一ノ瀬一孝④
[受験戦争は一年時から始まっています!」
講師の激に俺は、これこれ、と大きくうなずいた。
夏期講習はほぼ毎日あった。俺は午後の部を選択し、昼から夜まで、塾で勉強をして過ごした。
朝から晩までみっちりの塾もあったが、金銭的な理由で断念せざるを得なかった。
塾は駅前で、目と鼻の距離にあった。そのため授業が終わって帰っても、みどりの作る出来立ての夕食にありつけた。
夕食後は、騒々しさが心地の良いダイニングで、ひたすら自分と学問の世界に籠った。耳と頭を攻めてくる騒がしさが、集中力によって徐々にフェードアウトしていき、無音に近い感覚になる瞬間が好きだ。
どんなうるさい場所でも勉強ができる。これは俺の育ちから得た特技だ。むしろ静かだと逆に集中出来なくなるのが玉にきずだが、ここは静かすぎず、施設よりもうるさくないのでちょうどいい。
あれ以来、いぶきが例のひょうたんで、毎日のようにコーヒーを淹れてくれる。深いとか、濃厚なとか、香ばしいとか、俺のつたない語彙では表現できないが、彼女の淹れるコーヒーはとてもおいしく、つかの間の疲労を吹き飛ばしてくれる。
俺は時々、いぶきやみどりの宿題を手伝いながら(みのりは大丈夫なのか?)、この夏と戦った。
しかし、困難というものは、思いもしないところからやってきて、それまでの世界を破壊する。
はじまりは輝美さんが日帰りで実家に帰ったことだった。
きっちり夕飯前に帰ってきた彼女は「古い奴だけど遊ぶか?」と言って、俺たちに大きな紙袋を差し出した。
中身は……なんてことだろう、数世代前のレトロゲームだった。ご丁寧にコントローラーも四つ付属している。
施設育ちの俺にとって、テレビゲームは垂涎の代物だった。施設では取り合いになるので置いておらず、友達の家でのみ触れられるそれは、俺にとってなににも代えがたい宝石のような、魅力の塊だった。
現在、輝美亭に設置されている最新型のテレビゲーム機にはそそられるものはなかった。輝美さんやみのりが難しそうなゲームをしているさまは、どこかシビアで俺の持つテレビゲーム像とはかけ離れていた。
だが、俺たちの親世代であろう、そのレトロゲーム機は違った。古いながらも友達の家で何度も遊んだ、パーティーゲームや、協力ゲームの多いその機種は、世代を超えて俺の心を掴んで離さなかった。
「一孝、協力プレイしようぜ」
そんな俺の郷愁を見透かしたかのように、みのりは俺を誘った。
「ちょっとだけな」
俺は抗えず、参考書を閉じて、ソファーに座った。
二人プレイ可能なそのアクションゲームは、涙が出るほど面白かった。
輝美さんはビール片手に俺たちのプレイを眺め、失敗するとケラケラと笑った。
いぶきも楽しそうに見ていた。何度か「交代しようか?」と提案したが「見てるからいい」と俺の手からコントローラーを奪い取ってはくれなかった。
気が付くと夜中だった。
俺は慌てて参考書を開いた。しかし、ゲームの残響がいつまでも頭にこびりついて離れず、ぜんぜん集中できなかった。
どれだけ周囲が騒がしくても、俺は自分だけは静かな気持ちで勉強ができた。しかし、自分の頭の中から響く騒音に、俺は無力だった。
俺は誰かに騒いでほしかった。
春美のミシンでも、みどりのギターでも、みのりの長電話でもいい。
せっかくお金を捻出して夏期講習に行っているのに、これではプラマイゼロだ。
「受験戦争は一年時から始まっている」
俺は念仏のようにその言葉をつぶやき、鈍い頭でペンを走らせた。
ひどい悪夢を見たようだ。
翌朝、飛び起きると時刻は11時を回っていた。夏休みなので遅刻にはならないが、俺は遅くとも九時には夏期講習の予習を開始する予定だった。
俺は泣きそうになりながらシャワーを浴びて、学校の制服に着替えると、みどりの作った昼食を食べた。
「一孝ぁー」
悪魔が俺を呼んでいる。
「一孝ぁー」
どうして俺なんだ。それについてみのりに問い詰めたかった。春美もみどりもいるじゃないか。どうして輝美さんといぶきは自分ではやろうとしないんだ。
「わかった。ゲームは一日一時間でいこう」
