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天使たちは手を取り合って踊る、決して離れないために


 彼とのセックスは、さながら砂利を噛み締めているようだった。何も冷やさない冷蔵庫と煤けたカーテンが、私たちを投影していた。



    ∴



 「初めてのキスはレモンの味、だなんていうけどさ、実際はどうだったか覚えてる?」


 運ばれてきたばかりのホットコーヒーを舐めるように一口飲んで、そう美玖は尋ねた。白いカップにほんのりとルージュが跡をつける。まるでいまこの場所に存在しているんだと証明するみたいに。古びた喫茶店内には“First Love”が流れている。最後のキスはタバコのflavorがした――その歌詞から連想した話題なのだろう、と友彦は思った。そして彼も半ば義務的にカフェオレに口をつけた。


 「そもそも初めてがいつだったかちゃんと記憶はある?私は覚えているんだけど」と美玖は続ける。「中学二年のときに初めて付き合った子としたの。放課後、隣町まで遊びにいってその帰りに。燃えるような西日がそうさせたのか、なんだかそういう雰囲気になったのね。私はそんな空を具体性のないアートみたいに眺めていたんだけれど、彼はロマンチックに感じたらしくて。拒む理由もないから、初めてになった」


「で、どうだった?」


「全くレモンじゃなかったよ。幸福感もなかったし、気持ち悪さもなかった。なんだか日常的な行為にすら感じて、そう考えている自分を俯瞰で眺めているような感覚だった。強いて味を言わせてもらえば……ミネラルウォーターかな。水の味」


「相手とは付き合ってたんだろ、初恋の人だけど特別感がなかったとかって話?」


「非日常を、()()()()()()()()()()()自分に気が付いたのよね。形式として付き合ったけど、初恋とは言い難かったし……小学生の頃から仲が良かったってだけ。たまたまその年――つまり中学二年生の二月十四日、バレンタインで配ってた友チョコが余ってて、それをあげたの」


「そりゃあ男からしたら勘違いするよ」


「友チョコって、しかも余り物だってちゃんと言ったのに?一人分残ってたのよ、インフルエンザで休んじゃった友達のが。それも伝えてたのに勘違いするものなの?」


「うーん、どうだろ。なんにせよきっかけにはなったんじゃないか。ぼんやりと異性として見てたのがよりくっきり影を帯びたみたいな。そういう事が生じうる年頃だろうしさ。その人のことは好きだった?」


「好きだったよ。余ったチョコを渡すくらいにはね」


「美玖からしたら、異性じゃなく友達として好きだったのかな?」


「それに近いんだと思う。両者の境界線はあまりに不明瞭だけど。当時も、そしてそれは今でも私は明確に出来てない」


 会話をしていると、遅れて友彦の注文したマルゲリータ・ピザが運ばれてきた。時間がかかった割にメニュー表の写真よりもずいぶんとチープだった。美玖はまた少しコーヒーを舐める。BGMはとうに切り替わっていたが二人はその曲を知らない。


「だってさ、友達も恋人も夫婦も――私は結婚したことないけれど――愛することにかわりないでしょう。でも夫婦は人生を背負い合ってて、恋人は倫理的に一人しか選べなくて、友達はいくら居てもいい。愛の形が違うんじゃなくて、責任の重みが違うだけでしょ」


「言わんとすることは理解できるけど僕はそう思わないかな。友達と付き合うとか考えられないし、過去の彼女と楽しく交友関係を続ける自信もない。だから別れたら連絡取らないよ、僕は。付き合ってても結婚したくない相手だっていた。君の言葉を借りると、責任が違えば愛の形も変わる」


 チリリン。軋むドアが錆びたベルを揺らし、大きく太った客が入店した。ほとんど全身の肌を黒い服や帽子、サングラス、マスクで覆い肌を極端に隠していた。あそこ良いですか、と店員に声をかけて二人掛けのソファを独占したが、その人にはそれくらいのサイズがちょうど良さそうに見えた――。


 「友彦、あんたにとって私は友達?」


そう唐突に放たれた美玖の質問に友彦は一瞬膠着し、正しい返答を探した。そんなものが存在しないことは理解していながら。



    ∴



 時に僕は、盲目の人のほうがよっぽど正確に世界を把握しているように見えることがある。僕なんかよりも、よっぽど。たまたま仕事がら視覚に何らかの障害を持つ人々と接するのだが、盲目に近くなるほど彼らの言葉は硬度を増す。確かな説得力を持って、銃弾なんて比にならないくらいの威力で僕を貫く。血は出ないけれど、ぽっかりと穴は開く。


