2.兄妹
翌朝はすっきりと目が覚めた。夢も見ずに深く眠れたのは久しぶりだったので、大分寝過ごしてしまっただろうと覚悟したのだが、窓から入ってくる光はまだ弱く、早朝でなければ今日は曇りのようだった。
昨日荷解きをして長持に入れた、埃っぽい服の中から比較的まともなものを選んで着、洗面を済ませて髪を梳く。そんな当たり前のことだが、自分が今、シュテルンベルグ辺境伯の城にいるのだと思うと身の裡が震えるような高揚を感じた。
部屋に入ってきた召使の案内で一階の朝食室へと案内される。十人ほど座れるテーブルが部屋の中央に置かれた朝食室には、先客がいた。私より数歳若いだろう年の男と、それよりも年下に見える女だ。二人ともシュテルンベルグ辺境伯と顔立ちが似ているので、血の近い親戚なのだろう。
客とはいえ私は身分の低い収税官だ。戸口で深く頭を下げて挨拶をした。
「昨夜からこの城に滞在させていただいております、ウルマンと申します」
「ようこそ辺境の地へ。私はパヴェル、これは私の妹のアンナ。辺境伯アウグストとは従兄弟になります。幼い頃に両親を亡くしてからこの城で暮らしています」
「ウルマン殿、どうぞこちらへ。アウグストは朝が早くて、もう朝食を終えて執務室に居ります。朝食を終えたらご案内しますわ」
「さあ、こちらへお掛けください。お仕事でいらっしゃったのでしょうが、少しは私達と話をする時間も取れるでしょう? 都の話など滅多に聞けるものではないと、昨夜あなたがいらしたのを聞いた時から楽しみにしていたのです」
促されるまま席に着き、運ばれた朝食を終える間にも兄妹はひっきりなしに話しかけ、あれこれと質問をしてきた。麦わらのような金の髪に青い目を持ち、すらりとした体躯も良く似た兄妹だった。
私が食べ終えるのを待っていた二人が立ち上がった時驚いたのはアンナがドレスの上に剣を吊っていることだった。男が持つような刃渡りの大きいものではないが、女性が護身に持つような刀身の短いものではなく、紛れもない長剣だ。ただ、こんな剣は見たことがなかった。
私の視線の先を見やってパヴェルは苦笑した。
「妹のわがままでアウグストが鍛冶に作らせたのです。女でも使える剣を、とね。妹は史上初めての女将軍の座を狙っているのですよ」
「……それは、また…」
「まあいやだ、兄の冗談ですわウルマン殿。でも宜しければ後で一試合いたしません? 都の方の使う剣はどのようなものか興味があります」
「申し訳ありません。私は文官で、剣は全く使えないのです。旅に出るからと護身用にこの剣を買ったのですが、一度も抜いたことがないほどで。この剣に本当に刃がついているのかも知らぬほどで」
「まあ」
アンナの声に呆れと失望を感じて、私は恥ずかしさに少し頬が火照った。パヴェルが妹を嗜めるから尚更だ。
結局それから気まずく沈黙したまま二階にあるという辺境伯の執務室へ向かっていたのだが、階段を上がり、中庭を望む回廊に出るとアンナが再び声を上げた。
「ウルマン殿。このタペストリーをご覧になって。これはネイェドリーがこの地にやってきてからの物語を織ったものです。これが一枚目、山中を彷徨うネイェドリーが谷底に平地を見つけた場面」
アンナに促され、回廊の壁に掛かったタペストリーを見ると経年にほつれ、色あせてはいたが緻密な織のタペストリーには確かに、昨日私がそうだったように山間の平地を見下ろしている、金色の髪の男と、その周囲に幾人かの人間が描かれている。しかし、と私は首をかしげた。
「初めてこの地を訪れた絵にしては、どうして平野に建物らしきものがあるのですか?」
「アウグストから聞いていらっしゃいませんか? この地には先住の民がいたと」
「………、ああ、そうでした。大変失礼いたしました。確かにそう伺いました」
パヴェルに言われ、私はその話を昨夜聞いたことを思い出した。昨夜は疲れきっていて、夕食を食べたあたりからの記憶が少し曖昧だ。
「しかし、不思議ですね。この地では先住者がいたのが当たり前のように語られているようですが、都では一度もそのような話は聞いたことがありませんでした。ネイェドリー様が森を拓き領民に安寧の地を約束した、とだけ」
