彼女と転校生2
あたしのクラスに新しくやってきた天海冬馬は、腹の立つほど綺麗な顔をしている。
美形だ。誰もが振り向く素晴らしい美形だ。その涼しげな瞳に見つめられた者が、「ああ!とろけちゃう!」と床の上に倒れそうになったり、「おやめくださいませぇ!」と廊下へ飛び出していったり、とんでもない反応をしてしまうほどの顔である。嘘ではない。何故ならこれらの光景をあたしは教室で嫌というほど見てしまったから。
はっきり言おう。
お前らバカだろ。
何が「とろけちゃう!」だよ。
人の視線によって溶けてしまったら大事件ではないか。というかありえない。
まぁ、彼女たちがそんな意味で言っているのではないとわかるけど、イラつくあたしは現実的なツッコミしか思い浮かばない。いいかげんにしろ。綺麗なものが見たいなら陽菜にしろ。いや、やっぱりやめて。見ないであたしのだから。そう思った瞬間、自嘲気味な笑みをもらしてしまう。
あたしは本当に自己中心的だ。
陽菜のためとかいうか大体が自分のためだ。そう、『陽菜が大好きな自分』のため。
今までそれで困ったことはない。しかし、彼女をこんなに大事にしていなければ、些細なことで心が乱される必要もないのに、とは思う。例えば陽菜に恋をしている男の存在とか。
「ん、どうかした? 佐藤?」
そう、例えばこいつだ。
あたしの左隣に座る森口春樹は不思議そうな表情であたしを覗きこんでいた。
近い近い近い、顔が近い。
本命の陽菜にはこういうことはしないくせに、何とも思っていない女子には無意識で優しくしたり近寄れたりするのだからこの男は恐ろしい。数日前にも、廊下で気分悪そうにしている女子をお姫様だっこして保健室に連れて行くのを見た。やらねーだろ、普通。
「森口には関係ない」
椅子ごとずずずっと後ろに下がり、森口から離れる。ああ、やだやだ。
長いまつ毛と、吸いこまれてしまいそうな茶色の瞳、端整な顔を至近距離で見てしまったことを思い出し、どきりとあたしの胸が高鳴る――わけもなく。はいはいイケメンですね、それがどうしたんですか、イケメンだからって陽菜は渡しませんよ、とさらにイライラしただけである。
「……何で離れるの?」
「いや、何となく」
あたしは手に持ったお冷を、にぎにぎしながら注文したパフェが届くのを待つ。
陽菜と森口の会話を邪魔するためにここに座っただけで、こいつとのお喋りを楽しむ気は一切ない。金払ってでもあたしと喋りたい、とかだったら別だけど。
それにしても飲み物がお冷ってちょっと空しい。
森口は優雅に紅茶なんて飲んでいるが、これはケーキを購入した者へのサービスだ。あたしが注文したのはパフェで、それも普通のパフェではない。
『あまみのチャレンジスペシャルパフェ』
これの見た目の説明はたった一言。
「デカイ」、それだけだ。
その名の通り、チャレンジ精神がある者でないと頼まないパフェである。通常のパフェの3倍の大きさで、それを1人で1時間以内に食べなければならない。時間内に食べきればタダ、食べきれなければ3680円を請求される。ちなみに途中退席は認められていない。
何故、あたしがこんなものを頼むのか、答えは簡単――お金が無いからだ。
陽菜と違ってバイトもしてないし、お小遣いだってそんなに貰えるわけじゃない。それでも陽菜に会いたいあたしが考えたのが、『あまみのチャレンジスペシャルパフェ』だった。買い物もしない客が喫茶スペースで寛ぐわけにはいかない。それならばタダで食べられるこいつを注文すればいい、となったのだが、最初の頃はかなり苦労した。
甘い物はそんなに嫌いでもないし、大丈夫だろうと思ったあたしが甘かったのだ。
生クリームだらけのプリティな外見とは裏腹に中身は大変凶悪で、あたしは1回目の挑戦で3680円を失った。あれは中々に苦い記憶だ。精神的にも金銭的にもダメージを受けた。2回目も3回目も4回目も、あたしは甘ったるいパフェに負け続け、呼び名はパフェからいつのまにか『悪魔』に変わり、もしかして普通にケーキ注文したほうが安く済むんじゃね? と考え始めた頃だ。奇跡は起きた。
そう、5回目の挑戦であたしヤツを完食したのだ。勝因は昼食を抜いたことと、学校からケーキ屋『あまみ』まで重い荷物を持って疾走したことだろうか。とにかくあたしは勝ったのだ、あのくそ甘い悪魔に。
