社畜のトップ?
カリカリとペンの走る音、そして窓を叩く雨音が部屋に響く。
空には暗い海が広がる奈落の底だが、時たま思い出したように雨が降る。雨の間は魔法の光源も明度を落とすようで、まだ昼過ぎなのに薄暗い。
そう、こちらの空には光源と海しかない。雲一つないのに、どこからともなくシトシトと雨が降る――なんとも不思議な光景である。初め綾那は、まさか「表」の海水が漏れ出しているのではと不安に思ったものだ。しかし、どうやらこの雨もキューの魔法か天使の力で降る、ただの水らしい。
動画の企画について説明した翌日、綾那は颯月の執務室を訪れていた。この部屋へ足を踏み入れるのは、奈落の底に落ちた初日以来である。
あの時は幸成と和巳に相当詰められたが、今となっては良い思い出――という事にしておこう。
幸成は撮影のための日程調整に追われ、和巳も書類仕事で忙しいようだ。副長の竜禅は、颯月の元を離れて幸成の調整を手伝っているとの事。護衛を務める旭も、綾那が颯月と共に居る間はお役御免だ。他の騎士と訓練に勤しんでいる。
つまり、今日は颯月と二人きりだ。
颯月曰く、これから奈落の底で使われる撮影魔具――カメラの使い方を教えてくれるらしい。しかし、急遽彼が決裁しなければならない書類が舞い込んだ。綾那は仕事が終わるまで待っているよう言われて、大きなソファに腰掛けじっとしている。
目の前にある机の上には、カメラと二人分の茶器。そして、入室後すぐに外すよう言われた綾那のマスク。颯月はまだ執務机に座っているため、彼のカップは空っぽのままだ。綾那は自分のカップに入ったお茶を飲み干すと、ちらりと彼の様子を窺った。
彼は今日もいつも通りに、漆黒の騎士服に身を包んでいる。髪はハーフアップに結われ、長めの前髪が顔に影を落とし――書類を見下ろしていると妖艶な垂れ目が伏せられて、その周りを長い睫毛が縁取っている。
顔の右半分は黒革の眼帯で覆い隠されているが、左半分だけでも十分に魅力的だ。
(彫像かな……? 美術点5億兆ポイント――)
綾那は、颯月にうっとりと熱視線を送る。今日も彼は宇宙一格好いい――と。
こんな間近で神を眺めていて、罰が当たらないだろうか。こんなに幸せな待ち時間がこの世に存在するなんて――などと幸福に浸っていたのだが、ふと素朴な疑問が浮かび上がった。
(颯月さんて、いつ休んでるんだろう?)
綾那は、彼が騎士服を脱いだ姿を見た事がない。そもそも人員不足に喘ぐ騎士の休暇が、何日周期で回ってくるものなのかが想像つかない。しかし、休みなしで年がら年中働き続ける訳ではないだろう。そんな生活を続けていては死んでしまう。
ただ、以前二週間ほど幸成に付きっきりで監視された事もあったが、果たしてあの時、彼に休暇と呼べるものが存在しただろうか。
綾那の監視をしている間も、幸成は軍師として毎日騎士の指南をしていた。早朝から深夜までずっと働き詰めで、まともに眠る時間すらとれず――日が経つごとに彼の顔色とクマが酷くなっていったのは、記憶に新しい。
部下の幸成でアレなのだ。トップ――騎士団長を務める颯月の休暇はあるのかと思うと、途端に心配になってくる。うっとりとした表情はすっかり鳴りを潜め、綾那は眉根にシワを寄せた。
「――悪いな、もうすぐ終わるから」
書類を注視しているように見えて、どうも彼は視野が広いらしい。綾那の表情の変化に目敏く気付いたらしい颯月は、この待ち時間を不服に思っていると捉えたようだ。
綾那は「えっ」と声を上げた後、慌ててぶんぶんと首を振った。
「ごめんなさい、違うんです! 颯月さんって、お休みがあるのかなと思っていただけで――」
「休み? 疲れたら都度サボる事にしてる」
書類から目を離さないまま、颯月は「前にソレで痛い目を見たがな」と口にした。恐らく、正妃に連行された日の事を言っているのだろう。あの日彼は「仕事をサボった罰が当たった」と嘆いていた。
――いや、それはそれとして、綾那は彼の回答に顔を青くした。疲れたらサボるとはつまり、まともな休暇をとっていないという事である。