「ここは都からは遠いから。ウルマン殿もいらしてお分かりになったと思いますが、一番近い集落でも道を知る者でさえ一昼夜、馬車も通れない道を碌な目印もなく行かなければなりません。その集落から一番近い領主館まで馬で十日。王のおわす都まではどんなに急いでも三ヶ月は掛かります。この地で生まれた者は、馬の行商に着いていくことはあっても他の場所で働くことを望みません。貧しい領土ですが、まあまあ領民が飢えることのないだけの収穫は望めます……と、タペストリーを行き過ぎてしまいました。ネイェドリーの話の続きはアウグストに聞いてください。ここが執務室です。話が終わったら領地を案内します」
「いえ、そのような。パヴェル殿もお忙しいでしょうに」
「アウグストの手伝いをしているだけですよ。アンナ、お前はどうする?」
「ここで待ってるわ。長くなりそうだったら教えてちょうだい」
「わかった。アウグスト、ウルマン殿をお連れしました」
扉の向こうから穏やかな応えがあり、招かれた部屋は窓を背にして机と椅子の一そろいが、そして椅子がいくつか置かれているだけの簡素な部屋だった。部屋の隅に暖炉はあるものの、壁はタペストリーもなく石壁がむきだしのままだ。
これが本当に領主の執務室かと驚き呆れていると、パヴェルが椅子を勧めてきたがそれは断り、机の前に立った。対等に話が出来る相手ではないことが一つ、これから自分がする話に引け目を感じているのも理由の一つだ。
懐に入れてきた国王の命令書を辺境伯に差し出すと、彼はそれを一読してため息をつき、命令書を脇に立つパヴェルに渡した。
若いパヴェルの反応は辺境伯のものより顕著で「馬鹿なことを…!」と呻くように吐き捨て、今にも命令書を破きそうに力を込めて握り締めた。そのまま、皺のよった命令書を叩きつけるように机に戻す。
その全ての所作を、私は諦めと共に見詰めていた。
パヴェルとアンナが朝食室で見せてくれた親しさは、これで消えてしまうだろう。一目でこの兄妹に心惹かれた私にとっては残念なことだったが、仕事なのだから仕方ないことだった。
「金脈など無い、と何代かの王には説明申し上げたはずだが、また蒸し返されたか」
「国王陛下におかれましては、金鉱かさもなければ増税をお望みでいらっしゃいます」
「しかし我が領土にはこれ以上税を納める力はない……。ウルマン殿には領地をくまなく見てまわり、金鉱の類など無いことを確認していただきたい」
「……しかし私は、一介の収税官に過ぎません。無論伯のお言葉も報告いたしますが、王のお言葉を違えることは難しいことかと存じます」
「全く、あの強欲が! 戴冠式の時にも駿馬を献上させた上に財貨まで召し上げた癖に、今度は増税だと!? 辺境伯領は王家の威信の及ばぬ場所だと知らぬのか!」
「パヴェル。口を慎め。ここも王家の領土の一つであることには違いない、王家の威光は無論及ぶのだ。……ウルマン殿、我が領土の収支を、さしあたって十年分ほど用意させる。お好きにご覧下され。その上でどのような問いにも私かパヴェルが答えよう」
「ご高慮に深く感謝いたします」
私は深く、頭を下げた。理不尽を突きつけられたのだ。使者である私を領土から叩き出してもおかしくはない。それをここまで厚遇してくれる。敬意に自然に頭も下がろうというものだった。やはりこの方は世間に言われる通りの高潔な英雄、狼殺し辺境伯の一人でいらっしゃるのだ。
書類は午後までに用意させよう、という言葉で、これ以上この部屋に自分が居る必要も理由もないのだと理解して、私はもう一度礼をして部屋を出ようとした。すると、下げた頭のむこうで辺境伯が言葉を継いだ。
「昨夜は話が出来なかった。もし君が良ければ今宵話の続きをいたそう」
「は。しかし……」
こんな嫌な話を持ってきた人間だ。辺境伯の高潔な人柄ならあからさまな冷遇はされないだろうがそれでも、夜私室に招いて仕事と関係の無い話をするなどとは考えられず、私は口を濁した。と、パヴェルが口を開いた。
「気にすることはありませんよ、ウルマン殿。アウグストはネイェドリーの話を誰かに聞かせるのが好きなのです。今でも毎年、冬至の祭りの夜に子供たちを集めて聞かせていますし、私達兄妹も何度聞かされたか知れやしない。皆知っている話ですからね、話を知らないあなたに聞かせるのを楽しみにしているのですよ」