 僕は彼らよりも宝石について知っているはずだ。実際に、彩りをもって正しい映像を見ているのだから。傾けると色付いた光がダンスするのを知っている。それに彼らよりも時計だとか、雰囲気のあるお店だとか、女の身体だって詳しいはずだ。なのにも関わらず、たぶん彼らの方が僕よりもそれらの価値を知っている。


 こんなある種の発見でも、情けない夜を越えてしまえば風に流れる。僕はそのたびに芽吹きかけた蕾を踏みつけたような感覚になる。自分の程度が浮き彫りになって、そして辟易する。いやむしろ、浮き彫りになることすら出来ない自分にだろうか。己を平手打ちしたとて痛くない。頭蓋を壁に打ち付けても痛くない。いつからの付き合いか忘れてしまったけど、足の神経痛だけが妙な鈍重さで僕を蝕む。



    ∴



「……正直に言えば、気になる異性だよ。だからこうして二人で出かけるし、僕は一方的にデートだと思っている。美玖と話しているときの高揚感は、友達のそれとは異なるものだ。僕はこんな違和感を恋心と信じている。もしもいま君に告白されたなら即座に付き合うし、それでなくともいずれ僕から行動するかもしれない」


「つまり、私はあんたの友達になることはないのかしら。友達と付き合うなんて考えられない、だっけ。恋人から友達に戻ることも無いって言ってた」


「僕なりの定義によればだけどね」


 美玖は相槌に似たため息をつき、しばらく頬を撫でた。マルゲリータ・ピザはあと一切れを残して帰る場所を失っていた。


 沈黙。計らずも行われた不意の告白に友彦が刻一刻と居心地の悪さを強める一方、美玖は冷静に彼の言葉を消化していた。異国の料理が振る舞われたときの様に。


「恋仲になりたいの?」


「そう」


「良いよ」


 あまりに呆気なく、温度のない美玖の言葉に店内の電灯がちらついた。しかし誰も気に留めていなかった。店員は談笑を続けているし、他の客は思い思いに過ごす。踏みつけたら潰れてしまいそうなこの喫茶店で大切なのはあまり広くを見渡さないことだ。


 友彦は複雑に風味がブレンドされた声を恐る恐る発する。「本当に僕の彼女になってくれるんですか」


「あんたは大事な友人だと思ってる。だから、付き合っても私からの愛は変わらない。さっきも言った事。友彦は立場に意味を求めるんでしょうけど、私にとっては変わらずあんたと関係を続けるだけ」


「でも、友達とキスをしたり、まして愛を確かめ合うなんてしないだろ」


「私は友達とでも構わない。それが愛を伝える手段であるのなら」それとも、と美玖は付け加える「そういう事をするためだけに私と付き合いたいの?」


「断じて違う。したくないわけじゃないが、君を性欲の捌け口にしたいわけじゃない。ただし付き合うならばそういうプロセスは発生する可能性があるって話だ」


「私にとってそれは過程でなく結果なのよ。別に肉体のみの関係でも構わない。()()()()()()()()()()()()()()()()。ねえ、私たちは動物を逸脱したのかしら、それとも野性に内包されたままなのかしら」



    ∴



 僕たちはこの星の自転に振り落とされないようしがみつくだけで精いっぱいだ。



    ∴



 平らげられたマルゲリータ・ピザは友彦に渇きを与え、カフェオレが急激に量を減らした。彼は少なくなったカフェオレを舌に転がし、分解を試みた。濃いコーヒーと、温かいミルクとに。それは美玖の注文したストレートコーヒーでは行えないだろう(残念ながら友彦はコーヒーの種類になんて明るくないため美玖の注文したものをよく知らない。ただこの喫茶店は彼のような客にも親切で、豆の名の隣にはエチオピア産と書かれていた。彼はこのように提示を受け取ることしかできない)。きっとそういった分解の試みは大した導きにならない。それでも彼のアイデンティティのためにそれは必須だった。多くの人にとっては要らない作業なのかもしれないが。こうして繰り返せば繰り返すだけ、例えば味は薄くなるし、色はあせて行くし、服はやぶけてしまう。針が止まった時計は、いったいどれくらいの値打ちがあるのだろう。


