彼女とお仕事
「どうして当たり前みたいな顔してあんたがいるの!?」
峰 織枝とミミズとタオルでバカみたいに騒いでその次の日。空には白い雲がうっすらと広がり、100人が見たら100人全員「いい天気だねえ」と言いたくなるお天気の中、あたしの声だけが屋上に木霊する。だって叫んだっていいじゃないか。私と陽菜の2人っきりラブラブランチタイムを峰 織枝が邪魔していたのだから。
誰の許しがあって、あたしと陽菜の間にこの女はちょこんと座っているのだ。邪魔だ。はっきり言わなくても邪魔だ。
「私は織枝ちゃんがいても気にしないよ」
いつもと違う日常をあっさりと受け入れてしまう陽菜。さすがの包容力だよ! 愛の女神だよ! だからあたしは君のことが大好きなんだよね。女神様のお許しがでたのだから、あたしにこれ以上の文句が言えるわけもなく、おとなしく鞄から弁当を取り出すことにした。ああ、この愛の巣に土足でやってきた織枝をすぐに蹴り飛ばしてやりたい。
「でも、初めてだよね? 一緒にお昼食べるなんて」
陽菜の愛らしいまあるい瞳があたし以外を映す。
「その、これから協力してもらうんだし、佐藤の近くにいようと思ったから……それに、あ……んたと、なっ、仲よく、してみようかな……って」
言葉の後半、織枝は苦虫を噛み潰したような表情だった。嫌だけど、でも我慢してやるって感じで。陽菜と仲良くしようとするのは、あたしに対する気遣いなのだろうか。昨日のあたしの言葉で努力しようと思ってくれたのかもしれない。まあ、そんなに仲良くなられても困るんだけど。
「……で、佐藤。わたしは今後どうすればいいの? どんな作戦があるの?」
昼休みなのにお昼ご飯そっちのけで、織枝の興味は違うところにあるらしい。
あたしはお母様作愛のこもった弁当の中のウインナーに箸を突き刺した。求めるように見つめられても、すぐに作戦なんて思いつかんぞ。森口と織枝をくっつけて、陽菜とあたしに影響を及ぼさないところでラブラブしてもらおうと考え付いたのは昨日なのだ。準備万端って顔で餌箱の前で待つ犬状態はやめてくれ。ちょっとは自分で考えろ。
「作戦?」
その言葉が引っ掛かったのか、どんな美少女も嘆いて跪きたくなる陽菜様がことりと首を傾げた。え、なにそれ。とっても可愛らしいですね。鼻から血が噴き出しそうですけど、もう一回やってもらっていいですか。
「わたしと、森口くんが、付き合うための作戦よ!」
少しきつめの言い方で、織枝が陽菜に答える。
「……森口くん、と?」
しまった、と思った。同時に押し切るしかないとも思った。
昨日、陽菜と森口にうっとりできない恋愛イベントのようなものが発生したと織枝から聞いてはいた。ここで森口の話題が出れば陽菜が森口を意識するのは予測可能なことで。
そういえば朝の教室で森口に挨拶された時も陽菜の態度はどこかおかしかった。森口があたしとの仲を誤解だと陽菜に説明してくれた、というのを聞いて少し気が緩んでいたのだろうか。いけない、とにかく恋愛方面に転がすわけにはいかない。
「そうなの! 織枝の奴さ、森口のことが好きらしくて!」
ここで陽菜を巻き込んで「一緒に彼女の恋を応援しましょう」、という雰囲気に持っていくしかなかった。
動揺するな、陽菜。放課後の逆光パワーと落ち着いた様子の森口にちょっと驚いてしまっただけでしょう? たぶんそのはず。織枝の説明は結構メチャクチャで、放課後の教室で2人っきりになっちゃったその時なんか怪しい空気になっちゃったくらいしかわからなかったけど。
森口の野郎森口の野郎森口の野郎。あたしがもっと性格悪かったら、あんたの靴の中に画鋲入れてたぞ。それをしなかった優しさに全力で感謝すればいい。
「そうなんだ、織枝ちゃん森口くんのことが…」
「そう、好きなの! 協力してくれるよね、あなたも」
身を乗り出して陽菜に迫る織枝は、普段の大人しそうな印象をどこかに放り投げていた。ただの図書委員地味少女じゃないことは昨日の段階で嫌すぎるほどわかっていたけどね。
「うん、もちろん応援させてもらうよ」
少し間があったけれど、頷いた陽菜。それに「あ、うん。ありがとう」と複雑そうに目を逸らす織枝と、無言のままガッツポーズで勝利を確信するあたし。
このままいけば、森口は好きな女の子から別の女の子との仲を応援される、という悪夢を体験できるわけだ。それも二度目。一度目はあたしも必死で回避させてもらったけれど、今度は逃すわけにはいかない。あは、あははははは。あの爽やかフェイスが、苦痛に歪むのが楽しみだ。
