彼女に恋する男
英語教師にお叱りを受けたり、陽菜のバイト先で気に食わない男2人と遭遇したり、凶悪パフェと死闘を繰り広げたり、まあ色々あったけれどおおむねその日は平和だった。あたしの気分は平和とは言い切れないけど、外側から見ればなんてことない日常だったんだろう。そんなことを考えながら眠りに就いて、迎えた翌日。とんでもないことにあたしは巻き込まれていた。
陽菜と共に教室に入り、いつものように陽菜の席に行こうとしたあたしは不穏な空気に足を止める。ホームルームの10分前でクラスメイトが全員揃っていたわけではないけれど部屋にはほどほどの人数が集まっていた。その多くが女子で、ちらちらとこちらを窺う者もいれば、刺すような視線であたしを睨みつける者もいる。いや、急すぎてどういう反応をすればいいのかわからないんですけど、何ですかこれ。
「はっはろー?」
しまった。失敗した。
場を和ませようと陽気に挨拶してみたが逆効果だったようで、教室の空気はますます重くなった。
「まゆちゃん?」
あたしの後ろで、陽菜が不安そうに見上げてくる。あ、ヤバい。いまキュンってきた。朝からまた鼻血を流しそうになり、さっと手を当てたが大丈夫だったようだ。手に鉄臭い液体は付着していない。
「佐藤さん、聞きたいことがあるんだけど」
あたしに一番近い場所にいたクラスメイトA(正確に言えば出席番号12番の津川ミチルさん誕生日は8月12日)が、何故か黒板を指差した。
「あの写真どういうことなの? 森口君に告白されたって本当?」
は?
教室の出入り口からダッシュして指された場所に向かえば、マグネットで押さえられた1枚の写真に目が釘付けになった。
微笑む森口と不機嫌そうなあたしが同じテーブルで一緒にいる。これは、ケーキ屋『あまみ』での昨日の出来事だ。それがどうしてこんなところに、というか誰が撮ったんだこの写真。しかもその下にはチョークを使って可愛らしく丸文字で、2人の会話らしきものが書かれていた。
『オレは佐藤のこと好きなんだけどな』
『どれくらい好き?』
『そんなの言わなくても知ってるくせに』
『あんたの口から聞きたいんだもん♪』
『好きだよ……愛してる』
『森口、あたし嬉しい!』
「あはっははははあははははは!!!」
もう笑うしかない。なんだこの気色悪い会話は。
冗談だとしても痛々しすぎる。「もん♪」ってなんだ「もん♪」って。今時のアイドルだってこんなこと言わないんじゃないだろうか。
「佐藤さん、笑ってないで質問に答えてくれる?」
クラスメイトA(津川ミチルさん)に厳しく睨まれ、あたしは必死で笑いを堪えた。そしてできるだけ真面目な顔をつくって彼女に対峙する。やましいことなんて無いのだから、普通に答えればいいのだ。そう何も問題ない。
「写真1枚からよくこんな会話作れたよね。事実なはずないでしょ? 森口があたしに告白するなんてありえないよ」
少しバカにしたような言い方になってしまったが、この方が会話の内容は嘘だと信じてくれるだろう。以上でくだらない話はおしまい、はい解散と席に戻ろうとしたとき、世の中そんなに甘くないとあたしは知ることになる。
「で、でも、わたし昨日『あまみ』にいたけど、森口くんと仲良さそうにしてたよね? 佐藤さん」
森口とあたしのクソつまらん話をさらに引きのばしたい奴がいるようだ。
出席番号24番、元橋香乃。手芸部所属で誕生日は2月3日、とりあえずクラスメイトBと呼ぶことにする。
「クラスメイトび――じゃなかった、元橋さん。あなたほんとに『あまみ』にいたの? どこをどう見たらあたしと森口が仲良さそうに見えるの?」
目が腐ってるんじゃない? とはさすがに言えなかった。余計に教室の空気が悪くなりそうだったし。今後もこのクラスにいるのだから穏便に済ませたい。
「だ、だって森口くんずっと楽しそうに笑ってて、……嫌そうな顔はしてたけど佐藤さんは森口くんの傍を離れなかったよね?」
少し睨みつけるようなあたしの視線にビクビクしながらクラスメイトBは答える。
やめてよ、なんだかあたしがいじめてるみたいじゃないか。
「とにかく、この写真は事実なんでしょう? 告白の話は後にするとして、きっちり理由を説明してちょうだい」
クラスメイトAの高圧的な態度にキレそうになり、あたしは「落ち着けー落ち着けー」と何度も心の中で繰り返した。ここで感情のまま反論してもめんどくさいことになるだけだ。大事なのは火種に油を注ぐことではなく、消火することである。
「ええと、どれだけ森口が嫌でもあたしにはあの席を動けないわけがあってね」
あたしの陽菜に近寄る森口を妨害するためさ、とは言えない。そんなことを言っては、森口好きそして陽菜を快く思っていない連中の敵意が、あたしの最愛の彼女に向いてしまう。
だから別の言い訳を口にするしかなかった。
「実は、あの席はひ――……」
「おはよう、日浅。おはよ、佐藤。朝から何を騒いでるの?」
空気を読めえええええええええええええええ!!!!!!