「お休み、取れないんですか?」
「いや、別に取れん訳ではないが――取ったところで、何すりゃ良いのかが分からん。だったら仕事してる方が楽だろう」
颯月の言葉に、綾那は「やだ、本物の社畜? やばい――」と震え声で呟いた。彼はまだ二十三歳と若い。若いはずなのに、これは一体どういう事だ。
一体いつからそんな生活を続けているのかは知らないが、企業のトップがこれでは、下の者も休むに休めないのではないだろうか。颯月自身が、アイドクレース騎士団のブラックさに拍車をかけてどうするのだ。
正直綾那もスタチューバーという職業柄、この七年間休みという休みは取っていない。好き放題生活している様を動画にして切り売りしていたため、ある意味毎日が休みであるとも言えるが――逆を言えば、動画について考えない日はなかった。面白いものを見れば「動画にしたい」、面白い事が起きれば「動画で話したい」と思う毎日だった。
しかし、大好きな絢葵に会うため、ライブやインストアイベントがある日は絶対に撮影しなかったし、イベントの依頼も受けなかった。曲がりなりにも、公私のオンオフはしっかりつけていたのだ。
――だが颯月には、公しかない。ただでさえ職務の多い騎士で、そこへ人手不足も相まって忙しいのは分かる。それは分かるが、些かやり過ぎである。
「ねえ颯月さん、やっぱり今日はカメラのお話やめにしません?」
「……なんで」
綾那の言葉に、颯月は手を止めて顔を上げた。その表情はやや不満そうである。
「いや、あの、働き過ぎだと思います。今日は私、部屋に戻りますから――颯月さんも手が空いているなら、お休みしたらいかがですか?」
「ダメだ、戻るな。折角アンタとゆっくり話せると思ったのに……なんで俺の楽しみを奪うんだよ」
綾那は、両手で顔を覆ってぐうと呻いた。ここで折れては彼のためにならないと思うのだが、しかしそんな事を言われては、戻れるはずもない。しばらく顔を覆ったまま呻いていた綾那だったが、やがて観念してソファの背もたれに身を沈めると、天井を仰いだ。
「このままでは、颯月さんに惑い殺される――」
「なんだ、惑い殺すって」
くつくつと喉を鳴らして笑う颯月に、綾那は身を起こして彼を見やると、深いため息を吐いた。
「……誘惑しないで欲しいという気持ちでいっぱいです」
「してない――誘惑ってのは、人の心を迷わせて悪い方面へ誘い込む事だろう」
言いながら颯月は数枚の書類を重ねて、机の上でトントンと音を立てて揃える。その紙束を机の端へ追いやると、上に重しをのせてペンを置いた。
彼の言わんとしている事が分からず、綾那は目を瞬かせる。颯月は綾那に視線を送ると、その左目を蠱惑的に細めた。
「俺のコレは、口説いてるだけだ」
「――颯様のファンサ (※ファンサービスの略)がえぐくて、私、死んじゃう……っ!」
「生きろ、生きろ」
ぼすんと音を立ててソファに沈み込んだ綾那を見て、颯月は噴き出した。そうして笑いながら立ち上がると、綾那の正面のソファへ移動して腰を下ろす。
「さてと――待たせたな、魔具の使い方を教えてやる」
「……平常心を取り戻すまで、ちょっと待ってください」
ソファから僅かに顔を上げた綾那に、颯月は小首を傾げる。
「うん? ――どうした綾、顔が赤いな」
「誰のせいですか……!」
「ああ、俺のせいか。そうかそうか」
満足げに笑う颯月を、綾那は恨めしい気持ちで見やった。しかし、すぐにソファから起き上がって姿勢を正すと――まだ頬に熱を残したまま――こほんと咳払いする。
「すみません、取り乱しました」
「アンタ、肌白いから赤くなるとスゲー目立つ……いちいち可愛いんだな」
「も゛う゛勘弁じてください゛よぉ゛……ッ!!」
綾那がワッと机に突っ伏せば、ついに颯月は声を上げて笑い出した。
(――悪魔だ。やっぱり颯月さんは悪魔だったんだ、このままじゃあ幸せの供給過多で殺される……! どうしてこの人、こんなにサービス精神が旺盛なの!? 自分を安売りしないで、値崩れが起きるでしょうが……!!)