それから、あたしたち3人はワイワイと昼食の時間を過ごし、食べ終わってからも織枝の恋愛について語り、休み時間が終わる5分前には教室に戻った。
昨日までほとんど話をしたことがない織枝とこんなに話せたことに正直びっくりした。織枝は陽菜のことが嫌いらしいが、最後の方は2人で笑い合っていたのだからよくわからない。もちろん陽菜とあたしの時間を邪魔されたことは腹が立ったけれど、この休み時間を楽しいと感じたことは事実である。そう、悔しいことに不快ではなかったのだ。
峰 織枝。肩までの黒髪を一つに束ね、たいして可愛くもないどこにでもいそうな少女。心の中では暗い部分と小鹿みたいな気弱な性格と森口への愛情がぐるぐると渦巻いている変な女。少し、あたしと似ているかもしれない。好きな人と嫌いな人は全く違うけれど。
こいつならちょっとはあたしたちの傍にいることを許してやってもいかもしれない。
うん。ちょっとなら。
「ねぇ、織枝」
「?」
「心の中でね、ちょっとならいいかなって思ったよ、少しね」
「はあ」
「でもこんなところまで付いてくる必要はないよね?」
放課後、町のケーキ屋さん「あまみ」であたしは怒鳴りたくなるのを必死で押さえていた。フリルをひらひらさせながら舞うように働く陽菜を鑑賞しようと「あまみ」までやってきたらその後ろを織枝がトコトコ追いかけてきたのだ。それはもう親の後ろを走ってくる小鹿のように。黒い瞳をキラキラさせて。
「だめなの?」
「うん、だめ」
「やだー、マユミちゃんってば、ひーどーいー」
わざとらしい甘ったるい声の正体は織枝ではなく、かおるさんだった。あいかわらず年齢不詳のすばらしいお顔をなさっている。陽菜から聞いた話だけど、転校生の天海のくそやろうの母方の叔母らしい。どうみても20代にしか見えないのに叔母って、いったいどうなってるんだ天海の血筋は。
「はじめましてオリエちゃん! 店長のかおるです。よろしくね」
「は、はっ、はじめまして! 峰 織枝といいます! よろしくお願いします!」
礼儀正しく織枝は頭を下げた。思いっきり、力強く。そのためテーブルと頭のぶつかる鈍い音がする。こいつバカじゃないのか。森口に対してバカな行動しかとれないのはもう嫌ってほど知ってるけど。
「あら、あら、大丈夫? 冷やすもの持ってくるわね」
「す、すみましぇん」
あ、噛んだぞこいつ。額を押さえる織枝を横目にケーキを一口。お小遣いに余裕のあったあたしが注文したのは、白桃がたっぷり入ったタルト。甘すぎずさっぱりしていて大変おいしい。下のタルト生地もサクサクしていて最高だ。
「で、帰らないの?」
「帰らないわよ! ケーキだってまだ全部食べてないし」
「あたしが全部食べてあげるのに」
「お断りします」
あたしの優しい提案を却下して、織枝はミルクレープを口に運ぶ。ミルと言っても千枚も重なっているはずのないクレープである。一度そんなクレープを食べてみたいけど、家で一枚一枚必死で焼かないと無理だろう。
森口くんについて熱く語りだした織枝を適当に受け流しつつタルトをもぐもぐしていると、保冷剤とハンカチを持ったかおるさんが戻ってきた。
「それあげるから、しばらくぶつけた部分に当てときなさい。赤くなってるわよ」
「あ、ありがとう、ございます」
テーブルとこんにちはした部分と同じ色に織枝の顔が染まる。まあ恥ずかしいよな、勢い良すぎて頭をぶつけるって。琥珀色の紅茶の匂いと織枝の羞恥で赤くなる顔を楽しむ。朝からずーっと森口くん森口くんしか言わないから罰が当たったんだ。これで赤くなっているのが織枝ではなく陽菜だったらもっと可愛かったんだろうに。
「あのーところで陽菜はどこですか? 見当たらないんですけど」
あたしの目的は陽菜だけである。たしかに「あまみ」のケーキはおいしいが、それだけがこの店に来ている理由ではない。
「今週の日曜日に、「あまみ」の5周年記念イベントがあるんだけど、裏でその準備をしてもらってるの」
「え、じゃあ今日はフリル付きエプロンで愛らしさを振りまくあたしだけの天使は地上に舞い降りないんですか?」
「よくわからないけどそれがヒナちゃんのことならその通りね。えーと、その通り……なのよね?」
なんということでしょう!
