石田みどり⑪
六月も終わろうとしていた。強敵だった期末テストとの戦いをくぐり抜け、夏休みが迫っていた。
昼休み、私はアイスの自販機を目指していた。隣にいるのは、テスト期間中彼氏と図書館にこもっていた裏切り者だ。
夏の生い茂った木々の作る影を渡るように、中庭を通り過ぎようとすると、エレキギターの音色が聞こえた。
アンプを介していないそれは、夏の虫たちの音色にかき消されそうになりながら、それでも確かに響いていた。
私はとっさに瑠依の影に隠れた。
「行かないなら辞めたら?」
瑠依はあきれて言った。
私はベンチの前でギターをかき鳴らす少女の姿を、そっとみつめた。きっと汗だくだろう。
私が軽音部に入ることを誰よりも喜んだ父の顔が浮かぶ。
「行くよ。そのうち」
「ダラダラしてると余計に気まずくなるよ」
暑さでイライラしているのか、瑠依の言葉は冷たい。だが、さぼっている期間が長ければ長いほど、行きにくくなるのも事実だ。
「ほら、これ。あんた出るんじゃなかったっけ?」
瑠依は玄関口の掲示板に貼ってあった、学内ライブのチラシを指さした。
「どうだろ。もうクビになってるかも」
「だとしたら連絡ぐらい来るでしょ」
「どうだろ」
「頭下げて来なよ。私も見に行きたいしさ」
「彼氏と一緒に?」
「うるせえよ」
瑠依は言った。
「とにかく出る出ない別にしてちゃんと顔出したら? 気まずいのはわかるけどさ」
「そのうちね」
だが、その「そのうち」は意外と早くにやってきた。
放課後、私は教室でクラスメートたちと少々雑談したのち、校舎を出た。
彼女たちとは先週、テスト勉強に声をかけてもらってからの付き合いだ。
かわいそうで浮いた私を、彼女たちはファミリーレストランのフライドポテトで歓迎した。
瑠依がカップル活動で忙しかったこともあり、私はとてもうれしかった。
『喫茶店』と題されたグループLINEに『今日は遅くなるので夕食はお任せします。ごめんなさい』と打ち込むと、たったそれだけのことなのに、私はいまとても高校生をしているんだわ、という気持ちになった。
駐輪場から自転車をひいて、校内を歩いていると、様々な部活動の喧騒がそこかしこから鼓膜を揺らした。
暑いのによくやるなあ。
野球部の練習を横目に、校門に差し掛かると、LINEの通知が鳴った。
見る前から送り主がわかった気がして、帰宅の晴れやかさは一転ナイーブになった。
しぶしぶスカートのポケットからスマホを取り出し、ホーム画面に目をやる。
その瞬間、文字通り、目の前が真っ白になった。
『先輩が勝手にギターを弾いてるよ』
しばらく立ち尽くしたのち、アプリを開くと、ご丁寧に画像も添付されていた。
私は自転車ごと素早く踵を返し、気が付くともう部室棟の前にいた。
私はそこらへんに自転車を倒すと、部室に駆け込んだ。
そこにはタレコミ通り、私のギターを構えた男子生徒の姿があった。彼は乱暴に開かれたドアの音に驚いて、なにがなんだかわからないといった様子だった。
私は叫んだ。
「私のギターです! わからないんですか!」
無理やり彼からギターを引きはがし、転がっていたケースに収納すると、私はさっさと部室を後にした。
部室棟のわきで、私はギターケースを抱きしめ、天を仰いだ。
これは私が悪い。ずっと放っておいた私が悪い。
「ごめんなさいごめんなさい」
すさまじい後悔の念に押しつぶされながら、私は一人、その言葉をつぶやき続けた。
春美はいつものことだが、みのりもアルバイト、加えて今日は輝美さんも用事でいないので、夕食は私を含めて三人だった。
人数も少ないので簡単に済ますことにした。
乾燥エビのチャーハン。父の得意料理のひとつだ。
