趣味
時刻は十五時を少し過ぎた頃。
夏が近いだけあって、日はまだ高く――といっても、空に浮かぶ魔法の光源の位置は一日中変わらず、時間によって明度が変わるだけなのだが――時折生温かい風が吹く。
裏庭に面したテラスには、真っ白い猫足のテーブルとイスが置かれている。テーブルの上の大皿にはクッキー、そして人数分のカップが並んだ。
綾那は、久々に食べるお菓子と甘い紅茶に舌鼓を打つ。
あっという間に空になったカップを見て、静真はどことなく嬉しそうな顔をしながら席を立った。お茶のお代わりを淹れに行ってくれたらしい。
「アーニャ、お菓子が好きなんだねぇ。すっごく美味しそうに食べるー」
綾那の膝の上に座る朔が、ニッコリと笑いながら問いかけた。幼い子供に指摘されて、若干の気まずさを覚えつつも頷く。
「いや、その……こういうの、久々に食べたから」
「だからムチムチなんだなー」
したり顔で頷く幸輝に手を伸ばした綾那は、彼の頬をギュッと摘まんだ。幸輝は「イテェ!」と叫んで頬を押さえたが、やはりまたすぐに楽しそうな笑みを浮かべる。
綾那としては十分仕置きしたつもりなのだが、その様子を見ていた颯月が、幸輝の頭をぐしゃぐしゃと撫で回して髪をボサボサにした。
「うわっ、やめろ、なんだよ颯月ー!」
「幸輝、女の見た目を揶揄う男はモテねえぞ、騎士になりたいなら特に気を付けろ。死ぬまで独身貫く事になっても知らねえからな」
「はあ? 颯月だって普段、散々「骨みたいな女は嫌だ」って言ってるくせに」
「俺は個人を指してねえだろ、骨みたいな女が総じて好みじゃないだけだ」
颯月の言葉に、綾那は「もしかして颯月さん、デブ専ってヤツなのかしら」と考え込む。
いや、だとすれば、曲がりなりにも彼に気に入られている綾那も、そちら側にカウントされている事になってしまうのだが。
ここまで見た目をこき下ろされるなど、生まれながらに神子で、物心ついた頃から美人だと持て囃されてきた綾那にとって初めての経験である。中学時代パンパンに太っていた時でさえ、「なんだかんだカワイイ」と評されていたのに――。
これは、もっと「怪力」ダイエットに力を入れなければまずいだろうか。そうして考えこんでいると、背後からニュッと二本の腕が伸ばされた。石が貼り付いたその腕は、胸元でぎゅうと交差する。
「でも俺、颯月さんの言う事よく分かったよ。だって綾那、柔らかくて気持ちいいもんな」
いつの間にか綾那の背後に居たらしい楓馬は、水色の髪の毛に顔を埋めた。
綾那は胸元で交差する楓馬の腕、その石化した肌をざらりと撫でる。彼の肌に貼り付く石は、まるでホットストーンセラピーに使う玄武岩のように丸みを帯びている。人肌の温度を維持しているそれは、肌に乗せているだけで癒されそうだ。
しかし楓馬に「もう、くすぐったいからあんまり触んなよ」と抗議されて、綾那は苦笑しながら腕を降ろした。
すっかり手持無沙汰になってしまい、膝の上に座る朔の頬をもちもちと摘まむ。朔はくすぐったそうに肩を竦めて、屈託のない笑みを浮かべている。
「先に言っておくが、こんな女はそうそう見付からんからな。アイドクレースに居る以上はまず無理と思え、変に期待はするなよ」
「あー、やっぱ別の領の出身なんだ? 肌真っ白だから、そうだろうと思った。北のド田舎から出て来たのか? だとしても、悪魔憑きを知らない人間なんて見た事ないけどな」
「いや、もっと遠くからだ。だから、この国の事を何も知らん」
颯月は言いながら、すっかりボサボサになった幸輝の髪の毛を手櫛で梳いて、結い直している。その様子を微笑ましく眺めていると、お茶のおかわりを淹れたポットを手に、笑顔の静真がキッチンから戻ってきた。
静真は子供達の様子を見ると、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「コラ、また綾那さんにベタベタとくっついて……はしたないから、やめろと言っただろう?」
「はー? 綾那が嫌だって言わないんだから、別によくねえ?」
「そういう問題じゃない。綾那さんは聖――いや、懐が深いから「嫌だ」なんて言わないだけだ。頼むから、あまり調子に乗って嫌われるような事はするなよ、折角遊んでくれているんだからな」