「お待たせいたしました、『あまみのチャレンジスペシャルパフェ』でございます!」
注文の品を運んできたのは陽菜ではなく、他のバイトの女の子でもなく、この店の主である、かおるさんだった。見た目は20代前半の女性。しかし実年齢はもっと上らしい。どちらかといえば美人の部類に入る顔が、年齢の話になると、一瞬にして般若に早変わりだ。
「いらっしゃいマユミちゃん。今日もヒナちゃんのストーカー?」
「人聞きの悪いこと言わないでください。友人のバイト先に来ただけですよ」
「えーでも、ヒナちゃんがいるときは絶対店に来るよね。これストーカーじゃないなら何て言うの?」
「愛です」
あたしははっきりとその言葉を口にして、テーブルに置かれたスプーンを手に取る。パフェがやってきたのだから無駄話をしないで早く食べたい。だって溶けて液体になったアイスクリームなんて美味しくないよね。
できれば1時間そばで見守る役目は陽菜にやってほしいけど、かおるさんが運んできたとうことは彼女が見届け人か。
「きゃぁー!! 聞いた? ハルキくん! 愛だって、愛。青春ね、ドキドキするわね!」
「そうですね」
テンションの高いかおるさんに話しかけられ、森口も少し戸惑っている。ハルキって誰だ、などとちょっと考えてしまったがそういえばこいつの名前は森口春樹だ。データとしては頭にあるものの、森口に関しては弱みになりそうなネタしか興味が無い。下の名前とかどうでもいいし。
スプーンを持ったまま、かおるさんに「はやく始めてくれ」と視線で訴えてみる。だが彼女は、森口をニコニコした顔で見つめたままでこちらに気づいてくれない。かおるさんから逃れるように、森口は目線を何故かあたしに向けた。
「マユミって」
なんだ、あたしの名前がどうかしたのか?
「佐藤の下の名前って、マユミ、なの?」
は?
こいつは何を言っているんだ。
「あたしは産まれて名付けられた日からずっと、佐藤真由美だけど、それがどうかした?」
「いや、日浅がずっと『まゆちゃん』って呼んでたから」
「まさかあたしの名前が『佐藤まゆ』だと思ってたの?」
こくり、と隣に座る森口が頷く。
おいおい嘘だろ、勘弁してくれよジョニー。
はあぁ、とあたしは大きな溜め息を吐いた。いつもなら「何て奴だ!」と腹を立てていただろうけど、1年前からお世話になっている英語教師の名前すらあやふやなあたしが言えたことではない。というかそれよりもパフェが溶ける、そっちの方が重要だ。
「まぁ、あんたがあたしの下の名前を呼ぶ機会もないだろうし、どうでもいいよ。てか、かおるさんパフェ食べていいですか?」
その言葉でようやく彼女は自分の仕事を思いだしたようだ。
「ごめんね、忘れてて」と、ストップウォッチを取り出し、5、4、3、とカウントを始める。いよいよ対決のときだ。
「2、1、スタート!!」
飾られたバナナに強引にスプーンを突き刺し、自分の口へ運ぶ。
こうして、あたしの挑戦は始まった。
● ● ● ● ● ●
友人である佐藤真由美の注文を店長に伝えてから、陽菜は慌ただしく働いていた。
部活終わりの学生たちが集まり、喫茶スペースは混雑している。そこをするりと通り抜け、陽菜は受けたばかりの注文を伝えるために厨房へ向かっていた。ケーキの注文ならお皿に出して運ぶだけなので陽菜にでもできるが、パフェやワッフルなどは頼まれる度に奥の厨房で作るため、言いに行かなければならない。
丸い窓のついた扉を押し開け厨房の中へ入ると、途端に甘い香りが一層強くなる。空腹に負けそうになりながらもスタッフのいる奥へ行こうとしたときだった。
「あっ!」
陽菜の踏み出した一歩が、つるりと床を滑る。誰かがタイルに水をこぼして、その上に足をおもいっきり置いてしまったらしい、とのんきに考える暇はなく、陽菜の身体と床は急接近していた。ぎゅっと瞼を閉じ、痛みを感じる瞬間を無抵抗に待つ。
1秒、2秒、……5秒、10秒。どれほど待っただろうか。恐れているその時はなかなか来ない。不思議に思い、固く閉じた瞼をそっと持ち上げる。
「おい」
何故か、不機嫌そうな転校生と目が合った。
天海冬馬と名乗っていた彼は、上から陽菜を覗きこむような体勢でいる。しかも上下さかさまで。
「おい、いつまで倒れてんだよ」
つっけんどんな天海の言葉で、ようやく陽菜は状況を理解した。