 「それで、あんたの初めてのキスはどうだったの」


 ガラス窓を隔て、外界ではホモサピエンスが跋扈している。少なくともこの瞬間、二人は人間じゃなかった。自分の積んだジェンガを隣人が崩し、また皆で組み上げる。これが社会であるならば、彼らは間違いなく逸脱していた。


「気恥ずかしいな……高校生のときだね。三年生の秋、受験勉強のストレスからか告白しちゃったんだ。迷惑なタイミングだろ?でも、むこうも似たような焦燥感を持ってて、勢いに任せたのか彼女になってくれた。彼女は大学からの一人暮らしが決まって、卒業式の頃にはもうアパートを借りてた。すぐに遊びに行って、そこで。3月半ばの出来事だったからまだ高校生と言える」


「確かに、ぎりぎり高校生だ」


「僕は浪人したから遊んでる場合じゃなかったのかもしれないけど」


「そんなのはどうでもいい。それでキスの味は?どうだった?レモンだった?」美玖が急かすように尋ねると少し考える素振りを見せて、友彦はこう返した。


「トマトソースの味だったよ」


「あんたって今しか生きてないわけ」


「そんなつもりじゃない。でも過去なんて自分に都合の良いことか、悪いことしか存在しないだろ。なんでもない瞬間があるのは現在だけだからさ」


「じゃあ未来は、どういう存在?」


「時が経てば何れ全て朽ちるよね。当然、僕だってさ。そうだな、自分が居なくなってしまったくらいの未来だったなら最高じゃないかな」


 落ち着き払った美玖に、どうしてそう考えるの、と尋ねられて友彦は惨めな気持ちになった。彼は短冊に願い事を書くみたいに喋ることを努めた。


「死は事切れた時に訪れるんじゃない。よく言うだろ、忘れ去られた場合が死だって。この考え方に共感するんだ――僕はさ、早く忘れられたいんだよ。覚えていたとしても、最低限の人のそれも記憶の片隅にぼんやりとでいい。記憶を掘り起こしてみても、僕の顔や名前なんか思い出せなくて構わない。連絡を絶っても誰も心配しなくていい。いつの間にか消失していてもちろん葬式なんかしない。遺骨は……波にでも攫われてくれたら本望だ」


「デストルドーのようなものかしら」


「決して星になるのを願うわけじゃないさ。紛れもない現実が近づいてきてくれないんだ。ここにかつてマルゲリータ・ピザの乗っていた皿があるが、この残った粉くずからピザを思い出せるかい?僕が食べていたのは本当にマルゲリータ・ピザだったかい?……いま君と会話をしている。恐らくこれは君にとって疑いようのない事実なんだろうけど、僕にはこの瞬間、夢から覚めて、ベッドで息を切らし、汗ばんだシャツに嫌悪を覚えながら、そういえば夢を見ていたな、なんて回想してもおかしくない瞬間なんだ。それがたとえ大切な思い出だったとて」


 だから僕は無理にでも意味を作るんだ、と締めくくり友彦は改めてメニュー表を睨んだ。


「わかるわ」


「まさか」


「本当に。だから、私は()()意味を甚だしく求めない。私なんてたかが知れてるのにそんなことしたって仕方がないでしょ」


「僕がばかみたいに見える?」


「そんなわけない。そんなことするわけない。私も、頭の中の自分はいつも首を吊ろうとしてる。台に乗って、揺れるロープをそっと両手でなだめてあげる。そして、さあ――。その瞬間がとめどなく映されて、こびりついちゃった。それが私。こんな私からしたら羨ましさすら感じる。いつまでも元気でいてね」