静真の言葉を受けた楓馬は、「えっ」と小さく漏らして綾那から身を離した。続けて、綾那の膝から朔を抱き上げる。
「い、嫌なら、言ってよ。ちゃんと俺ら、分かるから――慣れてるし」
どこか気まずげに目を逸らした楓馬に、綾那は「嫌じゃないよ」と笑みを返した。そして、椅子から立ち上がった楓馬を朔諸共ひとまとめに片腕でひょいと抱き上げる。もちろん「怪力」の力だ。
綾那の腕に腰を下ろす形で軽々と持ち上げられた楓馬と朔は、目を丸めて硬直したが――それを見た幸輝が歓声を上げる。
「え!? なに、ムチムチすげえじゃん! 全然筋肉なさそうなのに、意外と力あんだな!?」
「うん、そうなの。幸輝もおいで」
「俺までいけんの!?」
駆け寄って来た幸輝をもう片方の腕で抱き上げれば、彼は「スゲー! お前颯月みてーだな!」とはしゃぐ。そんな綾那を見て、静真はぽかんと口を開けて目を瞬かせた。
「いつ「身体強化」の詠唱を? まさか無詠唱――実は綾那さん自身、悪魔憑きにされて……?」
「え? いいえ、違います、これは魔法じゃなくて――と言うか、悪魔憑きって魔法の詠唱が要らないんですか?」
悪魔憑きの颯月は、いつも魔法の詠唱をしていた。唯一「分析」の詠唱だけは聞いた事がないものの、絨毯屋の大倉庫を水で囲んだ時も――離れていてよく聞き取れなかったが――詠唱をしていたように思う。
綾那が首を傾げれば、言いたい事を察したらしい颯月自身が答えた。
「本当は俺も無詠唱で発動できる。わざわざ詠唱するのは――なんと言うか、趣味みたいなモンだ」
「趣味?」
「…………つまらないだろう?」
颯月の言葉に、静真が呆れ顔になった。ますます訳が分からなくなった綾那は、頭上に「?」を飛ばしている。
「俺は、生まれたその日に悪魔憑きにされてな。物心ついた頃にはもう、無詠唱で魔法が発動できてた。その退屈さと言ったら――」
「た、退屈?」
「しかも、俺だって望んで悪魔憑きになった訳じゃねえのに、周囲の人間は「詠唱を覚える手間が省けて良いな」と捻た目で見てきやがる――全部覚えて、黙らせてやりたくもなるだろう?」
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる颯月を見た瞬間、綾那は四重奏のメンバー渚の事を思い出した。
渚は生まれつき賢く、しかも努力する天才だった。その上彼女のもつギフトは、その図抜けた頭脳を更なる高みへと昇らせるものだ。
ただ渚はチートを「つまらない」と言って嫌い、便利なギフトに頼る事なく己の地力だけで素晴らしい学業を修め続けた。それでも、彼女が努力するタイプの人間である事を知らない者は――「ギフトに頼りきりのくせにずるい」「自分自身の力でもないのに、ギフトで好成績を修めて恥ずかしくないのか」などと、心無い言葉を投げかけるのだ。
学生時代、渚の口癖は「うるさい外野を黙らせたい」であった。とはいえ彼女のもつギフトは希少であり、まだ世界的にも理解が浅かった。
そんな周囲の目は結局、幼少期から高校を卒業するまで変わる事は無かったのだが――彼女は一切臆する事なく、好成績を修め続けたのだ。
そうして孤高を貫き通した渚の姿が、颯月と重なった。
「それに、詠唱は覚えておいた方が役に立つからな。相手がなんの魔法を使うつもりなのか判別できれば、自分がどう動くべきかすぐに分かる。前に成がはしゃいだ時なんか良い例だろう? 「波紋の守り」の発動があと少しでも遅れていたら、周りに火の粉が飛んでいた」
「だからって、魔法の詠唱全部、覚えているんですか……?」
なんでもない事のように「そうだな」と頷いた颯月に、綾那は絶句した。そもそも魔法を知らない綾那には、一つの属性につき、いくつぐらい魔法が存在するのか分からない。しかし、二つや三つしかないはずがない事は分かる。
例えば各十種類ぐらい存在するとして、七属性扱える悪魔憑きの颯月は、単純計算で七十ほどの詠唱を丸暗記している事になる。
(見た目だけじゃなくて、中身のスペックまで高いの? 神にも程があるのでは――?)