今日はお客さんもそんなに多くないし、陽菜は必要ないっていうの!?
陽菜が出てきてくれるなら、ケーキあと一つぐらい注文したのに!!
「かおるさんが裏でその5周年記念の仕事? しちゃだめなんですか? 陽菜であることになにか重要な意味はあるのでしょうか?」
「いやあ陽菜ちゃんに任せとけばこうやって接客できるでしょう? ケーキ作るのも好きなんだけど、店長は接客するのもすきなのよー。こうやってマユミちゃんとかオリエちゃんみたいな可愛い女の子と喋ってると若返る気もするしー」
あたしたちは生気でも吸われているんだろうか。ただでさえ20代前半のお姉さんにしか見えないのに(実年齢は天海の叔母というあたりでなんとなく想像はできる)これ以上若返ってどうする気だ。
「あ、暇ならお手伝いしてくれる? 後ろで陽菜ちゃんと一緒にお仕事してくれてもいいのよーメッセージカードとかお花とか作る作業よ。楽しそうでしょ?」
「やります」
「手伝ってくれたら、ケーキいくつか持って帰っても……あ、やってくれるの?」
かおるさんが最後まで言い終わらないうちにあたしの心は決まっていた。
「詳しい話は陽菜から聞けばいいですよね、ごちそうさまです。じゃあ陽菜に会ってきます」
ショーケースで白桃のタルトを選んだ時点でお会計は終わらせてあるので、とくに支払いをすることもなくスタッフルームのドアへ急ぐ。
「ちょっと、待って!」
ついてこなくてもいいのに織枝が慌てて追いかけてきた。ついてこなくてもいいのに。
「あとね、5周年記念だっていうのに日曜日に入れるバイトの子が少なくて困ってるの。もしよかったらその日だけ働いてくれないかしら?」
「日曜日ってたしか陽菜来ますよね」
「ええ、来るわよ」
「やります」
これ以上かおるさんと話すこともないと思い、陽菜を求めて店内から立ち去る。日曜日は客として行くつもりだったが、イベント中にゆっくり陽菜を眺めているのは難しいと思っていた。かおるさんのお願いはあたしの朝から晩まで陽菜を見つめていたいという希望と合致するようだ。いつもは「お客さんそして友人」という立ち位置だが、「バイト仲間そして友人」というシチュエーションは今まで体験したことがない。
「……なんか興奮してきた」
怪訝そうにこちらを窺う織枝を無視して、あたしはニヤニヤしながら陽菜の元へとスキップしていった。
「おはようございます!」
元気なかおるさんの挨拶に他のメンバーも「おはようございます」と返す。
ケーキ屋「あまみ」5周年当日。朝早くから集まった従業員とバイトたちは今日を良き日とするために気合たっぷりだった。残念ながら家の用事があるため陽菜はまだ来ていない。
「いろいろと言いたいこともあるけど、打ち上げのときにします! とにかく、今日1日頑張ろう!」
「おう!」とかおるさんと一緒にあたしたちは拳を天高く突き出す。
「じゃあ解散! 各自仕事に向かってください!」
スタッフルームから厨房や店内へ何人かが移動を始める。クラスメイトでありかおるさんの甥でもある天海 冬馬も店頭を飾りつけるための花の入った段ボール箱を持って出ていった。
「今日は来てくれてありがとう。マユミちゃん、オリエちゃん」
長いまつげをぱちぱちさせて、お礼を言うかおるさんは今日も若々しかった。
「どういたしまして! お役にたてるように一生懸命頑張ります!」
「うふふ、そう言ってくれて嬉しいわ」
朝から織枝のテンションは高い。
あたしだけでは足りなかったらしく、織枝も一緒にバイトをしないかとあのとき誘われていた。別に構わないのだが、どこか納得がいかない。いや、いいんだけど。うん。森口が絡んでこないバイトまで付き合ってくれるとは思わなかったのだ。
