ジュダーグの森 1
ビビア達の一行は日暮れ前に屋敷を出たが、街を抜けるまでに思いの外時間がかかった。
右往左往する住民と、通りを塞ぐ荷車や馬車が邪魔だったのだ。
日没を迎える頃、やっと街を抜け、急ぎ足で馬を走らせている。
夜道を荷馬車の上部に着けた投光式の魔道具が照らしている。
この辺りの道はまだ整備されている方だが、それでも振動はかなりのものでビビアは子供たちのためにタオルケットを広げ、そこに座らせた。
すると後方から、甲高いパンと弾けた音が聞こえてきた。魔物が街に押し寄せた合図だ。
ビビアは遥か後方で奮戦しているはずのアッシュに想いを寄せてその無事を心の底から祈った。
馬車は一路南へ向かう。穀倉地帯を抜けると草原に入る。そこからしばらく行くとジュダーグの森を右手に沿ってひたすら南下してゆく。
ビビアは後ろ髪を強く引かれる思いだった。
(アッシュは無事だろうか、義父母や使用人たちは無事だろうか、街の住人たちは退避できたのだろうか・・)
揺れる馬車にもう慣れたのだろうか、ジュリアが膝の上で小さな寝息を立てていた。
キースは子犬のダグを抱えて眠そうにしている。
向かい側でカタリアが不安げに街の方向を見やっていた。
助けを請いに行くガストール男爵は気難しく利己的な印象のある人物だった。
おまけに、何度かパーティーで話したことがあるが、その度に粘っこい視線を感じる相手だ。
緊急の、しかも危険極まりない無償の救援を懇願しなければならない立場として、今から憂鬱な気持ちを抑えられない。
(あの男爵を説得することができるのだろうか・・)
それでも、残して来た家族や領民のことを考えると、1日でも半日でも早く救援の騎士を連れて戻ってこなければならない。
あれこれと考えても悪い方向にばかり思考が偏り、まんじりとしない時間が過ぎていった。
夜半過ぎ、街道の分かれ道で馬車が止まった。ジュダーグの森に近い草原の中だ。
しっかり馬を休ませ、ここからは右に進路を変えて一気に森を突き抜けてゆく。
この森の小道はクリフロード家が50年前より三代に渡って切り開いてきた道だ。今も騎士団により定期的な整備と周辺の魔物討伐が行われている。
通常は領地北の安全な街道を正規のルートとしているが、北の魔境から魔物が溢れた時にその街道は使えなくなる。隣領とクリフロード領はテリーヌ大河川によって隔てられていて、このジュダーグの森は大河川沿いに広がっている。東は海。南はエルベス大魔境と呼ばれる大森林につながっている。海と魔境に囲まれた土地故に、北に異変が起きた場合の避難路として、馬車1台分の道をこの森の中に作ったのだ。
この森を抜けるとテリーヌの大河川がある。そこを渡ればガストール男爵領だ。
川を渡ったところで一度休息を取り、男爵家までの距離を考えると遅くとも明朝の到着となりそうだ。
騎士たちと予想時刻を話していると、キースが目を覚ましたので一緒に食事を摂り、ビビアは僅かばかりの仮眠をとることにした。
昨晩はパーティーの準備であまり寝ていなかった。寝不足と精神的な疲労で疲れているが、アッシュと街が心配で眠れる状況ではない。それでもこの先を考えると少しでも仮眠をとる必要がある。
瞼を閉じて少しでも休もうと試みた。
ビビアが目を閉じた途端にキースは夜の草原がどうしようもなく恐ろしく思えてきた。
さっきまでの話し声が途絶え、今は焚火の爆ぜる音がパチパチとやけに大きな音に聞こえる。その先に目を向ければ何も見えない真っ暗闇。そこから魔物が睨んでいるのではないか、突然襲ってくるのではないかと恐ろしい妄想ばかりをしてしまう。
暗闇が怖い。夜の草原を薙ぐ風の音は昼間とは全然違う音に聞こえる。
遠くから聞こえる何かの鳴き声も、焚火の炎に揺らめく人影も、夜の草原は恐怖に満ちた別世界だった。
