ジュダーグの森 2
その後も襲撃は続いた。
ゴブリンに2度遭遇したが、事無く騎士に薙ぎ払われた。
太い根が道を遮るように横切っていた時は、樹木の魔物トレントとすぐに気づき、ビビアが焼き払った。
馬車の背後から森を跳躍してくる三又の尾を持つエビルキャットはビビアが風魔法で撃退し、音もなく滑空してきた闇フクロウは騎士が反射的に切り落とした。
そうして、ようやくテリーヌの川岸までもうひと踏ん張りというところまで来た時だった。
「後ろから魔物の群れだ!」
背後を走る騎士が叫んだ。
森の奥からブラックウルフの群れが湧き出た。暗くてはっきりしないが、20匹位はいるのだろう。
狡猾な魔物で、連携と俊敏な動きが厄介な魔物だ。D級認定されている。
群れで襲われることを一番危惧していたため、その場合は全速力で逃げると決めていた。
バートンの操る馬車はぐんぐん速度を上げ、振動で荷台の中の3人は必死に縁へ掴まった。
カタリアがジュリアの体を抱え、ジュリアはダグを抱きしめている。
キースは両手で反対側の縁に縋り付いているが、それでも道の凹凸で車輪が跳ね、その度にキースの小さな体は宙に浮き、荷台の中を転げそうになった。
ビビアは背後に向けて火矢魔法を放っている。
騎乗の護衛騎士は二人とも馬車の背後に回り、ウルフ相手に槍を振るった。
ビビアは荷台の後方に陣取り1匹、2匹と倒しているが、揺れる馬車から俊敏な相手に攻撃を充てる当てることは難しい。
バートンの絶妙な手綱さばきで、馬車は高速で狭い小道を走り抜けてゆく。
片輪が宙に浮き乗客が荷台を転がろうと、張り出した枝が幌を引き裂こうと、すべてを許容し、最速でカーブに突入し強引に曲がりきる。
そして追いすがるブラックウルフを1匹でも引き離すべく馬を全力で駆けさせた。
荷台の中では、ビビアも含め姿勢を保つのに必死だった。
それでもビビアは後方に視線を向け、狙いを定めて魔法を放っている。
キースは左舷で、カタリアはジュリアを胸内に抱え込み右舷の縁に縋り付いていた。
あちこちで幌布が破けバタバタと音を立てている。
キースのすぐ側の幌は特に大きく避けていた。
その裂け目に向けて中を窺う視線があった。1匹のブラックウルフがキースを狙って並走していたのだ。
荷馬車部分の側面は全員の死角となっていた。
そのブラックウルフが突如飛びかかり、鼻先を裂け目へ突っ込むと、首をグリグリ捻じ込んできた。しかし、ビビアもカタリアもキースも皆背中を向け合っていたし、騒音にかき消されて誰もその気配に気づかなかった。
キースはその時、歯をくいしばって恐怖と振動に耐えていたが、何かに襟元付近を引っ張られた気がしたと思ったら、体が宙を舞っていた。
何が起こったのか分からなかったが、体は落下し、枝のようなものに当たって地面をゴロゴロと転がった。
体中に痛みが走る。
「うぅっ・・・」
草と土の匂いが満ちていた。自分のいるところは何故か、真っ暗闇の深い深い森の中だった。
馬車の遠ざかる音が聞こえた。
「お母様!!」
痛みで大きな声を出せなかった。
「グルルルルルル」
魔物の低いうなり声がすぐ傍で聞こえて、キースは慌てて光球を作り出した。
魔獣がいた。魔物図鑑に載っていたブラックウルフだ。
目が赤く光っている。人の頭など簡単に砕きそうな牙。強靭そうな四肢。黒い体毛が全身を覆い、背中には頭頂から鬣が太い尾まで走ってる。
そんなのが5匹もいる。
後ずさると背中に木が当たった。周りを囲まれてしまっている。
お母様はいない。騎士もいない。多分馬車からいなくなったことを誰も気づいていない。
(僕‥死んじゃうんだ)
ここで死ぬのだとキースは唐突に理解した。
キースが馬車から消えたことを知らずに馬車は走り続けていた。
ブラックウルフの群れは執拗に追い続け、全力で疾走する馬の限界が近かった。
(このままでは馬が持たない‥何とかしなくては)
しかし飛弾系の攻撃魔法の命中率が悪い。アイアンボアを倒した魔法では後ろを走る護衛騎士までも巻き添えにしてしまう。
有効な攻撃手段を考えあぐねていると、護衛騎士が離され始めた。
甲冑が重い上に左右に槍を振り回しているのだ。馬が止まればその騎士の命運は尽きてしまう。
危険な賭けになるが、馬車を降りて戦うべきかとビビアは思い悩んだ。
騎士は主人を守るのが任務で、そのために命を落とすことは当然だという考え方がある。
ジュダーグの森に入る前に、想定の一つとして立ちふさがる魔物は倒す、追いかけてくる魔物からは逃げる。たとえ護衛騎士が危機に陥ろうとも馬車を無事逃がすことを最優先にすると決めていた。
しかし、いざこの状況となるとビビアの心は痛んだ。先ほど一人の騎士を失ったばかりだ。その判断が正しいのか不安にもなる。
後方、今は騎馬の前後左右にブラックウルフがまとわりつくように並走している。
騎馬との距離が開いたため、馬車の周囲にはブラックウルフの姿はない。
道が曲がりくねっている為、後ろを走る2騎の姿が見えなくなった。
(テリーヌの大河川まではまだ少し距離がある。このままなら逃げ切れる。でも・・)
とビビアはまた迷う。
(せめて、騎士への援護射撃をしよう。少しだけ馬車の速度を落とさなければ)
そう決断し、御者席のバートンに命じようとした。
(あれ?ジュリアとキースがいない)
すぐに幌の側面が大きく破けはためいているのが目に入った。
カタリアの背中が見える。そこに小さな足がのぞいていた。