上半身は床に届く前に支えられ、頭がタイルに直撃するような事態にはなっていなかったのだ。半分倒れかけている陽菜を助けてくれたのは、――間違いなくこの男。
慌てて立ち上がり、乱れたスカートを整える。それに続いて天海も立ち上がり、感謝を言葉にしようと陽菜は口を開いた。
「あ、ありが……」
「お前バカだろ。もうちょっと頭使って歩いたら?」
ぱきん、と何かが割れる音がした。それは現実の音ではなく、陽菜の中で何かが割れる音だった。割れたものに名を与えるとしたら『謝意』だろうか。
ぐっと文句を飲み込んで、陽菜は厨房の扉から外へと飛び出す。
どんな文句も彼に弾かれてしまう気がしたのだ。だからといって黙ったままだった自分が許せない。何か一言でも言い返せばよかったのにと、悔しさでいっぱいになって陽菜は下を向いた。
そして、ふと気付く。
「あ、まだ注文伝えてない……」
● ● ● ● ● ●
「ごー、よーん、さーん、にー、いーーち、はい終了!」
かおるさんのカウントダウンが終わると同時に、あたしは手に持ったスプーンを器に戻した。からん、という気持ちいい音がして、スプーンが器に身体を預けたまま天を仰ぐ。そう、そこにはスプーンしかない。つまり空っぽである。
「今回も頑張ったわね、マユミちゃん。でも困ったなーこのままじゃ儲からないわ」
他の商品いっぱい売れてるしいいじゃないですか、と思うが言葉にはできない。喋ろうとすれば確実に口から出てしまう気がしたからだ。パフェが。
あたしはふうーと息を吐いて、お腹をさすった。
あらかじめスカートは緩めてある。そうでなければ今感じている苦しさはこんなものではなかっただろう。
「おつかれさま、佐藤」
優雅に笑う森口の手にはティーカップの取っ手。あたしが『あまみのチャレンジスペシャルパフェ』と格闘している間も、こいつは紅茶を飲みながら時々傍を通る陽菜を眼で追っていた。ああ腹立たしい。あたしだって甘い悪魔野郎と戦闘中じゃなかったら舐めるようにずっと見ていたいのに。
森口に返事もせず、あたしはだらーっと椅子にもたれかかる。
口には甘い生クリームの味が残っていて、それを洗い流そうとお冷に手を伸ばした。ものすごく行儀の悪い格好になっているが、気にしていられない。
一気に水を飲むと胃の中でパフェとかき混ぜられ酷いことになるので、度の強い酒を飲むようにちびちびと水を口の中に流し入れていく。言っておくが、あたしは未成年であり、酒は飲んだことが無い。
「じゃあ、マユミちゃんのパフェはタダね。あとはごゆっくりどうぞ」
お盆の上に空になったガラスの器を乗せ、かおるさんは膝上のスカートをひらめかせながら去って行った。
それにしてもかおるさんは何歳なんだろう。スカート下から覗く生足は、まだ『ぴちぴち』といっても問題ない綺麗な足だ。まあ一番綺麗なのは陽菜の生足だけどね。
「それにも、佐藤がそんなに甘い物好きだなんて知らなかったよ」
こちらをちらりと見て、森口が呟く。
何を勘違いしているのか知らないが、あたしは別に甘い物が好きってわけじゃない。
「そうでもないよ。パフェは頑張ればタダになるから食べてるだけ」
「へぇ、好きなのかと思った」
こんな感じで森口と中身の無い会話をしばらく続けた。最初の頃は無駄話をする気はなかったのだけれど、あまりの息苦しさに話すことで腹部の圧迫感を紛らわせるかもしれないと考えたのだ。
だが、それは余計にあたしを苛立たせるだけだった。
「どうしてオレは佐藤に嫌われてるのかな?」
森口が突然変なことを言いだした。そんなこと言わなくても分かるだろお前。
「嫌いだから」
簡潔に答えれば、隣に座る優男の顔が引きつる。
良い顔だ。何だかすっきりした気分になるからずっとそのままの表情でいればいいのに。
そんなことを考えていると、森口はいつのまにか真顔に戻っていた。
「オレは佐藤のこと好きなんだけどな」
がたんっ
あたしは椅子から立ち上がり、森口からできるだけ離れる。といっても、あたしたちの居る場所は窓際のテーブルで、後ろは壁だからあまり意味はなかったんだけどね。
ああやだやだ、これだから森口って男は本命以外にも好かれまくるのだ。あたしは嫌な気分にしかならなかったけど。
陽菜と森口の会話を邪魔するためとはいえ何故この席に座ってしまったのか、あたしは今になって後悔した。
