2人の欲望
逞しい両腕に捕らえられて、彼の厚い胸板へ頭を押し付ける形になった。ドクドクと脈打つ鼓動は颯月のものか、それとも綾那自身のものなのか分からない。
確かにルシフェリアは、彼が悪魔として蘇る事に関して「君の知る颯月のまま、と言った覚えもないけれどねえ」なんて言葉を吐いていた。だから、てっきり中身が別人になってしまうのかと悲観していたが――幸い、記憶も人格もそのまま残っているようだ。
ただ、考え方が少しだけズレてしまったのだろうか? 以前よりも凶暴性を増したと言うか、ルシフェリアの言葉を借りるならば、正に「病気が進行した」状態である。
彼は人間であった頃から、度々綾那を檻に閉じ込めたいと主張していた。だから今になって引く事はない。
そもそも檻と言うのは言葉の綾みたいなもので、実際には綾那が颯月から離れられないようグズグズに愛して、甘やかして、束縛してしまいたいという意味だった。
しかし、悪魔になった事で欲を抑えられなくなったと聞くと、つい身構えてしまう。今度こそ正真正銘、本物の檻に入れたいと思っているのではないか――と。
「別に、君が風邪をひいてしまった事を責めたい訳じゃあないけどさ」
ルシフェリアが声を発した事で、綾那は顔を上げようとした。しかし颯月の腕で抑え込まれているため、全く身動きが取れずに諦める。
「でも、颯月をダメにした自覚をもって、責任をとるべきだと思う。彼に、君のためなら悪魔になっても良いと思わせたのも、過剰な執着心を持たせたのも……「閉じ込めたい」なんて病気を加速させたのも、全部綾那なんだからね」
「え――」
「君らは悪魔になったけれど、何も今すぐに人間の敵として動いて欲しい訳じゃあない。もう少し落ち着いたら王都へ戻って、今まで通りの生活をするべきだ。これから数十年――君らの知る人間が寿命を迎えるまでは、皆と仲良く暮らせば良いと思っているよ。その目立ちすぎる姿は、颯月の「暗示」を使えば誤魔化せるからね」
ルシフェリアの言葉を聞いて、綾那は今更ながら安心した。悪魔になったら四重奏のメンバーやアイドクレース騎士団の面々、桃華や颯月の家族とも会えなくなるのかと言えば、そうではないらしい。
ヴェゼルが教会でそうしていたように、闇魔法で姿を変えて人間社会に溶け込めば問題ないのだ。仮に問題があるとすれば、不老のため容貌が変わらない事だろうか。しかしそれも、「暗示」で上手く周囲の目を欺けば乗り切れるような気がする。
綾那の知る悪魔や聖獣は見た目の年齢を操っている様子がないものの、確かヴィレオールは、人間社会へ溶け込む際に何度も姿を変えていたという話だ。年齢だけでなく、性別まで変えてアデュレリアの領主を洗脳していたのだから。
「ただ――元通りの生活に戻ったとしても、颯月は二度と正常には戻らない。「綾那を閉じ込めたい」という欲からは一生逃れられないし、それは月日を重ねる度に悪化する。君がここまでダメにしたんだから、責任を取らないとね」
「逃れられないって……どうして言い切れるんです?」
「君らが悪魔になる瞬間に抱えていた欲望が満たされる時の感覚は、依存性が極めて高い性的快楽に近いものがある。これは、悪魔になった後に新しく生まれた欲望を叶えても得られないものだ。一度でも味わえば戻れなくなってしまう。だから悪魔は唯一の快楽に固執するんだ、原初の欲望にね」
それが、ヴィレオールの場合は知的好奇心。ヴェゼルの場合は友達づくり。颯月にとってソレが、綾那を閉じ込めるだとすれば――果たして綾那の欲望は、本当に「颯月と離れたくない」なのだろうか?
(颯月さん、私のせいでダメになっちゃったんだ……私が居ないと生きられないくらい執着して、命も、何もかも捨てるくらい好きになって、どこかに閉じ込めて独占したいと思ってるんだ)
綾那が風邪を拗らせて、死にかけたから。ルシフェリアが「悪魔になるなら綾那を助けてやる」という契約を持ちかけたから。しかしそれらは、あくまでもキッカケのひとつに過ぎない。
結局は、颯月がこれでもかと綾那を愛していたがゆえに。綾那が死ねば、彼一人では生きられないから。それならばいっそ、二人まとめて死んで悪魔になった方がマシだと思う程に――。
途端に高鳴る鼓動は、先ほどまでとは違う音を立てている。全身が粟立ち、ふるりと背筋が震えた。
まるで脳が痺れるような甘い快楽に、うっとりと酔いしれる。そうして体の熱を逃がすように息を吐き出せば、ルシフェリアは「本当に君らの欲望って、二人で一緒に居る限り永久機関なんだよね」と呟いた。
(ああ……どうしよう。可愛い、颯月さん。もっとダメになれば良いのに――)
綾那を閉じ込めて独占したい、綾那が居なければ生きられないという颯月は、人として――今は悪魔だが――ダメなのだろう。ただ目の届かないところへ行っただけで暴れ出すかも知れないし、騎士団に戻ったとしても、綾那が傍についていなければ仕事にならないはずだ。
その内、本気で出勤拒否をする日が訪れるかも知れない。綾那が誰かの目に映る事すら耐えられないと、バカみたいなワガママを言い始めるかも知れない。常に綾那が寄り添っていなければまともに生活できないなんて、綾那を閉じ込めておかなければ落ち着かないなんて、ダメで可愛すぎる。
颯月が彼自身の抱く欲望でダメになればなるほど、綾那のもつ欲望――颯月をダメにしたいという願いまで満たされる。これらの願いが満たされた時にだけ享受できる快楽を、他では味わえないとくれば。それも、月日が経つごとに依存性が増すとなれば。
恐らく綾那は、永遠に颯月だけを――そして颯月は、綾那だけを求め続けるのだろう。明瞭で限定的すぎる欲望は、ヴィレオールやヴェゼルの時と違って、直接人間を苦しめるようなものではない。
どうもルシフェリアの言う通り、悪魔の永久機関が完成してしまったらしかった。