ごくりと生唾を飲んだ綾那の横で、幸輝が得意げに口を開いた。
「だから俺も、詠唱の勉強やってるんだぜ! さすがに全部はムリだけど、騎士になった時に役立つって颯月が言うから」
「そうなんだ……颯月さん、格好よすぎて困るね――」
「うん? ああ、まあ、颯月は強いからイイ男だと俺も思う!」
「綾、ガキの前で口説かれるのはさすがに困る、やめてくれ」
真面目な顔で「口説いていません、事実を述べただけです」と答えた綾那は、腕に抱いた子供達をそっと降ろした。
そうして静真に向き直ると、ふと颯月から頼まれていた事を思い出す。彼が持ったままのポットを受け取ろうと、手を差し出した。
「お茶のお代わり、ありがとうございます。これ、すごく美味しいですね」
「え? あ、ああ……そう言って頂けると、私も嬉しいです」
照れくさそうに微笑む静真からポットを受け取るついでに、綾那は彼の手に触れた。その瞬間、やはり謎の違和感を覚えたが――しかし今度は、すぐに原因が消えた。
(また「解毒」が発動した……けど、今度は一瞬で取り除けた?)
教会の入口で握手した時とは、不快感の強さから取り除くのにかかる時間まで、何もかもが全く違う。ただ、それでも彼の体に溜まる毒素の原因は分からない。
うーんと悩みながらポットを受け取った綾那だったが、しかし不意に静真に手首を取られて目を丸める。驚いて彼を見やれば、無意識の行動だったのか、彼自身も目を丸めて驚いていた。
「あ!? す、すみません、綾那さんに触れられると、あまりに心地よくて、つい――」
静真は慌てて手を放そうとしたが、それよりも先に朔が静真の足にギュッとしがみついた。その瞬間、彼の中に取り除いたばかりの毒素が生まれたため、綾那は瞠目する。
どうやら、颯月の予想は当たっていたようだ。『光』に長けた静真は、悪魔憑きに触られるとまるでアレルギー反応のように、体内に毒素を作り出してしまうらしい。
最初の握手で感じた怖気は恐らく、長年溜め込んだ毒素が積もりに積もっていたせいだろう。
この謎の毒素が静真の命を直接脅かすものなのか、それとも花粉のアレルギー症状のように対症療法で付き合えるものなのか、現時点では分からない。
けれどもし、この毒素が原因で悪戯しにくる眷属が増えているのならば――静真の顔色と目の下のクマを見る限り、しばらくは綾那が「解毒」し続けた方が良いのではないだろうか。
「しずま、もしかしてアーニャが好きになったのー? 結婚する?」
「バッ……ち、違う! そういう意図がある訳では――! い、いや、綾那さん、違いますから、本当にすみません!」
静真は、バッと綾那から手を引いた。足にしがみつく朔を抱き上げながら、「滅多な事を言うんじゃない」と注意している。
「朔、綾那は颯月さんの女だから、静真さんじゃムリだよ」
「そうだぞ、静真ってばムチムチの三分の一ぐらいの細さだから、相手にならねえよ」
「さっ、三分の一は言い過ぎだよ!? 静真さん、今後私の隣には立たないでください」
「ええ!? お、お前達、今すぐ綾那さんに謝りなさい!!」
両手で顔を覆ってさめざめと泣き真似する綾那に、静真は慌てた。
しかしその直後朔が発した言葉に、辺りの空気がピンと張り詰める。
「えーでも、にーちゃんとはムリだけど、しずまとなら子供が作れるんでしょう? じゃあ結婚だよ!」
「…………え?」
「――朔!!」
突然声を荒らげた静真に、朔だけでなく綾那まで肩を跳ねさせた。声に驚いた朔が瞳を潤ませたが、静真は眉を吊り上げたまま、腕の中の朔を黙って見下ろすだけだ。
幸輝と楓馬も気まずげに目をウロウロと泳がせていて、綾那は話の内容が内容だけに、どうすれば良いのか分からなくなる。
おずおずと颯月を見やれば、彼は困ったような笑みを浮かべていた。




