「ばいばい」
近所に住む、優しいお姉さんが大好きっ。
年が離れて、いつも一緒にいる事はできなかったけど、側にいられる時はずっとくっついていた。
遊ぶ時は、夕方まで遊び通して。
帰り道は、手を繋いで一緒に帰る。
そうして、分かれ道にたどり着いた時。
「ばいばいっ。また明日っ」
そう言って、家に帰るのがいつもの定番だった。
ずっとずうっと変わらない毎日。
前も、今も、これからも――――。
街の至る所に設置されているスピーカーから流れるメロディが途絶えたら、遊びをやめる合図。
くたくたになるまで遊んだ僕らは、「今日も楽しかったね」と声を掛け合い公園を出ていく。
帰り道、二人で手を繋いで、話をしながら家に帰るため歩き続ける。
周りには、ぽつりぽつりと、自分達と同じように帰る人に混じりながら、いくつもの出来事を話す。
いつまでも続いて欲しい時間、けれどさして時間もかからず分かれ道にさしかかり、そこですっと手を離した。
お姉さんは、少しだけ立ち止まって僕を見る。
僕は少し先に進んだ後、振り返って、別れの挨拶。
――ばいばい、また明日っ。
そう言うつもりだったのに、何故か言葉が口から出せずに、お姉さんを見る。
オレンジと、青黒い空。
夕日の光と影。
変わらない町並み
どこかの家で作っている晩ご飯の匂い。
遠くで鳴くカラスの鳴き声。
いつも場所、いつもの時間。
目の前には、ニコニコと笑っているお姉さん。
何もおかしい所はないのに。
「――――っ」
なんで、僕は、こんなにも焦っているのか。
たった一言口にするだけ、なのに。
どうして”それ”をしたらいけないと思ってしまうのだろう?
「……」
それが自分でもわからず戸惑っていると。
「どうしたの?」
「う、ううん何でもない」
お姉さんに対して首を振って答える。
そんな僕にお姉さんは笑う。
いつも通りに。
「あんまり遅くなるとオバさんに怒られちゃうよ? 前も帰りが遅くなって」
おどけたその様子に、少しだけ気持ちが楽になった。
「そうだね、カンカンなって怒られた」
「しばらく家に入れて貰えなかったんだよね」
「うん、普段あんまり怒られないからびっくりして、どうしていいかわからなくなっちゃったんだ」
「私は私で親に注意されて、謝りに行こうって行ってみたら、君が玄関でうずくまってるんだもの、びっくりしちゃった」
「あの時は助かったよ、僕だけだったら、長い時間家にいれてくれなかったかもしれない」
当時の事を思い返し、肩を落とす。
その後すぐ、顔を見合わせて笑った。
「だから、ね? 遅くならないうちに帰らないと」
わかったと頷いて、ぶんぶんと手を振る。
心配していたのは気のせい。
笑顔で、言えばいいだけ――――。
『ばいばい、またね』
『ねぇ私が一緒に行かなくても大丈夫?』
『大丈夫っ、今日はちゃんと理由があるし』
『そう? でももし駄目だったら、私を呼びに来てね?』
『わかった』
『じゃあ、ばいばい』
『ばいばいっ』
――――そこまで思い出して、汗が止まらなくなった。
これは一体いつの記憶だろうか?