どうしてお前はこんなときに登場するんだ森口いいいいい!!
「も、森口君……」
動揺しているのはあたしだけじゃなかった。恐ろしい雰囲気をまとっていたクラスメイトA、それ以外の少女たちも教室の入り口に現れた森口を驚いた表情で見つめている。
無言で教室と同化しようとしていたクラスの男子たちは森口が来たことで何故か安堵している。ちょっと待て、どう転んでも良くならないだろこれは。
「ねえ、森口くんってまゆちゃんのこと好きなの?」
ことんと首を傾げて質問する陽菜は撫でまわしたいほどの可愛さなんだけど、それはダメ。それは聞いちゃダメだから。
「え?」
いきなり問いを投げられ、森口は戸惑ったように見えたけどそれは本当に一瞬だった。
「佐藤のこと? 好きだよ。ゆ――……」
おそらく、続きはこうだろう。
『友人として』
しかし、この世のものとは思えないような女子たちの悲鳴で、それは掻き消されてしまった。いや、この世のものとは思えないというか、この世が終わるというか。とにかく森口の一言によって瞬く間に、教室は嘆きが支配する地獄へと変貌したのだ。
やばい。これはやばい。
早く誤解を解かないと、女たちに殺されてしまう。
「ちょっ、みんな、最後まで森口の話を聞こうよ!? 変な意味じゃなくてこいつは友人としてあたしのことを好きだって言ったでしょ!?」
友人として、と言われたって森口の「好き」には嫌悪の感情しか湧かない。気色悪くて耳を塞ぎたいのだが、今やらなければならないのはそんなことではなかった。
「ほら、森口も説明してよ!」
助けを求めてから、その判断は失敗だったとあたしは気づく。
「そっか、森口くんってまゆちゃんのこと好きだったんだ。普段はさ、まゆちゃんって森口くんに冷たいけど、あれって照れ隠しだと思うからわかってあげてほしいな」
「……」
陽菜と森口の温度差は、はっきりとしていた。
上機嫌の陽菜と、黙りこむ森口。空気の読めない男は、好いている少女から別の女の存在を指摘されて相当ショックを受けているらしい。
そして、トドメの一撃。
「私、2人のこと応援するから!」
ぐは!!
森口だけではなく、その言葉はあたしにも効果のある武器となった。
何故、よりによって陽菜に、男との仲を応援されねばならないのか。しかも陽菜を好きな男とあたしの仲を。
「陽菜あああああ!! 違う、違うから! 森口とあたしはそんなんじゃっ」
教室でこんなに叫んだのは初めてだ。大人しいというわけじゃないけど、あたしは必要なときしか陽菜以外の人とは喋らないし。
だから、いつもと違うあたしの必死さから勘違いだということに気付いてほしかった。
「まゆちゃ……」
「おーい、お前ら何やってんだ。朝のホームルーム始めるぞ」
担任をこんなに恨んだのは初めてだ。森口と同じぐらいこいつは空気が読めないらしい。微妙な雰囲気のまま女子たちは席につき、微妙な雰囲気のまま朝の連絡が始まってしまった。
あたしはただ陽菜と幸せな日々を送りたいだけなのに、人生ってやつは本当にうまくいかない。今回の責任は全て森口にあると思うのだが、それを責めるよりも先に解決すべきことがある。陽菜とクラスメイト女子の誤解をどう解くか、それが問題だ。
ホームルームの時間など気にすることなく、あたしは解決策を発見するために思考の海へ沈んでいった。
「うーん、困ったなあ」
それはこっちの台詞だよ、とは言わないが、森口のその一言であたしの眉間に皺が寄った。だって爽やかすぎる。本当にお前は困ってるのか。ゆるやかな風が、光によって茶色に見える森口の髪を揺らす。優しげな瞳をこちらに向けながら話しかけてくる森口は本当に爽やかだった。憎たらしいほどに。
「何なの? さわやか星からやってきたさわやか王子なの? みんなにさわやか振りまくの?」
「え、どうしたの?」
「……何でもないよ」
もうこいつが爽やかなのはしょうがない。諦めるしかない。
屋上で風を感じつつまぶたを閉じる。ああ、あったかいな。こうやってると平和な昼休みなのに。あたしは心のオアシスである彼女の顔を思い浮かべた。
昼休み、お昼御飯を一緒に食べようとしたときだ。
「ごめん、まゆちゃん! 職員室に用事があって……先に食べててくれる?」
上目づかいでそんなことを言われてしまう。待つよ、と言ったあたしに「いいの、気にしないで。ね、お願い?」と陽菜は瞳を潤ませて(いるようにあたしには見えた)お願いしてきたので、先に済ませることにした。その可愛らしさにハートを打ち抜かれた。ああ、やばい膝がガクガクしている。これ以上見つめられるとあたしはもうダメかもしれない。
