一ノ瀬一孝③
学期末テストは、なんと学年三位と、好成績だった。
入学できるかもギリギリだったので、この急成長に俺は浮かれていた。すべては現在の環境のおかげだ。
輝美さんにテストの順位表を提出する際、俺は彼女に心からの感謝を伝えた。
このまま夏休みも追い込んで、今度は三位とは言わず、一位を狙いたい。
かといって、勉強ばかりしているわけにはいかないのはどこも同じで、俺は休日の午後、一階の喫茶店にバイトに入っていた。夏期講習の授業料を、輝美さんに前借りしていたからだった。その分を、稼がねばならなかった。
といっても、コーヒーを淹れたり調理をするのは輝美さんだし、俺の仕事は給仕や掃除に限られていた。加えていぶきがお手伝いをしている日も多く、彼女はなにもかも自分でやりたがるので、はっきり言って暇だった。これでお給金をいただいていいのかと不安になる。
しかし、夏期講習のためだ。細かいことは言っていられない。夏は受験の天王山。受験戦争は一年時からはじまっている。
それは夏休み前の、最後の土曜日だった。
夕方になり客足も途絶えたので、俺はモップを取り出し、床掃除に取り掛かろうとしていた。
そのとき、誰かが後ろから、俺の袖を引っ張った。
いぶきだった。
中学二年生には見えない、大人びたその少女は、まっすぐ俺の目を見て
「明日ひま?」
と言った。
暇と言えば暇だが、暇でないと言えば、暇ではない。明日も短時間だがこの暇なバイトに入る予定だし、残りの時間の大半は勉強に費やすつもりだった。
「良かったらお買い物に付き合ってほしいのだけれど」
「買い物? それくらいなら」
俺は快諾した。もうすぐ夏休みだ。勉強する時間はたっぷりある。それに住人に奉仕するのも住人の勤めだろう。
「本当に? よかった」
花が咲いたようなという比喩があるが、本当にいぶきのまわりに花が咲いたのかと思った。彼女は嬉しそうに言った。
「あのね、輝美さんがね、一人じゃだめって許してくれなくて」
雲行きが変わってきた。
「え、なんか遠くまで行く感じ?」
「うん、名古屋まで」といぶき。「あのねコーヒーサイフォンが欲しいの。通販でも買えるけど、高い買い物だし自分の目で見て決めたくて」
思っていたより一日仕事になりそうだった。
「他のみんなは?」
俺はいぶきにたずねた。
「えーとね」いぶきはつらつらと言った。「春美ちゃんはアルバイトで、みのりちゃんはお友達と約束、みどりちゃんは部活だって」
カウンターから輝美さんが
「バイト休んでいいぞ」
と言った。
翌日、俺は春美が専門学校の課題で作ったというワイシャツを着て、快速急行に揺られていた。
電車は混んでいて、俺もいぶきも、つり革を握っていた。
今日のいぶきは白いブラウスに、白いパンツルックで、いつにもまして大人びた印象を受けた。子供の冷やかしだと、思われたくないから。だそうだ。
いぶきはこれまで見たことものないほどご機嫌で、今日の服装に反して年相応の女の子に見えた。
途中、地下鉄の乗り換えで手間取ったりしながら、目的の商店街についた。所要時間は一時間といったところだ。
休日の商店街は、景気よく行き交う人でごった返しており、そのやかましさは施設での生活を彷彿とさせた。
いぶきはちっとも目的の店とやらに行かなかった。
タイ焼きを買い食いしたり、ウインドウショッピングを楽しんだり、ゲームセンターに入ったりした。
目の前で、無邪気な少女と、大人びた女子が、行ったり来たりして、目が回るようだった。いぶきは表情をころころと変えながら休日を満喫した。
ようやくレトロな雰囲気漂うその店に入ると、いぶきは真剣な面持ちで、商品を吟味した。
俺が口を挟む余地はなさそうなので、適当に店内をぶらついて時間をつぶした。
「ね、これにする」
すっかり店内の散策に飽きてきたころ、いぶきが指さしたのは、どうやって使用するのか見当もつかない、ガラス製のひょうたんのような器具だった。
値段を見てびっくりした。
「高くない?」
俺が思わず口を出すと
「長く使うものだし、このためにお金も貯めてきたから大丈夫」
といぶきは息まいた。ちなみに今日の電車賃も彼女持ちだ。
いぶきには俺たちと違って父親がいる。そのため彼女の財政状況は、同居人の誰よりも豊かだ。父と別居している理由は知らないが、俺が首を突っ込むことではないだろう。
代わりに持とうか、という俺の提案を突っぱねて、いぶきは嬉しそうにひょうたんの入った紙袋を抱いて歩いた。
「一孝はなにか買わなくていいの?」
紙袋にあごをうずめながら、いぶきは上目遣いで、俺にたずねた。
「欲しいもの、ない?」
参考書、筆記用具、そして学力。
「俺の欲しいものはみんな地元で買えるからなあ」
「ふーん」といぶきはつまらなそうな顔をした。「今日一日、保護者してくれたお礼がしたいんですけど?」
「別にいいよ。俺も今日みたいに誘われないと外でないから、息抜きになったし」
「ふー」といぶきはわかりやすくため息をついた。
「じゃあこれで淹れたコーヒー、一番に飲ませてあげる。それでいい?」
「いただきます」
帰りの電車は、多少の空きがあったので、荷物のあるいぶきだけ座った。大事なものを抱きしめ座る姿は、お葬式で遺骨を抱える人に似ていた。
たまにはこんな日があってもいいか。
帰ったら今日は現代文に取り組もう。疲れて会話のなくなった車内でそう思った。




