一ノ瀬一孝⑥
施設で育った風習から、朝は早くに目が覚める。
怪獣たちが大騒ぎをはじめることはもうないけれど、自然とそうゆう風になってしまった。
このあいだは夜更かしをして寝坊をしてしまったが、朝早く起きて、シャキッと気持ちを切り替えて勉強する。それが俺には合っている。
俺は朝食にジャムをたっぷり塗ったトーストを焼いた。糖分は勉強の強い味方だ。
部屋で勉強をはじめると、ほどなくしていぶきがやってきた。
「はい」
いぶきは夏だというのに毎朝、湯気の立ったコーヒーを持ってきてくれる。いまはあの器具を使うのが楽しくて仕方がないらしい。
「ありがとう、目が覚める」
俺はさっそくカップに口を付けて彼女に礼をいう。苦いコーヒーが、口の中に残ったジャムの甘ったるさを一気に押し流し、気持ちが引き締まる。
「おかわりほしかったら言ってね」
そう言って、いぶきはおぼんを抱えて、部屋から出て行った。
俺はそれを確認してからヘッドフォンを付けなおし、再び参考書の文字列に意識を集中させた。
午前11時。スマホのアラームの振動が、時間を知らせた。
俺は手早く着替えて、自転車に飛び乗った。
施設までは自転車で20分ほどかかった。
昼食は施設と子どもたちと取った。食事の時間はなにかと事件が起きやすいタイミングだ、人手は多いほうがいい。
あとは子どもたちと遊んだり、夏休みの宿題を見てやったりする。
みのりとはまだ、まともに口をきいていない。施設内での連絡事項、本当に最低限のことだけだ。
俺と違い、みのりは朝から来ている。
俺が朝、英文の和約をしているあいだも、彼女はずっとここで子どもたちの世話をしている。
そのことについての負い目は、正直なところずっとある。
だが、みのりは、俺がこれ以上働くことを許さないだろう。いまもギリギリのところで口を閉ざしている。
夕方になると、身も心もくたくたになる。子どもたちのパワーはすごい。これを日々こなしている職員の皆さんを、改めて心から尊敬する。
俺は再び自転車にまたがり、駅前の塾まで走った。
なまぬるい夏の風が、心地よく頬を撫でる。くたくたなので立ち漕ぎはできない。大袈裟かもしれないが、俺は生を実感した。俺はまだ施設の子どもたちとなにも変わらない。高級なお菓子のように包装紙に包まれて、丁寧に生かされている。
それはみのりだってそうだ。なにも変わらない。子どもが背伸びでお手伝いをしようとして失敗するときのように、気持ちばかりで決定的になにかを間違えている。
俺はみのりだけにボランティアをさせている自分を許せなかったし、みのりは俺がボランティアをするようになったことが許せない。
話はどこまで行っても平行線だろう。
いまはそれでいい。俺はここにラインを引いた。あとはみのりがどこにラインを置くかだ。
夜間講習を終えると、もうこれでもかというくらい疲労が襲ってくる。
俺はみどりが作りおいてくれた夕食を、呆然と胃の中に詰めていき、食べ終わると、朝に備えてとっとと寝てしまった。
「あなた無理してるんじゃないかしら」
その日の帰り、俺は園長室に招かれた。園長先生は言った。
「あなたお手伝いの後に塾へ行っているんでしょう?」
こうゆうことがいづれくるだろうと予想していたので、俺は冷静だった。
「葉月みのりから聞いたんですね」
俺は言った。
「学校から塾へ行くのとなんらかわりないですよ。みんなやってることです」
「そうはいってもここのお手伝いは大変でしょう。それにあなたならこの時間も勉強したいんではなくて?」
彼女は続けた。
「せっかく落ち着いて勉強できる環境に行けたのですから、それを活かさないと」
反論の余地はなかった。意思も。俺だってそう思うからだ。
「俺はクビですか?」
我ながら嫌な言い方だな、と思った。
「まあそんなこと」院長先生は首を横に振った。「あなたが来てくれてからずいぶん助かっています。でも学業に支障が出るといけませんので、日数を減らすとか、塾が休みの日だけにするとか、いくらでもやりようはありますよ」
「どのみちいままで通りではいかないということですね」
「ええ」
「わかりました」
俺は一礼ののち園長室を後にした。
その足で渡り廊下を歩いていると、ブランコに座るみのりの姿が見えた。『内緒話のブランコ』だ。
俺はみのりの隣に座った。
「苦情があるなら聞こうと思って」
みのりは悪びれる様子もなく言った。
きれいな夕焼け空の半分を、大きな入道雲が覆っていた。給食室から夕飯のにおいが風に運ばれてやってきて、俺たちを包んだ。みのりの髪がシャンプーのCMのようにさらさらと揺れ、たまに光を反射するとちかちかした。
俺は言った。
「ないよ、なんにも。言わなくったってお互いわかってるだろ。本当の兄弟ぐらい一緒にいるんだから」
「まあそうだね」
みのりは言った。
「じゃあ、たわいのない話をしよう」
「たわいないって、どんな?」
「好きな子できた? とか?」
「いないよ。見てればわかるだろ」
「うん、輝美さんがね、男が混ざって大丈夫かって心配してたのに、いまは逆の意味で心配だって」
みのりは笑った。
「春美ちゃんは年離れてるし、みどりちゃんはかたぶつだし、いぶきちゃんは一孝にはもったいないし。じゃあ恋をしたのはマコちゃんが最後か」
「そうだよ」
マコちゃんというのは俺たちが中三のときに卒園した四つ年上の女性だ。彼女は明るく、時々ヒステリックな面もあったが、俺のあこがれだった。
「そっちは?」
俺はみのりにたずねた。
「あったら毎日ボランティアなんてしないって」
みのりは言った。
「夏は思いっきり遊ぼうと思ってたのに、どうしてこうなっちゃったんだろうね」
「同じだろ」俺は言った。「輝美さんに引き取られなかったら、結局、同じ毎日だ」
「私たち恵まれてるね」
「親がいないのにか?」
みのりは
「うん」
と答えた。
「ならいい」
俺はブランコを降りた。
「一孝」
みのりは俺を呼び止めた。
「ゲーム楽しかったね、またやろう」




