一ノ瀬一孝①
一章から読むのをおすすめします
俺はいま危機的状況にいる。
女所帯で生きる俺は、いつもみんなの洗濯が終わってから、夜な夜な自分の洗濯するのが日課だった。
一人分の洗濯物を抱え、階段を降り、脱衣所の洗濯乾燥機を開く。女子の多い家だ、不潔は許されない。俺はいつも彼女たちを尊重し、気遣って生きていた。
ところがだ、数の優位性からなのか、女性陣の俺に対する意識の低さを日々感じる。
薄着で歩き回ったり、デリケートな会話をしたり、まるで俺の目など気にしないのだ。
男尊女卑の世の中が嘘のように、ここでは男は弱い生き物だ。
施設にいたころは男女は玉石混合で、そこに優劣など存在しなかった。みな等しく親のない子供だった。
中にはその狭い世界で恋愛をしている者もいたし、俺も年上のお姉さんに淡い恋心を抱いたりしたこともあったが、基本的には異性など意識せずに生活していた。
だがここでは意識せざるを得ない。
ここに居るのは中二の女子が一人と、同級生の女子が二人、四つ年上のお姉さん、加えて妙齢の女性が一人。
そして俺だ。
長らく単身赴任をしている、輝美さんの旦那さんが帰ってこれば、なにかが少しは変わるだろうか。
彼女たちは俺のことを顔に出ないタイプだと口々に言うが、俺の内心はささいなこと簡単に崩れ去る。
たとえばいま、女性の胸を包む用途の一枚の下着を前に、俺は自分の洗濯が出来ないでいる。
はっきりと言おう、そのブラジャーは誰のものかは不明だが、ドラム式の洗濯乾燥機の中で、静かに鎮座している。
俺にどうしろというのか? 神でも悪魔でもいいから教えてほしい。
手に取って脱衣かごに放り込むか? 事情はどうあれ女性の下着に触れていいものなのか? 俺たちは同居している他人か? それとも家族か? 家族であったとして触れていいものなのか?
思考実験の難題に取り組んでいると、誰かが階段を降りてくる音が聞こえた。
まずい、と思ったその刹那、いやむしろ助かったのかもしれないと、偏差値の高い俺の頭は考えた。
なんてことはない。足音の主に下着をどけてもらえばいいのだ。そして、脱衣かごにでも投げ込んでもらえばいい。
俺は自身の明晰さを褒め称えかけたが、重大な懸念事項に気付いた。
もし『この足音の主が、ブラジャーの持ち主だったら』命題である。
その場合、きっと彼女は顔を赤らめブラジャーを手にして走り去るか、俺を軽蔑の目で見据えて下着を持ち去るかするだろう。(せめて前者であってほしい)
確率は五分の一。
もう考えている時間はない。俺は足音の君がその姿を現すのを待った。
春美。春美がいい。一番笑って許してくれそうだ。ところで俺は、なにも許されなければならないことなど、してはいないのだが。
階段を降りてきたのは、みどりだった。この初夏から我が家に加わった料理番だ。彼女は目つきこそ鋭いが、比較的温厚なタイプだった。
みどりは開きっぱなしの脱衣所の引き戸から、こちらの様子をちらりと見ると、さして気にした風でもなく通り過ぎようとした。
俺はその一瞬、彼女の胸を見た。
パジャマ越しに伺える、豊かではないが確かな膨らみ。
もちろん俺に、ブラジャーのサイズからそれが誰のものかを言い当てる審美眼などない。あったらあったで問題だ。
呼び止めるか、否か。俺は決断を迫られた。
「なあ、みどり」
つとめてさりげなく、俺は言った。
もう誰も二階から降りてこない可能性もある。ならばこの偶然に賭けるべきなのではと思ったのだ。
「なに?」
みどりは足を止めた。
「実はこれを取ってほしくて」
うだうだしても仕方がない。俺は洗濯乾燥機の中のブラジャーを指さした。
「んー? 誰のだろ?」
そう言ってみどりは、こともなげにブラジャーを手に取り、脱衣かごに放り込んだ。
賭けに勝ったのだ。
「ありがとう」
心からの謝辞を彼女に伝えると、彼女は少しあきれた様子で
「もう少し焦ったりとかしたら?」
と鼻で笑ってキッチンのほうへ歩いて行った。
育った環境のせいだろうか、やはり俺は顔に出ない性質らしい。




