余生のその先
三話目、決意表明します。
定年後の記憶がない。
そこで死んだのか、それとも単に思い出せないのか。
死の瞬間の記憶がなくてとりあえず良かったとは思う。
そんなの覚えていたら、PTSDになりそうだ。
まあ今後思い出す可能性もあるが。
どうせトラックか何かに轢かれたのだろう。
そんなもの思い出したくもない。
僕の記憶は今思い出したものではない。
多分ずっと前からあった。
今思えば、この世界にはないテレビやらゲームやらの記憶があったし、魔法が存在していないことも知っていた。
だが、異世界に生まれ変わった、とは思い至らなかったのだ。
多分、すべての記憶がつながっていなかったか、脳の機能が十分発達していなかったため考えが及ばなかったのではないかと思う。
記憶があろうと脳が未発達なら、思考力だって未発達だろう。
酒で酔っ払うと記憶がなくなったり、タガが外れてしまうのは、脳の機能が阻害されてしまうからだ。
脳に十分な機能が備わっていない状態ではいくら記憶があろうとも、その思考力は幼児と同じ程度しかないのだろう。
だが今、十分な思考力を取り戻し、個別にあった記憶がつながった、あるいは繋がり始めたということなのではあるまいか。
なんでも記憶には意味記憶やエピソード記憶というものがあるらしい。
意味記憶はそれぞれの意味を記憶しエピソード記憶はそれらの意味を関連付ける記憶だ。
僕はこれまで意味記憶はある程度取り戻していたがエピソード記憶はとりもどしていなかった。
それが精霊語の授業で、プログラム言語に似ていると思った瞬間、すべてが繋がったのだ。
「…ト様? アルカイト様、聞いていらっしゃいますか?」
僕はその声でハッとする。
そうだ、まだ授業中であった。
中身がおじさん・じいさん? だと気が付かれてはならない。
「すみません、先生。これまで自分が思っていたのとはずいぶん違うので少しぼうっとしていました」
「アルカイト様が思っていたイメージとは、もっと呪文ぽいものですか?」
「…そうです。魔法使いが出てくる物語はだいたい詩的な文言で魔法を行使しますから」
僕はとっさにそう言ってごまかす。
「魔法使いも補助としてシーケンスを使いますが、精霊語をそのまま小説や伝記に書くわけにはいきませんので意訳しているのです。どう意訳するかは物語を書く作者に依存しますし、子供向けとなればなおさら格好いい表現をしようとしますから。
現実には精霊に細かなことを一から十まで教えるかのように指示するので、詩的な表現とはかけ離れたものになります」
「つまり、道を知らない人に道を教えるようなものでしょうか?」
「近いものはありますね。人への説明であれば、道なりに真っすぐ行って突き当りを右へなどと説明しますが、精霊へは前方へ十メートル、右九〇度へ三〇メートルなど、もっと細かな数値で指示します」
「精霊は距離や角度を認識できるのですか?」
ちなみに『メートル』というのは僕の意訳だ。
異世界なのでもちろん言葉や単位はまったく違うが、こっちのほうが自分にとってわかりやすいので、そう呼ぶこととする。
「できます。というか今使っている単位は精霊語なのです。それまでは大人の一歩を距離の基準としたり、角度も二四分割くらいしかなかったらしいです。大人の一歩ですから大柄な人と小柄な人では距離が違うということが当たり前にあったのです。
しかし精霊が一メートルといえばきっちり一メートルで、そこに曖昧さはありません。その正確さを利用して様々な単位が作られたと言われています」
なるほど。
地球でも、近代になるまで長さや重さ、時間なども割と適当であった。
キログラム原器ですら付着物がついたりなどといった経年劣化で正確さが失われるということも聞く。
メートル原器や時間は普遍的な物理現象をベースとする物に変えられ、元となった長さや時間よりも正確だ。キログラム原器もそのうち不変な物理量を基準に決まられるようになるだろう。いや、もう変わってたんだっけ? 今となっては確認のしようもないけど。
精霊が正確な距離や角度、時間を測れるのであればそれを利用しようとするのは当然か。
「精霊が認識する言葉はこの精霊語辞典を見るといいでしょう。今後はこれと実際の魔導書や魔導具に使われている一般的なシーケンスを使って勉強していきます」
先生は一冊の本を僕に渡しました。
かなり厚い本ですけどページ数はそれほどでもないようだ。
現在の技術ではそれほど薄くて丈夫な紙が作れないから、どうしても厚みが出てしまう。
「まだ精霊語は読めないと思いますが、単語ひとつひとつに解説や例題がついていますので、どのような言葉があるか時間があるときにでも見ておくと良いでしょう」
先生はそういってはじめての精霊語の授業を締めくくった。
先生が部屋を出ていくとしばらく休憩時間となる。
僕付きのメイドがお茶の準備をしてくれたので、僕はそれを飲みながらこれまでのこと、これからのことについて考えていた。
「まさか僕が転生するとはね」
一体どういう状況でなぜ異世界に転生したのかはわからない。
いや、転生と言ってるが実はこちらの子供に憑依したのかもしれない。
通勤の暇つぶしに読んでいたネット小説でよくある設定であったが、神にも会っていないし、召喚された記憶もない。
もちろんチートスキルもなければステータスも見えない。
これが異世界召喚なら、無能者として追放されるレベルだね。
そういやクラス召喚とかで、無能者を追い出すのはテンプレ化しているけど、誰も考えないのかね? 怪我でもして自分も無能者になったら、次に追い出されるのは自分だってこと。
チートをもらったから自分だけは大丈夫って考えでそうなるのだろうか、はたまた幼い子供だからそうなるのか。
ぶっちゃけ、物語的にそうしないとザマぁができないからってのが正しいかw
今回は集団転移でも召喚でもないから、チートがなくても追放からのザマぁはない。
比べられる人がいないからね。
いや、前世の記憶があるというのはある意味チートだし、ステータスももしかして見えるかもしれない。
「ステータス…メニュー…」
聞かれると恥ずかしいので小声でつぶやいてみたが、ステータスもメニューも出てこない。
というか聞かれなくても六〇過ぎの爺さんには普通に恥ずかしかった。
「となると異世界物の定番であるアイテムボックスや鑑定なんかもないんだろうな」
僕は念のために恥ずかしさをこらえてアイテムボックス、鑑定と唱えてみたが、もちろんそんなものが発動するはずもない。
恥ずかしさが更に倍になっただけだった。
昔のアドベンチャーゲームみたいな言葉探しでこれ以上恥をさらすのは嫌なので早々に諦めた。
確かに同じ年頃の子供より頭がいいと言われているが、それは前世の記憶のせいだろうし、特に力が強いというわけでもない。一応剣術も習っているが筋が良いとは言われたことはないし、同じ年頃の子供と比べてもまあ普通か下の方であろう。
つまりできるとすれば知識チート物だけか。
知識チートといえば定番は手押しポンプや馬車のサスペンションか。料理系なら唐揚げやマヨネーズ、蒸留酒なんてお酒系もあったな。
あとはリバーシなどのゲーム系か。
他になにかあったっけ?