「さて、2人には制服に着替えてもらわないとね」
「制服って、あのひらひらした?」
「そうよオリエちゃん。きっと2人ともよく似合うわー」
やばい。忘れていた。
陽菜やかおるさんが着るのは別にいい。違和感ないから。しかし、おとぎばなしから抜け出したようなアリスっぽい制服は着る人を選ぶ。アレをあたしが着用するのか。きつくないか。地味な顔の織枝もどうかと思うけど。
「さあ、いきましょうか」
「はい! 喜んで!」
頬を紅潮させ喜ぶ織枝は生き生きしていた。そうか好きなのかひらひらしたやつが。そういえば峰 織枝は少女趣味だったっけ、と昔彼女について調べていた情報を思い出す。他人について調べるのはあたしの趣味で、全校生徒の浅いプロフィールはだいたい把握している。いつか役に立つかもしれないしね。しかし興味のないことは本当にどうでもいいので、名前すら覚えないこともある。必要な情報とそうでない情報をうまく選択しなければ脳みそはパンクしてしまうだろう。ああ、でも英語は苦手だからって担当教師の名前を覚えようとしなかったのはまずかったかもしれない。あんなに怒られると思わなかったしなー。
「ちょっと佐藤、いつまでぼーっとしてるの!?」
早くひらひらふりふりになりたい織枝に引きずられ女子更衣室に向かうあたしの足取りは
重かった。
「きゃー! 似合う似合うわ! もうずっとうちでバイトしてくれないかしら」
「あ、あの、ありがとうございます……思った以上にスカート短いんですね。すーすーします」
可愛らしい少女が鏡の前でくるりと回る。黒髪を左右の耳の上で真っ白のリボンを使って結んでいるのだが、これがまた水色のエプロンドレスによく似合っていた。普段化粧なんかしない高校生女子に施された化粧は、その内に隠されていた魅力を余すところなく伝えている。
織枝ってこんなに可愛かったのか。
普段意識してなかった幼馴染を急に女として意識しだした男子高校生の気分だ。
「楽しみにしてたけど、実際着てみると……恥ずかしい」
織枝はきゅっとスカートの端を握って照れている。その下には白い太ももと純白のニーソックス。清純な乙女という言葉がぴったりだ。
どうしてあたしはこんなにも織枝を褒め称えているのだろう。
そう思いながら自分の姿を鏡で確認する。
「佐藤、意外と似合ってるよ!」
「うん! マユミちゃんカッコいい!これはこれでありね!」
薄い水色のシャツと黒のズボン、同じく黒のソムリエエプロンを着用したあたしの恰好は男性店員のものだ。普段整えることもしていない髪は飲食店で働いても不潔に感じられないようポニーテールにしてある。
用意された水色と白の布きれを見て恐怖を感じたあたしは、必死で男子の服を着させてくださいとお願いしたのだ。思ったよりも違和感なく馴染んでいる気がする。
「男子用の制服を着る女子っていうのも素敵よねぇ」
かおるさんはうっとりとあたしたちを交互に眺めながら、うんうんと一人で何かに納得していた。もし陽菜が男子用の制服をまとったら、と考えてよだれが垂れそうになった。いける。これは確実においしくいただける。男物のシャツを押し上げる胸のふくらみとか、細い腰に巻きつくエプロンとか、もうたまらんね。途端に自分の制服姿が底辺に思えてくるから不思議だ。
「来店してくださったお客様のうち先着100名様にクッキーを配るんだけど、お花とカードの包装があとちょっとだけ残ってるからお願いしていいかしら?」
「お任せください!」
水色のスカートをはためかせて織枝がスタッフルームに戻っていく。
「マユミちゃんは、トウマくんと一緒に店頭の飾りつけをしてきてくれる?」
「……はい」