「カタリア、キースとジュリア二人を抱きかかえてくれているの?」
「ジュリア様は此処に。キース様はそちらに・・あれ?」
「え?ジュリアだけ?キースは?」
「いえ、私はジュリア様だけお守りしていました。キース様はその反対側に座っていたはずなのですが・・」
二人の視線が幌の裂け目に向いた。
ビビアは血の気が引くのを感じた。
「バートン!すぐに馬車を止めなさい!キースがいないの!バートン!すぐに止めて!」
しかしバートンはなおも馬車を走らせる。
聞こえていないのかともう一度命じる。
「バートン!早く馬車を止めて!馬車を止めなさい!」
「バートン?ビビア様のご命令が聞こえないの?」
カタリアも声を張り上げた。
バートンは視線を前方に向けたまま少しだけ振り返ると大声で言い返した。
「ダメです!馬車は止めません!このまま川まで行きます」
背後の騎士の姿は木立に遮られてとっくに見えなくなっている。
「ちょっとバートン!何を言ってるの?キース様が振り落とされたかもしれないのよ!すぐに探しに戻らなくては!」
「ダメだ!戻れば全員魔物の餌食だ!このまま川まで行く!」
バートンの大声が返ってきた。
「カタリア。キースがいなくなったことに気づかなかったの?」
「・・はい。ずっとジュリア様をお守りしていて。その・・この騒音ですし。全く気が付かず‥すみません」
「ジュリア、キースを知らない?いなくなっちゃったの」
「知らない・・ずっとこうしてたから。お兄様どこか行っちゃたの?」
ジュリアが不安げな目を向ける。
バートンはブラックウルフの襲撃が止んだことを知ると馬車の速度を落としたが、停車させること無く先を急いだ。
ほどなく、テリーヌの大河川に辿り着き、やっと馬車が停止した。
そこで休憩を摂ったが、いつまでたっても護衛騎士は現れなかった。
「キース様はもうすでに亡くなられております。今戻ることは危険なだけで愚かなことです」
キースを探しに行くと言うビビアにバートンは真っ向から反対を主張した。
「バートン!ビビア様にそんな言い方って・・」
「お前は黙ってろ。あのブラックウルフの群れから死に物狂いで逃げてきたんだぞ!あそこにまた戻れというのか?次は絶対に死ぬぞ?俺はごめんだ。それに馬がこれ以上もたない。無理なものは無理なんだ!」
カタリアに叩きつけるように言っているが、言葉はビビアに向けられている。
「アッシュに子供たちを頼むと言われてるの!それにあの子は魔法を使えるから今もまだ生きていてもおかしく無い。いえ、必ず生きていて今もきっと助けを待ってるわ!」
「ビビア様。お気持ちは察ししますが、どう考えてももう生きてはおりません。5歳ですよ?あの速度から落ちたら助かりません。仮に怪我で済んでいたとしてもブラックウルフは鼻が利きます。群れの中に放り込まれた人間をまず見逃さないでしょう。少しばかり魔法が使えても小さい子供が凌ぎ切れるほど弱い相手ではないんです。間違いなく今頃は亡くなっております。諦めてください」
「でも・・」
「では、ジュリア様はどうされますか?あの魔物の群れの中にまた連れていかれるのですか?」
「ジュリアはカタリアと共にここに残して・・」
「同じことです。留守の間に魔物がここに現れたらジュリア様も殺されてしまいます。私がここに残ったとしても二人を守り切るのは無理でしょう」
「でも・・」
「それに、私の任務はあなたをガストール家までお連れすることです。その為に3人の騎士が命を落としました。なのに、すでに亡くなられているであろうキース様を探しに行って万一あなたに何かあったら、クリフロード家の方々に私は顔向けできません。あなたの使命はガストール家に救援を願うことでしょう。一刻も早く先へ進むべきです。今、あなたは助けを待つ領民の為に行動すべきです」
「・・・・・」
カタリアはハラハラしながら二人の顔を交互に見ている。
「ビビア様。ここはバートンの申す通りのように思います。残念ですがキース様はもう・・」
カタリアにまでそう言われてしまうとビビアはキースを諦める他なくなってしまった。
ビビアは睨むようにジュダーグの森を見た。
暁闇を背景に不気味で危険な雰囲気を感じる。
それでもキースはきっと生きている。今もどこかで助けを待っている気がする。そう思わせるだけの魔法をキースは身に付けている。加えて竜人族が与えてくれた加護もある。簡単に命を落とすような子ではない。
そう思うと今すぐ引き返して探しに行きたくなる。
しかしバートンの言う通り、このまま先に進む選択をすればキースは絶対に助からない。
幾らキースとはいえ数日間森の中を独りで生き抜けるはずがない。
キースを諦める・・
そう思うと髪を掻きむしって絶叫したくなるほど心が乱された。
(キース!キース!キース!!)
悩んでいる時間さえもどかしくすぐに引き返したくなる。でも領民を一人でも多く助けるためにはすぐにでも先に進みたい。その究極的なジレンマがビビアを苦しめる。
そして、それはキースから目を離していた後悔へとつながる。
なぜ、馬車から振り落とされる可能性に気づかなかったのか。
なぜキースがいなくなったその時に気付いてやれなかったのか。
なぜ子供たちが無事でいるかと確認を怠ってしまったのか。
時は巻き戻せない。
これ以上ない程の後悔が、これ以上ない程ビビアを責め立てる。
ビビアの精神は急速に衰弱してゆくことになった。