具材は卵とネギとベーコン、それから乾燥した小エビをすり鉢で粉々にし、シンプルな味付けで仕上げるのが父流だ。
小さなエビにすりこぎ棒を押し付けると、私の小さなメランコリックも、一緒にすりつぶされていく気がした。
汗だくで中華鍋を振るう私を、一孝が勉強の手を止め、感心した様子で眺めていた。
お玉で丸く形を整えて、皿に盛りつける。おともにインスタントの中華スープを添える。
「はい、できました」
号令を出すと、一孝がチャーハンとスープをテーブルに運んだ。
その夜、部屋で爪を切っていると、下からチーンと電子レンジの音がした。遅く帰ってきた春美が、残ったチャーハンを温めたのだろう。
私はさして気に止めることもなく、後で皿を洗おうかと考えていた。
しばらくして、騒々しく階段を駆け上がる音が、振動とともに聞こえた。足音は私の部屋を通り過ぎ、間もなくどこかのドアの開く音が聞こえた。
それから一分もたってなかったと思う。
突然ノックもなしに、私の部屋のドアが開いた。
「ちょっと顔貸してよ」
春美だった。
いぶきの陶磁のような白い首筋。パジャマの隙間からのぞくそれは、いまは痛々しく真っ赤に変色していた。
「エビだめだったよね」
春美はいたわる手つきで、その肌を撫でた。
いぶきは小さくうなずいた。
「最初は気付かなくて、でもこのくらいなら大丈夫だと思って」
このくらいなんかじゃない。私は自戒した。大量のエビは、ほとんど粉になるまですりつぶしてあった。母親が人参をミキサーにかけて子供をだまし打つように。
「気付いたらそのとき言う。結局全部食べちゃったんでしょ?」
いぶきは申し訳なさそうにうなずいた。
私は口が開けなかった。何か言わなくてはと焦りながら、二人の世界に割って入れなかった。
「ごめんね、みどりちゃん。気にしちゃだめだよ」
いぶきが言った。
私は気が付くと彼女にしがみついていた。
いぶきは、そんな私の頭を、そっとなでた。
「朝には戻るから大丈夫だよ」
「ごめん。ごめんなさい」
ボロボロと涙がこぼれ、いぶきの肩に落ちた。
泣き疲れた夜、夜中に目が覚めて、水を飲みに台所へ降りた。
水道をゆるく開け、のろのろとコップに水がたまっていくのを、シンクに頬ずりしながら眺めた。
リビングもダイニングも真っ暗で、騒々しさとは無縁だった。
朝、誰もいないときとも違う、その気配のなさ。もう何時間もすれば、ここも色づくだろう。差し込む朝日が何もかもを飲み込んで、地球の回転が私たちを起き上がらせる。なんて豪快なんだろうと思う。
私は、いぶきのからだが明日には元通りになっていることを神に祈って、とっくにあふれているコップの水を一気に飲み干した。
部屋に戻り、布団の中でアレルギーについてAIに質問していると、未読のLINE通知が残っていることに気が付いた。
『先輩が謝りたいって、すごく反省してたよ』
『明日の放課後、部室で待ってます』
最後に
『ギターも持ってきてね』
翌朝になると、いぶきの発疹は嘘のように消え、私を安堵させた。
登校前、私はモーニングでせわしない輝美さんを捕まえ
「昨日は申し訳ありませんでした」
と謝罪した。
輝美さんは忙しい手を止め、私に歩み寄ると、冷たい手で私の頬をやさしくなでた。
「伝えてなかった私が悪いよ」
私は首を横に振った。
「聞かなかった私が悪いです」
「そうゆうのも含めて私の責任だよ」
輝美さんはそう言うと、私の背中のギターケースに目をやった。
「部活か?」
「……はい、そんな感じです」
「遅くなるなら連絡しなよ。夕食は作ってくれるのか?」
「そのつもりです」
「そうか」と言って輝美さんは仕事に戻った。
私は彼女の背中に一礼した。背中でギターケースががたっと音を立てた。