わからない。
いや、違う。
思い出したくないんだ。
そう思って、頭に浮かぶ映像をかき消していく。
けれど、そうしても、一度浮かんだものは消えず、どんどん思い出していってしまう。
別れた後。
夕食の時間。
鳴り響いた電話。
母さんの声。
そして――――――――
「そっかー、思い出しちゃったんだ」
僕の顔を見たお姉さんは、そんな事を言った。
思い出さなくてもよかったのにと、困った風に笑う。
「まあ、でもやる事は変わらないかな」
一歩後ろに下がる。
「君はちゃんと家に帰らないといけない」
「……」
僕の顔をじっとみる。
「だから、ここで笑って別れの挨拶をして、背を向けて歩き出すの」
そうすれば、問題なく家に帰る事ができるから。
「……」
そう言われても、動く事なんてできなかった。
いや、動きたくなかった。
僕の様子を見て、あらあらと困ったように笑う。
「あーくん、”ここ”がどんな所か、何となくわかるでしょ? ”ここ”はね君みたいな子が長い時間いるのは良くないの。ちょ~とだけなら、大丈夫なんだけど、長く居すぎると帰れなくなっちゃう」
「……」
お姉さんの言葉はどこまでも優しい。叱るような言葉でも、怒るのではなく、諭すように。
きちんと反省できるように、言ってくれる。
そんな所も、大好きだった。
「お姉さん」
「なーに?」
「本当に、駄目なのかな?」
「……」
「僕は、ここに居たら、駄目かな?」
じっとお姉さんを見上げ、呟く。
いいよ、と言って欲しかった。
けれど。
「うーん、聞いてあげたいけど、駄目だなぁ」
苦笑しながらも、僕の願いに首を振った。
「ど、どうして?」
「あー君はさ、何か嫌な事が”そっち”であったかもしれないけど、でも”そっち”であった事ってそれだけじゃないよね?」
ゆっくりとこちらに歩みよって
ちゃんと思い出さなきゃ駄目だよ?
かがんで、同じ目線で話す。
「……」
「……」
少しの間、どちらも言葉を発しない。
「君は、どちらを選ぶべきか、ちゃんとわかっている。ただ懐かしい思い出に触れて、感化されたんだよ」
そう言って、お姉さんは頭を撫でてくれた。
その感触が、温かくて、優しくて、懐かしくて。
両目から、涙が溢れて止まらない。
「おねえさん」
「いいよー、悲しくて泣くのは当たり前の事だから。泣いて、吐き出して、すっきりしたら前を向いたらいい」
男の子だって泣いて良いんだよ。
言葉の全てが優しくて、とっても痛い。
自分の中で、どれだけ大きかな存在か、改めて実感してしまう。
大好きだった。
本当に、僕はお姉さんの事が大好きだった。
「……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、僕は一歩後ろに下がる。
「うんうん、それでいいの」
僕の行動に、お姉さんは喜んでいる。
多分笑っているんだろう。顔を上げたら満足気な笑みを浮かべているに違いない。
だけど、顔を上げること何て出来ない。
そんな事をしたら、決心が鈍ってしまう。
何度も声をかけられて、背中を押されても、僕はそれでも離れたくないと思っているから。
だから、顔を見ないまま、背中を向けて歩く。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「それじゃあ、”さよなら”――――」
「違う!」
その言葉に、振り返る。
「違うよ、お姉さん!」
考えて、行動したわけじゃなく、お姉の言葉を反射で遮っていた。
「さようなら、じゃないっ!」
ぽろぽろと涙を止められないまま必死に叫ぶ。
「僕たちの別れの挨拶はっ!」
すぐに会えない事なんて、わかってる。
お姉さんは遠い、遠い場所に行ってしまったから。
けれど。
それが明日じゃなくても、何ヶ月たっても、何年経っても、どれだけ長い時間がたってもっ。
また、会いたいと思うからっ
「ばいばい、だよっ!」
「――――っ」
「僕らの――”俺達”の挨拶はいつだってばいばいなんだ!」
そう言って、無理矢理に表情を笑みの形をつくる。
涙は涸れず、無理矢理に表情を動かした、不格好な笑顔。
それでも、構わなかった。
笑顔で、挨拶。
今日という日を終えて、又会う日のための。
俺達の約束の言葉。
『そうしたら、お別れしても寂しくないでしょ?』
又会えるから、寂しくない。
いつだったか、ごねた俺に言ってくれた言葉。
「そうだね……はは、私駄目だなぁ。あー君に言った言葉、大事なもの、それを忘れているなんて、私らしくない」
