれませんし、陛下のお心だけで出世できるほど王宮は甘いところでもないでしょうが、それでも、出来る限りのことはします」
「…けれど、それは……」
「……辺境伯は、どこかお悪い、のでしょう…?」
「…………ああ。ヴィクトル様が仰るには、あと十年はもたないそうだ。体の奥から死臭がすると、誰にも治せない病だと」
辺境伯があれほど急ぐ理由を考えて出した推論だったが、いざ当たったとなると言葉を失って私は黙り込むしかなかった。もし今年私がここへ来なくても、一年か二年のうちに彼はたとえば税を故意に少なく収めるとか馬を献上しないとかそういう方法で誰か王都から人を呼び寄せたに違いない。そう思うと、今、ここへ来たのが自分でよかったとも思える。そうでなければ知らないうちにこの領土が閉ざされ、あの美しい狼や領主一族に出会うことも無かった。
そして、そっと離れるだけにしようと思っていた従兄弟の傍に戻り、彼の信頼を盾にして彼を裏切る決断をすることもなかった。
「では、急がなくては…なりませんね」
「ウルマン殿、けれど何故」
パヴェルの問いかけに私は答える言葉を持たなかった。
何故といわれればそれは幼い頃から憧れだった辺境伯領を守りたいからだ。
何故といわれればヴィクトルの美しさに圧倒され、魅入られたからだ。
何故といわれれば辺境伯や、パヴェルやアンナのことが好きになったからだ。
何故といわれれば私はあの従兄弟を愛し、けれど従兄弟に愛され縋られることに疲れているからだ。
何故といわれれば私の夢を奪った従兄弟を、憎んでいるからだ。
どの理由も本当だったが、どの理由もあえて考え出した言い訳にすぎなかった。理由など本当のところ私にもわからなかったから、ただ私は「明日、王都へ戻ります」と告げた。