溶けゆく時間
澄み切った10月の空の下、僕は彼女と二人きりになっていた。水無川葵。文化祭の準備のためとはいえ、高嶺の花の彼女と僕が一緒に買い物だなんて、現実とは思えない。
黄色く色づき始めた銀杏並木を二人で歩いている。葵はほとんど話さないけれど、その静かな空気が妙に心地よい。彼女は右手に小さな買い物袋を下げ、僕はやや大きめの荷物を持っている。二人の間には、ほんの少しだけ距離がある。
古びた喫茶店「セピア」の前を通りかかった時、葵が突然足を止めた。
「寄ってもいい?」
その端的な一言に、僕は思わず頷いていた。ドアを開けると、コーヒーの香りと温かい空気が僕たちを包み込む。
窓際の席に座る。午後の柔らかな陽射しが、葵の繊細な横顔を優しく照らしている。彼女は無言でメニューに目を落とし、そっと「クリームソーダ」と指さした。僕も頷く。少し季節外れかもしれないが、それ以外の選択肢など頭に浮かばなかった。
しばらくして、クリームソーダが運ばれてきた。葵の細い指先がグラスに触れた瞬間、カフェの喧騒が遠のいていくのを感じた。
ほのかな甘い香りが漂ってくる。メロンの爽やかさに、バニラの優しさが混ざっている。テーブルの下でほんの少しだけ触れそうな葵の膝の存在に、僕の鼓動はさらに速くなる。葵がスプーンでそっとアイスをすくう。彼女の桜色の唇が触れる瞬間、見てはいけないものを見た気がして、思わず目を逸らした。
落ち着こうと一口飲んでみる。甘さと炭酸の刺激が口の中で弾ける。でも、彼女の感じている「美味しさ」を味わえていない気がする。
葵は静かにクリームソーダを楽しんでいる。グラスの中で、バニラアイスがゆっくりと溶けていく。
やがて、グラスが空になる。夕暮れの光が、店内をオレンジ色に染めていた。葵が僕を見つめ、初めて柔らかな微笑みを浮かべる。
「美味しかった」
その静かな言葉に、はっとする。同じクリームソーダを飲んだはずなのに、僕たちは違うものを見て、感じて、味わっていた。葵の瞳に映る世界は、きっと僕の見ているものとは違うのだろう。でも、この時間は確かに二人で共有したものだ。
喫茶店を出ると、夕焼けに染まった空が広がっていた。銀杏並木の葉は、オレンジ色の光を受けてより一層鮮やかに輝いている。
葵にとっては、ただ喉の渇きを潤しただけの出来事だったかもしれない。でも僕には、あの静かな時間が特別に思えた。クリームソーダの優しい甘さが、まだ口の中に残っているような気がする。
葵と僕は再び並んで歩き始めた。でも、彼女は袋を左側に抱えている。さっきまでの距離が、ほんの数センチだけ縮まっているような気がした。