震えながら体を起こした綾那は、こちらの反応がツボに入ったのか、正面のソファで大笑いしている颯月を見やった。
広報として成功し、給金が発生した暁には、彼にサービス料を支払わねばならない。以前、正妃の命令で右頬を撫でさせてもらった分の料金だって、綾那の中ではツケの状態である。彼の過剰なサービスに見合うだけの金額とは、一体いくらになるのだろうか。
綾那は真剣に計算し始めたが、しかし目の前の颯月がフーと長い息を吐き、目尻に浮かぶ涙を指先で拭ったのを見て、改めて姿勢を正した。
(颯月さんって、意外とゲラなのかな。いつも笑い出すと長いような――かわいい人だなあ……普段は宇宙一格好いいのに笑うとかわいい、ギャップ萌え……素敵。ああ、スマホの待ち受けにしたい)
幸成から「隙あらば口説くな」と注意されたため、綾那は脳内で颯月を賞賛した。けれど颯月が目元を緩めて「俺に穴が開くぞ」と口にしたので、綾那はハッと我に返り頭を振った。
「えっと、魔具……魔具の使い方、教えてください」
「ああ――魔石は?」
綾那は鞄の中から、青色に輝く魔石を取り出した。つい先日竜禅に魔力の充填を頼んだばかりなので、まるでサファイアの原石のように濃い青色をしている。
「なんだ、空になってたら俺が注ごうと思ったのに。この色は禅だな」
「あ、もしかしてこれ、注いだ人の魔力の色なんですか? 瞳の色と同じような?」
綾那の問いかけに、颯月は頷いた。ふと思い返せば確かに、竜禅に頼んだ場合は――目の色を見た事はないが――濃い青色。和巳の場合は緑がかった青色で、幸成だと金色になった。恐らく颯月に頼めば、紫色に染まるのだろう。
やはり魔法は面白い。綾那が魔石を眺めて感心していると、不意に颯月が「まあ、禅の魔力ならアリか」と呟いた。何がアリなのかと小首を傾げた綾那に、颯月は柔らかく微笑む。
「魔具を使う前の準備があるんだ、俺の後に続いて詠唱してみろ」
「え! 詠唱が必要なんですか? 私にできるでしょうか……生活魔法以外は発動できないんじゃないかって、竜禅さんが――」
「平気だ、魔力ゼロ体質の人間が発動した前例ならある。ただ、注意が必要だ。一度詠唱を始めたら、必ず最後まで唱え切る事。禅の魔力は悪魔憑きの俺から見てもなかなかヤバイ、暴発すると大惨事だからな」
それは、責任重大である。何としても唱え切らなければ。ごくりと喉を鳴らして恐る恐る頷く綾那を見て、颯月は笑みを深めた。そしておもむろに立ち上がると、また執務机へ戻ってその引き出しを開ける。
手元で何かをごそごそとやりながら、彼は「良いか、行くぞ?」と声を上げる。綾那が「はい」と答えれば、颯月は詠唱を始めた。