「うおー、アイデアプロセッサがほしい。せめてエディタがあれば……」
考えをまとめるときアイデアプロセッサをよく使ったものである。
階層化したり関連付けしたり、なかなか便利だったのだが、もちろんこの世界にはない。
「あれ、そういえば僕が転生したのに気がついたのは精霊語がプログラム言語に似ていたからだった」
もちろん文法が似ているのではない。シーケンスというその考え方が似ているのだ。
というかまだ一文字も精霊語を見ていない。
先生は精霊語を見せてくれなかったし、辞書もまだ開いていないからだ。
「まさかこれが日本語とか英語とか、プログラム言語とかはないよな」
僕は恐る恐る精霊語辞典を開く。
「うん、わかっていたとも」
そこには日本語とも英語とも似ても似つかぬ文字が書かれていた。
ちょっとルーン文字っぽいか?
文字の形はそんなに多くない。二〇種類かそこらか。
一文字あるいは二文字の組み合わせで言葉が表現されていることから、ローマ字のような表音文字なのだろう。
一文字は母音で二文字の一文字目は子音か。
文字数は多くないので発音もそんなに多くないのかもしれない。
位置によって発音が変わるとか、変な例外ルールがなければ、読むこと自体は難しくなさそうだ。
「プログラム言語に最低限必要な要素は、計算、条件分岐、そして曖昧さの排除だ」
計算ができなければコンピュータとは言えない。
そもそもコンピュータとは計算する人の意味だったのだが、それがいつしか電子計算機のことを意味するようになっていったらしい。
なので計算しなければコンピュータではない。
精霊は数字や単位を理解できるので、計算くらいはできそうだ。
次に条件分岐だが、これができなければ、上から下まで順番に流れてそれで終わってしまう。
流れを変化させるためには条件分岐が欠かせない。
たしか先生は授業で、シーケンスとして一文目に【発火を起動キーワードとする】三文目に【起動キーワードを待て】を配置していた。これは条件による起動。つまり条件分とも言える。
発動キーワードをたくさん並べればC言語で言うswitch~case文としても使えるであろう。
どちらかといえば割り込みかイベントドリブン的な使い方になるかもしれない。
if文やgoto文のような言葉があればいいのだが、なければこの発動キーワードでなんとかする他ない。
なんにしろもう少し授業が進まないと何ができるかわからない。
もしプログラミング言語に必要な要素がすべて揃っていたら、精霊語をプログラミング言語として使えるかもしれない。
僕は定年後初めてこの身が震えるのを感じた。
この世界にパソコンのようなものはない。
父上やそれに付き従う文官は手書きで予算書や経理書類を作っている。
それは前に父上の仕事を見学させてもらったから知っている。
それどころか五歳のときに無自覚ながら自分の記憶にあった財務諸表のことを教え、現在はそれをもとに領地運営をしていて、僕も時々手伝ってさえいたりする。
もし今、コンピュータのようなものを作れれば、おそらく世界初である。
フォン・ノイマンのように現代コンピュータの父と呼ばれたり、アップルの創業者スティーブ・ジョブズのようになれるかもしれない。
何もやることのなかった余生に目標ができた。
「異世界のジョブズに、僕はなる!」
そう決意したところで、侍女見習いが次の授業の準備ができたと呼びに来た。
次はダンスである。
このまま精霊語の辞書を読みふけっていたいが、そうも行かない。
貴族でなくなればコンピュータの研究などやっている場合ではなくなる。
精霊語も大事だがダンスを踊れなければこれまたデビューさせてもらえない。
貴族とはままならぬものである。
異世界転生のパターンって今どのくらいあるのでしょうか。
超有名な異世界転生トラック(笑)を筆頭として、自殺他殺、事故、さらに子供を助けてとか猫を助けての複合パターン。
あとは神様の手違いミスからの土下座チートも結構な数がありますね。
大往生系や病気でなどというのもよく見かける気がします。
まあ、転生の場合はほぼ例外なく、死んじゃってますが(笑)。