表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/140

お刺身が食べたい

 馬車の旅は、意外に快適だった。

 目的地まではレンガが敷かれているし、馬車自体にもサスペンションの様なものが付いていてあまり揺れる事もなかった。

 この間の王都までの移動で慣れたというのもあろう。

 来るときはほとんど見られなかった、車窓の風景すら見る余裕さえ有った。


「海が見えてきましたね。あれは港でしょうか?」

「私、海を直に見たのは初めてです。幻影の海なら何度か見たことが有るのですが」

「僕も初めてですね」


 この世界では。


 日本ならほとんどの自治体が海に接していたし、車や電車を使えば数時間もあれば海が見られるが、こっちでは気軽に海水浴なんてわけにはいきませんからねぇ。

 高台の草原を走ることしばし。ぽつぽつと畑や建物などが増え始め、やがて畑よりも家が増えていった。

 この国には城塞都市の様な巨大な壁は無い。

 ここからが街という区切りは無く結構境界は曖昧だ。

 王都に有るのも城ではなく宮殿だし。


 そもそも街を覆うような壁を作るには膨大な労力とコストが必要だ。

 安価な奴隷を他国から大量に調達でもしない限り、街全体を覆う壁など作れるはずもない。

 作れるとすれば、せいぜい砦や、城の周りを囲う城壁位なものだ。

 しかも魔法が存在し空飛ぶ魔物がいるわけで、城壁があまり役に立たない。かえって逃げる時の邪魔になる場合もあるので、大規模な壁は無用とされている。


 さて、僕らが向かっているのは港町近くにある離宮だった。

 港といっても、ちょっと整備された漁港といったところだろう。

 港自体あまり大きくはないし、大きな船はもっと王都に近い港を利用する。


 ここは中途半端に王都が近い為、大型船はほぼ素通りらしい。

 港は大型船を泊められるほどの深さも無いし。

 その分漁が盛んで、獲れた魚介類はそのまま陸路で王都に直送されるか、ここで加工され、近隣へ配送されるとのことだ。

 ただし僕の暮らす公爵領には、まず魚介類が入って来ることはない。

 僕らのいる公爵領は、ずいぶんと内陸に有るからね。

 ここから魚を運ぶ事が不可能というわけではないが、運送費がとんでもないことになるし、それを買えるとすれば、我が公爵家位しか無いので必要数がものすごく少ない。

 まれに行商人が何かのついでに持ち込む程度で、それもあまり状態のいいものではない事もあって、極希に持ち込まれる状態のいいものは、父上に出されてそれでお終いになる。

 川魚が獲れないこともないのだが、大陸の川は長くて広く、公爵領くらいまで内陸に入ってもすでに中下流域になるようだ。

 中流域以下ともなると川底には泥が多くなり、川底に潜む生物などを食べている魚は基本的に泥臭い。

 泥抜きすればいいかもしれないが大陸ではきれいな水は貴重で、魚に飲ますくらいなら人間が飲む。

 酒を水代わりにするような土地だからね。

 日本のような清水はほとんど存在しないため、公爵領での魚は比較的貧しい人間の食べ物となっている。

 清水がないため本わさびもない。

 西洋わさびなら見つかるかもしれないが、この辺では利用されていないようだ。


 魚料理は王都で何度か出された事はあるが、スープかムニエルっぽいもので、塩焼きや刺身などは出たことはない。

 何というか、宮廷料理人には、手間をかけなければならないという規則でもあるのか、シンプルな料理など、出たことはない。

 和食のような素材を生かした素朴な料理など、料理ではないと言わんばかりに手の込んだ料理ばかりが出てくるのだ。

 実家では転生自覚前の僕が色々リクエストしたせいで、素朴な料理もわりかし出てくるようになったが、うまいが貴族の料理ではないと注釈がつく。

 まあ、シンプルな料理というのは素材の良さがもろにわかるから、食材の保存技術が発達していないこの世界だと難しいのかもしれない。

 本当かどうかは知らないが、向こうの世界で昔、胡椒がもてはやされたのは、悪くなった肉の臭みを消すためとか聞いたことがあるし。