そうやって、目を軽く拭った後に、よしっと意気込んだ後、お姉さんは言った。
「ばいばい、また、ね」
いつもより少しだけ、涙声なのは気にしない。
俺なんかは、お姉さんよりもさらに酷い声をしているだろうから。
そんな事よりも大事な事は、お姉さんがそうやって言ってくれたのだから、俺も言わないと。
「ばいばいっまたいつか必ず――――――」
最後まで言えたのかどうかわからない。
この時徐々に意識が途絶えてしまったから。
けれど、それでも別れの挨拶を済ますことができた。
それがわかったから十分だろう。
こんな風に。
夢のようなひと時が、終わった
中学三年になり、受験シーズンを苦労しながらもクリアし、卒業式を終えた今。
俺は同級生と一緒に遊ぶことになった。
その帰り道。
「よく笑うようになったね」
「――そうか?」
「んっ」
こくんと頷く同級生の女子に、何て言って良いのかわからず。
「まあ……もっと楽しまないと、って思って」
はぐらかすようにそう言った。
あの”夢”を見て後で、それまで抱えていた受験のストレスとか、進路のことで両親ともめていた事とか、その他もろもろの不安やストレスに潰されている場合じゃない、と奮起したなんて言っても意味がわからないだろうし。
「急にそんな事を思うようになったなんて、どういう心境の変化なの?」
「……特に、何もない」
「――ふーん」
納得していないのか、返事は素っ気なかった。
そう思ったのもつかの間。
「でも、そっか、よかった」
安堵して零れる笑顔にドキリとした。
「元々、君は元気な事が取り柄の一つだったから、それが中学三年になって、焦ってばかりだったから心配してたけど、また前みたいに笑えるようなって、本当に良かった」
「……」
急に喉がカラカラになる。
ストレスや不安で潰れている中、それでも気にする事なく、接してくれた女の子。
自分の気にかけてくれて、一緒にいてくれる。
来年からも同じ高校に進学する。
今の自分が、傍に居て欲しいと思う存在の、喜ぶ姿をみて、ドギマギし、「今日こそは告白するぞ」なんて事を意気込んで居た事を今更思い出す。
今は夕刻で、もうじき分かれ道。
そしたら、今日はもう会えない。
「……どうしたの? 急に立ち止まって?」
「いや、えと、あの」
「……?」
さっきまでの軽口を叩く余裕がない。
な、情けねぇ。
告白するって決めてたのに。
お姉さんが事故でなくなってから、塞ぎ込んでいた自分に声をかけて、何だかんだと世話やいてくれた。
徐々に元気を取り戻してからも、一緒に居ることが多くて、それが当り前になって、大切な存在だと気づけなかった。
そんな俺に、中学三年に入ってからずっと、受験のストレスや、両親と上手くいかない事で、周りが見えなくなり、自分の事ばかり悩んでいたはずなのに、それでも支えようとしてくれた事。
”夢”を見て、周りを見えるようになった時、ようやくそれに気づけて。
今目の前に居てくれる女の子好きだって、思って。
それを、ちゃんと今日、口に出して言おうと、決心したはずなのに。
いざ実行しようと思ったら、緊張して声が出ないなんて、なんて情けないっ。
「ねえ、本当大丈夫? 今日たくさん騒いで、疲れちゃった?」
「い、いや、そんな事はないんだけど」
「じゃあ、気分が悪い、とか?」
彼女はそういって心配そうに俺を見る。
ああ、もう。そんな風に心配かけさせたいわけじゃないのにっ。
そんな風に思っていると。
不意に。
トン、と不意に誰かに背中を押された気がした。
「……っ」
慌てて振り向いても、そこには誰もいない
夕焼けで染まった街並みが、ただ見えるだけ。
そばに、誰かいるなんて事はない。
「……何かいるの?」
「ああ、気のせいみたいだった。――それより、聞いて欲しい事があるんだけど、いいか?」
「……うん、いいよ」
顔を赤くさせたまま。それでも口を開く。
――大事な事はきちんと口に出して。
――相手に向かって、きちんと言う事っ。
――恥ずかしがってばかりじゃ、伝わらないからね。
――がんばれ、あーくんっ。
そんな時に聞こえたこの言葉も、もしかしたら気のせいかもしれない。
――じゃあ、ばいばい。
けれど、そんな言葉を聞いたら、ちゃん返すしかない。
そう思い、告白の前に「ありがとう」と感謝の言葉と。
あと一言、心の中で呟いた。
その言葉は――――。
最後まで読んでいただき、ありがとうございましたっ