少し顔が引きつるのを感じながら、あたしは大人しく裏口から出て天海が作業中であろう表に向かう。通りに出ると「あまみ」の入り口にあの美形転校生が花を固定しているところだった。ほとんど飾りつけは終わっていると言ってもいい。あたしが来る必要があったのか、これ。
「手伝いに来たんだけど、何をすればいい?」
テンションの低いあたしの声に、天海が不機嫌そうに振り返る。
「もう終わった。必要ない」
ああ、そうですか。でもそこまで嫌そうに言わなくてもいいんじゃない? あたしの態度にも問題はあったと思うけどね。
それにしても「あまみ」の制服は彼によく似合っていた。水色のシャツは上のボタンがいくつか外され、ちらりと見える肌が色っぽい。冷たい印象を与えるその表情も、イケメン大好きのお姉さま方からしたら「踏んでください」と言いたくなるほどらしい。(3年の先輩が嬉々として会話しているのを聞いてしまった。アホな女ばっかりだなと思った)こんなやつと陽菜が一緒に働いて、他の女たちから嫉妬されたらどうしよう。
「ああ、そう。じゃあ店内に戻るわ」
早急に対策を立てねば。
いや、前からいろいろ考えてたけど、最近は森口と陽菜をどう引き離すかばかり考えて、天海のことはほったらかしにしていた。手をひらひら振って裏口へ戻ろうとすると、このイベントのために店頭に設置されたテントを指差さされた。
「ここで売るための焼き菓子持ってきてくれ。あと足りてないパイプ椅子も」
「……はーい」
焼き菓子と、パイプ椅子、焼き菓子と、パイプ椅子、焼き菓子と、パイプ椅子。
繰り返しながら店内に戻って従業員に探し物の場所を聞くことにした。スタッフルームをのぞくと、造花を使ってクッキーの袋を装飾する作業を織枝がやっていた。あと残り5個ぐらいである。急がなくてもすぐに終わるだろう。
「他の人たちは?」
「お店の方にいった」
手元の作業に集中しているのか、織枝はこちらを見ようともしない。あたしはお礼だけ言って厨房を通らないドアから直接店内へ向かう。ドアを開けると、いつもより華美にそして愛らしく飾られた空間が広がっていた。不思議の国のアリスをモチーフにしているらしく、うさぎやらトランプなどのアリスの世界を連想させるインテリアが多い。窓際の赤い山みたいなものは、真っ赤なハート型のキャンディを刺した置物だった。1つぐらい頂いても問題なさそうな数だ。
そう広くもない店内でかおるさんを発見し、あたしは焼き菓子とパイプ椅子の場所を聞き出した。誰かもう1人ぐらい運ぶのに必要ではないか、と聞かれたが天海もいるし大丈夫だと答える。答えたところで天海に頼る気は毛頭ないのだが。しかし、あたしだけでは無理だったのかもしれない。両腕にパイプ椅子をひっかけて、焼き菓子の入った重いカゴを持つのはなかなかに大変だった。ふらふらしながら裏口から出て、なんとか店の前までたどりつく。
「天海、持ってき――……」
あ、やべ。そう思った時には遅かった。
手にした重さで傾く身体。
レンガで作られた階段に引っ掛かる足。
「ふがぁっ!!」
パイプ椅子と一緒にあたしは顔から地面に突っ込んだ。顔中が痛い。というか熱い。パイプ椅子をしっかりと抱えていたせいで手をつくこともできず、痛みは全て顔面に集中していた。
というか、クッキーの入ったカゴはどうした。あれは大切な商品だし、あたしの身体よりも護るべき大切なものだ。たしか倒れるときに前に飛んでいった気がするのだが。
「危ないだろ! 商品を雑に扱うな!」
どうやら天海がキャッチしていたらしい。眉を吊り上げ、怒りを瞳に宿した彼の手元にはしっかりとクッキー入りのカゴが抱きかかえられていた。ああ、よかった。
「……ごめんなさい」