「はは、同感だ。根は似たようなものなんだろうね」


 彼はメニュー表をたたみ、呼び鈴を鳴らした。気怠そうに雑誌を閉じた店員がテーブルに近づき、友彦はビールを注文した。


「ここお酒あるのね。そうか、カフェバーだったの。それにしても順序が逆じゃない?ピザにカフェオレを合わせて、食後にビールだなんて」


「僕らにいまさら正しい順番が機能しないのは明白だろ。君も何か飲もうぜ」


「そうかもしれない……じゃあ私は……ウイスキーをロックで」


「どちらのウイスキーになさいますか?メニューにある物は本日全て提供可能でございます」


「ラフロイグをダブルで」


「かしこまりました」





 ウェイターは一切の音を立てずにコースターを二つとお酒を置いた。ごゆっくりどうぞ、と添えられた一言はか細く、感謝を伝える前に消えてしまった。


「渋いね」友彦は興味深そうに美玖のグラスを眺めた。ウイスキーを回す、すらと長い指と赤い爪がたびたび彼の視線を奪う。


「ラフロイグ、飲んだことあるの」


「ない。安いハイボールくらいかな、経験のあるウイスキーは。強いお酒?」


「まあロックだからね、それなりに度数あるわ。でも美味しいよ。好きなのこれ」


「僕には早そうだ。度数の高いお酒は未だに慣れない」


「だけど、飲み込むしかないのよ。せっかくだし一口いる?」


「せっかくだから貰おう」


「いいよ。あ、ちょっと待って」と言って美玖は少し角の取れた氷をもう一度回し、最初の一口を含んだ。目を瞑ってゆっくりと時間をかけて味わい、そして喉を鳴らした。「はい、どうぞ。間接キスになるけど。こういうことに意味があるんでしょ?ここ。ここに、唇をあてたから。ちゃんとあんたの唇も合わせなさいよ」と友彦に汗をかいたグラスを渡しつつ、いたずらっぽく微笑んだ。友彦はそんな美玖のからかいに多少の緊張を感じながら、所作を真似て味わった。想像していたよりも舌が痺れる。咽る気がして、飲み込むのに勇気が必要だったが彼女の言葉を思い出してごくり、勢いつけて飲んだ。だけど、飲み込むしかないのよ……。胃が熱くなり食道がどこを通っているかわかった。このように大きな主張が心地好い。


「うん、美味しいよ。初めての味だ」


「意味はあった?」


「無かったが、いま作った」


「それなら良かった」


「なあ、これを飲んだらさ、家に来ないか?そこまで遠くないんだ。もっと美玖を知っておきたい。そういった行為が僕を安定させる」


「パレットで絵具を混ぜるみたいに?」


「ああ。だが先に言っておくと、美しい色になるとは限らない」


「明日、仕事なんだけど。中途半端にするのはいやでしょう」


「僕も仕事なんだよ。二人で休まないか?」


「たまにはそんなのも良いかもね。まともって疲れちゃうもの。私たちにそんな資格あるわけもないのに」



    ∴



 私たちはほんのりと高揚しながら歩いた。頬を撫でるそよ風がくすぐったい。鼻から息を吐くと、重みのある煙たさが身体の力を抜いた。彼は私の肩を寄せ、こういう事もしていい?と聞いてきた。好きにしていいよ、と返すと彼はいじらしい笑顔を見せた。その表情が、刃を立てられては中々もとに戻らない傷痕を物語っていた。彼は私なんて比較にならないくらい足を引き摺っているのだ。そして、彼も私に対して同じ事を思っているのだ。私たちは支え合わない。互いに足を引っ張るけれど、それを肯定し合う。


 なんて最低なんだろう!


 彼の提案で、コンビニで酒を買い漁った。ビール、ハイボール、チューハイ……日本酒、ウイスキー……いくらでも金があるみたいに好きなだけ手に取った。半分出すよと言ったのだけれど、彼が無理やり全額支払った。もし次があったら、私が出そう。


 彼の家に着くなり思い思いにプルタブを捻った。彼なんてビールとレモンサワーを一緒に開けていて、二人で笑った。笑いながらソファの隣に座り、鼻と鼻が微かに触れた。太陽で泳いでいるみたいな温もりが伝わって、ふたり同じ夢を見ているようだった。


 唇が重なった。


 服を脱がされた。


 ホックを外された。


 彼は一つひとつに許可を取ったし、私に迷惑じゃないか尋ねた。私がこんなにも人の眼に入り込んで……。忠誠心にも似た優しさこそが、私たちは変な部分で素直じゃなかったし、彼がそこかしこで躓いてきたのであろう事が容易に思い描かれた。え?私がこれまでどれくらい転んだかですって?私については――もう忘れてしまった。目隠しをして走り続け、どれだけの時間が軽く通り過ぎただろう。我々はどこから来たのか理解している。我々は人類という生物種である。でも、どこへ向かっていけば正しいんだろう。この場所に辿り着いたことがそもそも間違いだった――?


 彼と指を絡ませ、もう一度キスをした。何だかじっとしていられなくて、繋がった両手を僅かに動かした。私たちはお道化て踊っている。型なんて無く、放課後に仲間内でふざけているみたいだ。私はぐいと腕を引いて、彼を引き寄せた。決して離れることのないように。そうして密着した肌に、君の本音を見た気がした。


 私は漆黒の夜空に散る星屑を美しいとは思わない。所詮、クズの集まりにすぎないのだから。






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