4.最後の狼
四話は、ウルマンが辺境伯の話を最後まで聞き終わった後まで時間が飛んでいる為、文中に今まで話にでてきていない事柄が複数含まれます。
構成上、四話目としてこの話を上げますが、もしそれはちょっと…と思われましたら、三話⇒最終話⇒四話⇒…、という風に読み進めてくださいませ。
新月の夜ばかりは城下のものは誰も家から出ることはないという。
ただ城は逆だった。
というよりも領主の一族が、というべきか。
召使い達は城下に倣い皆部屋に籠もり、季節の花の飾られた騎士の間に領主の一族……今は、辺境伯と二人の従兄弟、パヴェルとアンナが集まるのだという。
その席に、何故か私も同席を、と請われた。
客とさえ呼べない私を、なぜ家族だけの集まりに呼ぶのかといぶかしかったが、招待を断るのも礼を失した振る舞いだと思い招待を受けたが、さりとて普段着以上服など持ってきていない。結局背格好が同じくらいのパヴェルの服を借りることになった。
騎士の間はこの城で一番大きな広間だ。その中央に二十人は並んで座れるほどのテーブルが置かれ、広い部屋の隅々まで照らすほどあちらこちらに置かれた燭台に全て火が灯されている。
その贅沢な大広間に、しかし居るのは私を含めて四人の着飾った人間だけだ。
白地に一面銀糸で刺繍の施されたアンナのドレスや装身具の深い紅の宝石の見事さは言うにおよばず、辺境伯もパヴェルも王族の主催する舞踏会でも遜色のない装いだった。それに二人ともアンナと同じ宝石を、辺境伯は胸に、パヴェルは腕につけている。
私もパヴェルに「決まりだから」と言われて同じ石のついた指輪を借り受け嵌めていたが、それは深い紅だが透き通り、光の角度によって金色にも見える宝石で、都でも貴族しか所有することのできない稀少かつ高価な宝石だった。
驚くことに、この宝石こそ辺境伯が納める税を賄っているのだった。しかも、わざわざ外国へ売りに行き、貨幣にしてから納めている。もともと私如きには縁のない宝石だったが、それでもこの宝石がわが国で採取されるものだという話は聞いたことが無い。恐らく関係する者達が厳重に口を閉ざしているのだ。
そこまでして宝石の出所を隠す理由が私には分からなかったが、あるいはそこまでして隠す理由こそが、今私が場違いにも辺境伯とその家族の集いに参加している理由なのかもしれなかった。
おかしなことに、若いパヴェルとアンナが話をしたり笑ったりしているのに対し、主人席ではなくその斜め向かい、アンナの隣に座った辺境伯は一人緊張しているようだった。たっぷり注がれたぶどう酒を飲まないまま何度もグラスを上げ下げしたり、部屋伸隅の蝋燭が消えたと立ち上がり、自ら火を移しにいったりしている。その落ち着かない様子に若い二人が訳知り顔で少し微笑みを浮かべたりするのも、私にはおかしなことのように思えた。
なんだか、恋人を待つ男を見る友人のような目で辺境伯を見ているように感じるのだ。少しの揶揄いや冷やかしや、ほほえましさ。そんなもので二人は辺境伯を見ている気がした。
一族の集いというわりに何か重要な話がなされる様子もなく、私が予想していたように宝石の話がされるでもなく、広いテーブルの上に置かれている皿には干しぶどうと桃、それに蜂蜜をかけたチーズと、普段食卓に並ぶものしか置かれていない。
暫くの間は部屋を見ていたりパヴェルやアンナと話をしたりグラスのぶどう酒を飲んでいたりしたが、グラスも空になり手持ち無沙汰になってくると段々落ち着かなくなってくる。なぜ私がここにいるのか、この集まりの趣旨は何なのか全く理解できないのだ。
私は居心地が悪くて、小声で隣に座るパヴェルに声をかけた。
「あの、パヴェル殿。この集まりは……」
「もうすぐですよ、ウルマン殿。ああほら、いらっしゃった」
言うなりパヴェルは立ち上がり、アンナと辺境伯も立って戸口を見つめている。私も慌てて立ち上がると、開かれた扉の向こうから確かに、人の足音が聞こえてきた、とほぼ同じくして足跡の主が騎士の間に入ってきた。
美しい。
その方を見た瞬間、私の頭はその一言で占められた。
白い肌、辺境伯のものよりも色濃い、肩の下あたりまでの蜂蜜色の髪。灰色がかった翡翠色の目の色は、彼がテーブルのそばにやってきたときに確かめることができた。
濃いえんじの地に金の刺繍の施された服は、私の知る限りでは百年以上前に着られていた丈の長いチュニックだったが、彼が着ているとまるで違和感がなかった。
