瘴気の赤子
“おぎゃーおぎゃー”
その日、クリフロード子爵家に待望の長男が誕生した。
夏真っ盛りの良く晴れた日だった。
アッシュ・ロブ・クリフロードは妻のビビアに我が子のために考えた名を告げた。
「この子の名はキース。キース・ロブ・クリフロードだ」
ビビアが柔らかい白布にくるまれた我が子をいとおし気に見つめて「キース、キース」と呼びかけるように呟いた。疲れ切った顔に優しい微笑みを浮かべている。
その日クリフロード家は歓喜に沸いた。アッシュの両親である領主夫妻と、騎士見習いの弟のケビン、ほかに家宰を含めた使用人たちの顔にも気色が浮かんでいた。
クリフロード家の慶事はすぐに屋敷の外へも伝わり、翌日には耳聡い街の有力者や商人たちがひっきりなしに祝いの品を持ってやってきた。
その対応はもっぱら領主が行っている。
辺境の地で騎士団を率いてきた領主レオルドはいまだ壮健で疲れを見せず、にこやかに皆からの祝辞を受けていた。
初孫がうれしくて仕方ないのだ。
生まれたばかりの孫自慢に花を咲かせて、居並ぶ侍従もにこやかに相槌を打っている。
幸せに満ち溢れた領主一族の姿に、祝賀の訪問客はこの地の安泰に期待を寄せていた。
キースの誕生から2日が過ぎた。
屋敷の執務室で当主のレオルドは頭を抱えていた。身じろぎもせず大きなため息ばかりを幾度も飽くことなく吐いている。
向かいに座る妻ハンナはハンカチで真っ赤に腫れた目元を拭っては鼻をすすっていた。
初孫誕生の喜びなど感じさせぬ重たく苦しい空気が満ちていた。
キースはビビアの寝室の隅に据えられた赤子用の寝台で弱々しく泣いていた。
そんな我が子をアッシュとビビアは身を寄せ合って見つめているしかなかった。
その小さな体を黒い靄が覆っているからだ。
誕生したその日からうっすらと靄が立ち始め、それがどんどん濃くなっていった。
「どうしてこんなことに・・」
ビビアがこの2日間何度もつぶやいた言葉をまた呟く。
悲しみと辛さに顔を歪めてアッシュにまた同じ言葉を続けた。
「ごめんなさい‥私のせいでこんなことに・・キース、ちゃんと生んであげられなくてごめんなさい」と。
アッシュは勿論ビビアにもこの黒い靄の正体は分かっていた。
瘴気だ。
瘴気は生物の体を蝕み屍人に落とす。
屍人は理性を失い生者を攻撃する。
その瘴気が強いほど強力な屍人になって周囲に大きな災いをもたらすことになる。
だから二人は愛しい我が子を見ているしかなかった。
抱き上げれば、自分が瘴気に冒されてしまう。
自分達の身が瘴気に冒されることは構わないと思うのだが、その先を考えるとどうしようもないという結論が出てしまう。
ビビアは抱き上げて乳を与えることもできず、キースの泣き声が徐々にか細くなる事に心を痛めていた。苦しむ我が子に何もしてやれることがない。そしてひたすら自分を責める事しかできないのが発狂しそうなほどにもどかしい。
瘴気を払うためには聖魔法を使えばいい。ビビアも聖魔法は使えるのだ。
しかし、なぜか我が子にまとわりつく瘴気を払うことができなかった。
そもそも瘴気をまとった者は本来生者たりえない。死者がまとうものなのだ。そこからして何が起きているのか二人には理解できなかった。
ゆえに、アッシュもビビアも唯々悲嘆にくれるより他なかった。
ただ、ビビアは、こんな事態を予期していなかったが、思い返せば確かに心当たりがあった。
5年前・・
ビビアの実家はジルべリア王国南部に位置するボスコート男爵家である。
幼少期を領地で過ごし、その後を王都の屋敷で育てられた。
ボスコート家からは代々魔力に長けた者が排出され、王国軍の要である魔法部隊や、宮廷魔術師団といった栄誉ある職に就く者が多かった。
ビビアは魔術学院を主席で卒業すると、若くして魔術師団へ入団した。
魔術の才能に溢れた者が集まるような場であったが、その中でビビアの魔力は他を抜いていた。