私に厭わしげな目を向けるだろうと覚悟していたパヴェルさえも、陛下からの命令書など無かったかのように穏やかな声と顔だ。
「…ありがとう、ございます」
「さあ。ではアウグスト。昼間は私とアンナでウルマン殿に領地を案内します」
「頼んだ」
「さあ行きましょうウルマン殿」
促され、部屋を出ると待ち構えていたアンナが「話の続きを」をタペストリーの前に引っ張っていかれかけたが、そんな妹を兄が留めた。
「駄目だアンナ。ネイェドリーの話はアウグストの為に取っておけ」
「分かったわ。じゃあ今の話をしましょうか、何故アウグストが奥様を娶らず今も独り身でいるのか」
「アンナ」
「辺境伯には、奥様がいらっしゃらないのですか?」
そういわれればまだ一度も見たことがないが、身分の高い女性などそんなものだから不思議にも思わなかった。パヴェルもアンナを止めたものの別に秘密だとか外聞の悪い話だというわけではなさそうで、仕方なさそうに妹の口の軽さを非難してから言葉を継いだ。
「一応、今のところは従兄弟の私が後継ぎになるという話になっています」
「アウグストは叶わない恋をしていますのよ」
「アンナ! 全く、女というのはどうしてこう口が軽いのか……」
「男にだって口の軽いものは大勢おりましてよ」
「全く口の減らない。大体、そんな法螺話をどこで仕入れてきたんだ」
「馬達が噂話をしているのを聞きましたの。ああそうそう、ウルマン殿、あなたのあの綺麗な連銭葦毛の馬。蹄鉄が合わなくなっているみたいでしたから、今日付け替えさせます。勝手に申し訳ないのですが、辛そうでしたから」
「いえ! ……ありがとうございます。五日ほど前に不具合に気づいたのですがすでに鍛冶屋のある集落は無く、イジーも良く我慢をしてくれて歩いてくれました。ずうずうしく蹄鉄の付け替えをお願いしようと思っていたのですが、お気遣いをしていただきまして」
「イジーという名前ですの? とっても良い子。ですから今日は他の馬を用意させますわ。うちの馬は皆大人しくて性質のいい子ばかりです」
「妹の言うことはあまり信じない方がいいですよ。とんでもなく気性の荒い奴でも、アンナに掛かれば『いい子』になるのです。このまま出かけられますか? 今日は少し上がって全体を見ていただこうと思っているのですが」
「はい、私はこのままで平気です。御二方ともご準備がおありでしたら、私は厩でお待ちしておりますが」
「私は台所に寄ってから厩に行きます。お兄様は?」
「私はウルマン殿と厩に行くよ」
この城は、中庭を囲んでいびつな菱形のような形をしているようだった。さすがに部屋とは違い、廊下の明り取りにはガラスが嵌っていない。中庭を伝って掃除をする女達の物音や話し声が聞こえ、大きく取られた明り取りからは夏の午前中の光が惜しみなく降り注いでいる。光の中で見ても城は廊下の隅にいたるまで不潔なところはない。都の城でもこれほどきちんと管理されている館などあまり無いだろうと思ったが、この城には良く管理されている館にありがちな、抑圧され、支配された召使達の発するぎすぎすとした雰囲気も無かった。
「……、ウルマン殿」
階下に降り、厩に向かい城を出たパヴェルは、人気のなくなるのを見計らっていたように低く声を上げた。
「国王は本気なのでしょうか。今までこの地に与えられてきた不可侵の掟を破るとは」
「……私には判りかねます。しかし、辺境伯領に兵を差し向けるのを嫌がる者は多いでしょう、陛下のご命令であってもすんなりと事が進むとは私には思えません」
「つまり、国王には人望がないと」
「パヴェル殿。私は軽輩なれど陛下の臣です」
「失礼しました」
「いえ、謝罪を求めているわけではございませんが……、ええ、そうですね。辺境伯の名は強い、陛下はそれを恐れておいでです。進軍する振りをして恭順を試そうとすることは十分にありえます」
「ここで無理な増税に応じるかありもしない金鉱を差し出すか、後になって兵を差し向けると脅され忠誠を試されてからおなじものを差し出すかのどちらかしかないというわけですか」
「そういうことだと、推察いたします」
