揺蕩う
辺り一面、真っ暗闇。まるで、綾那が初めて「奈落の底」へやって来た時の、超深海の闇を思い起こさせる色だ。身体を動かそうとしても無駄で――いや、そもそも動かす体がないのだろう。
何せ綾那は、ルシフェリアに胸を貫かれて死んだのだから。
さて、あれからどうなってしまったのか。そして、これからどうなるのか。恐らく今は、魂――精神体だけになって、どこかを彷徨っている状態なのだろう。そもそも死んだ経験がないので、確信もないのだが。
人間、死ぬ時は一人きりと言うが、寂しいものだ。あの恐ろしい水音がしないだけ、まだマシと思うべきか。
(なんだろう、すごく……裏切られた気分――?)
もしも体があれば、綾那は苦笑を浮かべていた事だろう。まさか愛しの颯月から、こんな仕打ちを受ける日が来るとは。
好いた女に意地悪をしたがるタチなのはよく理解していたが、しかしここまでするとは思わなかった。
綾那が病に倒れてルシフェリアに助けを求めた時点で、彼の死は確定していたのかも知れない。きっと、元々そういう契約だったのだ。どうあっても死から逃れられないのが分かっていて、あとは綾那をどう道連れにするか――そればかり考えていたのだろうか?
(ちゃんと説明してくれれば、喜んで心中しましたよ)
今度は、頬を膨らませたい気持ちに駆られた。
何やら愛を疑われたようで、心証が悪い。ああして目の前で死ぬ事によって、綾那の心を試されたような気がするのだ。だからこそ颯月は、あんなにも幸せそうな表情で――綾那の反応に満足して逝ったのだろう。
今までにないレベルで号泣して激しく取り乱したのだから、満足してくれなければ困る。何よりも泣き顔が好きで興奮すると言うなら、尚更だ。
(ああ、でも、そうか――私がアリスの「偶像」について悩んでいた時、たぶん颯月さんもこんな気持ちだったんだ)
彼の愛情を疑い続け、「どうせアリスに取られるから」と諦めようとしていたのは、他でもない綾那だった。あれは、悪い事をしたと反省する。まあ反省したところで、謝罪する相手はどこにも見当たらないのだが。
綾那はしばらくぼんやりと暗闇を揺蕩っていたが、そう経たない内に寂しくて仕方がなくなった。死んで、意識が途絶えてしまえば全て終わりだと思っていたのに。いつまでも思考がハッキリとしていて、堪ったものではない。
なかなかに酷い事をされた自覚はあるが、どうしたって颯月を嫌いになれない。もっと一緒に居たかったし、色んな事がしたかった。あんな仮初の新婚旅行じゃなくて、国中を回れるくらい長期の旅行がしたかった。
籍を入れて以来、これでもかと甘やかしていた結果、段々と仕事を嫌がるダメ男に傾きつつあったのに――魂まで社畜に染まったあの男をダメにできたら、それはもう愉快痛快の快楽であっただろう。
これでは少々、趣向が変わってくるか。
(結婚式、まだ挙げてないし……家だって建設途中だったのに)
一片の迷いなく後追い自殺しておいてなんだが、未練が多すぎて困った。このままでは、王都の自宅建設予定地に化けて出てしまいそうだ。
もしそうなれば、陽香がこれでもかと怯えるだろう。
(元は、家族さえ――四重奏さえ居れば何も要らないって思っていたのに。何も考えずに、颯月さんを追いかけちゃった)
綾那は細い息を吐き出した。そして、息を吐き出せた事に驚いて目を開ける。
パッと開いた視界に飛び込んできたのは、すっかり見慣れたリベリアスの空――真っ暗な「奈落」。上空に浮かぶ光源は、明度から察するに夜を示している。
やけに重たい体をなんとかよじると、背後でサラサラと粒子の細かい砂の擦れる音がした。
「――ああ、目が覚めた?」
できれば聞きたくなかった声に、綾那は絶望した。声だけでなく顔を覗き込んできた真っ白いのを見て、これでもかと眉根を寄せる。
「………………どうして、ちゃんと殺してくれなかったんですか」
確かに胸を貫かれたはずなのに、痛みも感じたのに。綾那が仰向けに倒れている場所は、どう考えてもヘリオドール領の砂漠であった。
どうも、死に損なったようだ――次こそは確実に殺しきって欲しい。
「颯月さんが居ないなら、生きていても意味がありません……すごい天使様だと言うならば、どうか助けてください」
「うん、確かに僕はすごい天使だ。でも、これ以上は契約違反だから殺せないかな……暴走されたら代わりも居ないし」
「……今度は一体、何を仰っているんですか?」
やはりリベリアスに来てから、綾那は随分と気が短くなったと思う。さっさと殺せばいいものを、いつも人を煙に巻いて、曖昧な言動で振り回して――ルシフェリアに害する気がないならば、襲い掛かってその気にさせてやれば良い。
例えばそう、「怪力」を使い殴り掛かってみればいいのだ。それだけオイタをすれば、さしものルシフェリアもヘソを曲げて手を出してくるのではないか。
完全に自暴自棄、破れかぶれの思考だった。
綾那は仰向けのまま拳を強く握ると、頭の中で「怪力」と唱えた。しかし、いつまで経っても純白の鎧は現れない。手に特別な力が満ちる感覚もなく、首を傾げる。
(もしかして私のギフト、また吸収されてる? 余計な事をしないように?)
この天使はそういった芸当もできるから、本当にタチが悪いのだ。そうして柄にもなく苛立っていると、周囲にとんでもない異変が起きた。
「えっ、これ――?」
綾那はびくりと体を震わせると、己の目を疑った。夜を表す弱々しい光源を跳ね返す、白い雪――それはどんどん体積を増して、なんなら風まで吹き始めて吹雪に変わる。
砂漠のど真ん中にも関わらず、突然の吹雪だ。魔法でもなければこんな現象は起こらないはずなのに。
慌てて上半身を跳ね起こすと、次は自身の変化に息を詰まらせる。綾那の動きに合わせて揺れた髪は、水色ではなく銀色に。雪のように白いと称されていたはずの肌は、見事な褐色になっていた。
これではまるで、悪魔のようではないか――。