「何で離れるの?」
「さっきも言ったけど、何となく」
あたしは椅子を元に戻しながら、とんでもないことを言いだした森口を見つめる。
そんな言葉をするっと本命にも言えたなら、陽菜とこいつの関係はもっと違うものになっていたのかもしれない。
「あたしのことが好きって……友人として?」
この問いに、森口は当然だと頷く。
「陽菜は?」
「え?」
「陽菜のことは、どう思ってるの?」
その質問をした瞬間、森口の時間が止まった気がした。
いや、動かなくなっただけなんだけど、驚いた顔のまま何も言わない。少しして、話し出した森口の頬はほんのり赤くなっていた。
「佐藤はオレの気持ち知ってるんでしょ?」
「でも、あんたの口から聞きたい」
はっきり本人から聞いたことは一度もない。
陽菜と接する態度を見ていて、勝手にそう思っていただけだ。
だけど、あたしが森口からそれを聞いてどうなるのか。別に応援してやれるわけじゃないし、改めて敵だと認識して終わりになってしまうだろう。そう、本当にこれは意味のない質問だ。陽菜を抜きにした、あたしには関係ないはずの話。
それでも聞いてしまったのは、満腹を超えてしまったあたしの気分の悪さを紛らわすため。
「好きだよ。……すごく好きだ」
結果、あたしの気分はさらに悪くなった。
何だこいつ。今自分がどんな顔してるかわかってる?
大切な者を慈しむとんでもなく柔らかい表情。幸せに浸るそんな森口に、一瞬でも負けるかもしれないと感じてしまったあたし。いやいやいや、やらねーよ。陽菜は絶対に渡さねーよ。森口に負ける、つまり陽菜が奪われるイメージをちょっとでも浮かべてしまったあたしを殴りたい。違う違う、こんなつもりじゃなかったのに。
「う、うぇ」
吐き気を抑えるために、あたしは手を口元に当てて森口から視線をそらす。目元には涙が滲み、それを悟られまいと慌てて上を向いた。
「佐藤!」
心配げに森口はあたしの背中をさする。やめてさわらないで、とは言えず大人しくしていると少しだけ苦しさは和らいだ。
「森口、もういいから。大丈夫」
「本当に?あまり無理はしないようにね」
あたしから手を離した後も、不安げに森口はこちらを窺っている。きっとこいつはパフェを食べすぎたせいであたしが吐きそうになったと想像したのだろうけど、それは半分正解で半分不正解だ。
食べすぎと森口の真っ直ぐな思い。
この2つのせいで、あたしは肉体、精神にダメージを受けてしまった。気分は最悪だ。それらをどうにかするために、身体は何かを吐きだそうとしたのかもしれない。
あーあ、こんなこと聞くんじゃなかった、と思いつつも、森口にははっきり言っておくことにする。
「ねぇ、森口」
「ん?」
「あたしはあんたの恋の応援なんてしないし、それよりも邪魔するし、正直陽菜には指一本触れてほしくないと思ってる」
「うん」
予想通りというか、森口はあたしの発言の後も穏やかな顔のままだった。余裕っぽいところがとてもムカつきます。
「陽菜の隣にあんたは相応しくないし、何よりあたしが嫌だし、あんたじゃなくても誰にも渡したくない」
「うん」
「つまり、そういうことだから。じゃあね」
あー、すっきりした。
財布とか携帯電話ぐらいしか入っていない鞄を持って、あたしは席を立った。まだ重く感じるお腹を労わりつつ、ゆっくりと出口に向かう。だが、外に出ようとしてあたしは一番大事なことを思い出した。
「あー!!」
急いで戻ってきたあたしを見て森口は驚く。
「どうかしたの、忘れ物?」
そう、一番大事なものを忘れるところだったのだ。
「バイト終わりの陽菜と一緒に帰るんだよ。あんたが送り狼になっても困るしね」
そう、森口と決着つけるためにこの場にいたんじゃない。あたしは陽菜を中心にして動いているのだから。あたしの言葉に森口は困ったように笑って、また紅茶を飲んでいた。何杯飲むんだこいつ。
夜でも爽やかなままの森口と、同じ席で同じ人を待ちながら、あたしは窓の外へ視線をやる。ああ、早く陽菜に会いたいな、このささくれ立ったあたしの心を癒してほしい。
そんなことしか考えていなかったあたしが、女の子の視線やシャッター音に気がつくはずもなく。こうして今日も一日が終わった。どんな明日がやってくるのか、今のあたしはまだ知らない。