改めて口に出されればその卑劣さが身にしみて私は恥ずかしさに顔を伏せるしかない。パヴェルがこの若さで見破ったように、とうに辺境伯にも陛下の胸の裡は知れているだろう。だからこそいたたまれない。一介の収税官だの軽輩だのと自らの責任を軽くしたところで、実際に私がここにきてやっているのは、内戦の予告という卑劣な脅しに過ぎないのだ。それも、陛下が浪費をするための財貨を得る為だけの目的で。
パヴェルは更に低い声で微かに呟いた。
「我らが王を必要としたことはないというのに」
その言葉に返事もできずにいると、ややあって明るい声でパヴェルは前方に見えてきた厩を指差した。すでに厩の前に三頭の馬が鞍をつけて出されている。どれも皆、私のイジーとは比べ物にならぬ、丈高くがっしりとした体つきの美しい馬だった。
「これは…素晴らしい」
「黒鹿毛が私のモルガン、月毛の馬がアンナのカレル。あとはニコラですね。美しい栗毛の馬ですが気位も高くて、私も乗せません。ニコラに女鞍がついているからあなたをカレルに乗せるようですね。カレルは少しのんきものだが大人しい良い馬ですよ」
パヴェルの言葉通り、少し経って、昼食だという包みを持ってやってきたアンナは私にカレルを任せ、自分はニコラに乗った。横向きに乗る女鞍は跨れる男の鞍より安定感が悪く駆けさせるのは難しいといわれているが、さすがに駿馬を多く出す土地で育っただけあって、アンナは傾斜の続く長い道を素晴らしい速さを維持したまま軽々と御し、パヴェルの手並みが妹より劣るはずもなく、結局私はカレルと共に最後尾を引き離されないように着いていくのがやっとの有様だった。
昨夜私が降りてきた長い道を登りきり、少し進むと木々が途切れ、下の様子がはっきりと見て取れた。アンナは少し下ったところに沢があるから馬に水を飲ませてくる、と三頭の馬を引き連れて行ってしまった。気を使ってくれたのだろう。私はパヴェルと共に下を見下ろした。
伯爵領というよりも少し大きめの街、と言った方が良い規模だ。昨日百戸程度と見た家はもう少しありそうだが、伯爵の城と門をまっすぐに結ぶ緩い斜面の道沿いに固まっている家が大半で、あとは谷地一杯に広がり、そうして道のついている左側の斜面にも広がっていく農地の合間にぽつぽつと点在しているだけだ。昨日は気づかなかったが伯爵の城の右斜め後ろに道があり、森の中に続いている。恐らく馬や羊を放牧するための道なのだろう。
私は改めて疑問だった。いくら駿馬を産出するとはいっても、これだけの規模の領土しかもっていない伯爵が、取り決めとはいえ何故あれほど多大な税金を納めることができるのか。税金だけを見てみれば、この数倍の領土があって当然なのだ。私も実際にここに来るまで、もっと広大な領土を持っているに違いないと考えていた。多分皆、そう考えてきたはずだ。今回私をここに遣わした陛下ですら、辺境伯領がこれほど小さな土地であるとは想像もしていないに違いない。
この地は、地図にも載っていない場所なのだ。歴代国王の誰も足を踏み入れたことのない土地だ。今まで誰も、ここの領民の他は正確な場所すら知られていない、御伽噺のような土地。
「……ここだけ、ですか」
「ええ。小さいでしょう。もともと一族のものが食べていけるだけの土地を欲したのです。時代と共に少しずつ人が増えて開拓地は増えましたが、それでもこれだけです」
「パヴェル殿は、辺境伯がどれほどの税を納めているのかご存知でしょう。これだけの土地であの税が賄えると?」
「農作物は殆ど余剰はありません。領民達が納める税では到底払いきれるものではない。足りない分は馬で」
「馬だけで? 申し訳ありませんがパヴェル殿、私には信じられません」
「……先ほど、アンナが言っていたでしょう。アウグストの恋を」
唐突に変わった話に、私は首をかしげて隣に立つパヴェルを見た。彼は優しい目を眼下の領土に向けながら言った。
「我らシュテルンベルグは昼の領主。アウグストは夜の領主に恋をしているのです」
「夜の、領主とは」
「ヴィクトル・オルバーン。狼の王」
パヴェルは恋人に囁くような声で唇に名を乗せた。まるで、自分もまたその人に焦がれているのだとでも言うように。