魔法部隊は王国騎士団と共に戦場へ赴き、大規模魔法による敵殲滅攻撃を主任務とする。最も、今は戦場もなく平和なため修練がもっぱらの任務となっているが。
対して、ビビアの入団した宮廷魔術師団は、魔法部隊よりも実践的になる。王国や地方領主の要請を受け、現地で貴族領騎士団と共に魔物を討伐したり、瘴気の湧き点を調査、浄化を主任務としている。
今から5年前・・
入団して2年が過ぎ、幾度かの実践を経てビビアも実戦力として信頼され始めた時だった。
とある侯爵家の要請により、領内に発生した大規模な瘴気の浄化を行うため、フェルダール師団長以下10名で現地へ赴いた。
現場はゴルゴン山の麓、一帯を広範囲で瘴気の靄が覆い、辺り一面に枯れた大木が不気味に林立している。
瘴気にあてられアンデット化した魔物を屠りながら、風魔法と聖魔法で靄を払いつつ師団員と合流した侯爵家騎士団が黒靄の中を進んでゆく。
その瘴気は山裾にぽっかりと空いた大きな洞窟からあふれ出ていた。入口は見上げるほど高く横幅も広い。
これが、瘴気でなく魔素溜りによるものであれば問題なかった。濃い魔素溜りは通常ダンジョンを生み出し、そこから得られる魔物素材はその領地に大きな利益を生み出すからだ。
しかし、瘴気は放っておけばどんどん周囲を侵食し、生じたアンデッドが見境なく生き物を殺してしまう。
早急に手を打つべく、総勢30人の部隊と共にビビアは洞窟へと足を踏み入れた。
宙に光球をいくつも浮かべ視界を確保しつつ、風魔法で全員が収まるほどの新鮮な空気の塊を作る。ちょうど大きなシャボン玉の中にいるような感じだ。
途中現れる人の腕ほどもあるムカデや巨大蝙蝠のアンデッドを討伐しつつ先頭の大柄な騎士に続きビビアは奥へ奥へと進んでゆく。
奥に進むにつれ、地味魍魎の類の魔物が多くなり、ついに湧き点にたどり着いた。
そこは洞窟の最奥。広い空洞の底から黒い泉がボコボコと泡を吹きあげていた。
瘴気は泡が弾けるたびに吐き出され、光球を増やしても分厚い黒い靄で視界が悪い。
その闇の向こうから突然攻撃を受けた。
ビビアが咄嗟に張った魔法障壁を4本の爪が一撃したのだ。
淡い赤色の光を帯びた魔法陣がガラスの破片のごとく砕け散った。
その威力にほんの一瞬、ビビアの体がこわばった。
それが致命的だった。
刹那、空気の幕を破りその爪は騎士とビビアを同時に弾き飛ばした。
ビビアは悲鳴を上げる間もなく宙を飛ばされ、壁面に叩きつけられると瘴気の泉に落下した。
ビビアは意識を消失した。
目が覚めると、ビビアは聖堂にある治療院のベッドに横たわっていた。
回復魔法で体に受けた傷はすでに癒されている。
何が起きたのか分からず混乱するビビアにフェルダール師団長が説明をしてくれた。
曰く、ビビアを襲った魔物は熊系魔獣のアンデッドであったこと、戦闘で8名の騎士が落命したこと、フェルダールが魔物を倒し魔術師団員により瘴気は無事払われたことなど。
ビビアについては、瘴気の泉に落ちたためアンデッド化したと思われていたが、なぜか浄化された泉から無事救出された。深手を負っていたため、治療院に移されすでに5日が経過していた。
ビビアがなぜ瘴気に冒されなかったのかは不明であまりに不可思議な症例だと言われた。
その後、体に何の異変も起こることなくビビアは当時のことを思い出すことも少なくなっていた。
あれから5年。アッシュと結婚し辺境の地に移り住んでキースを宿した。
(何の異変も不安も感じなかったのに)
深い溜息とともにまた涙が枕を濡らす。
(きっとあの時の瘴気が私の体内に残っていたんだ。それがなぜか胎児に移ってしまったのではないか・・)
ビビアはあの時の情景から何かヒントになる記憶を何度も思い出そうとした。
しかし、どう考えてもあり得ない状況ばかりで思考がまとまらない。いくら考えても分からないことばかりで何も解決に至らない。
そこに、クリフロード子爵家の門を叩く者が現れた。