鼻から赤い液体が流れ落ちても大丈夫なように手を当て、あたしは教室から離れようと歩き出した。とりあえずいつもの屋上に行こう。ゆっくり食べていれば陽菜も間に合うかもしれないし。
「あ」
そして廊下で、あたしは出会ってしまう。
「やあ、少し話しがしたいんだけどいいかな?」
「ちょうどよかった。あたしもあんたに言いたいことがあったのよ」
購買で買ったパンの入った袋を提げた森口に、あたしは怒りを無理矢理押さえこんで上を指差した。
「屋上行こうか」
「で、朝の話をしようと思ったんだけど、あんたは何でいるの?」
「僕のことは気にしないでいいよ。話なら2人でどうぞ」
のんきに紙パックのコーヒー牛乳をすするこいつの名前は柳田。クラスメイトの一人であり、一応森口の友人らしい。こいつらがどうして仲良くなったのかは未だに謎である。
「佐藤、今朝のことだけど――」
森口は柳田がいても問題ないようだ。確かに聞かれて困る話か、と問われればNOなわけだし、むしろ2人っきりじゃないことを喜ぶべきか。
「どうするのよ、あんなことになってさ。教室にいた全員にアホな勘違いされて、大迷惑なんだけど? 陽菜にもそういう目で見られたし、もうあたし生きていけない……」
「オレが変な答え方しちゃったから……ごめん」
「謝って済むとでも思ってる? 最低だよ森口。今後のあたしの高校生活どうしてくれんの?」
「それは――」
「ああ、嫌だ。あんたと喋ってるとイライラする。本当に陽菜のこと好きなの? 好きなのに教室であたしにああいうこと言っちゃうんだ?」
森口が何かを口にしようとする度にそれを遮って、あたしはぐちぐちと不満をぶつけた。そうでもしないとやっていられない。
「もうやめなよ」
怒りで沸騰しそうなあたしに冷水を浴びせたのは柳田だった。考えていることがさっぱり読めない瞳で、やつは言葉を続ける。
「今するべきなのは、クラスメイトたちの誤解をどう解くか考えることでしょう?
昼休みは限られているんだからもっと有意義に使いなよ」
反論しようがなかった。
柳田が言うことはもっともで、あたしの勢いは一瞬でどこかに吹き飛んだ。こいつはいつだって当然のことしか言わない。真っ直ぐ生きられないあたしに、それは深く突き刺さる。
ああ、だから嫌なんだよね。森口の次ぐらいにこの柳田って男が嫌いだ。
「わかってるよ……」
唸るように答えて、あたしはお弁当の玉子焼きを口に運ぶ。
そう、陽菜と一緒に心躍るような楽しい食事時間を過ごすはずだったのだ。それなのに、どうして……嫌いな男たちと昼食を共にしているのだろう。
激しい運動をしたわけでもないのに、ものすごい疲労感をあたしは感じていた。
「あのさ、好きな人がいるってみんなに告白すれば?」
少し考えて出てきたのはそれだった。
簡単に解決はしないだろうけど、あたしが女子たちの冷え切った視線から逃れられるなら試してみる価値はある。もちろんその好きな人が陽菜っていうのは伏せてもらうしかないけど。
「へえ、いいんじゃない」
柳田はどうでもいいと言いたげな顔で、あたしの意見に賛成した。そんなやる気のない返事をもらってもさっぱり嬉しくない。
「告白、か」
口の中に食べ物を入れたままのお喋りは見苦しいからやめなさいって親によく怒られけど、それでも森口は美しかった。ジャガイモが大好きで口の中いっぱいに詰め込んだ幼い頃のあたしと違って、森口は何も口内へと運んでいなかったからだとも言えるけど。
「……告白」
確かめるようにもう一度その言葉を呟いて、森口は中身のないパンの袋をくしゃりと丸めた。くるみパンの袋だった。
「オレ、告白するよ。日浅に」
「やめろおおおおおお!!!」
「え?」
「違う違う、陽菜に直接告白しなくていいから、あたしにしろ!」
自分の大声が屋上に響いてぎょっとする。
あたしこそ違う! これじゃあまるで、あたしに告白しろって命令しているみたいだ。
「……いいからよく聞いて。今から教室の前であたしたちの誤解を解く」
声のボリュームを下げたあたしに、森口と柳田が近づく。うへぇ。
でも外にいるやつらに聞かれては困るのだ。この作戦は絶対に成功させなければならない。
「まず、あたしと森口が――……」
大体の流れを説明したあと、あたしは陽菜に一通のメールを送った。
題名 ごめん!