みのりは提案した。
「夏休みだし、そのくらいの時間はあるでしょ?」
気付けば夜もふけていた。
あと三十分だけ、と何度カウントしたことか。
あの機械は、人の学力を吸い尽くす、吸血鬼だ。
たとえ腕を骨折していても、隣で工事をしていても、暑い日も、寒い日も、俺は勉強するだろう。
だが、快楽にだけは、逆らえない。
抗えなかった。
ダイニングなんかで勉強しているから誘われるのだ。
俺はそんな簡単なことに気付いて、自室で勉強していた。静かだと落ち着かない性分は、スマホの音楽でカバーした。
それでもときおり、リビングから聞こえてくるはしゃぎ声に、心を攫われそうになる。
スマホのスピーカーの、か細い音量では対抗できない。
いてもたってもいられず、俺は向かいの部屋をノックしていた。
「なに?」
とみどりが怪訝な顔で出てきた。
「よかったら俺の部屋でギターを弾いてくれない?」
「……なに言ってるの?」
みどりは完全に不審者を見る目だった。
俺は言った。
「ちょっと下がうるさいからさ、音楽でも聴きたいと思って」
「よくわかんないけど、スマホで聴けば?」
「スマホだと音が小さいんだよ」
俺の悲痛な訴えに、みどりは無言で部屋に戻り、ヘッドフォンを持って戻ってきた。
「貸したげる。これならうるさいしうるさくないでしょ?」
自分でもなにを言っているのかよくわからない、といった様子でみどりは言った。
「ありがとう」
言うや否や、ばたん、とドアを閉められた。
ヘッドフォンをいったん部屋に置いて、俺は次いで春美の部屋をノックした。
気兼ねなくミシンを使ってほしいと言うためだった。彼女がミシンを使っているときの振動は、不規則で心地がいい。
「なーにー?」
と出てきた春美は下着姿だった。
「おう、お前か」
春美は言いながら、ぜんぜん体を隠したりなんかしなかった。
俺は思春期なのでしょうがなく、彼女の体を、足の先から頭のてっぺんまで見てやった。細いだけのみのりと違って、出ているところは出ている。いかにも女性らしいと言ったスタイルだ。
「いや、あの、隠して」
「うーん、恥ずかしいけど隠したら負けかと思って」
なんの勝負だよ。俺の負けでいいから隠してくれ。
「ま、こんな恰好で出てきた私が悪いか」
それは本当にそうだと思う。
「なんでそんな恰好?」
俺は顔を背けて彼女にたずねた。
春美は言った。
「採寸してたの。で、なんか用事?」
「いや、もう大丈夫」
そう言って俺は逃げるように部屋の前から退散した。
「なにそれー? お金取るよー」
春美のそんな声が後ろから聞こえた。
部屋に戻ると、俺はさっそくみどりのヘッドフォンを付けて勉強した。
音が漏れるほど爆音にしたヘッドフォンは、瞬時に頭をいっぱいにしてくれた。
しかし、それ以上に、春美の下着姿が脳裏に焼き付いていた。
女の子の裸なら施設で見慣れていたつもりだが、これは、なんというか、こう、違う。
煩悩と格闘しながら、参考書にかじりついていると、部屋のドアが開くのが見えた。
ヘッドフォンを外すと、おぼんを持ったいぶきが、こちらの様子をうかがっていた。
「ヘッドフォンしてたんだ。ノックしても反応ないから」
いぶきは言った。
「コーヒー淹れたよ」
「ありがとう」
春美のおかげで眠気の心配はないが、集中力の向上には役立つだろう。俺は感謝してカップを受け取った。
「今日はゲームしないの?」小首をかしげていぶきは言った。
忘れかけていたのに思い出させないでくれ。
「しない。勉強したいんだ」
俺は心の底から言った。俺は勉強がしたい。だが頭は勝手に。今度はいぶきの下着姿を想像してしまっている。
彼女は「ふーん」と言って「コップ自分で洗ってね」と部屋を出て行った。
俺はヘッドフォンを付けなおし、爆音のオルタナティブ・ロックで、ノイズたちから頭を守った。
朝、俺は自転車で近場のリサイクルショップへ走った。
そこでなけなしの小遣いから、中古のヘッドフォンを買った。大きなイヤーパッドのついたそれは、何物の侵入も許さない城壁のように思えた。