ジュリアを見ればすやすやと眠っている。昼間はしゃぎっぱなしだったのだから仕方ないのだが、そんなジュリアがとても羨ましく思えた。
時間的にそれほど経っていないのだろうが、仮眠を取ったことでビビアの気分は少しだけさっぱりした。
今からいよいよジュダーグの森へ入る。
先頭に騎士二人。馬車の後方をビビアともう一人の騎士が警戒する。馬車1台分の小道を進むことに加え、テリーヌの川岸までは殆どノンストップとなる。あまり速度を上げずに進んでゆく。
すぐに数体のゴブリンの襲撃を受けた。ゴブリンは小柄の人型魔物だ。拾ったのか錆びた剣や槍をふるってきたが前衛の騎士が問題なく倒した。
速度を落とすことなく進めるが、前後から度々ゴブリンが現れた。車輪が大きな音を立てるため引き付けるのだろう。
後ろから走ってくるものは無視し、前を塞ぐものだけ騎士が倒す。
何回かの襲撃を受けながらも森を3分の1程進んだ頃だった。先頭を行く騎士の馬に、森の中から飛び出してきた何かがぶつかって来た。
暗闇からのいきなりの一撃に馬は嘶いて横転し騎士も落馬した。
「なんだ!?何が来た!」
「明かりを!」
騎士とバートンが前方で叫んだ。
バートンが馬車を急停車させる。そのはずみで荷馬車にいた全員の体が前側に滑った。
キースとカタリアから悲鳴が上がり、びっくりしたジュリアが泣き出した。
ビビアは荷台からバートンの頭越しに前方上空へ向けて急いで光球を放った。
「アイアンボアだ!」
バートンの叫びが響き渡った。
一帯が明るくなるとそこにいた魔物はアイアンボアだった。甲冑を着込んだかのような皮膚の装甲板をまとっている。ギルド認定でC級上位とされるかなり危険な猪型の魔物だ。
その体躯は子牛程の大きさで、弓なりに反った大きな牙から血が滴っている。
馬は腹を串刺しにされたようで、力なく足掻いていた。
「ビビア様、援護を!」
その言葉よりも早くビビアは馬車を降り前方へ走っていた。代わりに御者席のバートンが馬車後部の護衛に着く。ビビアは騎士と並び立ちアイアンボアの前に立ちはだかった。
すぐに後方にいた騎士も加わりビビアの横で槍を構える。
街道脇に飛ばされた騎士がよろめきながら立ち上がった時、その騎士に向かってアイアンボアが突進した。
「バッケス!避けろ!」
咄嗟に一人の騎士が叫んだがバッケスはふらふらしていてアイアンボアを見ていなかった。
「ファイヤーアロー!」ビビアが立て続けに2本の火矢を打ち込むが、全く意に介さない。
「ぐぎゃぁー!」
『バッケス!!』
その騎士は断末魔を残し甲冑もろとも牙で貫抜かれた。
頭部をブンと振り回し、刺さった騎士を放り飛ばすと、次の獲物を選ぶかのように見比べながら前足で土を掻いている。
バッケスという騎士は上空に放り出されると枝を揺らして落ちてきた。助かる見込みなんてない。
背後からジュリアの泣き叫ぶ声が聞こえている。泣き声に危機感が煽られるようで静かにさせたいが、今は構ってあげられない。
隣に立つ騎士が威圧負けしたかのように一歩後ずさった。
ビビアが一歩前に出た形となり、アイアンボアは次の標的をビビアに定めたようだった。
目が合った瞬間ビビアの脳裏に、かつて洞窟の奥で熊系魔獣に障壁を一撃で破られた記憶がよぎった。
「シールド!」
咄嗟に3重の魔法障壁を出した。
かなりの魔力を込めた固い障壁だったが、2枚がバシン!と音を立て砕け散った。
アイアンボアはいったん後退して距離を取り、また土を掻いて突進の構えを見せる。
目の端に、騎士の構える槍先がブルブル震えているのが分かった。
「ウォーターフロー!」
ビビアは大量の水流を作り出し、アイアンボアの足元へ流し込んだ。アイアンボアは関係ないと言わんばかりに再び突き進んできた。
「アイスフィールド!」
とその大量の水を一気に氷結させた。
ガフッ!ガフッ!