本文
お昼食べちゃったから
先に教室戻るね!
あたし、頑張るから。
「ねえ、森口君! あの子とどうなったのか教えてよ?」
おい、お前らこっち向け、と念じながらいつもより高めの声であたしは尋ねる。
『森口君』なんて気持ち悪い呼び方なんてしたくないんだけど、これぐらい別の自分を作り上げたほうがアホな芝居がやりやすい。
「どう、って?」
森口はフツー。いつもとなんら変わりない。それが逆に腹立つんだが、この場で怒ってしまえばやることやる前に終わってしまう。ふふん我慢よ、我慢するのよあたし。
「もう、惚けちゃって! 好きな子がいるんでしょう? 偶然悩んでいるところに遭遇したあたしが、悩みを聞いてあげたじゃない!」
「ああ、そうだったね。あのときは本当に助かったよ。彼女と別の男が歩いている所を目撃して、落ち込んだオレが休憩しようと行った『あまみ』に佐藤がいると思わなかった」
「はっはっは。あたしもまさか森口君に好きな人がいて、その人についての相談をされるとは思わなかったよ。『あまみ』の巨大パフェに挑戦中だったから席から動けないし、いきなり話し始めるんだもん」
「あはは、ごめん。同じ女性の意見が知りたかったからね。本当は誰でもよかったんだけど、そこに佐藤がいたから」
本当は誰でもよかった、というのがポイントだ。
そう、佐藤真由美である必要はないのだ。ここ大事、テストに出ます。
「で、その男の正体は?」
「勘違いだったみたいなんだ。彼女のお兄さんらしい」
「なーんだ。そうなの。じゃあまだまだ森口君にもチャンスがあるんだね! やったね!」
「ありがとう、佐藤」
このアホな芝居を大勢の観客は最後まで観ていてくれたらしい。
あたしたちが教室前の廊下でしていた会話を、クラスメイトや他クラスの生徒はがっつりと身を乗り出して聞いていた。
「ど、どういうことなの……佐藤さん」
クラスメイトA(津川ミチルさん)が、動揺したような表情で、教室のドアのあたりで立っている。良い位置じゃないですか。ばっちり耳に届きましたよね?
「え、昨日ケーキ屋『あまみ』で森口君に会って、恋愛についてアドバイスしてたんだけど、それがどうかしたの?」
わざとらしい説明口調の芝居、貴女も観たでしょう。
「……あの写真はそういうことだったの?」
「はあ。そういうことですね」
「あら、……そう」
クラスメイトAの視線が優しい木漏れ日のようなものに変化する。同時に、周りにいた女子たちの雰囲気も柔らかくなった。よし、これで午後から平和に過ごせる。
あたしは自分ことだけしか考えていなかったので、『好きな子がいる』と判明した森口がたくさんの女子生徒に囲まれていても気にしないことにした。
まあ、自分でなんとかするだろう。どうせ柳田もいるし。
ずいぶんと軽い気持ちで教室の席に戻ったあたしは、残りの休み時間を寝て過ごすことにした。
陽菜に会いたい。ぎゅっと抱きしめたい。
眠気のせいでゆっくりと落ちるまぶた。視界が教室から切り離される直前、一人の少女があたしを睨んでいるのが見えた。でも、もう限界。
夢の世界へ旅立つ前に浮かんだのは、やっぱり陽菜の顔だった。