香の国 〜香草を継ぐ者〜 第1章
―現代リュシオン王国・調香師リネアの記録―
王都ルセア。
朝霧に包まれた街を抜け、
古い石畳の路地を進むと、
白壁の研究棟が見えてくる。
その一角で、リネアは香草をすり潰していた。
青い瞳を持つ若き調香師――
まだ二十代半ばにして、
王立香草研究院の主任を務める女性だ。
「また徹夜か、リネア」
背後から声がした。
同僚のカイルが、
あきれたように笑って湯気の立つ紅茶を置く。
「だって、あと一歩なんだもん」
「またその“香妃の香り”か」
「そう。“香草の王妃ミナ”の伝説。
本当に存在した香りを、再現したいの」
カイルは肩をすくめる。
「数百年前の香りだぞ。しかも、旧リュシオン王国とアーヴィング王国との合併の際に、文献が紛失してほとんど残ってない」
「でも、“香草の日”の祭りで漂う香り――
あれはただの偶然じゃないと思うの」
リネアは目を細め、
机の上の小瓶をひとつ開けた。
ほのかに漂うリリィとミントの香り。
「香りは、心の記憶に宿る。
誰かが想い続ける限り、消えないの」
彼女の声は静かで、どこか祈るようだった。
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Ⅰ.“香妃の香り”の謎
数ヶ月前、リネアは王宮の古文書庫で、
一冊の書を見つけた。
表紙はすっかり色あせ、
題名もかろうじて読める程度だった。
――《香草の王妃 ミナ》
その中にはこう書かれていた。
「彼女の香りは、心を鎮め、争いを終わらせた。
その秘訣は“想いを混ぜること”にある」
“想いを混ぜる”――それは、科学では説明できない言葉だ。
だがリネアは、その一文に惹かれた。
「想いって……どうやって混ぜるの?」
答えは出なかった。
けれど、彼女の心に小さな灯がともった。
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Ⅱ.王妃の庭跡
春の午後、リネアは城下の外れにある古井戸を訪れた。
伝承によれば、そこから“香妃の香り”が漂うという。
苔むした石の周囲には、
白いリリィがいくつも咲いていた。
手に持つ小瓶に花びらを集め、
彼女は静かに息を吐いた。
「――ねえ、ミナ様。
あなたの香りは、どんな気持ちで作ったんですか?」
答えはない。
けれど、風がふわりと頬を撫でた。
まるで誰かが微笑んだように。
その瞬間、リネアは確信した。
「……“心”を調合するのね」
彼女は瓶の中に香草を入れ、
ゆっくりと蓋を閉めた。
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Ⅲ.香りの再生
数日後。
研究院の実験室では、
リネアが再び香草を混ぜていた。
ミント、ラベンダー、リリィ、そして――
最後に、彼女は小さく囁いた。
「どうか、人の心を癒やしますように」
その瞬間、淡い光が瓶の中にともった。
風が室内を駆け抜け、
香りがふわりと舞い上がる。
カイルが驚いて叫んだ。
「な、なんだ今の光!」
リネアは目を見開いた。
まるで香りそのものが命を持ったかのように、
優しく、温かく部屋を包んでいた。
「……これが、“想いの香り”」
瓶の中には、微かな光とともに、
花びらがゆらめいていた。
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Ⅳ.香妃の微笑み
祭りの日。
街中にリネアの作った香りが流された。
通りには笑い声が満ち、
人々は穏やかな顔で空を見上げる。
白い花びらが舞う中、
リネアは風の中に微かな声を聞いた。
「――ありがとう」
振り向いても、誰もいない。
けれど、どこか懐かしい笑顔が浮かんだ気がした。
リネアはそっと目を閉じ、
胸の前で手を組んだ。
「あなたの香り、ちゃんと届きましたよ」
その瞬間、風が再び吹いた。
香草の香りが、王都を包み込む。
まるで“香妃ミナ”が、もう一度この国を見守っているように。