パイプ椅子の下敷きになっている腕を抜き、恐々と顔を押さえる。酷い怪我になっていないだろうか。手で確認すると血は出ていないようで、少し安心した。今まで最初にぶつけた個所しか気にしていなかったが、気を緩めると腕や足が痛みだす。
「……おい、大丈夫か?」
いつまでも立ち上がらないあたしを心配したのか、天海がしゃがみこんでこちらを覗き込む。
「ごめん。大丈夫だから。クッキー受け取ってくれてありがとう」
きっと自分はひどい顔をしているだろう。
無理をして重い荷物を抱えて、こけてしまって、本当に情けない。かおるさんや他の従業員のみなさんが焼いたクッキーも無駄にしてしまうところだった。
「いや、次から気を付けてくれればいい。……立てるか?」
冷たい印象しか持っていなかった天海が、手を差し出す。その手を掴むべきか逡巡していると―――……
「すごい音がしたけど、どうし……ってマユミちゃん!?」
飾り付けられた扉から現れたのはかおるさんだった。青い顔をして慌ててこちらに駆け寄ってくる。
「どうしたの!? 鼻のところ少し擦りむいてるし、服も……」
「あたしの不注意のせいでこけちゃったんです。でも、問題ないですから。すみません驚かせて」
「問題ないって……とにかく手当てしましょう。あと、着替えないと」
「片付けとく。かおるさんは、こいつのことを頼む」
「ええ。任せて」
天海を残して、あたしはかおるさんと一緒に店内に戻った。歩くたびにズキズキと足が痛む。そのままスタッフルームに入るとそこには作業を終えた織枝がいた。
「……何かあったの?」
かおるさんに支えられるように部屋に入ってきたあたしを不思議に思ったらしい。
「マユミちゃん怪我しちゃったみたいで、少し場所空けてね」
「あ、はい! ……ってケガ!?」
「ああ、そんなにびっくりするほどのもんでもないから」
水道で鼻や腕、足を洗い流し、清潔なタオルでそこをふき取った。服のおかげで砂などは付着していなかったけれど、冷やしたおかげで痛みが少しましになった気がする。
「消毒しようか。マユミちゃんそこ座ってくれる?」
「あ、はい」
優しく触れてくる消毒液は傷口に苦痛をもたらす。
「っ痛」
「傷が残らないといいんだけど……開店まで時間があるし、少し休んでなさい」
あたしの手当てを終えたかおるさんがてきぱきと救急箱を片付ける。
心配してそんなことを言ってくれているんだろうけど、そこまで大したケガではないし、休憩をもらうほどではない。
「いえ、働きます。痛みもましになってきましたし、大丈夫です」
鏡で確認した鼻は、目立つほど擦りむけていなかった。これぐらいならお客さんの前に出ても大丈夫だろう。倒れるのを支えようとした足はけっこう酷いことになっていたけど。
「ほんとに? じゃあとりあえず着替えようか。制服も汚れちゃったし」
「そうですね。……ごめんなさいお店の服なのに」
「まあ、マユミちゃんの身体を護ってくれたと思えば安いものよ」
それから新しい男物の制服を用意され、あたしはスタッフルームで着替えることにした。あたしが手当てされていたときに所在なさげにうろついていた織枝は、別の仕事を頼まれもうこの部屋にはいない。
開店時間が近づき、従業員たちは慌ただしく準備に追われている。
だから、スタッフルームにはこないだろう。そんな甘いことを考えてあたしは女子更衣室で着替えなかったのだが。
薄い水色のシャツのボタンを外し下着姿になったところで、そいつは突然やってきた。
「かおるさん、い――……」
そいつの言葉が途切れる。
驚いたあたしの動きが止まる。
段ボール箱を抱えてスタッフルームに入ってきたのは、転校生の天海だった。