優しげな笑みを浮かべているのにどこか悲しげな顔で、彼は当たり前のようにテーブルの短い辺、主人の席に着いた。それを合図にしたように皆も座った。
「こんばんは。アウグスト、パヴェル、アンナ。そして君はウルマンだね。アウグストから話を聞いているよ。私はヴイクトル・オルバーン。この地の夜を統べる最後の狼だ」
低く甘通りの良い声だった。心にしみこむような、それでいて背筋を正さずにはいられない声だ。
狼。それは夜の領主が自らの一族を表すのに使った名だという。森の中で最も恐れられる動物。
なるほど確かにこれは人ではありえない。
私は、恐らく遠い昔ネイェドリーが納得したように、すんなりと納得した。同時に、この人の眼に色が現れているのは、人間と契約を交わしたからなのだと辺境伯の話を思いだし、この狼は誰と契約をしたのだろうとちらりと思ったが、考えなくてもそれは辺境伯でしかあり得なかった。
パヴェルからもちらりとそんな話を聞いたし、なにより辺境伯は恋しい者を見る熱の籠もった眼でヴィクトルを見つめていた。
従僕のように辺境伯が立ち上がり、ぶどう酒をヴィクトルの前に置かれたグラスに注ぐ。空になった各々のグラスにも再びぶどう酒が満たされた。ヴィクトルが少しグラスを掲げると、三人も同じようにグラスを掲げたので、私も倣った。
「今宵も昼と夜、両方の一族が揃ったことを祝して」
ヴィクトルの言葉に和して皆でグラスに口をつける。
「パヴェル、婚姻を結ぶ相手は決まったのか? 先月の話はどうなった」
「あれは破談になりました。どうも姫君の父親が、このような辺境に嫁がせるのは不安だったようで」
「早く結婚してこの城に子供の声を響かせてくれよ。アンナも、結婚してもこの城に住んでくれ」
「そうですわね、ヴィクトル様。最初の子はヴィクトル様が名付け親になってくださいませね、アウグストにはその次の子の名前を決めてもらいます」
「楽しみだな。私は賑やかなのが好きなんだ」
目を細めてヴィクトルは笑った。この静かな大広間、二つの一族が揃っても四人しかいないこの場所にヴィクトルの言葉は悲しく響いた。
おなじことを思ったのか、アンナの笑顔が少し曇る。
「そうそう。ウルマン殿は、石についてお調べとのことでしたな」
「は。はい。この地で採取できるものとは寡聞にして存じませんでした。税の大半を宝石の売却益で補っているようですが、わざわざ隣国へ売ってまで隠す理由があるのかと」
「いいのか?」
「頃合いだろう」
ヴィクトルは辺境伯に問いかけ、伯は頷いた。それを見て再び私に視線を戻し、ヴィクトルは柔らかに言葉を継いだ。
「あの石は狼の血肉だ。我らはおとぎ話のように死しても塵にならない。石になるのだ。それを砕いて売っている」「だがそれも永遠ではない」
「それは、そうでしょう。それがつきた時はどうなさるのですか?」
「それが尽きた時に、我らの領土は終わる。道を閉ざし、誰もたどり着けぬ土地で暮らすも良し、他の土地へ移るも良し。ウルマン殿。私が君をこの場に招いたのは、領民の移住を手助けしてもらいたいからだ」
「お待ちください!」
私は思わず声を上げて辺境伯の言葉を遮った。パヴェルもアンナもすでに納得済みの話なのか穏やかな顔をしている。ただヴィクトルだけが物言いたげに眉根を寄せていた。
私は気を落ち着かせる為に皆の顔を見渡し、一度大きく息を吐いた。
「私は一介の収税官です、辺境伯の望まれるような手助けはとても」
「ウルマン殿、私は確かに王宮には足を向けないが、王宮の動向に関心を持たずに済ますことはできない立場だ。庶子ではあるが紛れもない王の従兄弟殿が王宮官吏になっているという話は耳に入っている。爵位を望まず一官吏として王に仕えているが、王の寵愛は深く、近いうちに叙爵を受け重要な地位に就くことは間違いないと。このたび我が領土に来たのも、叙爵の為の準備の一環か、他の理由があるかもしれないが少なくとも公務ではないだろう。君自身が言っているように、辺境伯領とはいえ我が領の納税金額を考えれば、貴族か、官僚ならば収税長官が赴くのが順当だ。調査だけだとしても、なんの地位もない収税官が一人で来るような用件ではない」
辺境伯の言葉は少しも揺るがなかった。当たり前のことを言うように言った。
私は少し笑った。笑うしかない。
辺境伯のいうことは一つも間違いではなかった。