四つ足の関節部まで氷漬けにされてアイアンボアの突進がぴたりと止まった。
藻掻き逃れようとしているが、こうなれば抜け出せるものではない。
牙を振り回し威嚇するアイアンボアを二人の騎士が両側から挟むようにしてゆっくりと近づく。牽制しながら槍を突き出して何とか首筋の皮膚装甲の隙間から動脈を断ち切り止めを刺した。
未だもがき苦しむ倒れた馬には安らぎを与えた。亡くなった騎士は鎧を取り、火葬してその場に手早く埋葬した。
遺体を放置すれば埋めたとしても魔物が匂いを頼りに土を掘り返して喰い尽くしてしまう。森の中で人が死んだ場合、極力火葬して埋めるのが礼儀であった。
ただし馬とボアは放置する。瘴気が無ければアンデッド化することもないからだ。
(こんなところに埋葬してごめんなさい。無事に戻れたら街の墓地へ移すから今は勘弁してね)
ビビアは状況が許さないとはいえこのような場所に埋葬するしかなかった騎士に罪悪感を覚えた。
魔物の襲撃も護衛騎士の落命も予め想定していた。だからと言って受け入れられるものではない。一人の若い騎士の命がビビアの心に重くのしかかる。
(ごめんなさい。そしてありがとう)
まだ焼け残りのある遺体に土をかけ墓標代わりの剣を突き立てた。
護衛騎士を一騎失い、ビビア達は再び夜の森を走り出した。
≪荷馬車の中≫
馬車が急停車すると、驚いたジュリアが目を覚まし泣き出した。
「アイアンボアだ!」
前方から騎士が怒鳴る声が聞こえてきた。
「キャゥ~ン」
ダグも怯えて情けない声を出してジュリアの足にしがみついた。
カタリアはジュリアを抱きしめて落ちとかせようようと小さな背に手を当てた。
「だ、大丈夫ですよ。こ、こ、怖くなんてない。怖いことなんてないんですよ」
カタリアの声は震えているからちっとも怖く無くなんてならない。
バシュン!バシュン!
音と共に赤い閃光が前方で弾けた。
そこに騎士の叫ぶ声に打撃音と悲鳴とさらには魔物の荒々しい息遣いまでが聞こえてきた。
「ヒーッ」
「怖いよぅー怖いよーおかあさまーうわーん」
恐怖がピークに達した。カタリアが小さく悲鳴を上げ耳を塞いだ。ジュリアも更に火が付いたように泣き出してしまった。
キースも泣きだしたい気持ちを必死に堪えてジュリアの頭を抱きしめてあげた。
「今お母様が魔物と戦ってるんだ。騎士の人もお母様もすごく強いから大丈夫だよ。どんな魔物だってすぐに倒してくれるに決まってる。だから、怖くてももう少し我慢しよ?」
と言いながらジュリアの小さな頭を何度も撫でてあげる。
ジュリアは頷くとヒックヒックと声を押し殺そうとしているが、その小さな体がプルプルと震えていた。
ダグも怖いのだろう。尻尾を丸めてジュリアのお腹に顔をうずめている。
カタリアは自分がしっかりしなければと思いなおしたのだろうか。
両腕で二人を抱きかかえた。
「そ、そうですよ。キース様の言う通りですとも。ビ、ビビア様は以前魔術師団で魔物退治をしていたんですからね。ほ、本当にお強いんですよ!だ、だから絶対大丈夫。絶対だ、大丈夫ですとも!」
と励ましているが、カタリアの歯の根もカチカチと音を立てていた。
そんなカタリアに背後の護衛を担当しているバートンが明るく声を掛けた。
「カタリア。そんなに声がふるえていたら励ましになんねーぞ。嬢ちゃんと坊ちゃんは俺がちゃんと守ってやるから心配するな。あ、ついでにカタリアもな!」
「バートン!私はあなたの妻なのについで扱いですか?ちゃんと私のことも守ってくださいませ!」
思わず大きな声で抗議したカタリアの声は震えてはいなかった。