 なのでうちの料理長もいい素材が手に入らない場合は、僕のリクエストには答えてくれなかった。


 少しでも出してくれるだけでもありがたかったけどね。

 結構無茶を言いました、過去の自分。

 ただ、贅沢を言えば醤油があればと思わないでもないが、こちらは無理だと諦めた。


 発酵食品というのは、長年の勘と経験そして実績が無くてはどうにもならないからね。

 恐らく麹菌は見つけられるだろうし、分離もなんとかなるだろう。

 麹菌は確かアルカリに強いので、アルカリ性の菌床を作ってやれば、他の菌が死に麹菌だけ残るはずだ。

 アルカリは石鹸でおなじみの木灰で作れるし。

 まあ、どの程度のアルカリ濃度にするかは、試行錯誤が必要だろうが。


 菌自体も稲穂なんかに付着しているとか聞いたことがある。

 菌は自分のエネルギーになる食品にくっつく。

 というか、そうでない物に付着すれば飢えて死ぬわけだからね。

 米麹というくらいだから、麹菌は米を栄養にすることが出来、米の周りなら生き延びられる。

 そこから麹菌が得られるはずだ。

 昔のワインなんかもぶどうに付着した酵母で発酵させてるし。

 豆なんかにくっつくものもあるけど、こっちは豆味噌用だね。

 麹菌にも得意分野があって、デンプンを分解するのが得意なやつと、タンパク質を分解するのが得意なのがいたりして、なかなか奥が深い。


 菌が得られたとしても問題はその後だ。

 麹菌を分離できたとしてもそれが醤油づくりに適しているかわからないし、人体に影響がないかも今の科学技術では確認のしようがない。


 いや、方法がないわけではないが、できればやりたくない。

 醤油作りに最適な菌を見つけだすには、膨大な時間と多くの犠牲が伴う。

 麹菌は種類によっては毒を作るものもあって、安易に利用できないのだ。

 食べてすぐに中毒を起こす毒もあれば、何年何十年と摂取しないと影響が分からない毒もある。

 分析技術の発達していないこの世界で、実績のない菌を使うということは、人体実験するに等しい。


 日本には毒を作らない日本固有の麹菌があり、それを麹屋が守り育ててきたから、今の醤油や味噌、日本酒といった文化へと発展してきた。

 一時麹菌を使った食品は毒があるから危険と言われたことがあるが、日本の研究者が日本固有の麹菌には毒を生成する機能はないとゲノム解析により証明したのは、そんなに昔の話ではない。

 どこかに同じような文化を育んできた民族でも見つかればいいが、これも期待はできないだろう。


 食文化というものは、少しずつ形を変えて遠方へと伝わっていくものだ。

 もし近くに麹菌を利用する文化があれば、それを利用する食品のひとつふたつ伝わって来てもおかしくはない。

 特に発酵食品は長期保存が利くものが多いから、遠方にも運びやすい。

 しかし僕の知る限りそのような物はないし、うちの料理長も知らなかった。

 料理長は、元王宮の宮廷料理人だからね。

 王都に流通している食品について並外れた知識が有ったはずだ。

 それでも知らないとなれば、近くに麹菌を利用する民族はいない可能性が高い。

 転生前は刺身を肴に日本酒で一杯やるのが楽しみのひとつだったが、この世界では無理そうだ。


 日本酒や醤油以外の和食系も難しいだろう。

 和食はこの麹菌を使った調味料が多く使われているからね。

 味噌醤油、みりんに日本酒に米酢。

 近年注目の米麹。

 みんな麹菌が必要だ。

 鰹節なんかにも麹カビが使われてたはずだ。こっちは麹カビでなくてもいいみたいだが。


 まてよ。

 糖化するだけなら麹は必要ないんじゃね?

 ビールだって麦芽酵素で糖化しているんだから、米も行けるはず。

 麦芽じゃなくて発芽玄米にも分解酵素があったはずだから、こっちを使えば米の風味を保ったまま糖化ができるかもしれない。

 糖化さえしてしまえばあとは酵母の仕事だから、日本酒っぽいものができるかも。

 とはいえ、麹を使ったのと同じように、糖化と酵母によるアルコール分解が同時にできるものなのだろうか?