確かにこの地に来ることは上司である収税長官に言われたことではない。どころか、今、私は病気療養で休職中ということになっている。もっとも往復だけしても半年掛かる行程だ。王都に戻った時、収税官としての私の席はなくなっているだろう。
ここに来たのは、王から直接命じられたからだ。
否、あの気のいい従兄弟は「命じた」という意識もないだろう。あの男は王という地位がどれほど影響力を持つものか、きちんと理解していない。
だから私が王家との関わりをひた隠しにして、難関の試験を正規の手続きに則って合格し、念願の収税官になったことも、よりにもよって王が王宮の中で私に声をかけるなどという軽挙で王家との血縁を明らかにされ、縁故のみで官吏の地位を得たと言われていることも、同僚や上司から疎まれていることも、貴族や王の周辺のいる人間に妬まれ嘲笑され媚びられることも、王にとっては気にするようなことではないのだ。
王家に生まれながら市井の女との結婚を望み、地位を捨てた私の父と今の王は、奔放なところがよく似ていた。奔放さとは愛される性情であり、現に私の父が今では市井に溶け込んで周りの人間に愛されているように王も皆に愛され甘やかされていたが、しかし奔放さとは王の持つべき資質ではないし、私は父のことも王である従兄弟のことも、愛してはいたが許せないと思うこともあった。
『なあウルマン。私はもっと自由に使える金がほしい』
そんな一言で私はここまでやってきた。
逆らうことなど、許されないし考えもしなかった。憧れの、狼殺し辺境伯といまだに呼ばれる伯爵家と、その領土を見られる機会が訪れたことに感謝しただけだ。
ただもう私は、王都に戻ったら王宮を辞して街で仕事をしようと思っていた。これが王に奉仕する最後の仕事だと覚悟を持って、ここまでやってきたのだ。
辺境伯は、私に覚悟を踏みにじり再び王宮へ舞い戻り、王の寵臣、縁故のみで厚く遇される愚物になれと、言っている。私は指先や頭がすっと冷たくなるのを感じた。
「私は……。私、が……パヴェル様やアンナ様と親しくなれば、そしてこの美しい方を見れば、私は王都でこの伯爵領の為に尽力せずにはおられないだろうと、アウグスト様はお考えになられたのですか」
「そうだ。私は君なら親しくなった者を見捨てないだろうことを見越して年の近い二人を近づけ、君を今日ここに呼んだ」
「アウグスト! まだ時間はあるはずでしょう」
「猶予はない。私はヴィクトルを砕かせはしないし、誰の手にも欠片すら渡す気はない。残りの石は一人分だ。保ってもあと三十年。ウルマン殿が王宮で力をつけ、ある程度の独断が許されるようになるまでに石が枯渇すれば、その時点で我が領地は暴かれ踏みにじられて終わる」
「アウグスト。私が死ぬ時は君も死ぬ。死した後、この身体がどうなろうと君には関知できないだろう。私はこの領の為に使ってほしいよ、他の皆がそうであるようにね」
「駄目だヴィクトル。私は他の誰にもあなたを奪わせはしない。それにあと何十年か引き伸ばしたところで、結局近いうちに終りは来るのだ」
静かな声で、けれど底光りする眼で辺境伯はヴィクトルを見、私を見た。
逆らうことを許さないという眼だ。
気圧されて黙り込んでしまった私の隣でパヴェルはじっとテーブルの上を睨みつけていた。私が辺境伯の為に動くにしろ動かないにしろ、近い将来とてつもない重荷と共に辺境伯の名を継ぐのはパヴェルだ。
「それほど言うのならアウグストが終わらせれば良い」
「お兄様」
「そうだろうアンナ。ヴィクトル様は最後の狼だ。ならば最後の狼殺しであるアウグストが領地の始末もすればいい」
「最後の狼の滅する時までこの地は辺境伯の領土であり続けなければならない。それが我ら昼の領主と夜の領主の約束だ」
「ヴィクトル様。あなたさえ了承すれば約束は反故にされる。そうでしょう? 何故たまたまこの地に来ただけのウルマン殿を巻き込まねばならない、彼の生き方を曲げてまで我らに協力させるなど……」
「お兄様、ヴィクトル様を困らせないでくださいませ。狼が富をもたらし我らは狼のために生きる。それは破られることのない約束であるはずです」
「いいや、アンナ。パヴェルの言うとおりだ。何故関わりのないウルマンが私たちの為に苦しめられなければならない? アウグスト、君は私のことを考えすぎる。もっと」
「私が大切なのはあなただけだ。他の何もあなたの存在にかなうものはない」
「……君は困った男だな」
ヴィクトルは悲しそうな顔で微笑んだ。
私は。私はどうすべきなのだろう。
しんと静まり返った広間で、蝋燭の燃える音だけが響いた。