 日本酒が醸造酒として例外的にアルコール度数が高いのは、デンプンの糖化とアルコール分解を同時に行っているからだ。

 酵母は糖度が高いと生きられないからね。

 とはいえ、普通市場に出てくる日本酒は一五度前後。

 通常は二〇度前後くらいになる原酒に加水して、この度数に調整するのであるが、これはワインより少し高い程度。

 糖度をワイン程度に調整すれば、日本酒っぽいものができるかもしれないな。

 まあ、米を手に入れないことにはどうにもならないんだけど。


 問題は醤油だけではなく、生魚を安全に食えそうにないというところにもある。

 生魚を食べる為には、徹底した衛生管理が必要だ。

 生魚に毒がないことの確認はもちろん、魚を捕る、それを運ぶ、売る、買った魚を適切に保存し、適切に調理する。

 生産から消費まで、衛生管理を徹底しないと生魚は食えない。

 また冷凍と解凍技術が必要になることもある。

 アニサキス等の寄生虫の対処はガチガチに冷凍させるのが定番だ。

 魔法で冷凍できないわけではないが、冷凍するときの温度や時間、解凍方法の違いで味に差が出るし、場合によっては死滅しないということもあり得る。

 経験や実証が必要であるし、試して駄目であれば、医療の発達していないこの世界では、致命的になりかねない。


 日本ですら食中毒がなかった訳ではないし、外国だと生で食える方が珍しいかもしれない。

 近年は寿司ブームで生食できるところが増えてきているとは言うが、どこまで信用できるかわからない。

 日本以外だと生卵だって食えるか怪しいのだ。事前に調べてから食べないと大変なことになる。

 この世界で刺身を食べようと思えば、釣りたてをその場で捌くか、生け簀にでも入れて、運んできたものを使うしかない。

 通常寄生虫というやつは内臓や皮膚に寄生し、死ぬと肉に食い込んでいくらしいので、絞めて即内臓と皮を除去すれば、危険度はだいぶ下がるはず。


 コストは高くなるが不可能ではない。


 不可能ではないが、生で食べる習慣がないと、危険は完全に払拭されるわけでもない。

 未知の菌や寄生虫がいるかもしれないからだ。

 これらは火を通せば大抵は無害になってしまうので、生で食べた時に害を及ぼす可能性は否定できない。

 大豆やうなぎの血のように火を通せば無害あるいは弱毒化する毒があるかもしれない。

 何時も生で食べているという実績がないものは口にしないのが身のためだ。

 まあ、うなぎ血の毒性は低く相当たくさん摂取しない限り問題はないらしいが、いつもそれを期待するわけにはいかない。


 ここは異世界なのだ。


 口にするもの全てに危険があると考えるべきだ。

 サバイバル時にパッチテストなんかを行って、食べられるものを探すみたいな話も聞くが、あくまで緊急時だから許されるわけで、長期的な摂取で安全かは保証されないということを忘れてはいけない。

 向こうの世界だって食品や食品添加物に健康被害を起こしうる物質が含まれていると話題になることもしばし。

 場合によっては容器から溶け出したりなど、食品以外からでも毒性のある物質を摂取してしまったなどという話も聞いたことがある。

 検査技術が発達している向こうでさえ、すべての毒を検知できているわけではないのに、ましてや科学も技術も発達していないこの世界では、毒かそうでないかを見分けるには多くの犠牲に基いた経験しかない。

 醤油とわさびが無い刺身にそれだけのリスクとコストをかける価値が有るかどうか。

 魚のカルパッチョのように、醤油とわさびを使わないレシピが無いわけではないが、やはりこれじゃない感が漂う。


 まあ、塩焼きでも十分旨いから、今生はそれで我慢するしかない。

 目的地である離宮で出してくれるといいのだが。

 到着は昼前の予定だから、昼食が振る舞われるはずだ。

 本命は上級精霊使いとはいえ、名目上は遊びに来たことになっているし、王族同士の邂逅なのだから、それなりの格式が求められる。

 用事だけを済ませて、はいさようならとはいかない。

 なんとも面倒な事だが、この立場があったからこそ、魔導に触れる事が出来たし『パソコン』も作れた。

 貴族が贅沢出来るのも義務を果たしているからであり、これもまあ仕事とすれば楽な部類に入るわけで、この程度で文句を言うのは贅沢というものだ。


 この小説の気候や地形で参考にしたのがドイツなのですが、ドイツもやはり新鮮な魚はあまり食べられていないらしく、魚料理もあまり発達していないようです。

 近年は寿司などの影響で多少は食べられるようになったようですが、その殆どは輸入魚。

 川魚も食べないこともないのですが、やはりあまり美味しくないので、あまり食べられなくなったとか。

 やはり食生活はその土地で採れるものが中心となりますから、人柄や土地柄が違う日本食はなかなかハードルが高いようです。

 ネット小説では割と簡単に再現していますけど、食物チートでもなければ、一生かかっていくつか再現できればマシなのではないでしょうか。

 まあ、そんな気の長い小説は読む人も書く人もいなさそうですけどw


※食品は毒「を」があるから->食品は毒があるから、に修正


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